余命一年と言われたので好き放題したら、誤診でした
「余命一年です」
そう告げられた瞬間、私が最初に思ったのは、
――じゃあ、もう我慢しなくていいのでは?
だった。
「……フローラ嬢? 聞こえておりますかな?」
白髭のバーナビー先生が、心配そうに私を覗き込んだ。
眼鏡は額の上に乗っている。さっきから「眼鏡、眼鏡」と机の上を探しているけれど、言ったほうがいいだろうか。いや、今はそれどころではない。
「聞こえております。一年、ですね」
「胸の病でしてな。最初のうちは、何も症状が出んのです。出始めたら、あとは早い」
「症状、特にないんですけど」
「そういう病です」
なるほど。
そういう病なら、仕方ない。
施療院を出ると、春の空がやけに青かった。
私、フローラ・ベルグレイヴ、二十二歳。
あと一年で、死ぬらしい。
◇
ベルグレイヴ伯爵家で、私は「都合のいい娘」だった。
父は帳簿を見ると頭が痛くなる体質で、十五の頃から領地の帳簿は全部私の仕事。
妹のロザリーは「お姉様のそれ、素敵」が口癖で、私のドレスも髪飾りも、気づけば全部あの子の部屋にある。
婚約者のジェラルド様は、幼馴染のヴィヴィアン様が「寂しい」と言えば夜会の途中でも飛んでいく。残された私は、各方面に頭を下げて回る係。
文句を言ったことは、一度もない。
私が我慢すれば、丸く収まるから。
でも。
あと一年で死ぬなら、丸く収めておく理由って、なに?
その夜、私は生まれて初めて、自分のためのリストを書いた。
『死ぬまでにやりたいことリスト』
一、夜会で、言いたいことを言う
二、帳簿を投げる(比喩ではなく)
三、屋台で串焼きを食べる。立ったまま
四、髪を短く切る
五、冷たい海に入る
六、誰の後始末もしない一日を過ごす
七、一度だけ、恋をする
七番目だけ、少し迷ってから書いた。
まあ、どうせ死ぬし。
◇
一番は、三日後の王宮の夜会で叶えた。
「ジェラルド様。婚約を解消してください」
楽団の演奏が、ちょうど途切れたところだった。
広間中の視線が集まる。ジェラルド様は、ヴィヴィアン様の肩を抱いたまま固まった。
「フ、フローラ? 何を急に」
「急ではありません。三年分です。ヴィヴィアン様とどうぞお幸せに。私、時間がないので」
本当に時間がないので、それだけ言って広間を出た。
扉の脇で警備をしていた背の高い騎士と、一瞬だけ目が合った。
無表情な人だった。でも、なぜかその目が、少しだけ笑っているように見えた。
二番は、翌朝。
父の書斎に、三年分の帳簿を積み上げて――投げた。
さすがに父の頭にではない。机の上に、どさりと。
「お父様。今日からこれは、お父様のお仕事です」
「フローラ!? わ、私は数字を見ると頭が」
「存じております。頑張ってください」
妹のロザリーは、私が荷物をまとめているのを見て、目を輝かせた。
「お姉様、その首飾り、置いていくの? 私が欲しいわ」
「どうぞ。全部あげる」
「本当!?」
「ええ。責任ごと」
ロザリーの笑顔が、少しだけ固まった。
首飾りの横に、使用人たちの給金表と、ハーウッド家への詫び状の下書きを置いてきたから。
玄関を出るとき、後ろから小さな声がした。
「……お姉様。どこへ行くの」
振り向くと、ロザリーが首飾りを握りしめて立っていた。
欲しがっていたはずの首飾りなのに、ちっとも嬉しそうじゃなかった。
「遠くよ」
「私も――」
あの子は何か言いかけて、口をつぐんだ。
私は振り返らなかった。
振り返ったら、また全部引き受けてしまう気がしたから。
まあ、どうせ死ぬし。
◇
向かったのは、南の港町ルミエだった。
海があって、屋台があって、私のことを誰も知らない。理由はそれだけ。
宿屋「かもめ亭」の女将マーサさんは、私の少ない荷物を見て「家出かい」と笑った。
