13、気遣いと手伝い
「ん……」
なにやら扉の閉まった音がして、七緒は目を開けた。
「今何時ぃ…」
「5時。朝の」
抱きしめていたぬいぐるみが口をきいたのに一瞬驚き、見慣れない部屋に戸惑い、ようやく、ここは銀杏寮だった、と思いだす。
「お前のルームメイトが今出て行った」
「なんでこんな時間に…トイレかなあ」
「ジャージに着替えていたから、ランニングだろ。お前を起こさないようにしてたみたいだけど」
「ふぁ…そっか。にしても、よく寝たあ。ねえロウ、寝る時はこの格好でさ、外出る時はキーホルダーに変身してよ。そしたらわたしも安心だし」
眼鏡をかけながらそう頼むと、ロウが溜息をつく。心なしか、赤いボタンで出来た瞳が吊りあがったようだ。
「…ひとつ、言わせろ。俺しかいないからって、「わたし」とかいうな。これからは男としてやっていくんだから、少しは慣れてくれ」
「えー。それくらい許してくれたっていいじゃない。わたしは、「奈々子」だった自分を忘れる気はないの。あなたといるときだけ、わたしって言わせて」
そう言うと、途端にロウが黙り込む。非は自分たちにあるのだから、これ以上は言えないのだ。
「この寮がペット可なら、猫とか犬とかになってもらったのになあ。よっこいせ」
しゃ、とカーテンを開けると、まだ外は薄暗い。窓から顔だけだすと、肌寒い風に鳥肌が立った。
「うわっ、今日は曇りだね。ひと雨くるかも」
「……七緒」
名前を呼ばれて振り返ると、ぬいぐるみから少年の姿へ戻ったロウが、七緒のベッドに座っていた。
「俺、考えたんだけど。俺もこの学校に通おうか?」
「えっ!? そんなこと出来るの? っていうかそれは年齢的に無理じゃ…」
そういうと、一見小学生な天使は、ムッとした顔でベッドからおりる。
「言ったろ、オレ、多分お前より年上だって。それに、外見なんて変えられる。この姿は、人間に警戒心を持たせないためだ」
そして次の瞬間、少年のいた場所には、青年が立っていた。やっぱり黒い長髪で、赤い瞳なのだが。
七緒より頭ひとつ半は背が高く、見上げなければならない。
「16歳バージョン。ちなみにさっきまでは10歳な。この姿で学校に通い、寮にも入る。あいつと部屋を代わることになるが、その辺はちょっと記憶操作されてもらおう。そうすれば、一日中一緒でもおかしくないし、困ったときは助けてやれるよ。
何回も言ってるけど、キーホルダーとしてだと、感覚の鋭い奴に不審がられるんだ…寮内はともかく、学校は絶対にいるもん、そういう奴。したら、困るのはお前だろう?」
七緒は、心底ありがたい、と思った。
自分の事情を知っているひとが、クラスにも同じ部屋にも居てくれるというのは、きっと安心出来ることだろう。
しかし、頭をよぎる、葵の声。
―――「あいつさ、一人部屋なのすっごい寂しがってて。でも一年は奇数人だったから、あいうえお順で一番後ろのナオが、一人部屋になったんだ。ルームメイトが出来るって聞いてさ、弟でも出来た気でいるんだよ」
直哉は、いい奴だ。
なにかと世話を焼いてくれるし、話も合う。
ロウの言う記憶操作をし、部屋が離れれば。
彼はまた、一人部屋なのだ。
「………ありがとう、でも大丈夫だよ、ロウ。わたし、ナオと仲良くなれて嬉しい。このままやっていきたいって、思ってる。ロウに助けてもらってばっかりじゃ悪いし」
「…そうか」
ふ、と赤目が細まり、一瞬遅れて、ロウが笑ったのだと気がつく。
「えへへ。ロウって人付き合い苦手そうだしさ。それに10歳のロウのが可愛くて好きよ」
「お前なあ……」
