35、おつかいとトラブル
「にーくっ、にーくっ、ハンバーグぅ~。お肉と野菜を買いに行こー」
―――こいつは、アホだ
七緒のパーカーのポケットの中で、キーホルダーのロウは、小さくため息をついた。。
昨日のメールの件から、かなりご機嫌らしく、買い物に行くにも半分スキップで歌いながらという具合である。
―――「おいっ。無駄に揺れるんじゃねぇ!」
「あ、ごめん、ロウ。次の曲がり角、どっち?」
―――「右」
おっけぃ、と呟いた七緒は、言われた通り右折する。
寮に入るにしては家が近い、と言われている七緒だが、住んでいたのは2駅分ほど離れた住宅街だ。学校の近隣には詳しくない。
それを知っているおっかさんが、一緒に行こうかと申し出てくれたが、断った。
ひとりでおつかいくらい行けます、と、勇ましく出てきた七緒だが、厳密にはロウがいるので、ひとりではない。
「子供になってよ~ロウ~。お手て繋いでおつかいしようよ」
―――「ばか。知り合いに会うぞ」
「そんな都合良く―――」
「あれ、戸塚?」
「……会っちゃった」
声の方向を見やる、と、見知らぬ男性が、こちらにのろのろと歩いてくるところだった。
怪訝な顔の七緒を見て、彼はにやにやと笑う。
「何、きょとんとしてんだよぉ、お前」
その気だるい口調に、あっと声をあげた。
「緒方先生…!? うそぉ、白衣はどうしたんですか?」
少し猫背気味の緒方先生は、いつもの白衣でなく、ポロシャツにジーパンというラフないでたちである。
「あのねぇ、戸塚クン。学校外で白衣着てたら、単なる不審者でしょーが」
「でもでも、健康サンダルじゃないんですか?」
「…スニーカーで悪いか」
「えーっ、それじゃあ、ヒゲはどこ行ったんですか? さっきまであったじゃないですか」
「どこも行かねーわ! 剃ったんだよ、学校終わってから」
「どうせなら朝剃ればいいのに。せんせ、ヒゲないと若いー」
きゃいきゃいとまとわりついてくる七緒を、適当にいなしながら歩く。
「おつかいか?」
「お肉屋さんにちょっとー。銀杏寮にいつも届けてくれるトコらしいんですけど、おじさんが腰をやっちゃったとかで…」
「ああ、三島精肉店な。あそこのじじいも、いい加減引退すればいいのに」
詳しいんですね、と言うと、緒方先生は薄く笑った。
「俺、ここの商店街の裏に住んでるから」
「そうなんだぁ。遊びに行っていいですか?」
「やだよ。お前来たら絶対うるさそうだもん」
「ナオも一緒にとか!」
「さらにうるさいわ! ヤメテ、床が抜けるから」
ちぇ、いけずー! なんて唇を尖らせる七緒を見て、緒方先生はため息をついた。
「お前、いくつだよ……ほら、ここ。ここだよ、お肉屋サン」
立ち止った先生と、道の反対側の店を交互に見やる。確かにその看板には「三島精肉店」とかいてあった。
もしかして、というかもしかしなくても、ここまで案内してくれたのだろうか。
しかし、眠そうな緒方先生を見ると、何故だかお礼を言う気になれなかった。
「……買ってきます。先生、待っててくれますか?」
「おー待ってる待ってる。早く行って来い」
「いってきまーす」
ぽてぽてと駆けて行った七緒は、3分程すると、のろのろと戻って来た。
「3キロ近くありますよ合挽き肉が……おじさんにお饅頭もらいました」
「ガキの使いかよ。じゃあな、戸塚。お手伝い頑張れ」
手を振って歩きだした彼の腕を―――七緒は空いた右手で掴む。
「…………あと、玉ねぎも買うんです。7キロくらい」
というわけで、七緒のお使いに付き合わされた緒方先生は、しかし、特に文句を言うこともなく、玉ねぎを持ってくれた。
「八百屋もぎっくり腰か?」
「いえ、おっかさんの注文ミスです」
「あいつしばく」
約30人の男どもの夕食なので、量は半端じゃない。作るよりまえの段階も大変なのだ。
「ハンバーグはカレーに次いでの人気メニューらしいんです。月一回しか出さないらしいですけど」
「……手伝った俺は、夕食に御呼ばれだよな?」
珍しく爽やかに笑った先生に、少年ははっとなった。
―――それが目的かっ
めんどくさがりのくせに、何故文句を言わないのか、気になっていたのだ。
「そ、れは……おっかさんに聞かないとわかんないですけど…」
「いざとなったらお前の分くれ」
「いやですよ!」
「肉だけでいいから」
「メインじゃないですか!」
なんだかんだで楽しく話している2人。
七緒のポケットの中で揺れながら、彼らの声を子守唄に、ロウはうとうととしていた。
決して、でしゃばってはいけない。
それが、性転換した被害者につく、担当天使たちに課せられたルールのひとつである。担当者が上手く生活している場合は、特に手を出す理由はないのだ。
彼を起こしたのは―――小さな、小さな、声だった。
