59、被害者についての考察
「…七緒」
ロウの、気遣うような声に、けれど七緒は動かなかった。
泣きそうな声で、「大丈夫」と言うだけだ。
「(……大丈夫では、ないだろうに)」
どうにも、この前の一件から、七緒の気持ちが揺れやすくなっている。
絆を結んだロウには、彼の気持ちがなんとなくわかる。酷く怒っていたり、悲しんでいたり、そういう、特に負の感情は、流れてきやすい。
怒りと悲しみと息苦しさが、ないまぜになったような。そんな感情が、ロウにもなだれこんでくるのだ。
「(おかげで、俺までイライラするぜ。あの男も酷いタイミングでやってくれたもんだ)」
七緒はこの前、ようやく「性転換したのだ」と本当の意味で自覚した。
つまりは、性的なことに敏感になっている時期なのだ。
少年の姿のロウは、直哉の机の上であぐらをかき、大きくため息をつく。
「(こればかりは…どうしようも出来ない)」
人の気持ちは、そうたやすく動かせるものではない。そう、天界で習った。
けれど、とロウは思う。
―――泣かないで、くれよ
七緒から流れて来る気持ちとは別の場所で、酷く胸が疼くのだ。何も出来ない自分に腹が立つ。
「七緒、こっち向け」
床に降り立ち、つかつかとベッドに歩み寄る。
「ごめん今…わたし……酷いこと言いそう…」
「いいよ」
「だめだよ」
「いいんだ。さっきも言ったろ、頼ってくれって。それが俺たち天使の役目だし、お前の相棒の俺の義務だ」
「だから!」
苦しげにあげられた声に、びくりと肩を震わせるロウ。七緒の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「言いたくないの! 自分でも、なんでこんなに怒ってんのかわかんない…ロウ、お願い、あっちに行ってて」
「そばにいて、とは、言ってくれないのか」
切なげな声に、七緒ははっとなった。
眼鏡をかけていないから、ロウの表情は見えない。けれど、きっと彼は、悲しい顔をしている。
―――悲しい顔を、させた
思わず手が伸びて、気がついたら、ロウに抱きついていた。
「うあぁ、ロ~~ウ~~っ! わ、わたし、ごめんねぇ、そんな顔、させるつも、り、」
なくて、と嗚咽混じりに叫ぶと、ロウは酷く狼狽したように言った。
「なんでそこで俺のこと気遣ってんだよ。違うだろ、お前の話してんの! お前最近、人の顔色見過ぎ」
「ちがう、わたしは、」
言いかけて、七緒はぐっと言葉を飲み込んだ。今は何を言うのも怖い。
自分よりも細くて小さな体を、抱きしめなおす。
「……ね、ロウ。眠くなっちゃった……一緒に寝てくれる?」
「いつも一緒に寝てんじゃねーか」
呆れたように笑うと、一瞬にして、ふわふわ柔らかなぬいぐるみになる。
―――「おやすみ」
掠れた鼻声でこたえる。
「おやすみ……おれは、大丈夫だからね……さっき投げちゃってごめんね……」
すぅ、と聞こえてきた寝息にほっとしつつも、ロウはため息をついた。
―――なんでそこで、大丈夫なんて言うんだろうなぁ
傷ついたんだろうに、どうして頑なにそれを否定するのか、天使である彼にはわからなかった。
「そこからは、もうゆーきゃん先輩もナナも止まんなくて」
雪弥が怒って手を出すタイプでなくて本当に良かった、と思う。
大声で言い争い、最後は七緒のヒステリックな「出てって!!」という声とともに、ウサギのぬいぐるみを投げつけられ、雪弥は「出て行きゃあいいんだろ、一生童貞やってろ!」というよくわからない捨て台詞を吐くと、足取り荒く出て行った。
七緒は、しばらく息を整えてから、直哉に目を向け、怒りの収まり切らない瞳で、「うるさくしてごめん」と謝った。
「そっからナナ、何も喋らないし、オレもなんか言える雰囲気じゃないし、超気まずかった!」
喋り終えると、直哉はぐったりと横に座る健斗に凭れかかった。健斗は同情をこめて、彼の背中を叩いている。
「でもさぁ、絶対最初はゆーきゃん先輩が悪いと思うけど、ナナもそこまで怒るかぁ? って感じ」
博之がそう言うと、健斗が弁護するような口調で呟く。
「あいつ結構乙女思考んだから……そんで下ネタとかも得意でねぇし……やっぱりファーストキスは好きな人としてぇべ」
そういうお前こそ乙女思考だよ、と彼のルームメイトはからかったが、葵は真剣な表情で頷いた。
「うん……ケンとナナってちょっとそういうとこ似てるよな? ロマンチストっていうか、乙女っつか、純粋?」
「乙メンってやつ? まあ、健斗もナナも、ゆーきゃん先輩とは正反対だよな」
博之も思い当ることがあったようで、うーんと唸る。健斗は、どうやら少し雪弥が苦手らしい。葵の言う「純粋」という言葉も当てはまるので、いくら同性とはいっても、勝手にキスをするという行為は、彼には許しがたいものなのだろう。
しかし、七緒は雪弥と仲が良い。健斗が辟易する雪弥のセクハラまがいなスキンシップも、いつもけらけら笑ってスルーしていた。
「……でもやっぱりわかんねえな、すげえ仲良いのに」
「仲がええからこそ、限度どごわかってくれていねのが嫌だったんでねか?」
健斗の言葉に、3人は感心したような声をあげた。
「まじケンちゃんすげぇ。ナナそういうこと言いそう」
「さすが銀杏の乙メン」
「ちっと待って博之、俺ほんたらふたつ名持っていねぇ!」
いやでもほんとすごいよ、と葵も健斗を褒める。
「お前らすごい綺麗な!」
「アオさん、ちっと馬鹿にされてるような気がするんだども」
「してないって。純粋に感心してんの、すげぇ良い家庭作りそうっつか。モテるよ、ケン」
真面目な顔で先輩から褒められて赤面していると、ルームメイトから「もう少し背ぇがあったらな」と余計な茶々を入れられ、唇をとがらせた。そうやってからかう博之自身も、高いと言えるほどの身長ではないのだ。
「とにかく、今回悪いのって雪弥先輩だべ。アオさん、ナナを責めんとって下せえ」
「あ、うん、それは全然そのつもりだけど」
子犬のような瞳で見上げられて、うっかり葵はどきりとした。
「こんだけ派手に騒いだからさ、一応……あの軟弱な2人じゃ無いとは思うけど、手が出そうになってたりしたら止めてやって」
難しいのは、この喧嘩が雪弥と七緒、つまり2年生と1年生の喧嘩だということだ。
同学年同士ならば、なんとなく寮内の同学年たちが宥めにかかるのだが、学年が違うとなると、お互いにやりづらい。
「まあでも、雪弥はアレだけど、ナナならすぐ謝れると思うし、あんまり刺激しないようにな。特に直哉、口突っ込みたくなるかもしれないけど我慢ね」
はあい、と直哉と博之が揃って返事をする横で、健斗だけがことの重大さを、なんとなく感じとっていた。