69、今の彼の居場所
虎哲は、言っていた通り、日曜は一日姿が見えなかった。
なんの用事だったのだろうかと思いながらも床につき、ふと目が覚めたのは夜中の2時半。
「(……のど、かわいた……トイレもしたい)」
この後起き続けるには早いし、もう一度がっつり寝ようと思うには微妙に遅い。なにしろ朝食の準備やらで、七緒は5時半に起きるのだ。
せめて1時代だったらなあと思いながらトイレへ行き、その足で一階へ降りて行く。各階に洗面台はあるので、飲もうと思えば水は飲めたけれど、どうせならお茶が良かった。
食堂の前まで来ると、珍しく閉じられていた戸の隙間から光が漏れている。
一瞬あれ、と思ったが、同じように目のさめた誰かがいるのだろうと、躊躇わずに戸を開け放った。
視線の、先には。
「えっ? おっかさん……と、テツ、くん?」
おっかさんも虎哲もぎょっとした顔で振り返り、七緒だとわかると肩を落とした。
「どうしたのお、こんな時間に。ていうかテツ君帰って来たんだね、おかえり」
七緒の、少し呂律の回らない喋りかたを聴いて、2人はすぐさま彼が不本意な目覚め方をしたのだな、とわかった。
「ただいま。おめぇこそなんじゃ、こがぁな時間に」
「起きちゃってぇ、喉かわいて。ご飯食べたぁ? あっためようか」
「ああ、いや……うん、頼むわ」
一度断ろうとしたが、大人しく頼むことにした。七緒はへらりと笑うと、返事をするでもなくふらふら台所へ入っていった。
「半分寝てるね、ナナ」
おっかさんがちらりと虎哲の方を見た。問いかけるような、探るような目だった。
虎哲が口を開くより前に、ちん、とレンジが鳴いた。程なくして七緒が戻って来る。
「ちょっと待ってね、今シチューも火ぃつけたから。ビーフシチューだよ、ビーフ。ちゃあんとお肉も死守しといたからね」
取り分けたサラダと漬物、恐らく朝の残りの味噌汁を机に置いて、また踵を返し、お茶とご飯を持ってきた。
「はい、どうぞ」
「すまんな」
「そんで、どこ行ってたの? ……あ、なんか聞かない方がいいなら聞かない、今の無しね」
訪ねた途端に微妙になった空気と、ロウの言っていたことを思い出して、七緒は首を横に振った。
しかし、数拍遅れて、虎哲も首を振った。
「いや、あのな、わし、この間じいさんが死んで」
思いがけない内容に、思わず「え?」と聞きかえす七緒。すっかり眠気は飛び、困惑を露わにしている。
「じゃけぇ、お前がここに入って来たとき、わしおらんかったじゃろ? 葬式やらなんやら行っとったんじゃ。ほんで、明日……いやもう今日か、が、四十九日。学校あるし、当日じゃと親戚集まりよってうずろーしいけん」
淡々と説明されて、七緒はなんて言ったらいいのかわからなかった。
「いちおう、わし、親おらんけぇ、一番近い血縁者じゃったんじゃ」
なんでもないように言うけれど、虎哲はいつもより明らかに饒舌だった。
うっかり流しそうになったが、「親がいない」という発言に動揺を隠せない。
何も言えない七緒を見て、虎哲が少し俯いた。
「いや、別に、なんか言って欲しいわけじゃないけんど、……ええと、報告」
出ない声とは裏腹に、いつになく頭が働いて、七緒は悟ってしまった。
―――学校あるし、なんて、そんなのサボり魔のテツくんが気にするところじゃない
彼はよっぽど、親戚と鉢合わせたくなかったのだろう。恐らく関係が上手くいっていないのだ―――虎哲はお世辞でも大人受けするとは言い難い性格なので、それは容易に想像がついた。
そうして、ロウの言っていた声……亡くなったお祖父さんは、虎哲にとって恐らく一番大事な人だったのではないか。
―――そんで、親がいない、兄弟いるって話も聞かない、てことは、
彼には今、家族がいない。
「―――おかえり、テツくん」
泣きそうになりながら、でも自分が泣くところではないので必死に我慢しながら、七緒は言った。
