25、教室と保健室
「茜、ナナくんのこと好みでしょう」
4時間目が始まる前、真横から聞こえた会話に、栄人は思わず声の主を見た。
少し呆れた声でそういったのは、いつも茜とつるんでいる月野 秋穂だ。
体育でペアを組む場合、どうやら女子たちは、同程度の体力、運動神経の相手と組むようにしているらしい。
運動部同士、秋穂は洸と組み、文化部同士で茜は米子と組んでいる。優子は、大体世話好きの洸がいるグループに誘われていた。
割とそれも潔いスタンスで良いなあと思っている。
「(中学んときみたいな、女子同士のドロドロ劇…このメンバーなら、見なくて済みそうだな)」
何せ、さばさばした秋穂や茜、控えめで引っ込み思案な武本、姉さんタイプの洸に、不思議ッ子な米子である。
なかなか溶け込もうとしない武本を、無理に引っ張り込むのでもなく、特に仲間外れにすることもなく、ゆったり受け止めている雰囲気も、嫌いではなかった。
大人しそうな武本でさえ、適当にみんなに合わせる形になるよりは、一人の方がマシかなぁと思っているらしい印象を受ける。
人間観察が趣味の栄人は、「このクラスの女は潔い」という結論をだしていた。
しかし、そのバランスを崩すのは、恋愛である。
色恋沙汰のせいで、クラスの雰囲気すら危うくなることを、彼は知っていた。
しかも出された名前が、親しくなり始めた友人のものだ。
「―――え、まじで?」
ぎょっとした勢いのままに、思わず口を挟んでしまった。
いきなり横から問い詰められて、茜はもちろん、秋穂も目を丸くする。しかし、2人ともすぐに笑ってみせた。
「ちがうわよ、中村。恋愛的な意味じゃないの」
「そうそう、この子、3次元に興味ないもん」
きょとんとする栄人に、茜は、少し照れたような表情で説明する。
「私、ちょっとオタクなもんで」
「ああ……それで3次元には興味がない、ね」
たった一言でなんとなく察してしまう自分が憎い。
しかし彼は、姉がオタクと言われる人種なので、ある程度慣れている。
妹も姉の影響を受けそうで、ちょっと心配な今日この頃だ。
「なんていうの、ナナくんのキャラが好きなんだよねー。リアルであんまああいう子いないじゃない」
「まあ、それは俺も思うけど」
「だって最近、茜、ナナくんたちの話ばっかりしてるもんね」
秋穂の言葉に、茜は固まり、栄人は首を傾げた。
「たち?」
「中村とか明石の話もしてるよ。よくつるんでるでしょ?」
茜があわあわと何か言いたげに動いているが、秋穂は気付いていない。
「ああ、話してる時とか、たまに横でお前笑ってるもんな」
「気付いてた!? わー、恥ずかしい! だって、男の子の会話って可愛いんだもの!」
ぎゃおーと叫んで机に突っ伏す友人を見て、秋穂はけらけらと笑った。
「……月野も、ナナみたいなトコあるよなあ」
「えー、何、どういう意味」
「そゆとこそゆとこ。秋穂も割と周りと動きがあってないっていうか、違う方向見てる感じのときあるよ?」
「うそぉ、それをいうならヨネちゃんでしょ?」
クラスきってのマイペース女子、米子の名を挙げる秋穂に、栄人と茜は同時に首を横に振ってみせる。
「ヨネちゃんのあれはね、割とけじめがついてるボケなのよ」
「そうそう、藤崎って、ぽやぽやしてる割に、しめるとこはキッチリしめてる感じ」
「で、秋穂とかナナくんの場合は…」
「なあ……」
変なぼかし方をする2人に、生温かい目線を向けられて、秋穂は「何このアウェイ感」と呟いた。
「私、天然ボケとか天然タラシとか言われたことありませんから」
「あー、もうナナはそういう認識なんだなあ。あいつ、俺とか圭介よりも、女子に対してのが楽そうなんだよな」
「心配しないで、ナナくんをとったりしないから」
栄人は「は?」と眉をひそめる。茜は「しまった」という表情で、口を押さえた。
「何、心配しないでって…」