「余命一年なので、好き放題しに来ました」と答えたら、マーサさんは三秒黙って、それから私の皿にだけ、魚を一匹多く乗せた。
三番は、着いたその日に叶えた。
港の屋台の串焼き。焼いているのは、ピップという十歳の男の子だった。
「姉ちゃん、貴族だろ。あっちに座って食べなよ」
「いいえ。立ったまま食べるのが、リストの決まりなの」
「変なの」
熱い。しょっぱい。おいしい。
立ったまま串にかぶりつく私の隣で、誰かが同じ屋台に並んだ。
「焼き林檎を、蜂蜜多めで」
低い声。見上げるほど背の高い、騎士団の制服。
無表情な横顔には、見覚えがあった。
「……あ」
「……あ」
王宮の扉の脇にいた、あの騎士だった。
◇
カイル・ヴェインと名乗ったその人は、王都の騎士団の副団長で、海賊対策のためにこの港へ派遣されてきたのだという。
「あの夜会の人だな」
「お恥ずかしいところを」
「いや」
カイル様は、蜂蜜でべたべたの焼き林檎を、真顔で食べながら言った。
「あんなふうに言えたらいいと、思って見ていた」
意外な言葉だった。
この人にも、言えないことがあるのだろうか。
風が吹いて、私の手からリストの紙が飛んだ。
拾ってくれたカイル様は、上から順に目を通して、五番目で眉を寄せた。
「冷たい海に入る」
「はい」
「この時期の海は、一人で入ると危ない」
「でも、時間がないので」
私は、余命のことを話した。
さらりと話したつもりだったのに、カイル様はしばらく黙って、それから紙を私に返した。
「付き合う」
「……はい?」
「俺は先日、健康だと言われた。時間なら余ってる。君の残りに付き合うくらいは」
――それが、私の残りの一年の、本当の始まりだった。
◇
四番は、港の床屋で叶えた。
腰まであった髪を、肩の上でばっさり切った。
鏡の中の私は、知らない人みたいに軽そうな顔をしていた。
店を出て、長い髪を結んでいた紺のリボンをほどいた。
もう、結ぶ髪がない。
海風に指を開くと、リボンはひらりと舞い上がって、桟橋のほうへ飛んでいった。
行方は見なかった。
店の外で待っていたカイル様は、私を見て、三秒固まった。
「……変ですか」
「いや」
カイル様は目を逸らして、耳の先を赤くした。
「似合う」
その晩、マーサさんに「顔が赤いよ」と言われた。
夕日のせいだと答えた。
五番は、初夏の朝。
冷たい海に膝まで入った私の隣で、カイル様は制服のまま腰まで浸かって、黙って沖を見張っていた。
「カイル様まで入らなくても」
「溺れたら困る」
「どうせ死ぬのに?」
「それでもだ」
足の感覚がなくなるほど冷たかった。
なのに、心臓だけがうるさいくらいに動いていて、私は思わず笑った。
「冷たくて、生きてる感じがします」
「……そうか」
浜へ上がったとき、カイル様が一瞬だけ、胸に手を当てた。
冷えたのだろうか。
声をかける前に、彼は何でもない顔に戻って、濡れた上着を絞り、乾いた外套を私の肩にかけた。
◇
夏の盛りに、元侍女のジューンから手紙が届いた。
『旦那様は帳簿の前で三日寝込まれました。
それから、ロザリー様が毎晩遅くまで書斎で帳簿を開いておられます。
わからない、わからないと泣きながら、「お姉様はどうやってたの」と私に聞くのです』
手紙を持つ手が、少しだけ震えた。
書き方を教える手紙なら、三枚で足りる。
でも私は、ペンを取らなかった。
リストの六番目。
誰の後始末もしない一日。
それを叶える前に来た、一番難しい試験だった。
◇
六番は、夏の終わりの、よく晴れた日に叶えた。
私たちは港の桟橋の端に並んで座って、朝から本当に何もしなかった。
帳簿もない。詫び状もない。誰かの機嫌を取る必要もない。
ただ、海の色が少しずつ変わっていくのを見ていた。
