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46、ハヤシは甘い



「大したことはないみたいだけど。外でロードワーク中で、銀杏のが近かったらしい。それに今日、おばあちゃん先生が出張でいないからなぁ」


淡々と説明する緒方先生。思考が追いつかない七緒は、緒方先生もおばあちゃん先生のことおばあちゃん先生って呼ぶんだ、とぼんやり考えていた。

妙な空気の中で一番に立ち直ったのは、やはり彼だった。


「行ってくれるか、ナナ」


葵の声は、いつも優しい。


「状態、メールしてよ」


いくら「大したことはない」なんて言われても心配なものは心配だ。

特に七緒は、このまま部活を続けても、ずっと上の空だろう。だったら、先輩からの頼みとして、帰ってもらった方がいい。


「え、あ、アオさんは……」

大事おおごとにすると、あいつ嫌がるよ」


確かに、と思った七緒は、カバンをひっつかんで、栄人たちを見た。


「すいません、ちょっと見てきます。ハチ、また明日ね」

「おー」

「お大事にー?」


名指しされた当人は無言で手を振り返し、友人を見送る。

理科室のドアの閉まる音がして、ようやく栄人は息をついた。


「どした」


木下に声をかけられ、なんでもないと首を横に振ってみせる。


「(ちょっと、怯んだだけなんだ)」


とても当たり前のことだった。友人に、自分の知らない世界があるということ。

例えば自分は、クラスでの七緒、お茶部での七緒は知っている。けれど、銀杏寮での彼は、しらない。

当たり前のことを唐突に思い知らされて、少し裏切られたような、寂しいような気分になった。




「―――えっ。病院!?」


カバンを落とす勢いで驚く七緒を、慌てて宥める陸上部3人。


「すまん、言い方間違えたな」

「疲労と、軽いエイヨーシッチョー? が原因らしくて」

「栄養失調くらい頭ん中で変換してくれ、ナオ。ナナ、そんな顔するなって。心配性のおっかさんが、ムリヤリ点滴打たせに行っただけだから」

「そ、なの……」


一気に脱力した七緒は、靴も脱がないまま、廊下に寝転がった。


「びっくりしたぁー、ていうか栄養失調とかふざけんな! 泣くよ!?」


顔を手で覆って、本当に泣いてしまいそうな七緒。3人は顔を見合わせた。

おっかさんの反応に、そっくりだった。


「ま、本当に今ヤバいのは―――」


声が聞こえ、振り返る。七緒も寝転がったまま、ムリヤリ首をひねった。

階段の上には、雪弥と、同じく2年生の花岡はなおか大輔だいすけだった。

彼も陸上部なので、ラファエルが運び込まれたという時、銀杏寮にいたのだろう。


「良平さんだよなぁ。部長だからって部活戻ってったけど、帰ってきたら落ち込むぜ」

「柔道部のロードワークって、アカさん発案なんだろ? そこもまたイタいわあ」


どうやら、わけがわかってないのは七緒だけらしく、直哉たちは心配そうに顔を見合わせている。


「え、あの…なんで赤城先輩が」


5人全員が、七緒を見て「あっ」という顔をした。彼が、他の1年生よりもひと月遅れて入ってきたということを、すっかり忘れていたのだ。


「あー…シュタイネル、あいつ、柔道部なんだよ。知らなかった?」


ぽかんとする七緒のカバンから、メールの着信を知らせる可愛らしい音が響いた。




カララ。玄関の引き戸の開く微かな音に、七緒は顔を上げた。


「戸野橋くん、行ってきてよ。多分ラファエルくんだよ」


隣で、ベリベリとレタスを剥いている戸野橋を見やる。が、ラファエルのルームメイトは、首を横に振った。


「いや、すぐこっち来るだろ。それに、」


ドタドタと駆ける音。


「もうナオが行ってるし」


おかえりー、という声がはっきり聞こえ、七緒と戸野橋、そして食堂で直哉を見送った岩平は苦笑した。

すぐに食堂に入ってきたのはおっかさんで、3人を見ると安心したように笑った。


「ごめんな、大丈夫だった?」


1時間前に、先に夕飯の支度をしておいて欲しい、といった内容のメールがおっかさんから来たのだ。おっかさんたちの行った病院が、予想以上に混んでいたらしい。


「もう出来ますよ。あのおれ、勝手にハヤシにしたんですけど…」


今日のメインは生姜焼きの予定だったのだが、七緒は作り方を知らなかったので、適当にハヤシライスにしたのだ。

不安そうな七緒の頭を、いいよいいよと撫でるおっかさん。


「なに、由良たちも手伝ってくれてんの」


食器を並べる岩平と、サラダを作っているらしい戸野橋を見て、珍しいなぁと感心する。

撫でられまいとおっかさんの手を避けながら、岩平は言った。


「だってナナ1人じゃ不安だろぉ」

「あ、ひどい! でも確かに1人は無理です」


むしろ、七緒が入って来るまで、ほとんど1人で家事を回していたおっかさんがすごいのだ。

観念した岩平がおっかさんに撫でられている時、直哉とラファエルが連れだって食堂に入ってきた。


「なんだ、救急車乗れば良かったのに!」

「乗らねーよ!」

「でもおっかさんのバイク乗ったんだろ。ずりぃ」

「じゃあお前乗ってみろ……」


直哉のすごいとこはこういうところだなぁと、子供たちはそれぞれに思った。

ラファエルはきっと、そのまま自分の部屋に行ってしまうだろうと思っていたのだ。ラファエル自身さえ、そのつもりでいたのに、騒がしく出迎えに出てきた直哉の勢いに、つられてしまった。

