6、新しい朝
「おはよー、母さん」
「おはよう、ナナちゃん。珍しく早起きねえ。朝ごはん、トーストにしましょうか」
わが母ながら、と、七緒は心の中で盛大に突っ込んだ。
―――奈々子んときと全く態度変わらないってどゆこと!!
高1の息子に「ナナちゃん」て。いや、奈々子のときもそう呼ばれてましたけど。
「さすがお前の母親って感じだな。ゴーイングマイウェイ、って感じ」
頭に直接声が響くような感覚に、七緒は小声で問いかける。
「ロウ? いるんだよね?」
「いるいる」
現在、彼の姿は、誰にも見えない。
朝食だ、居間に行こうとなったとき、ロウはするりと姿を消した。
驚く七緒に、天使はこう説明した。
「戸塚奈津子、つまりお前の母親、あのひと霊感あるだろ」
「ええっ!? だろ、って言われても…初耳!」
「あるんだよ。ま、霊感っていうのは、お前がわかりやすいように言い換えた言葉だけど。
何かの存在を、視たり聞いたり感じたりしやすい体質、ってことだ」
「うっそー、そうだったんだ……わたしも孝明も全然そういうのはないけどなあ」
「遺伝するとは限らないからな。で、オレの姿が視られたら困るから。みえにくい姿で傍にいるよ」
声を聞かれたり、気配を気取られることはないのかと聞くと、「多分ある」とあっさり断言される。
「それでも、この姿だとハッキリとはわからないはずだ。お前の母さんの感じてるものの中にまぎれこむ」
「う、うーん、母さんは常に何かの気配を感じてるのね…」
驚きの新事実発覚に顔を引きつらせながら、七緒は居間へ出てきたのである。
「トースター出してくれる?」
「はーい。わた…お、おれ、マーマレードがいい」
「そうそう、この前おばあちゃんから送られてきたリンゴ、昨日ジャムにしたんだけど」
「え、ほんと? じゃあそれも食べる!」
今までと変わりのない雰囲気に、七緒は大きく息をつく。
「ロウ、わたし特に口調とか変えなくても大丈夫みたい」
「一人称だけは変えろよな」
「わかってるけどお」
けど。
声にはださず、少年は思った。
―――記憶が残ってるんだから、捨てられない。 奈々子は捨てられない
「……できるだけ頑張って、慣れるよ」
不安そうに言う七緒に、ロウは何も言わなかった。
「…あれ?」
トーストを二枚たいらげてから、ふと七緒は声をあげた。
「まだ食べるの?」
「ううん…そうじゃなくて…」
いつもと同じに見えた朝の風景。けれど、何かが足りない。
「なんか違わない? 今日…」
「そうねえ、わたしもそう思ってたんだけど、何かしらねえ」
そういって、奈津子はじっと息子を見つめる。
七緒は「なんだろう、久しぶりにパンだからかなあ」なんて首を傾げていたが、その傍らに潜むロウは、ドキリとした。
―――この人間、思った以上に感覚が鋭いみたいだ…
思わず臨戦態勢に入ってしまったが、その後に続く会話に、天使はずっこけた。
「…ナナちゃん、肩とか重くなったりしてなあい?」
「へ? どうして? してないよ?」
「そう。ならいいわ、無害な子なのねえ」
ロウのことを幽霊だとでも思ったのだろうが―――それだけでいいのか?
―――…無害な子なのねえって…いやいや、もっと突っ込めよ。蛙の子は蛙、っていうものな…七緒のマイペースは、100%母親譲りだ
天使がため息をついたとき、突然、七緒があっと叫んだ。
「わかったー、孝明がいないんだ!」
母さんも、思い出したように頷く。
「あ、そう言われれば。寝坊かしらあ、珍しいわね。今日は10時から部活って言ってたのに」
七緒は時計を見る。9時過ぎだ。
家から孝明の通う中学まで、20分はかかる。
部長のくせに寝坊で遅刻なんて、姉としてさせるわけにいかない。
「わたし、じゃないっ。おれ、孝明起こしてくるー!」
「えっ? ナナちゃん?」
背後で母さんが戸惑った声をあげたが、七緒は構わず弟の部屋へ向かった。
「…………なあ」
遠慮がちなロウの声が聞こえて、廊下を歩きながら思わず振り返る。が、そこに天使の姿はない。
「もういいんじゃない? ロウ。姿見えないと、わたしやりにくいよお」
「むりむり。奈津子さんに絶対気付かれる」
「いつの間にか「さん」付けっ!? えー何、母さんてばそんなに霊感強いの? ていうか今、どこにいるわけ?」
「変身してる」
「へっ、変身ッ!?」
ときめきワードが聞こえた、とはしゃぐ七緒は、小さい頃から魔法少女ものはもちろん、変身ヒーローもののアニメが大好きであった。
だからだろう、ロウの答えによるショックは大きかった。
「何に? 何に変身してるのっ」
「ノミ」
…………
…………………
「…………は?」
NOMI、ですと?
