52、寄り道
空気が違うなあ、と七緒はぼんやり思った。
一度は遠慮したものの、なし崩し的にお茶室に迎えられ、今は目の前で茶道部部長がお茶を点ててくれているところだ。
道具を用意する時から、中村の、軽薄といってはなんだが、そういった雰囲気が消え去り、丁寧な動作で適度に引き締まった空気が醸し出されて、微妙に七緒は緊張していた。
「(一対一でお茶点ててもらうのって、あまりなかったものなぁ……にしても、なんだろ、この状況)」
「ねえ、戸塚」
「あ、はいっ」
緊張しつつも油断していたところに、いきなり声をかけられ、びくりと背筋を正す。その様子に、中村は手を止めて笑った。
「別に取って食いやしないんだから、もうちょい楽にしなよ。大丈夫、間違えようがこぼそうが怒んないし」
「あ、はい……ごめんなさい、なんかお茶室で声かけられる時って、だいたい注意される時だったので、反射で」
「ああ、わかるわかる。先生に声かけられるとあたしも緊張するし」
ころころと笑う先輩を見て、七緒はほっとした。そして、このひとの笑い声は可愛いなあと思った。
「あんた、親戚がお茶やってるとか言ってたよね。どこのひと?」
「あ……あんまり、難しいこと覚えてなくって。裏千家、なのは覚えてますけど……祖母が、福井で小さな教室開いてるんです。あと、花道と書道を同じ場所で教えてて、裏の道場で柔道と合気道と剣道を」
ぽりぽりと金平糖を食べながら答える。
「あんたのおばあさん、超すごいじゃん。つーかそれ、ひとりで? おじいさんは?」
「えっと、住み込み? かな? の、お弟子さんが何人かいて、そのひとたちと切り盛りしてるみたいです。祖父は、大分前に亡くなったらしくて」
「そうなの。あんたのおばあさん、かっこいいね」
変に謝るわけでもなく、けろりとそう言った中村は、いつの間に準備を終えたのか、お茶を点て始めた。
何秒かの無言のあと、すっと茶筅が戻され、茶碗が前に置かれた。
「はい、どうぞ」
随分とラフな口調だが、お辞儀がとても丁寧で、七緒はほうっと見とれながらお茶を手に取った。
ずず、と七緒が一口目を飲んだのを見届けて、中村はまた喋り出した。
「じゃ、あんたは他のも習ったの? 柔道とか」
「いや、それは弟が。おれは茶道を少しと書道です。運動神経悪くって。受け身くらいなら見よう見まねでやったことありますけど、向いてないと痛感しましたよ。っていうか運動全般向いてないんです」
「まーねぇ、いかにも草食系って感じだしね」
―――そうだけど、ずばっと言われるとなんかなぁ……
中村先輩は、と言いかけた七緒に、彼女は「真理でいいよ」と言った。
「あんた中村って友達いるんでしょ」
「あ、はい……真理先輩、は、いつからお茶を習ってるんですか?」
「中1から。ここじゃない私立の女子校でさ、いかにもなお嬢様学校で、茶道が選択授業であるわけ。書道か、社交ダンスか、茶道を選べってんで、茶道にしたの」
「しゃ、しゃこうだんす……」
「そーなのよ、ありえないでしょ? 体育って書類ではあるんだけど、一年通して社交ダンスだってんだから、かったるくてやってらんないし。つーか案外しんどそうだったし。書道は小学校のときやってたから、正直もうやりたくなかったし。消去法ね、消去法。
その授業で予想外にハマっちゃって、先生のとこ通うようになったんだから、わかんないもんだよねー。一期一会とは違うけど、思ってもない方向に行っちゃうことってあるんだよね」
確かに、と七緒は頷く。
―――予想外に性転換したりして、案外上手くやってるんだから、世の中わかんないよなあ。
最後の一口分を飲みきり、飲み口を軽くふいていると、真理が呟くように言った。
「上手く行ってると思ってもさあ、いつのまにか、どうしようもないくらい駄目なとこまできてたりさぁ……本当、わかんない」
心を読まれたのかと思うタイミングだったので、がばりと顔をあげる。
が、呟きは七緒に向けたものではないようで、アイラインを引いたつり目は、窓の外を眺めていた。
「え……」
「あーごめん、ちょっと愚痴。後輩に言うことじゃねーわ」
慌てたふうでもなく、それでも少しすまなそうに、茶碗を受け取り、清め始める。そんな真理の様子を見て、七緒は、何か悩み事かしら、と戸惑いつつも、聞いて良い関係ではないので、俯く。
「(……でも今、ちょっとドキっとした。上手くやってると思ってるのは自分だけで……もしかしたら何も、上手くいってはいないのかもしれない)」
多分自分は、男になるということを、仕方ないと受け入れただけで、そこから一歩も、進んでいないのだ。いくらか男子と話すときの緊張がなくなっただけで、それは慣れである。
「(寮に入って、クラスも男子のが多くて、そんな状態だったら慣れるに決まってる。前より声が低いのも、背が高いのも、もう慣れた。でも、それって、順応以上でも以下でもない)」
環境に、ひとは慣れてゆく。単にそれだけのことなのだ。七緒自身で努力したことと言えば、友達を作ることと一人称を変えること。
―――このままで、いいとは思えない。でも、これ以上に何が出来るっていうの。
わたしだって好きで性転換したわけじゃ、ないのに。もやもやと心を雲が覆っていく。
「ほら、順番違っちゃったけど、出血大サービスでお菓子もあげる!」
雰囲気が濁ってしまったのは自分のせいだと思ったのか、真理は明るい声で言った。
