第五話 鏡の王子、敗れる
「……撤退、だと?」
馬上で報を受けたユリウスは、瞬きすら忘れていた。副官の声だけが、風を切るように耳に入ってくる。周囲の兵たちは誰も声を出せず、息を潜めて彼を見ていた。
副官が、声を潜めるようにして繰り返した。
「カジート将軍、アスティア殿より。灰の異能により前衛壊滅、戦線維持不可能と判断し、全軍に退却命令を……」
ユリウスのこめかみがぴくりと動く。
「馬鹿な。アスティアも精鋭のはず。相手は、庶子の反逆者ひとりだぞ……!」
副官は言葉を失った。
無理もない。
進軍を命じたのはユリウス自身であり、彼の中には疑いなど微塵もなかった。
“王である自分が負ける”という未来など、想定していなかったのだ。
「……なぜだ……なぜだ……!」
ユリウスは唇を噛みしめた。
鞍の上で握った拳から、血が滴る。
「俺は……“選ばれた”のだ。母上がそう言った。玉座にもっともふさわしい顔、血、器を持つ者だと……その俺が……」
目の奥が、怒りに燃える。
アデル・ルシエン。
忌々しい庶子。
王の血を引くだけで、何も持たなかったはずの男。
「……いいだろう、アデル。ならば、俺はお前の存在を“国家への反逆”として記録に刻む。貴様がどれほど民を惹きつけようと、俺の“正義”をもって、すべて否定してやる」
副官が低く言った。
「……本軍はどうなさいますか。タイベア砦は陥落と見てよいかと……」
その言葉が、ユリウスの心をさらにえぐった。
「……砦は……」
ユリウスは一瞬、息を呑んだ。
だがすぐに、表情を消した。感情を押し殺し、王として振る舞う仮面をかぶる。
「……捨てろ。タイベアはくれてやれ。王都を守る。アデルの異能には対抗策を講じるまで手出し無用だ」
その声には、血のような冷たさが宿っていた。
後日、タイベア砦にて
砦の広間には、灰が舞っていた。
しかし、それは死の兆しではない。
アデル・ルシエンが自在に制御する、空気のようにそこにある存在だった。
「……タイベア砦は、王都軍の支配を退け、今より我らのものとする」
アデルが兵や民を集めた群衆を前にして布告文を読み上げる。
三十秒——民衆は誰も声を出せず、広間に張り詰めた沈黙が満ちていた。
誰もが、この“新しい王”の次の言葉を待っていた。
「この地は、自由だ。剣で支配する王も、血で差別する制度も、もはやない。獣人も人間も、名も無き者も、等しく生きられる場所だ!」
最初の拍手は、一人の老いた農夫からだった。
次いで、誰かが歓声を上げ、やがてそれは大きなうねりとなって広がっていく。
彼らはアデルの“力”を、そして“現実”を目にし、信じるようになっていた。
アデルは広間の中央に立ち、民を見渡す。
「この地は、血と灰とで染まった。だがその先に、新たな秩序が必要だ」
彼の隣に立つハーメルンが、無言で頷いた。
そしてアデルの瞳は、遠く、王都の方角を見つめていた。
「鏡の王子よ。俺を写したその鏡は、まだ砕けてはいない。だが……いずれ、お前自身の姿が、そこに映らなくなる日が来る」
それは、鏡が“本物”を映す力を失う瞬間——王が交代する時だ。