「ごめん、超ごめん。今の忘れて! 口が滑ったあぁぁ!」
またも机に突っ伏す茜に、栄人と秋穂は顔を見合わせる。
「野村も案外不思議ちゃんだよな」
「茜の言ってること、たまにわかんない時あるよ?」
わからなくていい、綺麗なままの秋穂でいて! と叫ぶ茜。
栄人は、オタクって、こういう自己完結的なトコあるよなあとしみじみ思うのだった。
ちなみに、噂の七緒本人は、ただいま保健室にいたりする。
「大丈夫かあー?」
半笑いの、けれど心配そうな圭介に覗きこまれて、七緒は顔を背けた。
「けーすけ、はずかしいからあんまりみらいれ……」
既に血で染まったティッシュを取って、鼻の下にそっと手をやる。
「優子ちゃん、もうらいじょーぶから?」
「うん、大丈夫みたい」
「おいおいおい、なんでオレには恥ずかしいっつって顔見せないのに、武本ちゃんには見せるんだよ」
普通逆じゃね? と言う圭介に、優子も小さく頷いた。
―――いや、精神的にはまだ女なんで、男子の圭介にスプラッタな顔を見られるのはキツイんです…
そうとも言えず、曖昧に笑う七緒。
「にしても、期待を裏切らないというかなんというか」
「あんなに大量の鼻血だすひと、私、初めて見たかも…」
関心したかのような優子の口調に、七緒は彼女を恨めしげに見つめた。
「優子ちゃん、言わらいれ。恥ずかしくて死にそう…」
「ご、ごめんね…」
授業の最後にやった、ハンドボールの試合。
わらわらと人が動く方向に適当に動いていた七緒は、圭介からの突然のパスを、顔面でキャッチしてしまった。
結果、圭介に支えられ、保健委員の優子に付き添われて、鼻血を流しながら保健室までやってきたというわけだ。
皮肉なことに、授業前の栄人の筋書きが、こんなところで現実になってしまった。
「あらあらあら」と声がしたので振り向くと、開けっ放しのドアの向こうに、おばあちゃん先生が立っていた。
「どうしたの、鼻血だしちゃったの」
「こいつ超器用で、顔面でボールキャッチしたんすよ。大ウケしました」
「ウケねらったわけじゃらいんらけろ!」
マンガのように鼻血を噴く七緒に、クラスメイトたちは心配するより先に、思わず爆笑してしまったのだ。
くすくすと笑いつつも、おばあちゃん先生は七緒の顔を優しく濡れタオルで拭い、血が止まっていることを確認した。
「冷やした方がいいわねぇ。腫れちゃうかもしれないわ、ボールが当たったなら。ちょっと待って、氷あげるから」
おばあちゃん先生が冷蔵庫を開けて作業するのを眺めながら、優子は七緒に眼鏡を差し出した。
「はい、これ…ちょっとフレームが曲がってたけど」
礼を言って眼鏡をかける七緒を見て、圭介が言った。
「ナナって眼鏡とると、ちょっと雰囲気変わるよな」
「え、それは良い意味、悪い意味?」
「どっちでもなくてさ。意外につり目だったんだなって、そんだけ。ていうかさ、体育のときは眼鏡外せば? 邪魔だろ」
うーんと七緒はうなる。遠慮勝ちに、優子が自らを指した。
「私は、体育のある日だけコンタクトだけど…」
「あ、そーだよね、優子ちゃんいつも眼鏡だもんね……でもなあ、昔試したんだけど、どうもコンタクトが合わない体質なんだよね…」
まず目に入れる時点で怖いし、入れた後も異物感が気になって仕方がないという七緒。
「外したら目ぇ真っ赤でさ…一応目薬とか色々試したんだけど、弟に「そんなんなるくらいなら眼鏡でいーじゃん」って言われて、まあいいかなって」
「えっ、ナナ、弟いたの? ほんと?」
「そこ食いつく? いるよ、うそついてどうすんのよ」
えー だって、と口ごもる。
優子はなんとなく、理由がわかった。
「弟とかじゃなく、お姉さんと妹に囲まれて育った、女系家族の末っ子みたい」
思わず、といった体で呟かれた言葉に、男子2人は目を丸くした。
「そう! まさにそういう感じだよ、ナナは!
