19、食べない子
「しにたい」
「何言ってるの、おんぶくらいで」
404号室の前まで来て、ようやくシュタイネルをおろした七緒は、ケロッとした顔で言った。
一方シュタイネルは、体調とは別の意味で顔色が悪い。
寮までの道のりの間、どれだけの人間に自分の屈辱的な運送シーンを見られたのかと、がっくり肩を落としていた。
「いやぁ、でも、シュタイネルくんがおんぶが良いって言ってくれて良かったよ。抱っこでここまで運ぶなんて出来ない自信がある」
「(この野郎…)」
答えのわかりきった二択で脅したくせに、と睨みつける。
「あっ、待って」
鍵を開け、部屋へ素早く滑り込むシュタイネルに、七緒は声をかけた。
「今日の夕飯、どうする?」
「は?」
「おっかさんが、今日はカレーだって言ってたの。でも、シュタイネルくんが体調悪いなら、みんなとは別に軽いもの作ろうかなって」
眉根を寄せるシュタイネルを見て、七緒は食事作りを手伝っているのだと説明した。
明らかに「物好きな」という目線をやられたが、もう一度、「どうする?」と答えを促した。
「……いい。つーか、夕飯自体要らねー」
「えっ?」
一瞬きょとんとした七緒は、心配そうにシュタイネルの緑の瞳を覗き込む。
「そんなに、体調悪いの? 大丈夫?」
「…ああ。だから、放っておいてくれ」
鼻先でドアを閉められ、七緒は二・三度まばたきをした。
「おっかさぁーん」
「どうしたの、ナナちゃん。眉間にシワ寄せて」
404号室の、というと、おっかさんは「ああ」という顔をした。
「シュタイネルだろ。会ったんだ?」
「保健室から連れて来たんですよ。ねえおっかさん、シュタイネルくんてなんかの病気?
―――この前風呂場で会って……すごく痩せてるように見えたんだけど」
3日前、風呂場で彼を見かけたとき、日本人離れした顔立ちと、彼の態度に驚いた。
―――が、彼の体の細さには、それ以上に驚かされのだ。
「(…だって、声をかけるのを一瞬躊躇っちゃったもの)」
普通言いにくいであろうことを、さらりと問いかけてきた七緒に、おっかさんは苦笑してみせる。
「病気ではない―――少なくとも、体のね」
「じゃあ…心?」
多分、とおっかさんは頷いた。
「俺も、詳しくあの子のことを知ってるわけじゃない。でも、あの子、今まで一度も、俺の出す料理を食べきったことがないんだ。いつも、半分以上残すか、今回みたく「いらない」と言うか」
「拒食症…とか?」
少年の口から出た病名に、おっかさんは驚いたように手をとめた。皮をむきかけの玉ねぎが、ころんとまな板に転がる。
「よく知ってるね、そんな病名」
「…結構、有名じゃないですか」
七緒は顔をしかめた。
奈々子だったころ。
ひとつ下の学年に、拒食症の女生徒がいたのだ。
更衣室で鉢合わせしたときにみた身体は、今でもはっきり思い出せる。
「(だから知ってただけ…)」
「…でも拒食症、とは違うかな」
おっかさんの声に、七緒は顔を上げた。
「少しなら食べるし、吐かないし。ただ、いつも「食欲がない」と言うんだよ。まだ他の寮生ともあまり喋ってないみたいだし」
心配そうに言うおっかさんを見て、七緒は胸が痛んだ。
作った料理を食べてもらえないことが悲しいと知っているだけに、妙におっかさん側に感情移入してしまう。
妙な使命感が芽生え、なにか決意したような口調で、七緒は言った。
「……とりあえずわたし、お粥作って持っていってみます」
「わたし?」
オウム返しされて、ようやく失言に気づく。
「あっ、いや、わ…渡しに行きますね! いいですかいいですよねじゃあそっちの皮むきお手伝いしますっ」
「う、うん」
危なかった、と胸を撫でおろす七緒だった。
「ただいまーっ、飯ーっ!」