―――たすけて、たすけて
誰かが、どこか近くで、泣いている。それも、酷く。
思わず、ロウは七緒にそれを告げようと思った。
が、その一瞬前に。
「…あ? なんか…聞こえねえか」
緒方が、ふと、顔をあげた。
七緒はきょとんとしたが、すぐに彼も真剣な表情になる。
確かに、どこかで騒ぎが起きているような、ざわざわとした人々の声が聞こえた。―――喧嘩、らしい。
「―――行きましょう」
一瞬迷ってから、先生の袖を引っ張る。
七緒自身は、そういう類の騒ぎは苦手だ。けれど、緒方先生はこの辺りに住んでいるという。
「もしかしたら、知ってる人が巻き込まれてるかもしれないじゃないですか」
七緒の焦った声に、先生も多少真剣な顔で、頷いた。
「こわいわぁ」
「警察はまだなの?」
商店街の一角、おそらく小さな袋小路となっている場所に、人だかりができていた。
野次馬の外側で囁き合う中年女性に緒方が声をかける。
「おばさん、なんかあったの」
「ああ、緒方くん。今ねぇ、どうも喧嘩があったみたいなのよ」
顔見知りのようだ、緒方を見るや否や、おばちゃんは滑らかな口調で喋り出した。
「よくわからないんだけど、3対1? 4対1だったのかしら、とにかく、片方は1人みたいでね。かと思えば、どうやら仕掛けたのは1人の方みたいなのよ。やり合ってるところは見てないんだけど、多数相手に1人が善戦したらしいの。相打ちになって、どっちもそこでのびてるみたい。誰かが警察呼んだみたいだから、そろそろくるんじゃないかしら」
どうやら、事態は既に収束に向かっているらしい。
とりあえずほっとした七緒は、ポケットの中でロウがむずむずしていることに気付き、小声で問いかけた。
「…ロウ? どうしたの」
―――「……お前には…関係ないことなんだけど」
それでもいいから言って、とせっつくと、天使は居心地悪そうに呟く。
―――「俺は…天使は、ひとの心の声が聞こえる。お前とたまに成功する、以心伝心みたいのではなくて。
……助けを呼ぶ声が、救いを求める声が、聞こえるんだ」
それは、すごく一方的なものだと彼は言った。多かれ少なかれ、人間は誰しもそれを発しているのだと。
―――「精神的なものか肉体的なものかまでは判断がつかないが……ものすごい強さだった。今にも、折れてしまいそうな……それが、こっちの方向から、聞こえたんだ」
血の気が引く。拙い説明ではあったが、ロウの言葉の足りなさに慣れていて、読解力もある七緒は、彼の言わんとするところがわかってしまった。
「(もし、肉体的な助けを求めているんだったら…今の喧嘩で負傷したひとのものだったら…大変な怪我、ってこと?)」
ロウがわざわざ伝えて来るからには、よっぽどの状態なのだろう。
七緒は、先生に袋を押しつけると、人だかりに突っ込んだ。
「おい、戸塚…」
驚いている緒方に、おばちゃんは思い出したように言う。
「そういえば、どっちもまだ若かったみたい。高校生、くらいかしら」
小柄、とはいっても、男子高校生だ。四苦八苦しながら人の間を進もうとするが、彼女らも伊達にわざわざ野次馬をやっていない。全く動く気はなさそうだった。
挟まれて動けなくなっている七緒の首根っこを掴み、緒方は「すいませんねー」と横柄な態度で強引に突き進んだ。
主におばちゃんで構成されている人垣を、躊躇いなくかきわける緒方先生に、七緒が慌てて囁く。
「せ、先生、乱暴すぎませんか」
「馬鹿。商店街のババアどもはこんなんで……うわっ」
押されたおばちゃんが、「何すんのよ」とばかりに緒方に肘鉄をいれた。
ほらな、とばかりに顔をしかめる先生に、七緒は引き攣った笑顔を見せる。
「どこもおばちゃんは強いんですね…」
ようやく野次馬の壁を抜けた2人は、同時に「うっ」と声を漏らした。
死屍累々―――…とまではいかないが、5人の青年が、ぐったりと倒れ伏している。
色とりどりだ、と思った。
目に痛い服装に装飾品。そしてところどころに飛び散っている、真っ赤な血。
茶色、金色はもちろん、お前ら示し合わせたのかと言いたくなるような、赤青緑。光の三原色。
それぞれに違う髪色を持つ5人をざっと見まわして、緒方先生は目を見開いた。
「あいつ……」
知り合いですかと目線で問いかける七緒の肩を抱き、焦ったような声で囁く。
「赤髪の奴がうちの生徒だ。 ―――警察沙汰は、やばいな…」
小さく舌打ちをする。心底面倒くさそうな―――心底心配したような表情で。
「戸塚」
「はい」
緒方は、それを口にするのを迷ったようだった。
彼の躊躇いを感じ取ったのか、七緒は薄く、妖艶に微笑んで見せる。
「おれは、何をすればいいですか」
協力してほしい、と、その言葉を言わせずに。
当たり前のように指示を仰ぐ七緒に、驚いて、それから、にやりと口角を上げた。