45、テスト前一波乱
「おはよう。テツくん、ネクタイは?」
階段から降りてきた虎哲とちょうど目が合ったので、七緒は疑問の声をあげた。
「は?」
「いや、は? って言われても……」
感情のこもらない声で「は?」なんていわれると、やっぱり身体がすくむ。
けれど、もう違うと分かっているので、七緒は虎哲を見上げ続けた。
彼の、素っ気ない、というか多少乱暴な相槌は単なる方言だし、冷たく聞こえる声音も、寝起きで頭がはっきりしないからだ。
「ネクタイ。忘れてるよ」
ようやく、虎哲は「ああ」という顔をして、襟元に手を置いた。
「あれは好かん」
「……え、だからつけないの? 自由すぎる!」
そういえば土曜も、昨日もつけていなかったと思いだす。
ぶはっと噴き出すと、虎哲が困った顔で笑った。―――笑っ、た。
「……、なに」
黙り込む七緒を怪訝に思ったのか、虎哲はまた、難しい表情に戻る。
ああ笑ってくれた彰人先輩に対してみたくじゃないけれど笑ってくれた嬉しいなあ、と思いながらも、それを口にすれば彼が怒ることは目に見えていたので、黙ったまま首を横に振った。
「気色悪いわ、にやにやしよって」
「朝っぱらからひどい! あ、そういや彰人さんがさ、すごくそわそわしていたよ」
その名前を出すと、すでに不貞腐れ気味だった虎哲が、更にぶすっと顔をしかめた。
「いいじゃん、染め直さなくて済んだんだから」
一昨日、日曜日。
雪弥の「じゃあ、髪、染め直そうか」という一言から始まり、朝食時から「染め直せ」「染め直さん」の問答が始まった。
「人の勝手じゃろうが!」
「いいえー、それで迷惑かかっちゃったりしそうだから言ってるんですぅー」
「まあな、それ攻撃色だもんな。怒った王蟲の色だし」
「はい、光流さん黙ってー。ていうかそもそも、なんで赤なの?」
雪弥だけならまだしも、光流や智までも話に加わりだしたので、虎哲は押され気味だ。
あまりにフェアじゃないからか、葵を初めとした三年生たちは黙っているけれど、その態度からどちらに賛成なのかはすぐにわかる。
「ちょお、さーせん。ワンピース始まるんで」
「ちょっと静かにしてもらえます?」
某アニメ好きの戸野橋と七緒によって、一旦その場は収まり、虎哲は朝食をかきこむと、逃げるが勝ちとばかりに外出した。
「あーあ。逃がしちゃった」
「ゆーきゃん先輩頼れない」
「ちがくね? 今のはトノとナナのせいじゃねぇ!?」
そんなこんなで日曜日は終わったのだが、昨晩はそうはいかなかった。
「お前だって髪茶色じゃろ!」
「茶色だよ。どっかの誰かさんと違って王蟲の攻撃色じゃないし」
「ほんなら青色にせぇ! 赤が攻撃色って言うんならお前は青色にせぇー!」
青色は青色で目立つけどなぁ、と沖田を思い浮かべて、そういえばメール返信していなかった、と部屋に戻った七緒だが―――
「だいたいなんで赤なのかって話だよね」
「ていうかちょっとロン毛気味なのはなんなの? 前髪目に入んない?」
「もう戻せば? めんどくせぇよ」
「出たよ健太くんのめんどくせぇが。でもこれアレだよな、確かに長引くとめんどくさくね?」
「別に俺はいいと思うけどねぇ。周りがこんだけ言うなら変えたほうがいんじゃないかな」
未だに問答が続けられていて―――しかも2年生が増えていて―――ため息をついた。
「まだ折れてないって、すごいね。だっておれ今、ラファエルくんとこも寄って来たんだよ」
あれだけ上級生に囲まれているくせに、虎哲は迷惑そうな顔をするだけだった。どうやらずっと傍観していたらしい戸野橋の隣に、座る。
「なー。もう折れてもいいくらいなのになぁ」
「何か思い入れでもあるのかな、赤いのに」
「いやー、そんなタイプか? 執着心なさそう」
「もう今日は逃げられないもんねぇ、どうするのかな」
「完全に見物体勢だな、お前ら」
呆れたような声で岩平もやってきて、七緒の隣に座布団を敷いた。
が、その上に背後から駆けてきた直哉が滑り込む。
「あ、てめぇ」
オレがとった座布団だぞ、と―――座布団は全部で7枚で、他は上級生が使用中だ―――岩平が唇を尖らせると、直哉はからから笑って座布団を自分の下から引っ張りだした。
何がしたかったのかと眉をしかめて、そういえば彼は端っこに座るのが嫌いだっけと思い当る。戸野橋と七緒の間は、彼らがだらしなく凭れあっていたから、来たばかりの自分が座ろうとする場所を取ったのだ。
直哉は、部活中はともかく、その他では必ず誰かと一緒に居たがる。同じクラスでもある岩平は、それを誰より知っていた。
「(この寂しがりめ)」
