56、突然の
「なんか、最近、テンション高くない?」
「そうお? そう見える?」
けらけらと笑って顔をあげると、思いのほかルームメイトが真剣な表情をしていたので、はりつけた笑顔がどろりと落ちてしまった。
「……ほら。なんか、おかしいって。いきなり悲しそうな顔するしさあ」
唇をとがらせてみたりするものの、直哉はやっぱり真面目に言っている。
最近、彼はロウ(が変身したぬいぐるみ)の手触りが気に入っているようで、よく抱いている。今もそうで、彼の腕の中のぬいぐるみは、うっかり苦しそうに見えてしまうくらい、きつく抱きしめられていた。
ふざけ口調で、直哉に「なあ、ウサギもそう思うだろお?」と言われて、思わずロウは頷いてしまいそうになった。
―――「(確かに、そうだ。七緒は、あの日から少しおかしい。わざと男っぽい乱暴な仕草をしてみたり、変に高いテンションでいる。そりゃ、なよなよした仕草も暗い雰囲気も困るけど、本来のこいつは、もっと穏やかで控えめだ)」
あの日から、どうにも胸騒ぎがして、ロウは学校へもついて行っている。カラスか猫にでも変身していれば、「取り憑かれているストラップ」だと思われることはないだろうと思ったのだ。
ストラップのときのように、ぴったり張り付いてはいられないけれど、それでもわかる。
七緒の様子が、どこかぎこちない。ただでさえボーっとしていることが多いのに、更にそれが多くなった。しかし一方で、友人たちと喋るテンションが妙に高かったりするものだから、心配になるのだ。
―――「(これが、から元気、とかいうやつか?)」
人間は何か落ち込むようなことがあったとき、嘆くか、から元気かのどちらかだという。
以前のロウには、何故素直に落ち込まずに無理に元気なふりをするのかということが理解出来なかったが、ここ数日でようやくわかってきた。
―――「(周りに、心配をさせないため。それから自分が明るく振る舞うことで、そのことを忘れようとするため。気遣いと現実逃避からの行動だ)」
男体化してすぐの七緒こそ、まさにそれだったのだと今更ながら思う。
七緒は、肩をすくめて読んでいた本に視線を落とした。
「気のせいだよお。最近学校にも寮にも慣れてきたからさ。おれ、そんなにいつもにこにこしてるようなタイプじゃないし。あと、最近ちょっと元気有り余ってて」
友人に会話を続ける気がないことを悟ったのか、直哉はひとつため息をつくと、何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
「……良くない、んじゃないの、そういう態度って」
投げ出されたロウは、少年の姿になると、七緒の近くに腰をおろす。
「直哉は、お前のこと心配してるんだろう?」
「いいの、だっておれ、心配されるようなことないもの」
「お前の様子おかしいって、栄人も、葵も、あと優子も言ってた。あと虎哲もお前のこと不思議そうに見てたぞ。授業中もいつも以上に上の空だし、今週だけで何回食堂で食べ物ひっくり返したか覚えてんのかよ。それで心配されるようなことないって、おかしいぞ。―――なあ、良くないよ」
いつも、感情的なことに対して消極的な天使が、今回は妙に強い口調で諭すので、七緒は仕方なく本を閉じた。最近この天使は、始めに言っていたことを覆して、学校にまでついてくるようになったから、隠し事ができない。
「……わかったよ。ナオにはちゃんと謝る。……ていうか、ロウも、そうやって友達の言ってることとかわたしに言っちゃうの、やめた方がいいよ。なんか秘密知っちゃってるみたいでいやだなぁ」
「なぜ? だって別に、悪口ってわけでもないし」
きょとん、と首を傾げるロウを見て、ああやっぱり彼は天使なのだと思う。
「例えばだけど、わたしが、ええと、おっかさんを好きになっちゃったとして、」
「えええ!?」
「例えばだってば。そんで、ロウはそれを知ってて、おっかさんに教えちゃうのと一緒だよ。本人の前で言わないことを、違う人が本人に伝えちゃだめなの。良いことであっても、言っちゃダメ」
「……わかった。次から気をつける」
いい子、とロウの頭を撫でると、軽く腕を叩かれた。
「……何度も言うけど、オレは、お前のために存在してる。だから、もっと頼ってくれよ」
