54、変化
「ナナぁ、起きなってば」
―――ううん、いやだ、もうすこし寝かせて…
「戸塚、起きろよぉ…。先生めっちゃこっち見てるって」
―――…えっ……この声…榊くん? なんでここにいるの?
「ナナ、ナナ…」
―――あ、この声も…美代ちゃん? 美代ちゃんじゃない? わあっ、久しぶり! どうして慌ててるの?
「ナナ………奈々子っ!」
「―――はいっ!」
勢いよく起き上がって、七緒はしばらく肩で息をしていた。
夢だ、と気がついて、ほっとする。
先程のシチュエーションは覚えがある。中学生のときの、数学の授業だ。居眠りをしていた奈々子は、席の近い友人たちに声をかけられていた。
眠りと現実の境目あたりで、彼らの声が薄ぼんやりと聞こえる感覚。奈々子はあの感覚が好きだった。
「(でも、確かあの時は、目を覚ましたら目の前に先生がいたんだっけ…だからこんなにドキドキしてるのかな)」
―――「七緒? 大丈夫か?」
ロウの声に、黒ウサギのぬいぐるみを振り向く。
大丈夫、と頷いたものの、動悸が止まらない。
「……なんだろ、そんなに怖い夢でもなかったんだけど…すごくドキドキする…」
―――「汗すごいぞ?」
「……今…3時か。まだ起きるには早いねぇ」
ため息をついて、着替えるか、と立ち上がりかけ―――心臓が跳ねあがった。
「(……っ、濡れてる? 寝汗…では、ない)」
七緒が青ざめたのがわかったのか、ロウが少年の姿になる。
触覚が戻って(ぬいぐるみのときは五感がないらしい)、シーツの湿り気に気がついたのか、七緒を見上げる。
「まさか…お前…おね」
「するかぁ! 高校生にもなっておねしょなんてするか!」
「シーッ。直哉が起きるぞ」
「うぐ……」
とりあえず、とばかりに枕元の眼鏡を引っ掴み、ベッドから降りた。
上布団をのかし、シーツを調べ直す。
「これはあれだな、多分「ムセイ」って奴だ」
あまりにロウが冷静に言うので、七緒は一瞬、なんのことかわからずにぽかんとした。
が、次の瞬間、かちりと漢字変換され、盛大に赤面する。
「むっ……え、ちょっと待って、保健の授業で…習った覚えがなくもないけど……わたしが?」
「お前以外いねーよ。まあ、男だからこういうこともあるわな」
目が慣れてきた暗闇の中で、ロウの赤い瞳がちらちらと光る。ろうそくみたいだ、と七緒は思った。そんなことを考えている余裕はないはずなのに、突然すぎて思考が停止しているのだ。
「―――大丈夫か?」
困惑したようなロウの声に、慌てて顔をあげる。
彼はきっと、「性転換する」と言った時点で、こういう事態があるということも、理解されていると思っているのだ。
―――わたし自身、理解した気になってた……でも、それでも、本当に体験するのとは、別だ
そう思った瞬間、鼻の奥がつうんとした―――これはヤバい。
シーツを引っ張って立ち上がり、歯を食いしばるような笑顔をロウに向ける。
「洗濯機、かけてくる。ほら、ロウ、ちょっとのいて」
「あ、ああ…ついて行こうか?」
「大丈夫…服も替えるからさ、ここにいてちょうだいよ」
そのとき、直哉が寝返りをうった。2人してびくりと飛び上がり、それぞれベッドの上段を見つめる。
起きる様子がないことを確認してから、七緒はシーツをひっつかんで、部屋を出た。
「(―――大丈夫、大丈夫、大丈夫)」
頭の中でその言葉を反芻しながら、階段を静かに降りる。
だってこれは、生理現象だ。女の子の月経みたいなものなのだ。
―――だから、
「だいじょうぶ……っわ!」
小さく声に出した瞬間、階段を踏み外した。
どた、と大きな音がしたが、こんな程度の音では、部活だなんだで疲れた男子高校生は起きやしない。
「……落ち着け、大丈夫だ…」
こんなときばかり、口から出る声の低さが気になる。
大きく深呼吸をして、立ち上がった。
尻もちをつくことで多少落ち着いた七緒の脳内は、とにかく自分のこの慌てっぷりを、ロウに気付かれないようにすることでいっぱいになった。
「(だって、わたしが傷ついてることをロウが知ったら、傷つく。何にも悪くないロウが、傷つく)」
どうして自分は、もっと自分の状態を理解しなかったのだろう。
もっと早くに、きちんと理解できていれば、こんなに取り乱すことはなかったのだ。
自分は、保健の教科書さえ、覗いてみようと思わなかった。
「(…みんなの下ネタをもっと聞いとけばよかったのかな……)」
ようやく1階まで辿り着いた七緒は、ふと、こんな夜中に洗濯機をかけてもいいものか、少し迷った。