「めんごー。な、イワはどっちが折れると思う?」
「ん? ああ、オレはねぇ、結局あのままだと思うよ」
なんで? という視線を3人から受けながら、岩平は笑った。
視界の端に、彰人が立ちあがるのが映ったのが見えたから、というのは、理由にならないようで、なってしまうのだ。
どうやらずっと様子を窺っていた3年生は、あまりに虎哲が不憫になったのか、声をあげた。
「みんなぁ、もうやめたげて! テツのこれは、これは……っ!」
彰人の言葉に、みんな目を見開く―――虎哲の制止の声が、空しく響いた。
「桜木花道に憧れて染めてるだけなんだよ……!」
「……その顔やめぇや。雪弥みたくなるぞ」
気付かないうちににやついていたのか、虎哲に睨まれる。しかし、「某マンガの主人公に憧れて髪を染めている」なんてことがわかってしまうと、いかつい赤髪も微笑ましい。
虎哲は、暴露されたことで結果的に助かったのだが、寮生全員から暖かい視線を投げかけられるようになってしまったので、彰人に対して腹をたてていた。
「彰人さん、今日すっごくソワソワしてたよ。朝練で早く出ちゃったけど……許してあげればいいのに」
彰人に悪気がなかったことは明白で、けれど虎哲は不機嫌そうに目を逸らしただけだった。
「まあ、アレはちょっと恥ずかしいか。でも彰人さんには教えてたんだね。……あ、今日朝ご飯パンだよ」
さっきから自分ばかり喋ってるな、と思いつつ、虎哲と並んで食堂に入って―――げ、と顔をひきつらせた。
トーストにジャムをべったり塗りながら振り返ったのは、雪弥だった。その顔が、いつもと同じように歪む。
「はよー。ところでテツは、リーゼントか坊主に興味はないの?」
「わーテツくんUターンしないで朝ご飯食べて! ゆーきゃん先輩も黙って食べて!」
虎哲は難しいひとである。そして雪弥は、面倒なひとだった。
そのまま登校しようとしていた虎哲を、ちょうど玄関にいたおっかさんが止めてくれたので、ありがたいことに3人で食卓を囲むことになった。
彰人のように朝練で既にいない者もいれば、ギリギリまで寝ている者もいる。そのせいで、朝食をとる時間は本当にまばらだ。
「なんでお前は喧嘩ばっか売ってくるんじゃ!」
「喧嘩売ってなんてないしー。まっさんの情報から推測しただけだしー」
「あの、おれを挟んで言い合いすんのやめてくれませんか…」
のんびり組を心待ちにしていたせいか、ちらりと廊下を見た七緒は、綺麗な緑色とかちあった。
ふい、と視線を避けられた瞬間、残り一口分を手に持ったまま、立ち上がる。
「え、なに」
雪弥と虎哲から訝しげに見つめられながらも、見えなくなった茶髪を追う。
「―――ラファエルくん! 朝ご飯!」
下駄箱前で、ようやく彼の腕を掴むと、その細さに一瞬怯んだ。ラファエルは気まずそうな、困惑したような顔で七緒を見上げる。
「いらないって」
「力出ないよ、ちょっとだけでも食べなって」
そう言いながら、左手に持ったままのトーストの存在を思い出し、ラファエルは特に甘いものが苦手というわけでもなかったなと、それを差し出す。
「じゃ、この一口だけ食べて。マーマレード大丈夫でしょ、ホラあーん」
七緒の好きな瞳が、明らかに「余計なお世話」と言っているが、気付かないフリをする。七緒が引かないのをわかってか、ラファエルはしぶしぶ口を開けた。
こうなることがわかっていたから、いつも鉢合わない時間を狙って寮を出ていたのに。
ラファエルの考えていることが手に取るようにわかって、七緒は苦笑した。
「……今日はさ、彰人さんからお願いされて、テツくんと一緒に教室行くから。だからちょっといつもより遅めなの」
「なにそれ彰人さんカホゴにも程がある」
どん引いてるラファエルに、いってらっしゃいと手を振った。
「なんであんなにご飯食べたがらないんでしょうね……」
放課後、お茶部にて。葵と2人だけのときに、七緒はため息とともに呟いた。
葵はコーヒーを受け取りながら、うーんと唸る。
「ほんと、なんでなんだろうなぁ。一応さ、何回か聞いたんだよ。でも答えてくれなかった」
「アオさんでも?」
七緒の驚いたような口調に、葵は苦笑いした。
自分が、面倒見の良い方だとは自覚している。相談を受けることは苦じゃないし、頼られることも、必要とされてる気がして嫌いではない。初等部の頃から学級委員なんかに選ばれていたし、昨年度は寮長も務めた。周りも、そんな自分を「頼りがいのあるひと」として見るようになった。最高学年になってからはなおさらだ。
―――それでもやっぱり、相性ってあるよ
相談を受ければ、自分は全力で相手に向き合うだろう。そうしてきたし、これからもそのつもりだ。
