57、喧嘩勃発
さっきは少し嫌な態度だったかなと反省して部屋に戻ってみれば、相方がいなかったので、拍子抜けした。
おそらく風呂だろうとわかったので、戻って来るまでにコンセントを使おうと(部屋にコンセントはふたつだが、七緒はゲームやらケータイの充電のために独占するのだ。七緒の机の横にあるので、気づいたら両方塞がってることが多い)ウォークマンの充電器を探していた。
「お、あったあった…ナナめ、こんなとこにしまいやがって」
ベッドの脇に置かれたお菓子の空箱には、「充電器とか」と書かれている。几帳面なのかお茶目なのかわからないなあ、と直哉は小さく笑った。
「とかってなんだよ…とかって。あ、これケータイのだ。こっちか」
と、充電器を手に取った瞬間、
「ばかーーーーーーーっ!!!!」
どこか――恐らく階下――から、ものすごい叫び声が響いた。
ばたばたばたと激しい音が続く。
何かが近づいてきている、階段を駆け上がる音なのだと気づいたときには、これまたものすごい勢いで部屋のドアが開けたられていた。
「―――はあっ、はあっ、はあっ…」
「…ナナ、どうした?」
息も絶え絶えなルームメイトは、片手に洋服を抱え、腰にまいたタオル一枚で、ドアの向こうに立っていた。
「あ、水たれてる……」
「ナオぉ…」
体拭けよ、といおうとして、彼が鼻声だと気がついた。
メガネの向こう側の瞳が、妙に光っている。
「……どうかしたの?」
ぶわ、と涙が溢れ出し、七緒は直哉に体当たりした。
「ぐふっ」
「うわあああん、ナオぉっ」
自分にしがみついて、どうやら号泣しているらしい七緒に、なんて言葉をかければいいかわからなかった。
ルームメイトの涙腺が弱いことは早々にわかっていた―――本を読んで泣いていたのだ―――ことだし、火がついたような泣き方も一度遭遇したこと―――夕食の準備をすっぽかしてしまったときだ―――がある。しかし、今回が訳がわからなすぎる。
とりあえず、背中に手を回して、体勢を安定させた。ついでに、ぽんぽんと叩いてやる。
「(なんかアレだな…この状態…ゆーきゃん先輩に見られたら、変な勘違いされそう)」
七緒の体は、表面は濡れているものの、ちゃんと温かかった。それでも、このままでいたら冷えてしまうだろう。髪からポタポタと滴が落ちてくる。
泣き声が、控えめな嗚咽に変わるまで待つと、優しく体を離した。
「ナナ、体拭こ? な?」
「…ん……」
椅子にかけておいたタオルをとって、髪を拭いてやる。
七緒は、涙目で、大人しくされるがままになっていた。
「なにがあったん?」
メガネを外して、くしゃくしゃの顔も拭いてやりながら、問いかける。
「…ゆーきゃん先輩に……」
「うん、うん」
「………された…」
「え?」
ぼそぼそと小声で呟かれた言葉に、雪弥と付き合いの長い直哉も、驚かざるえなかった。
「キスぅ!?」
「キスぅ!?」
葵は、思わず叫んだ。
ほんの少し、時を巻き戻そう。
「おー、入れよ」
ノックの音に、葵は顔をあげて言った。机に広げた参考書類はそのままに、ベッドに座る。
入ってきたのは、やっぱり雪弥だった。
この後輩は、ことあるごとに…というより、何もなくてもこの部屋に押しかけてくる。
葵の部屋は一階、雪弥の部屋は四階なので、食後や学校帰りはこの部屋に直行してくることもある。さらに、嫌なことや悲しいことがあったときも押しかけられる。
もはや一人部屋の解放感なんてどこにもない。
「さっきなんか誰か叫んでたよな? かなりびびったんだけ―――って、お前ソレどうした、雪弥」
ソレ―――雪弥の、赤くなった左頬を指し、葵は唖然とした。くっきりと手形がついている。
「喧嘩か? おい、まさかさっきの叫び声と関係あんのか?」
「さすがアオさん。察しが良いね……ちょっと叩かれちゃった」
誰に、と間髪いれずに詰問すると、雪弥は苦笑いのまま、あっさり吐いた。
「ナナ。大声あげたのも」
「ナナぁ!? …お前、何やったの?」
「オレがなにかやったこと前提なの?」
「あいつは訳もなくひとを殴ったりしないし、よっぽどじゃなきゃそんな度胸もない子だろ。またなんかふざけすぎたんじゃないの?」
お見通しすぎて怖い、とおちゃらけながら、雪弥は椅子に座った。ぎしぎしと揺らす。
開き直ったように吐かれたその言葉に、雪弥との付き合いが、直哉以上に長い葵も、驚かざるえなかった。
「キスした」
