66、楽な相手
はいった瞬間、ドアについていたらしいベルが鳴って、圭介も栄人もびくりと飛び跳ねた。
すぐに、ウェイターというよりはオーナーらしき壮年の男性がやってきて、おや、という顔をする。
栄人は、客層を見て、そりゃ不思議がられるよなあと判断した。マダムたちが多い中で、七緒や木吉さんの制服姿は印象的だっただろうし、また同じ制服の奴らがやってきたらこんな反応にもなるだろう。
圭介はわかっているのかいないのか、無邪気な声で「2人です。できれば、入口から遠い席で」と言っていた。
ちょうど席が空いたところらしく、すぐに通された席は、七緒たちからは遠いが、ちょうど七緒の背中と木吉さんの表情が見える位置だった。
メニューを持ってくると去ったオーナーを見届けてから、小声で問いかける。
「なんで入り口から遠い席なの?」
「だって、上手くあいつらより先に出られたらいいけど、あいつら先にでるときに、入口近くだと即バレるだろ? この辺りなら、ブレザーちょっと脱いでおいたら目立たないかなって」
ほう、と納得する栄人に、圭介は安心したように続ける。
「いやぁ、待ち合わせですか、とか聞かれなくて良かったよ」
「……あ、それであんなに素早く「2人です」っつったの? ……何お前、尾行慣れしてね?」
きもい、と目で訴えかけて来る栄人に「機転が利くって言えよ」と突っ込みたかったが、オーナーが戻って来たのでそれは叶わなかった。
メニューを開いた瞬間、しまった、という顔をした栄人を見て、圭介もしまった、と思った。
「………………この、ケーキセットで……」
「オレも…………」
「かしこまりました」
がっつり昼飯を食べたいと思う男子高校生の腹を満たすには足りないが、がっつり食べるには財布の中身が足りなかった。今後の昼飯代を考えると、一番安いケーキセットくらいしかなかったのだ。
「……そんで? どんな感じだと思う?」
恨み事を言われる前に、圭介が口を開く。周りの話声や店内に響くジャズBGMのせいで、七緒たちの声は聞こえないが、そこまで立ち入るつもりはないので、視覚的情報だけでデバガメしてやろうということなのである。
「んー、今はナナが話してんのかな」
「だよな、木吉さん水飲んでるだけだもんな。すげえ真面目な顔してる」
「真面目な話かな? ……つーか、ちょっと暗い顔に見えない?」
「確かに……不愉快ぽいな。あ、木吉さんが喋った」
「……………なんかちょっと雰囲気悪くね?」
少し続いた会話の後、どうやら2人とも黙り込んだようで、木吉さんに至ってはため息までついている。
もしかしたら、なんかひやかせる関係ではないんじゃないかと思ったそのとき、先程のオーナーらしきひとが食事を運んで来たようで、妙な空気が薄まったようにみえた。
オーナーに何か言っているらしい七緒の横顔が笑っていたので、2人はほっとため息をついた。
「なにかなあ、恋仲には見えないし」
「ハチ、恋仲って古いよ、言い方が……中学同じだったとかではないだろ……。あ、そういや2人、地元近いな」
思い出したように言う圭介に、なんでナナはともかく木吉さんの地元知ってんだと言いたくなった栄人だが、もう面倒なのでそこはスルーした。
「でもさ、それで仲良くなったのなら、俺たちに言わないわけなくね?」
そうだよなあ、と圭介が同意したそのとき、視線だけは外さないでいた木吉さんの表情があからさまにかわり、さらには飲んでいたスープにむせかえったものだから、2人ともぎょっとした。
七緒も驚いた様子で、慌てて立ち上がり、ナプキンを何枚か差し出し、さらに汚れたらしい机も拭いている。
驚きながら、彼らのテーブルが落ち着くのをひたすら待っていると、口元にナプキンを当てたまま、木吉さんは当惑した表情で何か言った。彼女は耳まで赤くなっている。
「……な、なに言ったんだ、ナナの奴」
「驚くようなこと? 照れるようなこと? ……とりあえず、あの赤面はむせたせいじゃないよなあ」
「あいつたまに天然ジゴロだから、なんかこっぱずかしいこと言ったのかな」
「ありえるぞ……」
とたんに、ソワソワしだした2人は、罪悪感も忘れて耳をすませた。
しかし、やはり彼らの声は少しも届かなかった。
ムセイ、むせい、…………夢精?
