5、名前
学校が決まったことで、なんだか現実味がでてきた気がした奈々子は、気合いを入れるべく叫んだ。
「倫葉学園! よし、イメトレしとく」
「何を!?」
黒髪が鋭くツッコむ横で、金髪は微笑を浮かべ、華麗にスルーする。
つくづく、このふたりの天使はぴったりな組み合わせだな、と思った。
「(黒髪くんは熱いツッコミ担当、金髪ちゃんは冷静なボケって感じ)」
何もボケとツッコミに置き換えなくても、とも思ったが、お笑い好きなのでしょうがない。
金髪はパンフレットを受け取り、頷いた。
「わかりました、手配しておきます。では、私はこれで」
そう言って、窓を開け―――
「って、ちょちょちょちょちょ!! え、え、どこ行くの、金髪ちゃん!」
慌てて奈々子が引き止めると、天使は二人して「あっ」という顔をした。
「ええと、言い忘れていました。あなたの担当天使は、こっちの彼です」
金髪が黒髪を指し、黒髪も自分を指した。
奈々子は、笑顔で固まる。
孝明に対しての唐突な行動や、命令口調、そして、文具の変わりようがブワッと頭の中を駆け抜けた。
「不満そうな顔してるな?」
黒髪がひきつった笑顔を向けてきたので、反射で首を横に振る。
「ソンナコトナイヨ! 金髪ちゃんのが趣味あうのになあとか全然思ってないヨ!」
「いきなりカタコトになってるけど!? 挙動不審になってるけど!!?」
「すみません…私にも同じように担当の人間がいるのです。彼は、一応私の後輩みたいなものなので、今まで付き添っていたのです」
天使にも先輩後輩はあるのだ…と、軽いカルチャーショックを受けている奈々子の横で、黒髪は「オレは頼んでねえだろ」とぶつぶつ言っていた。
「さて、部外者もいなくなったとこで」
「部外者なんて言ったらかわいそうだよ、金髪ちゃんが」
「今それどーでもいい! とにかく、だ。オレがお前の担当だ、よろしくな」
手を差し出されて、一瞬躊躇してから、その白い手を握る。握手なんて、多分生まれて初めてした。
そういえば、と奈々子は思った。
「それで…」
「わたし、金髪ちゃんの名前も、君の名前も聞いてない」
「…オレたち下っ端に名前なんてねえよ」
「ふーん………………えっ!!?」
うっかり聞き流しそうになるくらい軽い口調だったが、奈々子は音がするほどの勢いで、黒髪を見る。
「えっ、えっ。意味分かんない。名前ないって何?」
困惑した顔でそう問われ、黒髪も困惑した。
「えっ? そのままの意味だが?」
「名前がない!? えーっ、じゃあ普段どうしてるの? 不便じゃない?」
「大天使ならともかく、普段名前を呼ばれるような生活じゃないんだ。文化の違いとでも思っておけよ」
「えーっ、えーっ。でもじゃあ、これからどうすんの? わたし、ずっと「黒髪くん」って呼ぶの? 一生?」
「だからあ!」
ばん、と机を叩く。
きゃっと奈々子が声をあげたが、黒髪は気にせず詰め寄った。
「ちょっとお前先走るなよ! あのな、今、それについて、話そうとしていたんだって!」
「はいっ」
慌てて敬礼する奈々子。黒髪は、噛みつくように言い放つ。
「オレの名前は、戸塚奈々子っ、お前に名づけて頂きます!」
「はいっ…………え?」
ああわかった、と思った。
―――黒髪くんは、圧倒的に言葉が足りない子なんだ
「…あ、間違った、お前はもう七緒か」
「…え、え、それは別にいいんだけどさ。名前つけるってどゆこと? 意味がわからん」
お互い、リズムの掴みにくい相手だなあと思いつつ、布団の上に座って、落ち着いて向き合う。
「整理しよう。まず、オレには名前がない。でも、これからお前のサポートとしてそばにいるから、名前がなくて不便なのはお前だ。だから、お前に名前をつけてもらう」
「……金髪ちゃんもそうなの?」
そう言われれば、二人は、先程も昨晩も、一度も相手を名前では呼ばなかった。
呼ばなかったのでなく、呼べなかったのだ。名前がないのだから。
「そうだ。あいつも、担当先の奴に名前をもらってる頃じゃないか」
「へえぇ……えっと、名前って、なんでもいいの? 日本名?」
頭に浮かんだのは「クロ」だったが、さすがに安直すぎて言えなかった。
黒髪は、なんでもいいよと溜息をつく。
「なんだろなー、わたしペットとか飼ったことないから、なんかに名前つけたことないんだよね」
「オレはペットと同列なのか」
