48、献立
「どうしたの?」
茜が振り向くなりそう言ったので、七緒はハッと現実に引き戻された。
見れば、栄人も訝しげにこちらを見ている。
「授業終わったよ」
慌てて辺りを見渡すと、確かにクラスメイトたちは立ち歩いたり、教室移動の準備を始めていた。
「あ、ああ……」
「ボーっとしてたな」
ちょっと考え事、と答えて、カバンに筆箱と教科書を突っ込む。栄人と茜はすでに準備済みで、動こうとしない七緒を不思議に思っていたようだ。
「なんか朝からずーっとそんな感じじゃないか?」
「うーん、そうかも……」
「何々、どしたの」
ひょこりと会話に入ってきたのは、秋穂だった。
「移動しないと遅れるよ」
なかなか席から離れない、茜を急かしにきたらしい。
「なんかねぇ、ナナくんが悩んでるんだって」
「え、恋わずらい?」
「残念だけど色っぽい話じゃないよ。夕飯の献立だよ」
3人が3人とも、「はぁ?」という顔をした。
自分が作れそうな料理、と考えて、最初に浮かんだのはカレーだった。それをメインに献立を考えていたのだが、添えるのはサラダしか思いつかない。
「(ハヤシ作ったときは、それでキノコ先輩から文句言われたからなぁ…他にも何か付けたいんだよね)」
心配されても困るので、素直に聞いてみる。
「カレーがメインの夕飯ってさ、サラダの他に何出したらいい?」
「何、夕飯作るの? お前寮だろ?」
「えっ、ナナくん寮生なんだ。かっくいー」
秋穂が身を乗り出す。自分が寮生だというと、大体みんなこんな反応だ。
「そだよー。今日はね、管理人さんが用事あるから、夕飯頼まれたの」
そんなことがあるんだぁ、と感心する3人に、何が良いかな、ともう一度聞いてみる。
「あー、料理系はねぇ、うちらじゃ答えらんないよね」
秋穂が苦笑して、茜も頷く。栄人も肩をすくめた。
成り行きで4人で視聴覚室に向かいながら、わいわいと言い合う。
「サラダだけで充分じゃないの?」
「食べ盛りの男子たちには物足りないんだって。ね、ハチなら何が食べたい?」
「やあ、俺あんまり食う方じゃないし……」
人選を間違えたな、と栄人に言われ、確かに、と頷いた。圭介ならまた違ったかしらとも一瞬思ったが、彼が「肉食いたい!」と言うのがあっさり想像出来てしまって、それはそれで人選ミスか、と自己完結する。
「圭介なら「とにかく肉」とか言いそうだよなぁ」
栄人が、ふと思い立ったようにそんなことを言ったので、思わず噴き出した。
ヒントでも探しているのか七緒はきょろきょろと辺りを見回した。その視線がついに背後に回ったとき、彼は手を軽く挙げて、言った。
「優子ちゃん、おはよー」
栄人たちが振り向けば、自分たちより十何歩か遅れて歩く、優子の姿があった。
後ろ歩きで歩調を緩めて、彼女が追い付いてくるのを待つ七緒。優子は、はっとしたように顔をあげて、七緒だと確認すると、小さく返事をした。
「おはよう」
「いやいや優子ちゃん、突っ込んでいいんだよ。だってもう6限だもの」
秋穂がからりと笑いかけると、優子は安心したように4人と並ぶ。
「ね、カレーとサラダの他に何が食べたいと思う?」
「馬鹿、唐突すぎるだろ」
「あのね、夕飯の献立の話なのよ」
唐突に、けれど真剣に自分たちにした問いと同じものを優子にする七緒を小突く。隣にいた茜が苦笑しながらも補足する。
その間ずっと、優子は困ったような顔で黙っていた。
「(武本、こういうの苦手そうだもんな)」
