深淵迷宮1日目 終了
第12層への階段を一段一段降りながら、ジークは自分の現在地を正確に把握していた。
【HP:9/100】
数字にすれば、たった9ポイント。直前の11層で『処刑人』が放った最後の衝撃波、その余波を掠っただけで、ほぼ全てをえぐり取られ、激闘の最中で底をついた。残っているのは錆びた大剣、骨の兜、二体の半壊したスケルトン、そして取得したばかりの新しいスキル。それだけだ。
(回復できる場所があればいいが……何も無かった)
ジークは乾いた唇を舐め、荒い呼吸を整えようと試みた。だが、肺に流れ込む空気は澱んでおり、むしろ体力を奪っていくような錯覚すら覚える。手の甲で額に張り付いた汗を乱暴に拭い、石壁に背を預けた。
ここまで来たなら、引き返すという選択肢は存在しない。この『深淵の塔』において、一度降りた階段を上ることは、システム上許されていないのだ。
「……行くか」
自分自身に言い聞かせるように呟き、ジークは重厚な石の扉に両手をかけた。渾身の力を込めて押し開けると、そこにはこれまでの階層とは全く異なる異様な光景が広がっていた。
天井は無限の闇に吸い込まれ、光源はどこにも見当たらない。代わりに、広大な空間を照らしているのは、等間隔に配置された燭台から立ち昇る「黒い火」だった。
足元は平らな石畳ではなく、白く乾燥した無数の骨と、主を失い錆びついた甲冑の破片が幾重にも積み重なった『骨の平原』だ。
歩くたびに、乾いた骨が砕けるパキ、パキという不吉な音が響き渡る。地面からはあちこちで、まるで救いを求めるかのように枯れ木のような白い腕が突き出しており、鼻腔の奥には湿った泥と古い血が混ざり合ったような腐臭がこびりつく。
その平原の中央。
黒い火に照らされ、影のように立ち上がった男がいた。
全身を漆黒の板金鎧で包み、その腰には二振りの長刀が提げられている。
男がゆっくりと頭を上げると、跳ね上げられたバイザーの奥から、冷徹な双眸がジークを射抜いた。その瞳には、幾多の死線を潜り抜けてきた者だけが持つ、凪のような静けさが宿っている。
「……久しぶりに面白そうなのが来た」
声は低く、淡々としている。ただ目の前の「獲物」に対する純粋な鑑定のような響き。
ジークは即座に男のHPゲージを確認した。
【HP:89/130】
消耗はしているが、自分の約八倍。装備の質も格が違う。いくつもの層を、いくつもの強敵を越えてきた証だ。逃げる選択肢が一瞬頭をよぎったが、この閉鎖空間で背中を見せれば即座に狩られるだけだ。
「俺は今、HPが9しかない。正直、お前の相手ができる状態じゃないんだがな」
正直に告げた。隠す意味はない、もうバレている。
「……知っている」
男は、音もなく一歩を踏み出した。
足元の骨を砕く音すらさせない、完璧な重心移動。
「それでやれるか?」
戦いそのものを求めているような目だった。ジークの胸の奥で、「逃げろ」と告げる本能と、「やってやる」という騎士としての誇りが激しくぶつかり合う。
「……お前、名前は」
「ガロウ。見ての通り、双刀使いだ」
それだけ言うと、ガロウは迷わず踏み込んできた。
速い!
「プレイヤーが出せる速さ」の枠を余裕で踏み越えている。処刑人の斧よりもずっと速く軽い。ジークが大剣を構え直す動作が終わる前に、間合いの中に入られていた。
右の長刀が斜め上、左の長刀が腰元から、逃げ場を塞ぐように二本の刃が交差して迫る。ジークは大剣の重さを利用し、二撃をまとめて薙ぎ払おうと、渾身の力で振り抜いた。
しかし接触の直前、ガロウの左の刃が、まるで陽炎のように揺らぎ軌道を変えた。
「――っ!?」
フェイントだ。
大剣の腹を叩き、強引に軸をずらされる。体勢が崩れ、無防備になったジークの首筋へ、右の長刀が吸い込まれるように入り込んだ。
ガキン!