「やけに設定細かいね! しかも末っ子って…、2人兄弟の長女…じゃない、長男ですよ、おれは」
「えー。全然しっかりしてないじゃーん」
「そんなことないもんっ」
寮で家事をする七緒を知っていればまた違う結論が出るのだろうが、クラスでは今日で完全に、天然なマスコット的存在として位置づけされている。
「戸塚くんって甘いもの好きそうだね」
ぶうぶうと言い合う2人を見て、唐突に優子が言った。これもまた、言う気はなかったのにウッカリ、という感じの呟きだった。
圭介が「確かにー!」と笑う横で、七緒は目を細めた。
「好きだけど……優子ちゃん、」
「……何?」
「(名前で、ていうかナナって呼んで欲しい、けど。それは、わがままかしら。でも、戸塚くんなんて言われてもなあ…)」
―――ああ、考えてることが手にとるようだ
優子よりも多少なり付き合いの長い圭介は、微笑ましげに彼らを眺める。
頭の中で妥協案が出たのか、七緒が口を開いた。
「あの、ね。おれ、みんなからナナって呼ばれてるんだけど…」
バレない程度に噴き出す。
だって、どうしてここにきて遠慮するのかがわからない。
「(あんだけ武本ちゃん困らせといて、今更ー! 面白いなあ、こいつ)」
暗にそう呼んで欲しいと言われていることに気がついたらしい優子は、しかし気付かないフリをした。
明後日の方向を見て、そっけなく言う。
「…へえ、そうなの」
―――ぶふーー! 武本ちゃんも、そこはもう呼んでやれよ! おっかしいわー、この2人!
早く教室に戻ってこのやり取りを栄人に教えてやりたい。きっと笑う。いや絶対笑う。
1人でにやにやする圭介は放っておいて、七緒はがっくりと肩を落とした。
「(通じてない…今はこっちからの名前呼びが限界かな…でも、戸塚くんって呼ばれるのヘン! しっくりこないわー!)」
優子は優子で、彼の思考が半分くらい読みとれてしまい、もじもじと座り直す。
「(通じてない…とか思ってるんだろなー…ごめんなさい、わかってます。でも男子をあだ名呼びしたことなんてないんで、絶対無理。ごめん許せ!)」
圭介はそれを見て一層にやにやする。
「(通じてない…と思われてるのがわかって申し訳ない気持ちもあるけど、男子をあだ名呼びなんて出来るか! とか思ってるんだろーな。ここはオレが一肌脱ぐかなー、でもこのままでも面白いなー)」
ガラガラと氷を入れながら、おばあちゃん先生は笑った。
「若い子は可愛いわねえ。はい、七緒くん。氷」
冷たい氷を鼻にあてがおうとして、眼鏡がずれた。あずかろうかという圭介の申し出を、「むーん」といううめき声で断る。
「両目0.1なのでー、眼鏡外すと授業受けられないし、色んなものに蹴躓くの」
「思った以上に悪いんだな、目。オレ、1.5だからなー、目が悪い奴の気持ちとか全くわからん」
「羨ましいよう…」
「いいね、目が良いって…」
眼鏡組から恨めしげな表情で見られ、圭介は「いいだろー!」と笑って立ち上がった。
「おばあちゃん先生、ありがとうございましたー」
「あざっしたー」
「ありがとうございました。訪問記録書いておきました」
三者三様の挨拶をして、生徒達は授業に戻っていく。
その背中を、おばあちゃん先生は、やっぱりにこにこ見つめていたのだった。