「今日のお菓子は水がモチーフみたいよ」
「ああ、綺麗ですね……あっ、いいんですか? お菓子までもらっちゃって。って、食べたあとに言っても仕方ないんですけど」
いいのいいの、と真理はおばちゃんのように手を振った。
彼女いわく、干菓子は安いものを使ってるから、多少消費が早くても構わないのだそうだ。
「秋になって、主菓子になるとまた違うんだけどね。奮発して高いの買うから。まあでも、あんた茶道できるんだし、たまにだったら恵んであげる。その代わりちょっと雑用やってもらうけど」
「えー、いいんですか? やったぁ、わたっ……おれ、おまんじゅうとかようかん大好きなんです! 栗ようかんの日は、絶対呼んで下さいね! 雑用でもなんでもやりますから!」
ほとんどの女の子がそうであるうように、七緒も甘いモノが大好きで、特にあんこ系の和菓子には目がないのだ。きらきら瞳を輝かせる後輩を見て、その食いつき方に少し引きつつも、真理は面白そうに笑った。
「いいよ、任せな。でも珍しい、男子って甘いモノ苦手なイメージあったんだけど」
「え、サトさんは確か甘いモノ好きでしたよね」
「サト……あ、宮崎ね。あいつが特別なんだと思ってたわ。宮崎の入部理由、お菓子食べたいから、だったし」
「さ、サトさん……」
寮の冷蔵庫に智の名前が書かれた水ようかんがよく置かれていたから、好きなのだろうなあとは思っていたが、そのために部活を決めたとは思わなかった。
帰ったらからかおうかそっとしておくか迷っていた七緒は、茶室の戸が開く音に気付かなかった。
「……っ、ゆ、」
真理の息をのむ音に顔を上げ、その視線を辿り振り返る、と。
「―――ゆーきゃん、先輩?」
見慣れた先輩の姿に、七緒は目を丸くした。
「よー、ナナ。お前こんなとこで何してんの?」
「え、先輩こそ」
戸惑う後輩に、雪弥はにやにや笑いながら言う。
「聞いて驚け、オレもここの部員だったりして」
「えーー! そうなんですか?」
似合わない、と真顔で言うと、雪弥は笑顔のままつま先で小突いてきた。だったら、智が茶道部だという話がでたときに言っておいてくれればいいのに、と思いつつ、雪弥の足を押し退けて立ち上がる。
「えと、真理先輩、それじゃあ、おれ戻りますね。もう他のひとも来るかもだし、よく考えればおつかいの途中でした」
「……ああ、そーね。じゃ」
「あ、なあ夕飯なに?」
「今日のメインは鰤の照り焼きでーす。ごちそうさまでしたぁ」
ぺこりんと頭を下げて、七緒は戸を閉めた。閉じる瞬間に見えた真理の表情を不思議に思いながら上履きを履いて廊下に出た。
「(新聞部かぁ……岬さんがいればいいなぁ)」
唯一の知り合いを思い浮かべながら、本来の目的地へと足を速めた。
「戸塚のばぁか!」
部室にもどったとたん、北原から怒鳴られて、七緒は悲鳴をあげて縮こまった。
「ひゃあん! なっ、なんですか!? なんで怒ってるんですか!?」
びくびくと先輩を上目遣いに見上げると、ぎゅうっと引き結ばれた唇が戦慄いているのが見えた。
「何してたんだよ、40分経ってるんだけど!」
「え、あの、ちょっと寄り道したのと、新聞部の部長さんがいなくって、新聞受け取るのに時間がかかって……」
「寄り道!? 寄り道とかしてたの!? もー信じらんねえコイツ!」
ぎゃんぎゃんと吠えられて、木下あたりに助けを求めようと部室を見まわしたが、北原の他には誰もおらす、七緒は困惑した。
「え、もしかして、まだ誰も……?」
「そーだよ! 幽霊部員たちは来る方が珍しいし葵さんもなんか来ねーし、よっしーはレポート終わってないとか言って来てすぐ図書室行っちまうし中村も来ねえし! オレ1人で超寂しかったんだけどおおおお」
それで怒ってたのか、と呆れながら、寄り道したのは悪かったなあと思ったので謝る。
「ごめんなさい、1人でお留守番怖かったんですね」
「背中さするのやめろ! 子供扱いすんじゃねーー!!」
「もう大丈夫ですよ、何して遊びましょうか」
「……ジェンガやりたい」
ああもうこの先輩めんどくさいけど可愛いなあ、とにやにや笑う七緒だった。
「(めんどくさいだけのゆーきゃん先輩と大違いだわ)」
障子の向こうのドアが閉まる音を確認して、真理は顔をあげた。雪弥は「よっこいしょ」とふざけながら腰をおろす。
「あんた馬鹿じゃないの? どうしてすぐにバレる嘘つくんだっつーの」
あんたを入部させた覚えはない、とキツイ口調で言われて、へらへらと雪弥は笑った。
「本当、オレにはきついなぁ、中村センパイは」
とってつけたような敬称に顔をしかめて、真理はため息をつく。
「……あの子のこと知ってんの」
「銀杏の後輩だもん」
「ああ……そういやそうか、宮崎とも知り合いだったっけ」
「オレからしたらさぁ、なんで真理サンとあいつが2人でここにいるのかが不思議なんだけど?」
あ、と思ったときにはすでに、彼の顔が目の前にあった。
がちゃ、とやかんが音をたてて倒れ、畳に湯気のでる染みが広がる。
「っ、ざけんな、掃除すんの誰だと思ってんだよっ」
口ではそういいつつも、真理は慌てて雪弥に湯がかかっていないか手を伸ばした。
―――あーあ、馬鹿なひと
その手を、とる。
「ねえ真理サン。まさかもう次の恋人見つけたわけじゃないよね? ―――オレまだ、納得してないよ」
貼りつけた笑みを消して、雪弥は彼女の唇に噛みついた。