第四十話 父の手記
父の手が静かに冷たくなっていくのを、リヴィアは黙って見つめていた。
やがて、彼が託した手記をそっと開く。
古びた紙の香りと、丁寧な筆跡。そこに綴られていたのは、王の言葉ではなく、一人の父親としての、切実で不器用な想いだった。
《私は、父であることを何度も間違えた。
アデルはこの手には抱けなかった。
ユリウスを抱いたとき、私は「王」であろうとしていた。
レオンを見たとき、私は「王子」としての彼にしか目を向けられなかった。
リヴィア、お前と出会った時も、女だと落胆した。
カイアスもルーファスもそうだ。王位継承権の低い彼等は、まるで道具のようにしか見ていなかった。》
《……王とは、つくづく孤独な生き物だ。
父である以前に、国の形を保つための影でいなければならなかった。
だが……私は、あまりに長く〈王〉でいすぎたのかもしれない。
気づけば、〈父〉としての時間は、ほとんど残っていなかった》
リヴィアはページをめくる指先に、ふと力を込めた。
その指先に、幼い記憶がふとよぎる。
――かつての記憶。
中庭の片隅で、リヴィアは咲きかけたバラを見つめていた。
ふと視線を感じて振り返ると、少し離れた柱の陰に、当時まだ若い父――グレゴリウスが立っていた。
「……お父様? なんでそんな遠いとこにいるの?」
リヴィアが不思議そうに問いかけると、彼は困ったように微笑んで、こう答えた。
「近づきすぎると、大切なものは見えなくなるのだ。でも離れていれば、ちゃんと全部見える」
リヴィアの目が、思わず潤んだ。
あのとき、何も分からなかったその言葉が、いま胸の奥で静かにほどけていく。
手記のつづきには、こんな一節があった。
《母が血でつなぐのなら、父は心でつながる。
だが、心は見えない。声も届かない。
それでも――私はずっと、お前たちを見ていた。
それが父であることの、私なりの誠実だった》
リヴィアは目を閉じ、胸の奥で言葉を繰り返した。
声にならないその想いが、時間を超えて、今ようやく繋がった気がした。
手記の最後の章には、決して公に語られることのない〈真実〉が記されていた。
《ルーファスの異能を借りて、私は彼に成り代わった。
理由は、王としての責任の終わりではなく、父としての責任の続きのためだ。
私はこの国に〈正しい玉座〉を残したかった。
ユリウスは真面目だが重圧に耐えきれない。
レオンは誠実だが脆く、カイアスは王座に興味がない。
そして……本当のルーファスは、まもなく命を落とす運命にあった。
そんな中で、私は思ってしまったのだ。
リヴィアなら、と。
……だが、それは王の欲だ。
私はお前を王にしたかったのではない。そうする資格もない。
ただ――お前がどんな未来を選ぶのか、それを見届けたかった。
最後にようやく、私は父になれたのかもしれない》
リヴィアは手帳を胸に抱きしめながら、そっと呟いた。
「お父様……あなたの心、ちゃんと届いてますよ……」
部屋の窓が小さく揺れ、夜風が入り込んできた。
その風の中に、かすかに父の温もりがあった気がして、リヴィアは目を伏せた。
夜明け前。
議場の塔の最上階、窓のない書庫の片隅に、リヴィアは一人座っていた。
机の上には、父が遺した手記。ろうそくの炎が揺れて、ページの文字がまるで生き物のように震えていた。
指先でその頁をなぞりながら、リヴィアはそっと目を閉じる。
「……見えない心を、信じること。それが父であることの誠実……」
父の言葉が、胸の奥で静かに響いた。
思えば、彼女はずっと答えを求めていた。
なぜ父は何も語らずに消えたのか。なぜ何も助けてくれなかったのか。
だが、今ならわかる。
“助けない”ことが、父としての選択だったのだ。
“見守る”ことが、彼にできる最も深い愛だったのだ。
リヴィアは手帳を胸に抱え、そっと額をつけた。
「私も……あなたのように、なれますか?」
返事はない。
けれど、沈黙の中で確かに感じるものがあった。
背を押すような、あたたかなもの。
それはかつて、柱の陰で彼女を見守っていた父の気配と、どこか重なっていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
涙の跡が頬に残っていたが、目はまっすぐに前を見据えていた。
「……私が、父の背中を継ぐ」
静かに言ったその声は、少女ではなく、一人の“国の担い手”としての響きを持っていた。
「私は、国の父となる。見守り、育て、信じて……
誰かに命じるのではなく、誰かにすがるのでもなく。
ただ、人々が選んだ未来を、そっと支える柱となる」
リヴィアは立ち上がった。
スカートの裾が床を擦る音が、夜の静寂に響く。
塔の階段を下りるその背中は、華奢で小柄でありながら、どこかかつての王を思わせた。
それは、威厳ではなく、誠実さの残像。
空が、淡い藍色に染まり始めていた。
夜明けが近い。
新たな時代が、もうすぐ訪れる。
そしてリヴィアはその始まりに立ち、見守る者となるだろう。
母のように包むのではなく、
父のように距離を置いて――
けれど、確かに隣にいる存在として。