「カイル様は、退屈じゃないですか」
「退屈という感覚が、久しぶりだ」
カイル様は、ずっと誰かの後ろを守ってきた人だった。
騎士団でも、家でも。自分のことは、いつも最後。
「カイル様には、やりたいことはないんですか」
「ある」
「リストにしないんですか」
「やりたいことは、いつかやる」
いつか。
そう言える人が、少しだけ、うらやましかった。
「たとえば?」
しつこく聞くと、カイル様は珍しく、少し考えてから答えた。
「子どもの頃、父に連れられて、この港に来たことがある。春だった。あの灯台に灯りがともるのを、見せてやると言われた」
「見たんですか」
「見る前に、父が呼び戻された。それきりだ」
カイル様は、港の端の白い灯台を見ていた。
「だから、いつか見る」
ピップが通りかかって、「まだいる」と言った。
昼過ぎにもう一度通りかかって、「まだいる」と言った。
私はいつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
目を覚ますと、空は夕焼けで、私の頭はカイル様の肩に乗っていた。
慌てて飛び起きると、カイル様は少し顔をしかめて、右腕をさすった。
「……もしかして、ずっと」
「動いたら、起こすと思った」
「しびれてますよね!?」
「君の六番目を、邪魔したくなかった」
真顔でそう言われて、私は何も言い返せなかった。
カイル様は、そのあとまた少しだけ胸を押さえた。
聞くと、「古傷だ」と言った。
帰り際、屋台を片付けていたピップが、私たちを見て言い捨てた。
「姉ちゃんたち、もう結婚すれば?」
カイル様は咳き込んで、私は海に飛び込みたくなった。
◇
秋の夕暮れ、私たちは港の端にある灯台の下にいた。
白くて古い灯台は、ずっと灯りが消えたままだ。
「春にしか灯らないんだ」とカイル様が言った。「春漁の始まりを知らせる灯りだから。年に一度、ひと月だけ」
「じゃあ、私は見られないかもしれませんね」
言ってから、しまったと思った。
カイル様が、こちらを向いた。
宣告から、半年がたっていた。
残りは、半年。
そのとき、ふいに気づいてしまった。
リストの七番目。
一度だけ、恋をする。
――もう、叶っている。
でも、言えない。
残り半年の私が「好きです」と言ったら、この人は、半年後に私を見送る役になる。
それは、この人に悲しみを押しつけることだ。
都合のいい娘はやめたけれど、この人を都合よく使うのは、もっと嫌だった。
「フローラ」
カイル様が、初めて私を名前で呼んだ。
「……なんでもない」
結局、二人とも何も言わなかった。
灯りのない灯台の上を、海鳥が一羽、渡っていった。
◇
王都の施療院から手紙が届いたのは、その三日後だった。
『至急、お越しください』
呼び出された診察室で、バーナビー先生は額の上の眼鏡を探していた。
隣で、若い見習い医師のセオさんが、真っ青な顔で頭を下げた。
「申し訳ありません。フローラ様の診断は、誤診でした」
「……はい?」
「あの日、同じ時刻に診察を受けた方がもう一人いらっしゃいました。先生が眼鏡を見失っておられて……お二人の診断書を、入れ違えて封をしてしまったんです」
額の上の眼鏡が、きらりと光った。
「フローラ様は、健康です」
私は、ゆっくりと瞬きをした。
健康。
死なない。
来年も、再来年も、生きている。
「…………全部燃やした後なんですけど?」
婚約は解消した。王宮の夜会のど真ん中で。
帳簿は投げた。父の机に。
妹には、首飾りと責任をまとめて押しつけた。
髪は肩の上。
社交界では今ごろ、「ベルグレイヴの姉は気が触れた」で話がまとまっているに違いない。
頭を抱えかけて――手が止まった。
本当に、後悔している?