不服そうな顔をしつつも、天使は少年に戻った。
「ああ可愛い! ちいちゃい子ってどうしてこうも可愛いのかな」
「ひっつくな! おい、ナオが戻ってくるみたいだぞ!」
そう言い残すと、いつのまにかロウはぬいぐるみに戻り、七緒の腕にちょこんとおさまる。
「あっ、え」
驚く間もなく、ドアが開く。
「…………」
「…………」
ジャージ姿の直哉と、パジャマの七緒がみつめあう。
たっぷり五秒後、直哉が意を決したように言った。
「…、昨日も思ったんだけどさ。ぬいぐるみ好きなんだ?」
「ち、ちがっ、これはあの、ぬいぐるみって言うより抱き枕っていうか」
慌てることでもないはずだが、なんとなく焦る。
赤面する七緒に、直哉は「わかってるよ」とでも言いたげな生温かい視線を向けた。
「そっか。抱き枕か」
「信じてないでしょお、ナオぉ!」
「いやいや、抱き枕だよね、うん。わかってるぜ」
「ナオの意地悪!」
「いただきまーす」
「召し上がれ」
おっかさんがにっこりと笑う。七緒は、少しだけそれに見とれた。
ほっかむりをとると、おっかさんはそれはそれは綺麗な黒髪なのだ。奈々子だった頃に、こんな髪質に憧れていた。
「(ていうか、今もだよ。おっかさん、伸ばしても似合うんだろうな…男の人のくせに)」
七緒が手を合わせている間に、直哉は既に納豆をかき混ぜ始めていた。
「ねえ、おっかさん。食事ってどういう感じ? あの、時間とか…」
「ああ。何、ナオ、説明してなかったの?」
「むぃむぁんむぁままっか」
「は?」
口の中のものを飲み込むと、直哉は拗ねたように言った。
「時間がなかったんだよ、そんな。ナナ、昨日9時半に寝ちゃったんだぜ」
「そう、疲れてたんだね」
おっかさんの笑顔は、癒しだ。
味噌汁を一口すすってから、おっかさんは説明を始めた。
「今、この寮には28人の生徒がいるのね。全員が食卓に揃うことなんて滅多にないし、今の人数だと場所が足りないから、揃ったとしても交代になっちゃうんだけど。
で、まあ運動部が多いし、どの部も朝練は大体時間決まってるから、それに間に合うようには作ってるよ。5時半くらいから、登校ぎりぎりの7時45分くらいまでが朝食。
夕食は大体7時半くらいかな。休日は6時くらいには始めちゃってるよ」
甘い卵焼きを咀嚼しながら、七緒は一生懸命頷いた。
学校が始まれば、陸上部の直哉とは生活リズムが変わってくる。頼ってばかりもいられないのだ。
「朝、校内の売店とかで買って食べたい人、夜に外食する人は、その予定が決まった時点で、台所のホワイトボードに書く。
最悪、俺の携帯にメールでもいいけど、早めに連絡くれるにこしたことはないからね。
ちなみに土曜日も半ドンだから、昼に俺の手料理が食べたい奴はホワイトボードに名前書いておく」
ここまではいい? と確認されて、七緒は頷いた。
運動部に入るつもりはないし、文化部ならば慌ただしくなることもないだろう。ホワイトボードはあまり使わなさそうだ。
「日曜は夕食だけあるよ。朝昼は自分でって感じ。俺がいるときだったら作ってあげられるけど、日曜は俺もいないこと多いから。冷蔵庫に残りものはいれとくけど。
あ、ちなみに、休日にでかけるときは、玄関の、ほら、カウンターみたくなってるとこあるでしょ。あそこの外出記録に書いておいてね。外泊届もそこにあるけど、その場合は三日前には提出してないといけないからね」
「学校がある日はいらないんですか?」
「うん、部活以外で遅くなる場合は一言言っといてくれるといいんだけど…友達といきなり遊ぶことになった、とかもあるでしょ。いちいち寮まで戻るのも面倒だろうし」