「クーたん、アカメちゃん、天四朗……」
「待て待て待て待て待て待て!」
奈々子の口からでてきた名前の数々に、黒髪は身を固くした。
「クーたん!」と呼ばれて返事しなければならないのは辛い。辛すぎる。
「オレには拒否権ないって決まりだから! 出来るだけ変じゃない名前にしてくれ!」
「え、今のダメ? 天四朗って結構良いセンいってるとおもうんだけども」
「……ッ…いや、あのみっつの中では、それが一番無難か…?」
「不満そうだね」
「不満だが天使側に拒否権はない」
「はっきり言い過ぎだよ!」
奈々子は布団に突っ伏し、次の瞬間起き上がった。
「じゃあ天四朗からとって、ロウとか。ちょっと外国っぽくない?」
「……四朗よりはマシ、かなあ」
「じゃあ、それに決定!」
黒髪は、むにむにと口を動かす。
「ん?」
「…………」
赤い目が、奈々子の上辺りを泳いでいる。
「どうかした? …ロウ?」
ぴくりと天使の肩が揺れて、奈々子は、ふと気がついた。
「…え、もしかして、照れてる?」
「照れるかッ! なっ、名前っ、呼ばれたくらいでっ、照れるか!」
赤面して叫ぶ少年に―――奈々子は抱きつく。
「ぎえええっ、くっつくな!」
「可愛い可愛い死んじゃうもういっぱい呼んじゃう! ローウー! ロウちゃーん!」
「ちょっ、さ、触るな! 撫でるな! あうッ、ぐは、くっ、くすぐるなあぁっ!」
「悶える姿可愛い! ぎゅーっ!」
「お前ドSだろ! ……っ、つか、きつい! 力、強い、って!」
苦しげな悲鳴をきいて、奈々子は黒髪を離した。途端に咳き込むのをみて、おろおろする。
「えっ、ごめん。うそ、そんなに? わたし、そんな力…」
「お前、今、男だろ!」
あ、と奈々子は叫んだ。すっかり忘れていたのだ。
声もそんなに低い訳でないし、体の違いを体感するほど、まだ動いてない。
「……そ、か。そうだったね、わたし、男の子になったんだ」
「それを忘れられるお前に驚くわ…」
呆れられて、項垂れる。
―――その、残念なものをみるような目つき、やめてください
命名式をやろう、と黒髪は言った。
「オレは―――お前も、新しい名前があるってこと、自覚しなきゃなんねえ。それに、担当天使として、きちんと契りを交わさないと」
「いいけど。命名式なんて、わたし、やったことないよ?」
「オレもだよ。簡単なもんだ。お前が、オレの名を呼ぶ。オレが答える。オレが、お前の名を呼ぶ。お前が答える。それで、終わりだ」
ただそれだけか、と安心した。もっと仰々しいものを想像していたのだ。
「…契りっていうのは、アレ? 悪魔との契約的な?」
「よく天使のオレに対して悪魔の例えをするな、お前。契りっていうと、アレだな。夫婦間にあるような―――」
「え!? まさか、キスとか、そ、そういうコトしなきゃいけないの!?」
「最後まで聞け! そんなん強要するか! ―――…だから、夫婦間にあるようなものではなくて、お前の言う、何? 悪魔との契約? みたいな…主従契約的な意味合いに近いな」
ほっ とはしたものの、「主従」という言葉に顔をしかめた。
「しゅじゅう、なら、もっとわたしに優しくしてくれてもいいんじゃない?」
「近いって言っただけだろ。オレの主は生まれたときから決まってる。いいから、名を呼べ」
基本的に命令口調だよね。ぶつぶつ言う奈々子の足を蹴って、黒髪は手を差し出した。
「痛いし。…え、何、また握手?」
「触れてないとだめなんだ」
奈々子が、黒髪の手を優しく握る。そうして、彼の赤い瞳を見つめて、名を呼んだ。
「―――ロウ。 …君は、今日から、ロウだよ」
天使は、あからさまには照れなかったが、不貞腐れたような表情で答える。
「…ああ。その名をもらおう」
今度は、彼の番だった。
「―――戸塚、七緒」
―――そうだ、わたしは、
天使がうろたえたような気がして、ようやく奈々子は気がついた。
赤い瞳に映る自分は、どうやら泣いているようなのだ。
―――わたしはもう、奈々子じゃない
「……はい。おれは、七緒。よろしくね、ロウ」
天使は、泣きながら笑う少年の手を、優しく、けれど強く、握り返した。
こうして、黒髪はロウに、奈々子は七緒に。
まだ慣れないものの、それぞれ、名前、そして他の何かを、静かに受け入れる。
ようやく窓から日が差し込んできて、向かい合うふたりを照らした。
新しい日が、始まる。