どうしたらいいのかな、という表情で、でもあからさまにそれは出せずに、苦笑に近い顔になっている。
七緒だって、彼女のこういう性格は多少なりとこわかっているはずだ。なのにどうして、自分たちが要る前で話しかけたのだろう。
七緒も栄人自身も、どちらかというと控えめで、仲の良い相手にははじけることができるけれど、他はちょっと……というタイプだ。優子のその傾向は2人よりももっと強い。多分。
責める気持ちではなくて、ただ単に、いつも気遣い屋の七緒にしては無神経だな、と不思議に思った。
考え込んでいるうちにも会話は進んでいたようで、少しの沈黙の後、優子は遠慮勝ちに言った。
「カレー、サラダ……ときたら、あとはスープくらいしか……」
思いつかないけどなあ、ともごもごいう彼女を、4人は見つめる。七緒が嬉しそうに声をあげた。
「スープかぁ! 全っ然思いつかなかった。でもおれ、あんまし難しいの作れないんだけど」
「コンソメスープとかでいいんじゃない……? あれなら具とかそんなに考えなくても」
「でもそれじゃあっさりしすぎかな?」
「え……何人くらいいるの」
「28人くらい」
「それなら玉ねぎとベーコンいれるくらいしか出来ないよ。……それ以上って大変じゃない?」
「……大変だ。そっか、作業時間考えてなかった」
大変なのは嫌だなぁ、嫌になると料理嫌いになってしまうよ、なんて、2人が割と盛り上がるものだから、栄人は少し疎外感を感じた。
茜と秋穂は顔を見合わせて「コンソメスープってアレよね? おこげで美味しい的な」「いやそこまでのインスタントじゃないでしょ、なんか……コンソメ入れるんじゃない?」とあやふやな知識を披露しあってる。
そうこうしてるうちに、すでに騒がしい視聴覚室に着き、空いている席を探す。
真ん中の方の席が空いていたので、座って―――気がついた。
七緒をまだ話が続いているらしい優子は、無意識に七緒に促された席に着いていた。栄人、七緒、優子の並びだ。
―――ああ、そっか
花の香りが香るように、うっすら、唐突に思いだした。
今まで、視聴覚室を使うときは、4席でひとつの机なのを気にしてか、彼女はぽつんと後ろの方で座っていた。他にも、ひとつの机を広々と使う奴はいたので、あまり目立たなかったけれど。
じいっと、隣の友人を見つめる。
計算か、天然かは知らない。しかし、真正面から一緒に座ろうと言えば、彼女が躊躇うことは分かり切っていた。だから、いかにも成り行きで、という形で、同じ机に座ったのだろう。
たとえ、ビデオが流され始めて、お喋りなんてしなくても、隣に誰もいないのは、寂しい。
「ハチ」
七緒の声に顔をあげると、いつのまにか回ってきていたらしいプリントを差し出された。
慌てて受け取り、隣の机に回す栄人を見て、七緒はくすくす笑う。ちょうどその時明かりが落とされて、大半の生徒が前を向くか、ガッツリ眠る体勢に入るかしたので、彼は小声で囁いた。
「いつもと逆だねぇ」
教室では栄人から七緒へプリントを回すので、そのことだろう。頷いたが、なんだか違和感が残った。
「(……あ、今、気遣われた?)」
自分が優子とばかり話している間、ヒマにさせてしまったと思ってるのだ。
この瞬間、なんとなく、七緒の行動は、相手を気遣うことが基盤になってしまってるんだなぁ、と思った。
優子と栄人では、栄人の方が身内だから気を使わずにいるが、そのフォローも忘れない。小さな声で囁いて笑ってみせるだけのそれは、けれど確かに栄人の微妙にくすぶるような気持ちを和らげた。