「案外厳しくないんですね」
「俺の頃はもっと厳しかったよ。ちょうど不良? が流行った時期でさあ、外泊なんて絶対許されなかった。女の子の影がちらっとでも見えるやつは呼びだされてさ…」
「へ、へえ…」
「あの頃はまだ男子校だったからなあ。そうそう、俺のいっこ上に、寮に女連れ込んだとかで問題になった奴いたよ。女の子の姿は見られてないんだけどさ、管理人が部屋チェックしたときに、女物の服があったとか使用済みのゴムが落ちてたとかで」
そこまで言ってから、おっかさんは七緒の居心地悪そうな様子に気がついた。
うつむいた顔が、あからさまに赤い。
「……あ、ごめん。ナナちゃん、こういう話ダメだったりする?」
「……いやあ、そういうことあるんだなあって」
―――なんていうか、おっかさんみたいなさわやか系イケメンも…こういう話普通にしちゃうんだなあ…。男の子って…。
全くもって「そういう」話に免疫のない七緒は、もごもごと言った。
若干、というかかなり引き気味の彼を見て、おっかさんと直哉は顔を見合わせた。
「……って、いうか、今、おっかさんナナちゃんって言いました?」
話題を変えたのだとアリアリと分かる七緒の態度に、おっかさんは苦笑しつつも答える。
「だめかな? 葵がそう言ってたの聞いたから」
「良いですよ、別に。あ、あと、いっこ質問なんですけど」
「何?」
「わた……じゃない、おれ、食事の支度とか手伝って良いですか?」
予想外の提案だったらしく、おっかさんは、そして直哉も、目を丸くした。
「いや……それは助かるけど……いいの? ナナちゃんは」
七緒をあっさり首肯した。
家でも、食事の手伝いは割とやっていた方だった。一食分全て作るには技術不足だが、米とぎ・皿洗いなんかの雑用や、一品作るくらいなら出来るのだ。
「家でも手伝いとかしてたんで、お手伝いくらいなら出来ますよ。今のとこ部活はやらないつもりだし、やったとしても楽な文化部だもん」
「えー、でも、朝とかしんどいよ? 6時には寮出たがる子もいるから、遅くとも5時半くらいに起きることになるし」
「だってそれはほら、ナオ、5時くらいに走りに行くでしょ? その時一緒に起きちゃえばいいかなって」
あ、という顔になって、直哉は申し訳なさそうに言った。
「もしかして俺、今日お前のこと起こしちゃった? だから帰ってきたとき起きてたのな」
「おれ、割と物音とか敏感なんだよねー」
気にしないで、と笑って見せる。
おっかさんは少し考えてから、その提案を受け入れた。
「助かるよ、そんなこと言いだしたのナナちゃんが初めてだ」
「一人だったらやりたいとか思いませんよ。おっかさんがいるならお手伝いしたいってことです」
単なる「一人は嫌だけど二人ならいい」という意味で言ったのだが、おっかさんは照れたように頭をかいた。
「じゃあ、今日のお昼からやってみる? 今日ももう何人か昼飯頼んできてる子いるし」
「はいっ」
「えー、いいな、いいな。なんかずるい。けど俺料理は一切興味ねー!」
直哉はそういうと、勢いよく「ごちそうさま」と頭を下げた。
「えっ、もう食べたの」
「ゆっくりでいいよ、ナナ。今日練習ないから。終わったら何する?」
即答で「掃除の続き」と言われ、直哉はずっこけた。おっかさんはそれをみて笑う。
「ナオはねえ。とことん整理整頓が出来ない奴の典型って感じだろ」
「ほんとですよ。初めて部屋に入ったとき、思わずドア閉めちゃいましたもん」
「拒絶反応でちゃったんだ」
ははは、と笑い合う二人に、「勘弁しろよお」と直哉は情けない声を出した。