陸上部員が帰ってきたのは、7時すぎだった。
なんとなく汗臭く泥臭い、陸部の5人を出迎える七緒。
「おかえりなさーい」
「ナナー、聞いてよナオがさあ」
「今日カレー? めっちゃ匂いする」
「辛口? 辛口?」
「ナナ、オレ風呂先に入ってくる」
すっかりナナ呼びが定着した七緒は、それぞれに声をかけられて照れくさそうにしていた。
その外側で、彼に声をかけられずにいる少年が一人。
「(もうすっかり、みんなとも馴染んでるし…)」
寂しいのだ、と認めるには、直哉は幼すぎた。
「ナオ、おかえり」
七緒は直哉にも同じように声をかけてきた。
昼間の微妙な雰囲気を、完全に忘れているらしい。
「(当然といえば当然か、俺がひとりで拗ねていただけだし)」
「ナオ、あのさ、お隣さんの…」
「ごめん、先に飯食わせて」
つい、と七緒の横を通り過ぎ、彼の視線を感じながら、階段をあがる。
ちょっと嫌な態度をとってしまったな、と後悔した。
直哉の様子が変だ。
カレーをよそいながら、七緒は思った。
「(ナオがよそよそしい…っていうか、今まで頼りっきりだったから…そう思うのかな)」
もうここへ来て3日だ。転校初日も問題なく終えられた。
「(……ナオにくっついてばかりじゃいけないよね)」
ナオは、弟の孝明に似ている。
どこがと問われれば困ってしまうけれど、なんとなく。
しいていえば、明るく振る舞ってくれる気遣い方が似ている。
だから、頼ってしまうし、姉のような気分にもなってしまうのだ。
「ナナちゃん、おかわりいい?」
雪弥の声に、七緒は顔をあげた。
「はい」
「何考えてたか当ててみようか。ナオのことだろ」
にやにや顔で問いかけられて、頷く。
「よくわかりましたね、そうですよ。はい、このくらいで良いですか?」
カレーライスの盛られた自分の皿を受け取り、雪弥は唇を尖らせた。
「あっさり肯定するとこが可愛くない…」
「は? なんで? だって、わた…おれ、さっきからずっとナオのこと考えてましたよ?」
「だから、それを言い当てられちゃって恥じらうとかさ…いや、いい。なんでもない」
どうして恥じらうの? と言いだしそうな後輩の表情に、雪弥は葵を振り返った。
「どうしようアオさん、ナナは意外にからかっても楽しくない」
「……黙って食えよ」
雪弥をたしなめはしたものの、なんのこっちゃ、と首を傾げる七緒を見て、葵も「確かにな」と思った。
「(ナナちゃんは正直ってか素直すぎるんだよな。例えばナオなら、からかわれれば噛みついてくるけれど)」
ごちそうさまでした、と七緒が席を立ったのを感じ、葵は顔をあげた。
「え? もう終わり?」
「はい。おれ、ちょっとシュタイネルくんとこいってきます」
シュタイネルぅ? と二人は同時に声をあげ、離れた場所に座っていた戸野橋も反応する。
「ナナ、あいつがなんかした?」
「ああそうか、戸野橋くんは同室だったっけ。今日保健室で会ってさ、食欲ないっていうから。お粥か、うどんでも持っていこうかなって」
「とことん世話焼きな、お前」
雪弥の、呆れたような感心したような言葉に顔をしかめてから、七緒は台所へ消えた。
「……食うかなあ、あいつ。いっつも「食欲ない」って言うし。部活どうしてんのかな…。俺、まだあんまし仲良くないんすよね」
戸野橋は、同室者のシュタイネルと上手くいっていないわけではなかった。
お互い、相手のプライバシーには踏み込まない。そういう意味では、この一カ月、シュタイネルとの関係は良好であった。
2人ともあまりお喋りな方ではないし、騒がしいよりは静かな方を好むので、結果、会話も少ない。
「トノは事なかれ主義だからな。ま、後で様子見てみれば」
「はーい、そーしまっす」
戸野橋は返事をすると、カレーをかきこんだ。