骨の兜が身代わりとなって砕け、破片が頬を掠める。
まともに食らえば即死だった一撃を兜が吸い取ったが、それでも衝撃波だけでジークの体は後方へと吹き飛ばされた。
【HP:3/100】
視界が急速に色を失い、赤黒い警告表示が網膜を覆う。
地面を転がりながら、ジークは必死に大剣を杖代わりにして立ち上がろうとした。反射的にスキルを発動させ、手近な骨から二体のスケルトンを呼び出す。だが、ガロウは止まらない。
振り向きざま駒のように一回転、流れるような円月斬りが、召喚されたばかりの骨たちを豆腐でも切るかのように両断する。
「スケルトン使いか。珍しいな」
ガロウはその場で再び刃を構え直し、静かにジークを見据えた。HP3。もはや、呼吸を止める程度の衝撃ですら、ジークの命を奪い去るだろう。
それでもジークは、折れかけた心を奮い立たせ、大剣を両手で握り締めた。
「……まだ、だ」
全神経を研ぎ澄ます。ガロウが最後の一歩を踏み込んだ瞬間、ジークは自身の死すら厭わない、捨て身の横薙ぎを放った。
当たればガロウのHPを大きく削れる、ジークが持つ全パラメータを乗せた渾身の一撃。だが、ガロウはわずかに上体を反らすだけでそれをかわし、返る刃の勢いそのままに、大剣の柄を鋭く蹴り上げた。
武器が手から離れ、宙を舞う。
そして――。
「見事な闘志だった」
二振りの刃が、ジークの胸元で交差する。
散った火花が星のように視界を覆い、ジークの意識は白一色の世界へと溶けていった。
【HP:0/100】
【あなたは死にました】
【1層へ戻ります。蓄積した強化から1つを引き継ぎます】
【※永続アイテムは引き継がれます:錆びた大剣(永続)、骨の兜(永続)】
◇ ◇ ◇
最初の石の小部屋に、ジークは戻っていた。
薄暗い天井、苔の匂い、燭台の明かり。手元には錆びた大剣、頭には修復された骨の兜。装備だけは変わらず残っている。
目の前に引き継ぎの選択肢が浮かんでいた。
【引き継ぐ強化を1つ選択してください】
①死体操作(初歩)
②骨の硬化
③死体操作(中級)
④召喚体強化
⑤死霊の増援
⑥死霊の絆
迷いはなかった。⑥をタップする。
【死霊の絆を引き継ぎました】
ジークは立ち上がり、大剣を肩に担いだ。HPは100に戻っている。スケルトンはいない。スキルは『死霊術の芽』と『死霊の絆』だけで召喚上限も1に戻った。また一からだ。
深呼吸して、口の端をわずかに上げる。
「次は、こうは行かないぞ……ガロウ」
そう呟いて、扉を開けた。
◇ ◇ ◇
1層は問題なかった。徘徊する三体のスケルトンを一体ずつ丁寧に引き剥がし、ロウとの修練で身に染みついた剣術で確実に仕留めていく。
最後の一体を斬り伏せると、黒い霧がじわりと浮かんだ。
【スキル『死霊術の芽』発動】
【召喚数:1/1】
立ち上がった味方スケルトンは、少しだけふらついたが、すぐに踏ん張って敵の方を向く悪くない。
【1層クリア報酬を選択してください】
①『死体操作(初歩):蘇生確率上昇、不安定状態が軽減される』
②『筋力強化(小):近接攻撃力が微上昇』
③『石の皮膚:被ダメージを一定量軽減するパッシブが付与される』
「①だな」
蘇生の安定性が上がらないと、このビルドは機能しない。前回と同じ判断をより迷わずに下せる。それだけで、死んだ意味があった。
◇ ◇ ◇
2層に入ると、動きの速いゾンビが混じり始めた。前回ここで一度死んでいる。
今回は通路の角を使った。死角に背を押しつけ、曲がり目で大剣を待ち構える。一体ずつ分断し、焦らずに進んだ。乱戦の最中、スケルトンが一体、ゾンビに組み伏せられて砕け散った。
「……来い」
ジークが呟いた直後、崩れた骨の周囲に黒い霧が漂い始めた。『死霊の絆』だ。15秒待つだけで、スケルトンは静かに立ち上がり再び並走を再開した。
(これは強いな)
消滅しても戻ってくる壁役がいる。一体いなくなるたびに焦っていた前回の自分がアホらしく感じた。
【2層クリア報酬を選択してください】
①『魂吸収(弱):敵を倒すたびに微量のHPを回復する』
②『スケルトンアーチャー召喚:蘇生時、ごく低確率で弓兵型として召喚される』
③『鋼の意志:衝撃効果への耐性が付与される』
ジークは②の文字を何度も読み返した。
(スケルトンアーチャー……弓兵型?)
これまでの召喚体は全員、近接型だった。だが、ごく稀にしか出ない弓兵型が加われば、戦い方の幅が根本から変わる。前衛のスケルトンが敵を引き付けている間に、後方からアーチャーが継続的にダメージを入れる二段構えが成立する。
「②だ」
【スキル『スケルトンアーチャー召喚』を取得しました】
◇ ◇ ◇
3層の最初の広間でゾンビを一体倒したとき、ジークは静かに息を止めた。
霧の中から現れたのは、これまでの無骨なスケルトンではなかった。肋骨は細く引き締まり、その両手には骨を削り出して成形された不気味な半弓が握られている。背負った筒には、魔力の光を帯びた骨の矢が詰まっていた。
「……来たか」
思わず声が漏れた。スケルトンアーチャーはジークをちらりと見てから、広間の奥を静かに向いた。「次の標的を指示しろ」と言っているようだった。
「あっちだ」
ジークが顎でさすと、アーチャーはゆっくりと弓を持ち上げ、通路の奥に見える影へ照準を合わせる。
【召喚数:2/1(死霊の絆による超過を確認)】
召喚上限は1のままだが、『死霊の絆』で蘇生した個体は上限にカウントされないらしい。近接のスケルトンが前に立ち、アーチャーが後ろから狙いをつけている。
「……いい感じじゃないか」
ジークは錆びた大剣を構え直した。3層はまだ始まったばかりだ。
◇ ◇ ◇
その夜、現実時間での深夜をまわった頃。
【深淵迷宮 1日目終了。現在の最高到達階層を記録しました】
【記録:到達最高階層 第11層】
【残り:4日間】
ジークはそのメッセージを見つめ、一度だけ大きく息を吐く。結局、死んで振り出しに戻った。
(他の人はどこまで行ってるのかわからないけど、11層までは行けた)
「明日は、20層まで必ず行く」
メニュー画面からログアウトを選択すると、彼の身体は光の粒子へと解け、冷たい迷宮の空気の中に消えていった。
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