脳内で言葉が変換された瞬間、むせかえって口元にあったスープをこぼした。
「うわっ。だから言ったじゃない、深皿からそのまま飲まない方が良いよって…」
たしかに、味噌汁じゃないんだからとスプーンを勧められたが、まだるっこしくてそのまま皿に口をつけて飲んでいた。が。
―――ちっげーよ、お前のせいだよぉっ!!
動揺しすぎて咳が止まらぬまま、マリアは七緒を睨みつけた。
いや、相談といったらこの場合性に関することが問われても不思議ではないはずなのだが、七緒からそういった匂いがしなかったので、すっかり油断していたのだ。
「ごほ、んんっ、……あのなぁ」
面倒見の良いことに、七緒はこぼれたスープを拭いてくれていた。が、問題発言した元凶は彼なので、お礼も謝罪もしないことに決めた。
「そういうこと店ん中で話すかよ、ふつう」
「だって、マリアが連れて来てくれたのがここだったんだもん……」
さすがに恥ずかしそうに目を伏せた七緒をみて、しかたないかとため息をつく。
ついさっき、こいつ本当に女だったんだよなあと再確認したところだったので、あんな言葉が出るとは思わなかったのだ。
「(まあ確かに、俺もカイナに下着だなんだって相談したしなぁ……)」
ごほんと咳払いすると、声を潜めて問う。
「えっと、あのー、朝のアレとかはどうしてんの? お前」
がっつり単語をだすのは憚られたので、ぼかして言ってみると、七緒はもじもじと答えた。
「あの……なんか、変なふうになるやつ?」
「変なふうって……」
「しばらく大人しくして治るの待ってるけど……」
ふわっとした言い方や、治るという表現から、恐らくその現象の名も知らないんだろうなと推察する。
「朝勃ちっつって、誰でもなる生理現象だからな、気にするなよ」
「アサダチ……」
カタコトなのに思わず笑うと、七緒が泣きそうな目で睨みつけてきた。
「あ、ごめん、茶化したつもりはないんだ。なんていうか……いや、まじごめん」
ちょっと今のはなかったなと自分でも思ったので、素直に謝る。
「えっと、ナナさ、男兄弟とかいなかったの?」
「弟がひとり」
「なら知らなかった? そういうの起こるって」
「ううん、小さい頃からそれぞれ部屋あったから……起きるのも、大体弟のが早くて」
うんうん、と頷きながら、どこか違和感を感じて、心の中で「うん?」と首を傾げる。
「……そのときね、すごく、懐かしい夢を見てたの。中学のときで、授業中居眠りしてて、友達から起こされるっていう、ほんとにあった懐かしい夢。それでね、起きたら心臓バクバクいってて、それで……」
「う、んん? えっと、それだけ? なんか……えっちぃ夢とかじゃなくって?」
「え、えっちぃ?」
ぽかんとして、それから真っ赤に染まる七緒の顔。怒ったように彼は言った。
「なにそれ、そんな夢みないよ! 懐かしくてハラハラするような……」
憤慨したように、もう一度夢の説明をする七緒を見ながら、マリアはようやく気がついた。
「(こいつ、さっき、起きるのも弟のが早いって言った……つまり、あの状態になるのは朝だけだと思ってんのか……そりゃそうか、欲情しろ興奮しろっつったって、こいつ元々女なんだもんなぁ……だったら自分で抜く術なんて知らないだろうし、むしろ思いつかないだろうし、俺だって夢精避ける方法なんて知らねーもんな……抜いてる奴もする時はするし、コントロールできるものじゃないんだよなあ)」
何度か経験があったマリアは、布団の処理が面倒なので、どうにかしないようにできないかなとしらべたこともあった。しかし、一度もしたことがない人もいれば、毎日自ら処理していてもしてしまう人もいるらしく、結局コントロールする術はないのだという結論だったのだ。
「(……やべえ、答えられない)」
七緒の方はあんなにきちんと答えてくれたのに、と思うが、こればっかりはしょうがない。知識不足というよりは、恐らく本当に解決方法がないのだ。
「……ごめん、わかんない。ていうか、オレも調べたことあったんだけど、本当に個人差が激しいみたいで、これといった解決方法みたいなのは見つかってないみたいなんだ」