「……ナナもよく、手紙回すとボケっとしてるよな」
栄人は、同じくらいの声で返すと、一度だけぐりんと友人の頭を撫で、だらしなく机にもたれかかった。
「というわけで、カレーとサラダとコンソメスープを作ろうと思います」
「……はあ」
ラファエルは手を洗いながら、ため息か返事か微妙な声をだした。
「おれね、4組迎えに行こうかなって思ったんだけど、」
「ぜってーヤメロよ、そういうの」
「……って言うと思って、行かなかったの!」
唇を尖らせて、ぽいぽいと使う野菜を取り出す七緒。ごろごろ転がるジャガイモを受け止めて、ラファエルは不思議に思っていたことを口にだした。
「なんか今日、人いなくね」
部活がある日ならまだしも、テスト三日前になると、基本的に部活は休みだ。なのに、銀杏寮には、妙に人気がない。
「ああ、なんかねぇ、みんな図書室に詰めてるみたいよ」
部活動をしている者が多いせいか、普段は勉強をする暇がない。だからテスト前になると、部活単位で図書室につめかけるのだ。多く生徒が集まるので、わからないところもすぐに人に聞ける。寮でもそれはあるが、大抵それぞれの部の方で集まるらしい。
「靴があったから、キノコ先輩とテツくんはいるんじゃない?」
「……微妙……」
「聞かなかったことにします。よしっ、じゃあ野菜を切りましょう」
包丁使える? と聞くと、ラファエルは一瞬の間をおいて、頷いた。
―――今の間……不安なんだが!
「じゃあハイ、これ」
どう言うべきか迷った後、七緒は皮むき器を差し出したのだった。
「ラファエルくんは大丈夫なの、テスト勉強?」
包丁でにんじんの皮を剥きながら、今更ながら尋ねる。ラファエルも今更だと思ったのか、目を細めた。
「全然大丈夫じゃねーよ。化学と英語以外はほとんど手ぇつけてねーし」
「え、世界史とかやんなきゃやばくない」
「やばいんだよ」
「ごめんねぇ、無理に誘って」
「それこそお前、今更だろ」
昨日はあんなに強気だった癖に、とばかりに睨まれて、七緒はしょぼんと俯く。
「だってー。ラファエルくん、誘わなきゃ話してくれないから」
拗ねたように見せながらも、きちんと七緒の手が動き続いていることに気付いたのか、ラファエルは慌てて自分の作業に戻る。
自然と隣が無口になるので、七緒が1人で喋り続けた。
「3組と4組ってテスト範囲一緒だよねぇ。したらさ、明日も一緒に勉強しようよ。ていうかアオさんに数学教わりにいこ。約束したんだ、見てもらう。でも悪いかなぁ、アオさん受験生だもんね。受験かぁ、中学のとき全然勉強しなかった割に辛かったなー。なんでだろね、受験生って立場がもうしんどいよね。2年後また受験生とか信じらんない。そういや、された? 来年の選択授業の話。テスト終わったら一覧配られるらしいね。2学期にはもう決まっちゃうとかびっくりだよね。あとクラス分け? あれ、おれよくわかんないんだけどさ、1組は特進で2組は英語でしょ? 3組が文系4組が理系、で、5・6組ってなんなの? 今はあれだよね、持ち上がり組が5・6でしょ。2年になったらどうなるんだろ―――」
「なあ」
息継ぎの瞬間、ラファエルの少し高い声が、刺すようにそれを遮った。
「もういいよ、無理に喋るのやめろよ。俺に言いたいことあるんじゃないの」
ぱっと隣を見やると、彼は手が動いていないのに、頑なに下を向いたままだった。
―――あ、もしかして、わたし怖がらせた?
