閑話
「…これで、お前は俺のことを正式にサポートとして認めたことになる」
素早く手を離して、黒髪の天使は言った。
名を与えるという行為には、色々とそれ以上の意味があったらしい。
「……すまん、七緒」
ロウのか細い声に、七緒は微笑を浮かべた。
「いいんだよ、ロウが謝ることじゃない。ていうかわたしこそ、ごめん。泣いたりして」
ごしごし目をこする少年を見て、ロウはなんだか妙な気持ちになった。
―――これが、情が移るってやつなのか
ちらりと頭をよぎったのは、下界に降りてくる前に話した、先輩天使との会話だった。
「お前、あの事件の被害者補佐、任されたんだって?」
「ああ、まあな」
先輩、とは言っても、ロウはよっぽど尊敬している天使にしか、敬語は使わない。
その先輩は、変わりものだという評判で、けれど同時に「やり手」としても知られる天使だった。
しかし、普段の行動がやはり「変わりもの」なので、敬語で尊敬を表すには、ちょっと違うなあと思っていた。
だから決して、尊敬していないわけではないのだ。その天使の奇行に、呆れてもいたが。
「で、どうなの、お前の担当は」
「女。男になる」
「そーじゃねえよ、性格とかだよ。データあがってんだろ」
「守秘義務だ、わかってんだろ」
「真面目だねえ、コロコロは」
先輩天使は、青い目を細めて笑った。
ちなみにコロコロとは、その先輩天使につけられたあだ名である。
七緒には「よっぽど偉くなきゃ天使に名前はない」とは言ったが、正確には違う。
親しければあだ名をつけたりするし、それが広まって、色んな天使からその名で呼ばれたりはする。
正式なものではないが、名前といえば名前だ。しかし、人間の七緒には特に関係のないこと。
それに、補佐として「絆」を結ぶには、名前をもらわなければならなかった。
「……オレは別に、真面目なんかじゃない。ノナミだけだ、そんなこというの」
先輩天使は、ノナミと呼ばれている。そのあだなは、ロウがつけたわけでなく、昔からそう呼ばれていたから、そう呼んでいるだけだ。
「面と向かって言ってるのは私だけかもしんねーけど、他の奴だって言ってるんだぜ」
「……ああ、言ってるんだろうな、裏では色々…」
「あっはっは、相変わらずお前は性格ひんまがってるなあ!」
ノナミは、何を言っても大体笑って受け流す奴だった。その時も豪快に笑って、後輩の額を、少し強すぎるくらいに小突いた。
「ま、下界に降りたら変わるだろーな」
「は?」
意味がわからなくて、ロウは首を傾げる。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味さ。人間と触れると、お前は変わるよ」
「……?」
「愛しくなるのさ、ひとは」
―――愛しく、なる?
黒髪の天使は、金髪の天使を怪訝そうに見上げた。
「…情がわく、ということか?」
「んー、まあ近い。あとは自分で考えなよ、若造」
ノナミは苦笑した。その表情に、暗いものが混じっていることに、若い天使は気がつかなかった。
「(そうだ、情が移っちまったんだ。…名前をもらった、だけなのになあ)」
「ロウ?」
黙り込んでしまったのが気になったのか、七緒は怪訝そうに声をかけてきた。
寝起きのボサボサ頭に、古くて青い眼鏡。一般的に、美しいものを愛でる傾向のある天使には見向きもされないだろうが―――
「七緒、困ったことがあったら、オレに言えよ。サポート役、なんだから」
「えっ、なによう、いきなり…」
―――情が移ったんだから、しょうがない、
天使は、きょとんとする相棒を見て、豪快に笑うのだった。
「……じゃ、さっそく頼みごとなんだけど」
七緒は遠慮勝ちに口を開いた。
「なんだ?」
「………レに……」
「ん?」
聞こえない、はっきり言えよ、とせかすと、少年は真っ赤な顔で叫んだ。
「トイレ行きたい!!!!」
「……いってこいよ!」
「やだやだやだあっ! だ、だって…ついてるんでしょ!?」
「たりめーだ! それが男のシンボルなんだろっ!」
「どどどどど、どうやればいいの!? 立つの? 座るの!? ……ふ、拭くのッ!?」
「知るかあああぁぁっ!! そそそそ、そういうことは自分で試行錯誤しろよ!」
「ロウはどうやってるの!?」
「知らないのか、天使はうんこなんてしねえ」
「うっ……せ、せめて伏字にしてよおおおお! それにわたしっ、今はそっちじゃなくて!」
「とにかくトイレ行けよ!」
「行ってどうするのよおおおお!」
……こんなのに情が移っちまったのか、と、天使はため息をついた。