「……そう……」
ため息をついてから、七緒は慌ててフォローした。
「あのっ、ありがとうね。なんていうかさ、一回しかしたことないんだけど……私、寮だからさ、その、後始末とか結構面倒で」
「あーそっか……役に立てなくてごめんな」
「いいのよう、気にしないで。えーっと、とりあえず私が聞きたいことはそれだけかなあ」
言外に「あなたは?」と聞かれ、マリアは首を横に振った。
「オレも、特には……また、各々思いついたりなんかあったら、相談しあおうぜ」
「そうだね」
お互いに、頷きあう。またきっと、近いうちにこうして話したいなと思った。
「……あのさ、オレ、あんたといると楽だわ」
「わたしも」
なにせ、同じ秘密を持っている者同士だ。怪しまれないように気をつけなくてもいいことは大きい。
自分のことを、元の一人称で堂々と呼べるのは、ひどく心地よく、懐かしかった。
「おいっ、あいつら帰るぽいぞ!!」
「うわほんとだ」
じゃあそろそろおひらきにしましょうか、という雰囲気は、割と遠くからでもわかるもので、七緒たちはそれぞれ財布を探したり水を飲み干したりと動き始めた。
結局あのあとは、木吉さんの表情しか窺うことは出来なかった。
しかし彼女が思ったよりもころころと百面相をするので、栄人は「意外にとっつきやすそうな子だな」と、圭介は「なんの話してんだよマジで!」と思っていた。
「おおおおお、大人しくしてればバレナイ」
「落ち着け、ハチ! お前ほんと悪事に免役ねーな」
「ばっかやろ、あの潔癖なナナだぞ。怒ると面倒なのもわかったろ、喧嘩したくねーんだよこんなくだらないことで!」
ここが正念場だ、と2人は素知らぬふりでひたすら水を飲みつづける。ケーキも、共に出された紅茶も、とっくに空だった。
思った通り七緒と木吉さんは程なくして立ち上がり、入口付近の会計場まで出てきた。
すでに清算は済んだろうに、七緒とオーナーらしきひとが立ち話をはじめる。
「ナナっておじさんおばさんにモテるよね」
「食堂のおばちゃんとも仲良しだろ、あいつ……っていうか長いよ、早く出ろよ」
ぼそぼそ小声で話しあうデバガメ2人組。
恐らく木吉さんもそう思っていたのだろう、手持無沙汰な様子で辺りを見回していた―――ぱちり、2人のことを視界にいれたのがわかった。
「(やばい! どうしよう圭介バレたかな!?)」
「(落ち着け、平然としてろ!)」
彼女とは一度会っているが、恐らく彼女の方では覚えていないはずだ。なんで学生が、とは思われても、七緒の友人だとは気付かれないだろう。
と、タカをくくっていたのがいけなかったのだろうか。
絶対に目を合わせないように、2人はもう水の入っていないコップに口をつけ続けていた。が、横顔に感じる視線が半端じゃなく、痛い。
これ、もしかしなくてもバレてんじゃね、と圭介が思い始めたころ、ようやく七緒とオーナーの立ち話が終わったらしい。ようやく、とはいっても、時間にしたら3分にも満たないのだろうが、美少女から冷たい視線を受け続けるという拷問(いや、ある意味ご褒美)を受けていた2人には、とんでもなく長く感じた。
かららん、とドアについていたベルが鳴り、2人は同時にため息をついた。
「だっはーー……バレてたかな?」
「いやでも、なんだっけ吉木さん? あのひと俺らのこと知らないじゃん」
「一回すれ違っただけだけど……あのひと天才少女だぞ。記憶力とか超良いかも知らん」
天才少女、に首を傾げる栄人。確かに、特進クラスに普通転校生はないものと聞く。その編入試験に受かったのだから、勉強が出来るのだろうなあとは思っていたが、そんなふたつ名をつけられる程なのか。
「いやぁ、勉強はもちろん、どうやら文武両道らしいぜ。このひと月半で、陸上部とかバスケ部とか、めっちゃ勧誘されたんだって。でもそれ全部お断り。