虎哲は顔をあげて、おっかさんと顔を見合わせた。驚いたような表情が、困ったような笑顔に変わっていく。
「なんじゃあ、そがぁな、顔、しよってからに……ただいま」
さっきも言ったけど、と照れくさそうに続ける虎哲に、七緒はほっとした。わかってくれた。それを確認して、ぱっと立ち上がる。
「ちょっと待って、シチュー、とってくるから」
台所に飛び込んだところで、小声でロウを呼んだ。
「ロウ、どうしよう、わたし、どうしよう」
七緒は、未だかつて周りで親しい人が死んだことがなかった。母方の祖父母と父方の祖父は物心つくより前に亡くなっていたし、父方の祖母や両親友人、全て健在だ。
だから、こういうときなんていったら良いのか、自分が言ったことに間違いはなかったか、酷く不安になったのだ。
―――「間違ってなかったと思うぞ」
いつもならば「天使の俺にわかるわけない」とでも言いそうなロウが、妙に確信に満ちた口調で言った。
―――「あいつはもう、立ち直ってる。一昨日の声はそういう声だったんだ。ただ、傷ついてはいる……けど、それは時間が癒すだろう。同情が欲しいわけじゃない、お前はいつも通りにしてればいい。お前の思うようにやればいいんだ」
「……ありがと」
小さく礼を言って、シチューを持って食堂に戻る。何事もなかったかのように、七緒は「それで?」と言った。
「もしかしてもしかするとだけど、沖田くん達に喧嘩吹っ掛けたのは、それが原因だったりするの?」
七緒の問いに、おっかさんも「そういえば」という顔で虎哲を振り返る。
ずっとおかしいとは思っていたのだ。虎哲は確かに、授業はさぼるし門限は破る。髪は赤いし威圧感撒き散らしているし、とりいあえずガンを飛ばすしイライラして物に当たる一面もある、世間一般でいう不良だけれど、基本的に大人しいひとなのだ。所作が乱暴だから勘違いされがちだが、決して自分から手を出したりはしないと思う。雪弥のように無駄な喧嘩は売らない性質なのだ(しかし恐らく売られたら買うだろう)。なのに、出会ったあの日、自分から喧嘩を売ったというのは――しかも四人組相手に――不思議だなあと。よっぽど虫の居所が悪かったのだなあと。そう、思っていたのだ。
「……関係ないたぁ、言えんの。ちっとばかし、自暴自棄に、なっとったかもしらん」
問い詰められたと思ったのか、少し拗ねたように、けれどいつもと比べればとても素直に、虎哲は頷いた。
「じぼうじき、か……」
「あ、でも、もうせんから」
七緒が何か言うと思ったのか、少し慌てたように、けれどすっきりした、というのがふさわしい表情で続ける。
「迷惑もかけたし、後悔もしてるけど、でも、もうあがなこたぁせん」
「でも、喧嘩売られたら買うでしょ?」
少し意地悪を言うと、虎哲は困り果てた顔になった。七緒は一応彼の中でまだ恩があるひとなので、強くは言えないけれど、でも他の選択肢はないだろと言いたげだった。思わず、七緒もおっかさんも笑ってしまった。
迷惑をかけた、後悔している。それは喧嘩のことではない。亡くなったその人への想いだ。そういう気持ちはまだ持っているけれど、でももう、あんなことはしない。そう素直に言った。
それだけで、随分な進歩だと賢治は思った。七緒もほっとしたようで、同時に笑った賢治を振り返った。
「いいよ、おれもみんなも見張ってるから。ね、おっかさん」
「そうだなあ。お前、銀杏の奴がいるとこだと、喧嘩できんようになってるだろ? そうやって大事なものがすぐそばにあると、無茶はしないようになるもんだよ」
ね、と同意を求められて、虎哲はそっぽを向いた。
こうして、自分を肯定して、良い方向へ導こうとするひとたちがいるから、だから本気で出て行こうとは思えないのだ。
あの日は、本気で、もう退学になってもいいと思っていた。それを思いとどまらせるひとびとが、ここにいてくれる。
出来る限り応えたいとは思うけれど、それが出来る程器用ではなく、それを伝えられる程素直でもなかった。