「キスぅ!?」
ぱくぱくと口を開け閉めしている先輩に、雪弥はふてくされ気味の表情で説明する。
「風呂場で会ったからさ、ついキスしたんだよ。したらさ、思いっきりビンタされた挙げ句、大音量で「ばかー!」とか言われた」
葵はしばらく唖然としたあと、後輩の鼻先に指を突きつけた。
「100パーセント、お前が悪い。ついでキスする馬鹿がいるか?」
「だからって殴るぅ? たかがキスくらいで」
「俺なら殴った上でキンタマ蹴り上げて再起不能にする」
「怖い!」
「考えてもみろよ。いきなりキスされたらどう思う」
「オレなら超ラッキーって思って、その勢いでベッドイン」
「雪弥」
葵は、真面目な声をだした。椅子を回してふざけていた雪弥も、しぶしぶ葵と向き合う。
「冗談でもそういうこと言うな。お前、もっと自分を大切にすべきだぞ」
黙り込む後輩に、さらに追い打ちをかける。
「最近ちょっとおかしいよ、お前。アホは昔からだけど、そんなふうに、後輩に手ぇだしたことなかったじゃないか。謝ってこいよ」
唇を突き出して、眉間にシワを寄せて。
いかにも不満げな顔の雪弥に、葵はため息をついた。
「自分が悪いってわかってるだろ。小学生じゃないんだから。誰だって不意打ちでキスされれば怒るっつーの」
「……冗談を冗談ととる器がないんだよ、最近の若いもんは…」
ブツブツ言いながら出て行く後輩の背中を、葵は複雑な気持ちで見つめていた。
「(雪弥も難しい奴だなぁ…)」
「むりむりむり、絶対むり」
直哉は必死の形相で、けれど小声で言った。
雪弥は、ケータイで直哉だけを部屋から呼び出した。
四階階段まで出てきてくれと、頼んだのだ。
最初は「どういうつもりなの、先輩は!」と怒っていた直哉も、彼が謝りに来たのだと知ると、幾分か態度をやわらげた。
が、「謝りに行くから部屋入れて」と言うと、直哉はものすごい勢いで首を横に振ったのだった。
「ナナ怒ってる。超怒ってるから、今会うのはむり」
「だから謝りに行くんだって」
「多分聞く耳持たない」
そんなに嫌だったのか、と思って、雪弥はムッとしたが、次の言葉を聞いて目を見開いた。
「最初はボロボロ泣いてたんだ。でも、ちょっとしたら怒りの方がこみ上げてきたらしくて…」
「(泣いて、た?)」
そこでようやく、雪弥は少しだけ良心が痛んだ。
「…ちょっとふざけすぎたかな」
「絶対そうだって! キスはないよ、キスは。口でしょ? ゆーきゃん先輩はイタズラの限度を知らないんだよ」
「ちょこーっと口に触っただけじゃん、口で…」
「俺でも怒るよ、それは」
呆れ顔の直哉に言われ、雪弥は観念したようにため息をつく。
「な、謝るから、部屋入れてくれ。謝ったらすぐ出て行くし」
「でもナナ、怒ってる…」
「いいから」
多少強引なのはデフォルトだ。
雪弥は部屋に入れてもらった。直哉も、雪弥のあとに入り、部屋の半ば辺りで遠慮がちに止まる。
七緒は、枕にタオルを敷いて、乾かさない頭のままベッドに入っていた。
戻ってきたのが直哉かと振り向いて、表情が固まる。
「……先輩」
「ナナ、さっきはごめんな。ふざけすぎたわ」
軽いスタンスで、雪弥が謝った。
後ろの直哉は、いつ七緒が枕を投げつけるかとハラハラしながら見守る。
…が。
直哉の予想に反して、彼の反応はあっさりしたものだった。
「いいです、もう。犬に噛みつかれたと思って諦めます」
「まじで? 良かった~」
雪弥と直哉は同時に息をつく。
安心したのか、雪弥がペラペラ喋りだした。
「ナナちゃん案外力強いよね。まあ、パンチじゃなくてビンタだったとこがナナっぽいけど」
「うっわ、ゆーきゃん先輩、赤くなってるよ」
「まーじーかー。このオレ様の嫁入り前の顔に…!」
「嫁入り前て」
重荷をおろしたかのような振る舞いをする二人に、七緒は背を向けた。
「あれ、ナナ…寝るの?」
直哉が問いかけると、七緒は頷いた。
そろそろおいとまするか、と雪弥も立ち上がる。
「じゃあおやすみ、ナナちゃん。許してくれてサンキュ」
しかし、返答はなかった。
不安になって、七緒の肩に触れる、と。
「触らないで下さい」
見たこともない素早い動きをする七緒に、雪弥も直哉もぎょっとした。
「ナナちゃん…え、まだ、怒ってんの?」
絞り出すような先輩の声に、七緒は表情をかえず言い放つ。
「許した、なんて誰が言ったんですか」
しいん。部屋が、静まり返った。