「ロウを頼りなく思ってるわけじゃないの。でも、1人で消化しなきゃいけないことが、人間にはあるから。まあ、それで八つ当たりしてたら世話ないけど、わたしが考えなきゃいけないことだからさ。ありがとう、ロウ」
お風呂入って来るね、と部屋をでて、七緒はため息をついた。
よく自然に切り返せたものだと自画自賛する。咄嗟に口に出して初めて、自分が「1人で消化しなきゃいけない」とわかっていることに気がついたのだ。本来、ここまでショックを受けるようなことじゃないはずなのだ。
「(そういや……わたし、こんなんで結婚とか出来るのかな……)」
色恋沙汰には鈍い方で、奈々子であったころから、恋というものをしたことがない。だからなんとなく今まで思考に浮かばなかったけれど、今回のことでふと、ずっと先の不安に思い当ってしまった。
「(ていうかそれ以前に恋愛が出来るかって話だよねぇ……スナフキンみたいな人がいたらいいのに。あっ、でも、わたし今は男なわけだから、女の子と結婚するわけか……っていうと、実際問題、女の子とセックスできるかっていう話だ……)」
行きつく先はそこかぁ、とうなだれながら風呂場への道を行く。
いくらそっち方面に疎いとはいっても、男女の営み自体を知らないわけではないし、結婚するからには通るべき道だろうと思っている。あと単に子供好きなので、子供は欲しい。
「(男の子と出来るかってのさえ考えたことないのに、元・同性と出来るかなんて考えられるわけないじゃん! ……わたしもしかすると一生独身なのか……)」
漠然とはしていたけれど、女の子として普通に結婚願望もあったので、なんだか残念だ。
そこまで考えて、なんだかちょっとズレてきたことに気がついた。
「まだ結婚のことなんて考えなくていいじゃん。出来る歳でもないし」
やめとこう、これ以上考えるとまたネガティブになる。
ぱちんとお風呂セットを持たない左手で太腿を叩くと、ぽいぽい服を脱ぎ始めた。
「あー気持ち良かったぁ」
かすかに湯気をだす身体を拭きながら、ふうっと息を吐く。
風呂に入ると少しの間、悩んでいることを忘れられるので、精神的にもすっきりする。
あがったら直哉に謝らなくてはなあ、と考えていたら、突然がらりと引き戸が開けられて、七緒は心臓が飛び上がった。
「あれ、ナナだ」
振り返ると、雪夜が着替えを持って立っている。
「…ゆー…きゃん先輩?」
メガネをしてないので、彼を呼ぶ声は多少不安げに震えた。
返ってきた声は聞き慣れた先輩のものだった。
「何びびってんだよ。ああ、風呂でナナと会ったことねえなあって思ってたら、そうか、この時間だったんだな」
「あ、はは…ゆーきゃん先輩は、なんで」
暴れる心臓を押さえつける。
直哉に教えてもらったこの時間帯は、風呂場ががら空きになる。
寮に入った日、ラファエルと鉢合わせた以降、ここで誰かと会うことはなかったのに。
雪弥が服を脱ぎだす前に、出ていかなくては。
「んー、見てたドラマが先週終わった。今週からのあんま興味ない。オレ医療モノ嫌い」
「へ、へぇー…」
ところが雪弥は、服を脱ぎださず、七緒に近寄ってきた。
腰にタオルは巻いているものの、じろじろ見られるのは落ち着かない。
「なんすか」
「火傷、ほんとにあったんだなって」
「ひゃんっ」
背中の痕をなぞるように触れられ、七緒は今度こそ文字通りに飛び上がった。
「やっ、やめて下さい! こちょばいです!」
「今カエルみたいだった! すげえ飛んだ!」
ゲラゲラ笑う雪弥に、七緒は歯をむいてみせる。
「後輩いじめがそんなに楽しいですか!」
「超楽しいね」
―――そんな爽やかな笑顔でッ!
どえす、きちく! と、よく知りもしない言葉を乱用する後輩に、雪弥はもう一度手を伸ばした。
濡れた髪を、撫でてやる。
「ナナは、特に反応が楽しいからなー。」
「なんなんですか、ほんともう。趣味が悪いにも程がありますっ」
最近絡んでくる回数が減ったかなあと思っていたが、いつも以上にしつこい雪弥に、やっぱりこのひとめんどくさい、と眉間に皺をよせた。
「そう噛みつくなよ」
ふふ、と雪弥が笑った―――まるで、噛みつかれる前に噛みついてやろうとでもいうふうに。
顎に雪弥の指が触れた、次の瞬間、
「―――ゆ、…っ!?」
ああ、まつげが長いなあ、なんて。