けれど、ラファエルは決して103号室を訪れない。
悩みを無理矢理聞き出すことはしたくない。というか、してはいけないと葵は線を引いている。そのため彼は、いつも受け身型なのだ。
相談にはのるよ、でもおせっかいはしない。もちろん頼られる立場として、問題が起きないか気は張っているけれど、というスタンスでいる。
「ていうか、シュタイネルも料理してみればいいんじゃないかな。そしたらありがたみがわかるだろ」
「あー、今度誘ってみようかなぁ……でもラファエルくん、あんまり夕方、銀杏にいないじゃないですか」
「あいつ一応、スポ推だからな。部活忙しいんだと思う」
えっと七緒が驚く。ラファエルがスポーツ推薦で入ってきたなんて、初耳だ。
何部か聞こうとした時、理科室のドアが開く音がして、間もなく準備室のドアも開かれた。
「ただいまーっ! 葵さん、葵さん、今ね課題提出ついでにね、職員室からチェスもらってきた! ルールわかんねぇけど」
「なんで職員室にチェスがあるんだろうとか思わないんですか、北原先輩……」
嬉しそうな北原の後ろから、栄人が顔を覗かせる。彼は日誌を届けに職員室に行っていたのだ。
「なんかすげぇ前から置いてあったらしよ。芦川がくれた」
「それ多分、邪魔になったからだよ……あの先生、お茶部を物置にしようとしてないか」
一番最後に入って来たのは木下で、後ろ手にドアを閉めると、いつもの席についた。
「うわ、よっしーいつからいたの」
「音楽室あたりから。お前が中村に「チェスのルール知ってる?」って聞いてるあたりから後ろにいた」
「声かけろよ!」
とたんに狭く騒がしくなった部室。暗黙の了解のうちに、寮の話題はこれで打ち切りだ。
チェスと言えば、と葵が声をあげる。
「落合、今日来るって。あいつなら知ってるかも、ルール」
出てきた名前に、1年生2人はきょとんと、2年生2人は「おお」と目を見開いた。
「久しぶりだ、落合さん来るの。じゃあ戸塚、戸棚の奥のクッキーだしてくれる?」
「あのひと甘党だもんなぁ、柿ピーとか出しても食わないもん。……あ、落合さんは3年の部員な」
ナナハチコンビが揃って首を傾げているのを見て、北原が嬉しそうに説明する。先輩風を吹かせられるのが新鮮らしい。
「特進クラスだからちょっと忙しくって、たまにしか来ないんだよ。テスト前なのに来るなんて超珍しいわあ」
「7時間目終わったらだけどな」
「あ、そっか。特進て大変っすね」
特進クラス特有の時間割に「うへ」と顔を歪める北原。七緒に同意を求めようと振り返って―――ぽかんと口を開けている後輩と目があった。
「……なに、どうした戸塚」
「……今、なんて?」
七緒の掠れた声に、栄人があっと声をあげた。
「ナナ、もしかして日程表見てない? 今日でテスト1週間前だよ」
担任が放任主義なので、1年3組の生徒は自らイベントの予定を確かめる癖が出来ていた。緒方はわざわざ「テスト1週間前だぞー」なんて声かけはしないと、初日にそう宣言していた。
しかし、転校してきた七緒は、それを知らない。
「ええーー!! うそでしょ、まだ全然勉強した覚え無いんだけど!」
愕然とする七緒を不思議そうに見てから、木下はそういえば、と言った。
「戸塚って、転校生なんだっけ」
「そうですよ! まだ2週間経ってませんよ! あーもう信じらんない……」
全然授業に追いついてないのに、と嘆く七緒を、教えてやるからと栄人が撫でる。上級生たちも、気の毒そうに―――若干面白そうに―――慰めた。
「ていうか、葵さんとかに寮で教えてもらえば」
栄人もいつのまにか、葵を名前で呼ぶようになっていた。
名案、とばかりに、きらきらの目を作って先輩を振り返る七緒。
「アオさーん!」
「いいけど……俺が受験生だって知ってる?」
「アオさん大好き!」
仕方ないなぁという雰囲気をだしつつも了承する葵に、助かった、と七緒は抱きついた。
そのとき、がらりと理科室の開く音がして、4人は顔を見合わせる。
「落合さんだ!」
決めつけて、準備室の入り口に向かう北原。その動きを眺めながら、葵と木下は「7時間目が終わるには早いのに」と首を傾げていた。
「おっちあっいさ―――なんだよ、おがちゃんだ」
北原の予想に反して、ドアの向こうに立っていたのは緒方先生だった。
落胆を隠そうともしない北原をやんわりと退かし、先生は七緒と葵に視線を向ける。
「シュタイネルが倒れた。寮に運ばれたよ」
葵は元寮長だし戸塚は確かあいつと仲良かったから一応、と続けられた言葉に、銀杏の2人はしばらく声が出なかった。