「ばかばかばかっ! どうりで頭の近くで声が聞こえると思った!! ノミって! ノミって!!!」
「うわわわわわっ、頭叩くな、自傷行為なんてやめろ!」
「違うわ! フツー頭にノミがいたら嫌でしょ! でて! 早く出てって!」
「ぎゃっ」
ロウの声が遠くなった、と思った瞬間、床に小さなネズミが転がっていた。
ネズミの口が、器用に動く。
「あのなあ! なにかに変身してないと…」
「ぎーーーーえーーーーーーーー!!!」
絶叫する七緒は、今までののんびりした動作から考えられない程素早く、廊下の端まで逃げて行った。
「ネズミはだめ! 哺乳類全般好きだけど、ネズミだけはだめ!」
「わかった。他のになるから、スリッパを構えるのやめてくれ!」
戦闘態勢の七緒に怯えつつ、ロウはネコになってみせる。
「これでどうだ」
すると今度は、七緒の目がハートになった。
「おっけーです。むしろ抱きしめても良いですか肉球触っても良いですか」
「却下ーーっ!」
結局ロウは、初めて会った時の少年の姿をとった。
「この格好で見られたらどう説明すんだよ」
「友達って言えばいいもん」
「そんな言い訳……通じそうだな、奈津子さんには」
ロウはため息をつく。
「とりあえず、なんかしら生き物の形をとってないと、奈津子さんに見破られやすいから」
器を用意しなければ、魂、として感知されてしまう。難しく説明しても通じなさそうなので、ロウは簡単にそう言った。
「いいけどさあ、もう少し可愛いものにしてよね…ノミとか最悪だから」
「ノミを馬鹿にすんなよ、あいつらすげえんだぞ」
「そういう話じゃないっつの。もう、早く孝明起こさないといけないんだから、邪魔しないでよ」
「…その話なんだが…」
しかし、七緒は話を聞かず、つかつかと弟の部屋に入って行ってしまった。
ついて行くに行けないロウは、内心焦る。
―――やばいな、オレ、昨日かけた眠りの魔法…解いたっけ?
昨晩、孝明を眠らせて、その後、その術を解くのをすっかり忘れていたのだ。
「(七緒に言ったら、また怒鳴られるかな)」
ブラコンの彼にそんなことを言ったら、100%怒られるだろう。
大人しそうな奈々子に胸倉を掴まれて詰め寄られたのは、ちょっとしたトラウマである。
「たかぁーきぃー! 起きてー」
うだうだ考えている間に、部屋の中から七緒の声が聞こえてきた。
ロウは慌てて、障子の影から魔法を解く。
「(寝坊くらい誰だってするし、別にいいだろ)」
そう思った瞬間―――
「なんだよ!! 勝手に部屋入ってんじゃねーよ!」
孝明の怒鳴り声、そして、何かがどん、と倒れる音がした。
咄嗟に、もう一度ネズミに変身し、部屋に入り込む。
ベッドの横に立つ少年は肩をいからせ、その兄は尻もちをついた形で唖然としていた。
「何、勝手に入ってきてんだよ。入るなっつっただろ」
こんなにも冷たい表情を弟に向けられたことのなかった七緒は、驚き過ぎて声がでない。
部屋の隅で縮こまるロウも、同じく驚いてはいたが、冷静であった。
「(なんだ? あの弟、昨日はあんなにシスコンっぷりを発揮しといて―――)」
はっとなる。
奈津子の場合が規格外すぎたのだ。相手の性別によって態度が変わるのが普通、である。
姉であった奈々子をあんなにも大事にしていた孝明は―――
―――兄である七緒が嫌いなようだった。