夜会で言いたいことを言った夜、生まれて初めてぐっすり眠れた。
立ったまま食べた串焼きは、今まで食べた何よりおいしかった。
冷たい海は、生きている感じがした。
誰の後始末もしない一日は、誰かの肩の上で、夕焼けまで眠った。
死ぬと言われて。
私は、初めて生きたのだ。
「……燃やしてよかった」
小さく呟いた私を、セオさんが不思議そうに見た。
◇
それから私は、聞くべきことを聞いた。
「入れ違えた、もう一人の方は」
セオさんの顔が、こわばった。
「……守秘義務がありまして」
「その方は今、自分が健康だと思っているんですよね」
セオさんは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「その方は、本当は」
「余命、一年です」
セオさんは、診断書の控えを握りしめていた。
その端に見えた名前に、私の心臓が、止まりかけた。
――騎士団副団長、カイル・ヴェイン。
『俺は先日、健康だと言われた。時間なら余ってる』
あの人は、そう言った。
自分の残りを、私の残りのために使った。
冷たい海に腰まで浸かって。しびれた腕で、夕焼けまで動かずに。
胸を押さえる癖。古傷だ、と言った。
違う。古傷なんかじゃない。
宣告は、あの春の日。
あれから半年。
あの人の残りは、もう、半年しかない。
そして、あの人はまだ、それを知らない。
◇
私は走った。
馬車を乗り継いで、二日かけて港町へ戻った。
かもめ亭にも、桟橋にもいなかった。
ピップが黙って、港の端を指さした。
灯台の下に、カイル様はいた。
「フローラ」
私の顔を見て、カイル様は目を見開いた。
「王都に呼ばれたと聞いた。……悪い知らせか」
「いいえ。誤診でした。私、死なないそうです」
カイル様の顔が、くしゃりと崩れた。
「そうか」
そう言って、笑った。
この人が声を出して笑うのを、私は初めて見た。
「よかった。……本当に、よかった」
自分のことみたいに喜ぶその顔を見て、喉の奥が焼けるように痛んだ。
言わなければいけない。
でも、今この笑顔を壊すのは、今夜じゃなくていい。
明日、ちゃんと全部話す。セオさんも、王都の医師たちも連れて。
だから、今夜は。
私は懐から、くたびれたリストの紙を取り出した。
七つの項目が書かれた、私のリスト。
それを裏返して、ペンと一緒にカイル様に差し出した。
「今度は、私があなたのリストを手伝う番です」
「俺の?」
「やりたいことは、いつかやる。そう言いましたよね」
「ああ。急ぐことでもない」
「急いでください」
自分の声が、震えた。
「お願いです。いつか、じゃなくて。今、書いてください」
カイル様は、私の顔をじっと見た。
それから何も聞かずに、ペンを取った。
白い裏面に、角ばった字で、一行だけ。
『一、この灯台の灯りを、フローラと見る。来年の春に』
子どもの頃、見そびれた灯り。
灯台は、春にしか灯らない。
来年の春まで、あと半年。
彼の残り時間も、あと半年。
まあ、どうせ死ぬし――もう、その言葉は使えない。
私は生きる。
だからこの人の「いつか」を、必ず春まで連れていく。
リストの表の、七番目。
一度だけ、恋をする。
私はまだ、そこに線を引いていない。
一度だけじゃ、足りなくなったから。
◇
〈カイル〉
彼女が泣きそうな顔で走ってきた理由を、俺は聞かなかった。
明日話すと、顔に書いてあったから。
待つのは、得意だ。
誤診だった、と彼女は言った。
死なない、と。
それを聞いた瞬間、胸の奥でずっと固く結ばれていたものが、ようやくほどけた。
この半年、俺は毎晩、数えていたのだ。
彼女の残りの日数を。
宿舎に戻って、机の引き出しを開ける。
紺色のリボンが一本、入っている。
床屋を出た彼女が、海風に放したものだ。
桟橋の杭に引っかかっていたのを、俺が拾った。
返すつもりだった。返せないまま、半年がたった。
リストの一行目は、彼女の前で書いた。
二行目は、書かなかった。
引き出しの中の手帳を開いて、リボンを栞にした頁に、一行だけ書き足す。
『二、灯りの下で、好きだと言う』
春まで、あと半年。
急ぐことはない。
俺は、健康だと言われたのだから。
胸の奥が、また少しだけ痛んだ。
古傷だ。
きっと。
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連載版、はじめました。
カイルの残りは、あと半年。春にしか灯らない灯台の灯りを、二人は一緒に見られるのか。
第1話は短編と同じ内容で、第2話から新しいお話です。ぜひみて欲しいです
お読みいただき、ありがとうございます!
「どうせ死ぬし」で全部を手放したフローラと、「いつかやる」で自分を後回しにしてきたカイルのお話でした。
連載版、はじめました。
カイルの残りは、あと半年。春にしか灯らない灯台の灯りを、二人は一緒に見られるのか。
・灯台の下の翌朝、フローラはカイルに真実を伝えます
・今度は、カイルのリストを春までに一つずつ叶えていく番です
・燃やしてきた家族とも、もう一度向き合います
・二人で灯台の灯りを見るために、古い治療記録を追います
第1話は短編と同じ内容で、第2話から新しいお話です。
下のリンクから、続きをどうぞ。




