閑話
「ねえタカ、孝明ってば、七緒くん帰って来た? ねえ。ねえねえねえねえええ」
「……」
「うるさいよ二宮!! 前でてコレ解け!」
「えーー! 今戸塚くんも喋ってましたけどぉ!」
もちろんその訴えは聞き入れられず、さらに指定された問題はとくに応用問題というわけでもないのに不正解、というわけで、二宮由希は朝っぱらから大変恥ずかしい思いをした。
「それもこれもシカトしたタカのせいだ」
「お前ちょっと黙れよ! もー、やめてくんない、授業中にちょっかいだすの」
帰り支度をしながら、孝明は呆れた顔で言った。確かに彼は家で勉強しないでいいように、真面目に授業を受けているので、うるさくしたのは悪かったかもしれない。
「けどな、ずーーっと、ここひと月ずーーーーっと聞いてることに、答えてくれもしないお前が一番悪いと思うよ?」
「…………しつけえな、お前……」
彼の兄がこちらに戻ってきていると知ってから約一カ月が過ぎた。時々帰ってくるようにとのメールも(孝明のケータイから)出したはずだ。しかし、一切七緒の話題が出ない。
ということは、まあ帰ってきていないのだろうが、由希としては孝明に帰省を催促させたかった。
バスケの都大会に通ずる地区予選が、先週始まったばかりだ。2回戦でシード校を破り、3回戦までは少し時間の余裕がある。
「多分お前、予選始まってんのも教えてないんだろ? そんなん七緒くんに教えたら、絶対応援来てくれんのに」
孝明の兄である七緒は、はっきり言うとブラコンだ。孝明自身も兄が気になってしょうがないくせに、何故か兄を嫌ってみせる。戸塚兄弟は、お互い大好きなくせして、妙な壁があるのだ。
「オレ、七緒くんの作る卵焼き好きなんだけど。甘くてさあダシがきいてて」
「知らねーよ! つーか、だったらお前がメールすりゃいいじゃん」
知ってんだろ、アドレス、と乱暴に背中を押され、それに従い教室を出る。
体育館への道のりをだらだら歩きながら、由希は首を横に振った。
「そりゃ知ってるけどさ、七緒くんあんまりメールするひとでもないし、高校忙しかったらアレじゃん……だから弟のお前が催促した方が万事うまくいくの!」
正直いうと、彼が中学を卒業する頃からメールをしなくなっていたから今更するのもなあ、という理由もあった。
家も近いし孝明と大体一緒にいるので、会えば話すし、ゲームするときは一緒にも遊んだ。こと戸塚家にあるゲームにおいては、七緒はかなりの強敵であり、孝明とタッグを組んですら破ることは難しかったのだ。しかし彼はコツコツやっていくタイプなので、初見のゲームには滅法弱い。だから彼が受験生になるまでは、2人だけでゲームセンターに行ったりもしていた。仲が悪いわけではなく、よく孝明よりも弟らしいと周りから言われる関係であった。
だからまあ、メールをしなくなったことになんらかの理由があるわけでもなかったし、今だって送れば彼は前のように応えてくれるだろう。
「お前なんなの、会うとベッタリな癖に、なんでメールとかで躊躇すんの」
「てめえにだけは言われたくねーわ!! 文面に迷って一週間送れないとか馬鹿すぎて逆にレベル高いわ!」
「うるせえな!」
なんやかや言っている間に体育館へ着き、ボールケースだけ置いて部室という名の舞台袖に向かう。女子のバスケ・バレー・バドミントン部には小さく共同であるものの部室が与えられているが、それぞれ男子部は舞台袖で着替えをする。その時すでに女子部の練習が始まっていたりすると、とても肩身が狭いのだ。
しかし今日は2人が一番乗りのようで、体育館には電気すらつけられていなかった。
「めずらしい、来て誰もいないの」
「今日委員会あるからだろ? なあそれより、七緒くんだよ!」
孝明が電気をつけにいっている間に、由希は制服を脱ぎながら言う。
「帰ってきてって、言えよ!」
「だからそんな言うならお前が顔見たいんだって言えよ! 別におかしいことじゃねーだろ、仲良いんだから!」
「だっからさあ……あっ」
ぱさり、と練習着を落とした由希に、怪訝な表情になる孝明。
「おい、埃まみれになるぞ」
「オレっててんさーい! タカ、知ってるか、高校にはオープンスクールというものがあってだな!!」
言いながら、カバンからケータイを取り出す由希。ちなみに中学は携帯電話持ち込み禁止だが、そんな規則は無いとでも言うような堂々ぶりだった。
「おま、ケータイ……」
「明日だ! 倫葉のオープンスクール、明日あるってよ!!」
七緒の通う学校のホームページを見たらしく、由希の声は興奮気味だ。
「なあ、なんだよオープンスクールって」
「は? 知らねーの? ……お前休日ったらバスケしかやってないもんな。でもオレらも三年なんだから知っといた方がいいぞ。
まあざっくり言うと、高校の見学会? 授業してるとこ眺めたりさ、説明会とか聞くの! なんか大々的にやるとこは、部活体験もできたり……あっ、倫葉も部活体験は2学期にあるな、行く? ほんでさ、それに行けば、七緒くんに会えるわけよ!」
「……会えるとは、限らないだろ……つーかお前詳しいね?」
由希は呆れた風にいったが、彼だって休日は一緒にバスケをしてたり遊んだり、とにかく一緒に居ることが多いのだ。そういう催しに行く時間なんてあったのだろうか。
「ほんと興味ないよね、受験にさ。もうクラスの奴らは色々回り始めてるの、夏休み中にもあるし、2学期はどこも文化祭だ。今はみんな余裕あるけど、そのくらいになったらそういう話題で持ち切りだよ」
まるで見てきたみたいだな、というと、由希は肩をすくめた。
「親が言うんだよ、そろそろって。でもさ、休みの日って、土日どっちかは部活じゃん? 空いた日にしてもお前といるし、遊べるうちに遊びたいし。
それにどうせ、タカと同じトコ行くんだから、一緒に見てまわんないと決めようがないだろ」
当たり前のように言われた言葉に、孝明は黙り込んだ。いつそんな約束したよ、とツッコミが浮かばないでもないが、嬉しさのが大きかった。
ごまかすために咳払いをしてから、孝明はキャプテンらしい声音で言った。
「……ていうか、明日は朝から夕方まで練習あるけど?」
「えっ、でも第3土曜日だから……あっ、先週ママさんバレーと交代したんだっけ!? あーっタイミング悪いぃぃぃぃ!」
由希は叫びながらしばらくごろごろ転がって、孝明が着替え終わる頃にはもう飽きたのか、肩をおとして座り込んだ。
「なあんだ、せっかく七緒くんに会えると思ったのになぁ。次の見学会は夏休みだっていうから、そしたら七緒くんが帰って来るの待ってる方がいいよな?」
「えっ……いや、帰って来るのか知らないけど?」
「えーっ、夏休みは帰ってくるでしょ! 聞けよそれメールで!!」
「いやお前が聞けばいいじゃん、俺待ってねーもん」
「だからあ、ってか話戻ってるじゃねえかよ結局……」
ため息を吐く由希の隣で、孝明は密かに、それくらいならメールで聞いてみようかな……と思い始めてるのだが、例によってその内容のメールが七緒に届くのは、何日か後のことになる。