1階には、食堂、赤城の部屋と葵の部屋と管理人室、そして、洗濯機のある浴場がある。
赤城と葵は部屋が離れているからいいとしても、風呂場の隣である管理人室には、おっかさんが寝ている。
「(……おっかさんの眠りが深い方でありますように)」
祈りながら、洗濯機をスタンバイする。
湿っているズボンと下着を脱いで―――着替えを持ってくるのを忘れたことに、気がついた。
「(どうしよう…今戻ってロウと顔合わせらんない…アオさんTシャツだし、いいか。ミニワンピみたい
な格好はきついけど、誰もみてないし)」
スースーするが、部屋に戻るよりはマシだと思った。
それほどに、天使と顔を会わせたくなかったのだ。
ごうんごうん、と洗濯機の回る音を聞きながら、七緒は放心状態だった。
今、自分がしたことを考えたら、多分、いいや絶対自分は泣く。
だから、考えないことにしたのだ。
「(洗濯機、うるさいなあ。ここの洗濯機、古いからなあ。……乾燥機は新品なのになぁ)」
そんな、とりとめのない思考で、頭を埋める。
下着を手洗いするときに、ついでに顔も洗ったので、先程よりは何倍も落ち着いていた。
そして、意識的に感情を置いてけぼりにした。それが一番、良い方法だと思った。
―――だって、自分が傷ついてることを、忘れられる
そんなこんなで、ぼーっとしていた七緒は、着替え場のドアが開けられたことに気付かなかった。
「……ナナ?」
遠慮がちに名を呼ばれ、七緒は飛び上がった。
振り向いた少年は、やはり七緒だった。
寝苦しい、と思って目を覚ました賢治は、妙な物音に気がついて、部屋をでた。
「(何この音……あ、洗濯機、か?)」
廊下をうろうろしてから、音の正体に気付く。
風呂場のドアを開けると、なぜか脱衣所は電気がついていなかった。
洗濯機の音だけが、ごうんごうんと耳につく。
とりあえず他の者を起こさないよう、後ろ手にドアを閉め、静かに奥へ進んだ。
「(音うるせー。もう洗濯機替えたいな。予算下りるかな、まだ使えるって言われちゃうかな)」
ひょい、と覗き込むと、洗濯機の表示部分が、仄かに光っているのが見える。
そして、その明かりに、見知った横顔が照らされている。
「……ナナ?」
小声で呼び掛けると、少年は驚いたのか、可哀そうなほどに飛び上がって振り返った。
「おっ…………か、さん……」
やっぱりナナだ、と思いながら、脱衣所全体の電気を点ける―――そして、息をのんだ。
七緒は、Tシャツだけで、下は何も身につけていないように見えた。両手は不安げにシャツの裾を握りしめている。
何より、彼の表情が、怯えているような、泣きだしそうな、そんな風に見えた。
一瞬で状況を理解した賢治は、明るすぎる電灯を消し、洗面台についている、いくらか小さい電気を代わりに点けた。
「シーツ汚しちゃった?」
七緒が小さく頷くのが見え、賢治は気付かれない程度のため息をつく。
銀杏寮の管理人室を務めて、今年で5年になる。その間に、こういう場面に遭遇してしまうことも何度かあった。
「(気まずいんだよなぁ、しばらく…)」
しかし、皆のお兄さん役として、こういう場合の対応は相手を見極めなければならない。
にしたって、相手だってもう高校生だ。まさか初めてではあるまいし、ふざけた調子で軽く慰めれば、バツの悪そうだったり、恥ずかしそうだったり、多少自己嫌悪に陥った表情で、彼らはその場を切り抜けてくれた。
―――しかし、今回はそうもいかない。
なにせ、相手があの七緒である。下ネタがからっきしダメで、恋愛にも疎く、青年というよりは少年と表すにふさわしい―――あの七緒である。
彼がどうにか切り抜けてくれることを期待してはいけない。今回は自分が彼を切り抜けさせなければならない。
「(声かけた後の反応から見て…これはかなり気にしてるぞ。全然目ぇ合わさん)」
どう声をかけるか逡巡してから、とりあえずいつものように軽いフォローを入れてみることにした。
「気にすんじゃないよ、生理現象なんだから。俺は誰にも言わないから安心して―――」
ぱた、と音がした。
思わず言葉を切って、まじまじと七緒を見つめる。
俯いた少年から、きらきら光を反射するものが落ちて、ぱたりぱたりと小さな音をたてていた。
洗濯機の音は相変わらずうるさいのに、滴が床で弾けるその音が、やけに耳元で聞こえる気がする。
賢治は、とある可能性に思い当って、顔を引き攣らせた。
―――まさか、まさかだけど……初めて、とか?
その まさか、である。