煮込んでいるハヤシの様子を見て、七緒は火を止める。ちょうど戸野橋も最後のレタスを剥き終わったようだったので、一緒に台所から食堂へ顔を突き出した。


「おかえり、ラファエルくん」

「おかーり。どうだったー」


小さい「ただいま」と返すと、ラファエルは気まずそうに俯く。


「……今日は元々、調子悪かったんだ」


歯切れの悪い口調に、けれど七緒は突っ込まず頷いた。


「そっか。そういう日はさぁ、無理して部活出ちゃダメだって。ていうか柔道部なんて初耳だよ、おれ」


怒られないことにほっとしたのか、ラファエルは緊張を解いて顔をあげる。


「だって言ってないし」

「ナナ、こいつすげーんだぜ、柔道部初のスポ推なんだって!」

「えっ、……っと、それってすごいの?」


これだから文化系は、という表情になる直哉。


「これだから文化系は!」

「言うの!?」

「うち、まだそんなに柔道部強くねーんだよ。陸部とかバスケとかテニスとか……その辺ばっかなわけ、スポーツ推薦の枠は」

「……えーと、つまり?」

「柔道部にも力入れるぞってことだろ? で、その軸にシュタイネルが選ばれたっていうわけだよ」

ようやく理解して、わーすごいんだ、とはしゃぐ七緒に、ラファエルは困った顔になる。

「そんな、大したもんじゃねーよ。単なるお試しみたいなもんだろ」


それに柔道部に推薦枠ができたのは、と口ごもる。その辺りの話は、七緒もなんとなく知っていた。


「(赤城先輩のワンマンチームだとかなんとか……あのひとが大会で良いとこまで行ったから、枠が出来たのかな?)」


とにかく、ラファエルが食堂にいるうちに夕飯にしてしまおうと、七緒は手早くサラダの盛り付けを始める。


「そういや、ナオは何も手伝ってないの?」

「ん……まあそれはいいじゃん」

「こいつ、さっき皮むきしてて指切ったから」

「……皮むき用のやつあるよ?」

「おっかさん、その皮むき用のやつでやって怪我したんだよ」

「危なっかしいからテレビ見ててって言ったの」


おっかさんもシュタイネルも、その顔やめてくんない! と騒ぐ直哉の声が聞こえてきたので、七緒はひとりでこっそり笑った。




「えー、ハヤシぃ? つか、いつも思ってたんだけどさ、ハヤシとカレーんときって、飯とルーとサラダのみじゃね?」

「漬物もありますよ」


食卓につくなり文句を垂れる藤枝に、七緒はぴしゃりと言った。


「俺、ハヤシ嫌いなんだよね。甘いから」

「ほらよ、どろソース。文句言うなよキノコ」


ナナが口尖がらしてるぞ、との葵の忠告に、大人しくソースを受け取る藤枝。


「で、シュタイネル。どうだったの」


一応メールで七緒の報告は聞いたのだが、本人から言わせたいと思って、葵は向かい側に座るラファエルを見た。

緑色の瞳を一瞬泳がせた後、素直に結果を報告する。


「疲労と軽い栄養失調、でした。点滴打ったから、もう平気です」

「明日部活は」

「ない、ですけど」

「じゃ、ちゃんと休みな。あと、今週いっぱいは部活休むこと」


葵が命令口調なのは珍しく、食卓を囲む全員の視線が集まった。怯んで反論しようとしたラファエルを制したのは、彼の隣に座っていた大輔だった。


「良平さんもそう言うよ。あのひと心配性だし」


それに、スポーツをするなら体調管理くらいきちんとしろよ。そういう彼も、陸上部のスポーツ推薦で入って来た口である。


「あと、アカさんに謝っとけよぉ」


茶化すように雪弥も言った。

ラファエルは、不本意だと描いてある顔で頷いた。

そして、先程直哉たちに怒られなかったのは、後で先輩に窘められることを予想してだったのだろうな、と気がついた。


「(縦社会、めんど……)」


久しぶりに食堂でとる夕飯だが、全く味が感じられない。

少なめに盛ってもらったはずなのに、見降ろした皿の中身は減っていなかった。胸の奥が、もやもやする。


―――あ、やばい、吐きそう


「ね。じゃあさぁラファエルくん。化学、教えてくんない?」


唐突な七緒の声に顔をあげると、右隣にいた直哉も食い気味に「オレも!」と言った。


「今週部活休むんでしょ。で、テスト前って部活休みだよね」

「3日前からどこも休みだもんな! オレ、化学全然できない。まずアレがだめ」

「アレってなんだよ」

「ナオ、こそあど言葉多過ぎ」

「あの……英語の足し算みたいなやつ」

「化学式?」

「そうそれ。まず、どの英語が何かって時点で無理」

「いやいや、それは覚えるしかねえよ」

「Oはわかる。酸素。」

「基本すぎて威張れません、そのくらい」

「おれねっ、Sわかるよ。ソルト」

「それ塩! 塩、っていうか、なんとかナトリウムはNaとかじゃね」

「え、じゃあSって何……」 


すっかり教えてもらうつもりでいる405号室の2人と、2人に突っ込む他の1年生たち。

彼らが好き勝手喋り始めると同時に、上級生たちもそれぞれ話し始めた。いつもの、賑やかな食卓だ。


「―――Sは硫黄、だろ……」



胸の奥の吐き気は、いつの間にか薄れていた。




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