外伝 風の向こうの王子
乾いた風が、赤銅色の大地を吹き抜けていく。
砂と市場の国〈サルム〉――海と砂漠に挟まれたこの交易都市は、あらゆる人と物が交錯する。熱気と香辛料の香りが入り混じる雑多な市場。色とりどりの布、怒鳴り声、笑い声――すべてが生きていた。
その一角。市の裏手で、ひときわ通る声が響いていた。
「そこの旦那!上等なシルクに薬草、ほら、この香辛料は寝てても売れるよ!」
砂埃の舞う通りに、陽に焼けた肌と水色の髪が目を引く少年がいた。
その少年の名はカイアス。かつては王の血を引く者――第三王子。
けれど今や、その名に王子の影を感じる者は少ない。砂まみれの衣服、商人の機転と鋭い目。
彼は「風の羽根商会」の若き主。もはや肩書きではなく、自らの足と知恵で築き上げた生き方を持つ男だった。
「カイアスさん、例の荷、そろそろ港に着くそうですよ!」
若い従業員の声に、カイアスはぱっと顔を上げた。
「よし、あとで確認に行こう。……あ、イブラヒムのとこの茶葉、もう届いてるか?」
忙しなく市場を駆け回る日々。帳簿と契約書の山。
かつての「王子」からは想像もつかないほど、彼の生は今、地に足がついていた。
だが、風が吹くとき――
その頬を撫でる一陣の風に、ふと目を細める。遠い何かを思い出すように。
――あのとき、あの場所では、俺は剣を選ばなかった。
やがて、港に不穏な知らせが届く。
嵐。
貨物を積んだ商会の船が、波に煽られ転覆しかけているという。
誰もが様子見を決め込む中、カイアスだけがすぐさま身支度を整え、走り出していた。
「おい、無茶だ! 命が――!」
「大丈夫。俺、こういうの得意なんだよ」
言い残して飛び込むその背に、誰もが息を呑んだ。
海に入ったカイアスは、もはや人ではなかった。
荒れ狂う波の中を、あたかも生まれながらの海の民のように進み、沈みかけた船へとロープを伸ばしてゆく。
その姿はまるで――海そのものと一体になったようだった。
これが、彼の異能力。
あらゆる環境に「適応」する。
海に入れば魚のように、砂漠では水なしで、寒冷地では火も要らず、言葉も数時間で習得できる。
その能力に気づいたのは、十の頃。
それまでは、何の能力も示さない「出来損ない」として、召使いまでにも見下されていた。
だがカイアスは、黙ってそれを受け入れてはいなかった。
彼の中には、抑えきれない「好奇心」があった。
世界を知りたい、見たい、話したい――そうして王宮の窓の外ばかり眺めていた。
「お前には、この宮殿が狭かろう」
ある日、グレゴリウス王がそう告げた。
王は、外の世界を知る者のもとへとカイアスを預けた。
それが、商会との出会いだった。
「君が王子様か」
たっぷりとした髭に陽焼けした肌、厚い豆だらけの手を差し出したのは、シュタイン商会の取締役・レキゼエル。
その手を握ったとき、カイアスはまだ夢を見ていた。
この世界で、自分が何かを掴めると。
だが現実は甘くない。
扱いは丁稚、仕事は雑用、失敗すれば怒鳴られる。
カイアスは内心で舌打ちを繰り返しながら、必死に食らいついた。
――でも、くたばる気なんか、これっぽっちもなかった。
彼の能力が花開いたのは、旅の途中。
言葉の通じぬ異国で、カイアスだけが現地語をすらすらと話したのだ。
「な……なんだと……お前、この国の言葉を覚えたのか!?」
レキゼエルの驚愕の顔は、今でも思い出すたび笑える。
そしてその日を境に、カイアスは“通訳係”として重宝されるようになる。
「お前はこれから通訳係だ。分かったな?」
「わかったぜ、クソ親方!」
「調子に乗るな!」
笑いながら肩を叩き合ったあの日。
あれが、彼にとっての“革命”の始まりだった。
夕暮れ。
港から戻る途中、使いの少年が新聞の切れ端を差し出した。
「旅の商人が落としていって。読めないけど……カイアスさんなら分かるかなって」
受け取った紙面には、かつての祖国の報せが記されていた。
――元王族・リヴィアを筆頭とした評議会、自治州制度を採択へ
――「血の王政」終焉から半年。新体制への道筋、ついに光射す
その言葉を目にした瞬間、胸の奥で何かが波打った。
リヴィア。
理想のために、命を賭けた少女。
レオン。
弱さを抱えながら、それでも正しさを選んだ青年。
自分には、あの二人のようにはなれなかった。
戦わず、名乗らず、王にならず、王子ですらなく。
ただ、風のように歩くことを選んだ。
けれど――
「……そうか。あの二人、やっと……」
微笑んだその横顔には、わずかな滲むものがあった。
「で、この記事は何が書いてるの?」
少年の問いに、カイアスは冗談めかして答えた。
「馬鹿が二人、夢物語を実現させちまった話だ」
その夜。
カイアスは帳簿を広げ、新たな商路の地図を描いていた。
目指すは、東の地。
評議会の手で生まれたばかりの「自治州」――まだ地図に名もない、けれど希望の種が眠る場所。
王にはならなかった。
剣を掲げることもなかった。
だが、風が運ぶものが希望ならば、それを紡ぎ、届ける役目は、確かに自分にもできる。
風のように、自由に。
だが、ただ吹き抜けるだけじゃない。
誰かの食べ物を運び、誰かの服を運ぶ。
そして誰かの生活を支え、誰かの未来を紡ぐ。
――それが、今の彼の“生き方”だった。
――声を繋ぐのは、剣ではない。
風だ。
名もなき誰かが、今日も歩き続けるために。