ガリガリに勉強してんのかと思いきや、クラスの男子連中と遊んだり、あとバイトもしてるらしいな。バイト先はなー、ちょっと聞いた感じでは飲食店とかかなーと思うけど、まだわかんね。遊びに来られても面倒だからって、仲良い奴らにも教えないらしいぜ。
あ、そうそう、そんでこの前の中間テスト。特進で総合1位だってよ。つまり学年1位。転校したてですごくねー?」
「うん、すごいけど……そんな情報集めてるお前がすごいわ。むしろきもい」
ぺらぺらと、どこから仕入れたんだソレ、という情報を喋りまくる圭介を、どん引きで見つめる栄人。その努力と記憶力を勉学に生かせばいいのに。
「きもいはひどい、転校生が美人でハーフで頭良くて運動神経も良い、なんてことになったら、ちょっと見回せば、このくらいの情報ならどこにでも落ちてんの。お前とかナナが疎過ぎるだけ!」
確かに、栄人は近くにいる人間をよく見ることは好きだけれど、普段関わりの少ないひとに対しては興味が薄い。噂もあまり聞かないし、聞いても周りと合わせるばかりなのですぐに忘れる。彼自身にも自覚はあるので反論できない。
七緒はと言えば、栄人程ではないにしても、噂話というものにあまり興味を示さない。特に女の子が話題にあがると、いつの間にか知らんふりで読書していたりする。しかし彼は逆に女子達とはそういう話も楽しむようで、だからすでに栄人よりはクラスメイトや先生たちの情報を知っている。さらに言えば寮生なので、先輩や持ちあがり組とも繋がりがある。
情報量とか交流の幅で転校生だった七緒に負けてるのってどうなんだろう、と今更ながら思うが、まあいいかそういう性格だしなあ、と納得してしまえる性格の栄人であった。
「そろそろ出て良いかな?」
「うん、もう10分経ったからはち合わせることはないだろ」
時間まで計ってったのかとツッコミながら、会計を済ませ、外にでた。オーナーらしきひとは、最後まで不思議そうな様子だったが、特に問い詰められるでもなかったので安心した。
「ああ、緊張したあ。なあ、来週ナナに聞いてみようか? それとなく」
「そうだなあ、オレから言った方が怪しまれないよな。ハチそゆこといわないし。でも、これは、もしかして恋の予感だな」
もしかしてといいつつ、そうだと言いきる口調の圭介に呆れながらも、もしそうだったらと栄人は考えた。
フェミニストの七緒のことだから、とても良い彼氏になるだろう。気遣いも出来るし、素直でノリが良く優しい。ちょっと頼りないところもあるが、好きな女の子のためなら誠心誠意、一生懸命になるに違いない。きっと彼女になるだろうひとは、楽しくてそれでいて落ちつける場所を得られるはずだ。
しかし、そういや自分は吉木さんを知らない。圭介が騒いでいたのを断片的に覚えているだけで、彼女がどんな人間なのか知らないのだ。いくら頭が良くて運動神経が良くて美人でも、性格が悪ければプラスマイナスゼロだ。
「どったの、ハチ」
黙り込んだ栄人を不思議に思ったのか、圭介は覗きこむように目を合わせてきた。
「んや……なんかさ、体裁的? 世間的? っつーか、そういうのではさ、ナナの方が吉木さんにつり合わないんだろうけどさ……なんていうのかな、だまされたりしねえかなあ、あいつ」
圭介はしばらくぽかんと栄人を見つめたあと、弾かれたように笑いだした。
「ぶっはーー、なにその過保護! 超笑うんですけど!」
腹を抱えて、更にはこちらを指して大爆笑する圭介を、栄人は容赦なく肘で小突いた。みぞおちに入ったようで、違う意味で腹を抱える圭介。
「なんだよ、女に疎そうな友達の心配しちゃ悪いかよ」
「ごほっ、お前最近、ツッコミに愛がないよね本当! ……ハチって、ナナのことなんにも知らない無邪気な奴だと思ってるとこあるけどさ、多分女の扱いだったらお前より上手いし、結構強かな奴だぜ、あいつは」
確かにそうかも、と一瞬思ってしまったが、わかったように苦笑されるのが悔しくて、栄人はずんずんと先へ進んだ。
「なあちなみに、あの子吉木さんじゃなくて木吉さんだぜ!」
「うっせ馬鹿!」
さすがに理不尽だろ、と圭介は思ったが、赤い耳に免じて黙っておいた。