きちんと食事をとらないから倒れたりするのだと、勝手な行動をするなと、叱ると思われているのだ。
もちろん、そう思ってはいるけれど、思うだけだ。
「(だってわたしは、怒れる程ラファエルくんを知らない)」
知ろうとしても、彼に撥ねつけられる。このまま撥ねつけられ続けたら、折れてしまうのは自分だ。他の寮生のように、ラファエルとの距離を認めてしまうのが、嫌だった。
だから仲良くなりたいと思って一緒にいるんだけどなぁ、と思うものの、そう言ってもラファエルは信じないだろう。
「……うん、じゃあさ」
苦し紛れに、けれどそれを悟られないように。
七緒が口を開くと、ラファエルはほんのすこし身体を強張らせた。
「アドレスを……ね……」
ぼわ、と何故だか赤面してしまって、七緒は俯いた。入れ替わりに、ラファエルが顔をあげる。
「……は?」
「前に……断られたから……」
今自分は、男の子にアドレス交換してよと本気で言ってるんだな、と思うと、更に顔が熱くなった。
一回断られたのにしつこいとか思われてないかな思われてるんだろうな。
「……あああーーーっ、やめよう、今の忘れよう! ハイっさっさと野菜切ろうね!」
たたみかけるような七緒の声を聞いて―――ラファエルは、ちょっと困った顔で、けれどおかしそうに、笑った。
「いいよ、教えるよアドレスくらい」
思いがけない言葉に、七緒は一瞬、何を言われたかわからなかった。じわじわと、嬉しさが込み上げてくる。
「でも俺、あんまりメールとかしないぞ」
「おれも、あんまりメールしない方だから、大丈夫。ってゆか、基本的には直で済むよね、隣の部屋なんだし」
「じゃあなんで」
知りたがってるんだよ、と呆れ顔をされても、七緒のテンションは高いままだ。
「や、だって、1年でおれだけ知らないなんて、寂しいじゃない」
入寮日に、成り行きで新入生同士でアドレス交換が行われたらしく、七緒以外はみんなラファエルの携帯番号を知っていたのだ。それを知ったとき七緒は、かなりのショックを受けた。
「断られたし、完全嫌われてんだなって」
「別に……面倒だったからだよ。お前メールとか多そうだし」
弟からのメールではしゃいでいた姿を見てラファエルはそう思っていたのだが、七緒はきょとんとする。
「えー、そんなイメージかな? 全然少ないよ、友達にびっくりされるくらい」
もともと母さんが機械音痴なので、七緒が小さい頃から触っていたものと言えばゲームくらいだ。ケータイは中学二年の誕生日プレゼントだった。別に必要性は感じなかったが、持ったら持ったで便利だった。
「夏休みとかラファエルくん家に帰る? したら、そんときとか電話するよ」
にんじんを切り終え、ジャガイモを受け取ろうとした七緒は、ラファエルの微妙な表情に気がついた。
「おまえ、は、家に帰んないの?」
「えっ」
顔が引きつるのがわかる。
七緒としては帰りたいが、ロウから説明された記憶のなんやかやがあるので、夏はずっとここにいようと思っていたのだ。
しかし、それを口に出すことは出来ない。
「わ、かんない。ちょっとは帰るかもだけど……そんなにずっとは帰らないと思う」
「俺もだ」
短く、必要以上のことを一切乗せない声で、ラファエルは言った―――次の瞬間、
「いっ!」
かしゃん、と皮むき器を取りおとして、手を押さえる。
「え、ええっ!? 切ったの!?」
見せなさいと言うと、思いのほか素直に手が差し出された。
左手の親指の付け根に、赤い線が浮かび上がった、と思ったら、予想以上の血が流れ出した。
「ちょっ、鼻血の勢いで血ぃ出てる!」
ぎょっとしたのは本人も同じのようで、血を見た途端、顔から血の気が引いていく。
「……あ、洗えばいいの、か」
「待って、落ち着いて、大丈夫、ええと、傷の下のとこ押さえてて。今救急箱とってくるから」
いいね、と言い置くと、全速力で階段を駆け上がる。血が特別怖いというわけでもないけれど、目の前で負傷されたとなると、走っているせいではなく、心拍数が上がるのを感じる。
―――にしても、
「(ナオにしろラファエルくんにしろ)」
―――なぜ皮むき器で怪我をするかね!
夕飯作りは、思った以上に前途多難だった。