第三十九話 真実
数カ月後、国はかつてとはまるで違う姿を見せていた。
暫定評議会の運営は決して平坦ではなかった。旧王政派と旧反乱軍はしばしば対立し、市民代表は理想と現実の狭間で葛藤し続けていた。誰もが迷い、争い、疲弊していた。それでも、人々は議論をやめなかった。なぜなら、誰かの命令で動くのではなく、自分の意志で未来を選ぶという経験が、かつてないほどに胸を熱くしたからだ。
リヴィアはその中心にいた。
彼女は女王にはならなかった。剣も権威も持たず、ただ“声を集める者”として各地を渡り歩いた。亜人の集落、焼け跡の町、難民の野営地、かつてアデルが築いた拠点。どこでも彼女は耳を傾けた。涙混じりの声、怒りの叫び、夢のような理想。どれも貴重な「国の素材」だった。
そのすべてを背負って、リヴィアは評議会に提案を出した。
「中央にすべてを集める時代は終わりました。これからは、各地がそれぞれの在り方で生きていく。それを支えるのが、声と議論によって動く議会制です。――そして、その議会に繋がる“自治州”の制度を設けましょう」
国の一議員となったレオンはその案を支持した。
「それぞれの土地に、それぞれの声がある。だからこそ、“一つの王”ではなく、“いくつもの対話”で国を支えるべきだ。僕は、それを目指すよ、リヴィア」
リヴィアは少しだけ微笑んで、静かに頷いた。
やがて「自治州制度」の設計が進み、草案が民に開かれた。まだ完成とは程遠い。だが、誰もが“始まり”を肌で感じていた。
その夜、評議会が散会したあと、リヴィアは静かに一人、議場を離れた。
政の喧騒の余韻がまだ耳に残っていたが、彼女の足は躊躇なく、城の一室へと向かっていた。
重い扉の前で一呼吸おく。
そしてそのドアノブを握りしめた。
「……ルーファス。入るわよ」
そう声をかけながら扉を開けると、部屋の中は仄暗く、静かだった。
ベッドの上には小柄な少年――いや、子供に近い華奢な身体が横たわっていた。
「姉さん……」
か細い声が返る。
その顔色は紙のように白く、汗を浮かべる額が枕に沈んでいた。
リヴィアはすぐにベッド脇に膝をついた。彼の手をそっと握ると、その小さな骨の存在に、胸の奥がひどく軋んだ。
「報告があるの。評議会は、今のところ上手くいってるわ。旧王政派も市民も、少しずつ対話を始めてくれてる……。各地で自治州を設ける案も動き始めていて……」
リヴィアが語るたびに、ルーファスは微かに頷いていたが、やがてゆっくりと手を上げ、話を遮った。
「……これからの話は……リヴィアと、レオンに任せるよ」
そう言った彼の声は、どこか決意を滲ませていた。
そして次の言葉で、リヴィアの時間は止まった。
「それより、聞いてほしいことがあるんだ」
言い終えるや否や、ルーファスは激しく咳き込んだ。
リヴィアは慌てて背に手を添え、その細い肩を支えながら背中をさすった。
「無理しないで……。なんでも、聞くわ……」
そう言ったリヴィアに、彼はほんの少し微笑んで、静かに語り出した。
「……僕は、もうじき死ぬんだ」
リヴィアの手が、ぴたりと止まる。
「え……? 何を……」
その瞬間、彼の口調が変わった。
いつもの優しげな声ではない。どこか、重々しい威厳を湛えた声。
「――余は、お前たちが心配だったのだ」
目の前の“少年”の輪郭が、音もなく変わっていくような錯覚がした。
リヴィアは、心の底に張りつめていたものが崩れるのを感じながら、かすれた声で訊いた。
「……どういうこと?」
「余は……先王グレゴリウス。お前の父だ」
その言葉に、思考が追いつかなかった。
まるで大きな音が鳴ったわけでもないのに、鼓膜が麻痺したように、耳の奥がしんとする。
「リヴィア。お前には話しておかねばならぬ。
本物のルーファスは……数年前、重い病に倒れた。
そのとき、あの子は“自分の力を使ってほしい”と申し出てくれた。異能で、私と容姿を入れ替えて……王を捨て、彼として生きろと」
リヴィアは愕然とした。
思い出す――王が亡くなった日、火葬された遺体を見た人々が口を揃えて言った、「王の顔は安らかだった」と。
それが、本当はルーファスの遺体だったというのか。
父は、自分たちを、王政を、民を、遠くから“少年”として見守り続けていたというのか。
「……そんな……じゃあ、あのときからずっと……」
「ずっと、見ていた。お前が迷いに苦しんだ日々も。……そして、誇り高く歩き始めた姿も」
リヴィアの目に、涙が浮かんだ。
怒りがないわけではない。騙されていた。裏切られていた。けれどそれ以上に――ずっと、見守られていたことに胸が痛んだ。
「……アデル様も、あなたの子だったの?」
父は微かに瞳を閉じ、遠い記憶をたぐるように口を開いた。
「そうだ。……余の、ただ一度の恋だった。すべてを捨てて彼女のもとへ行こうと思った。だが、彼女は身を引いた。……鳥が、自由を選んで飛び去るように」
その声には、今でも愛しさと哀しさが混ざっていた。
「……アデルの異能は、間違いなく余の血によるものだ。だが、彼に父とは名乗れなかった。……それでも、誇らしい子だった。最期まで、誇りを貫いた」
再び咳がこみ上げ、父の身体は細かく震えた。
「……笑ってくれ、リヴィアよ。余は王としても、父としても……何一つ守れなかった。アデルも、ユリウスも……お前にも、何一つ与えられなかった……」
リヴィアは震える手で、その冷えた手を強く握った。
「違う……。お父様がいてくれたから、私は、立ち上がれた。
“王”ではなく、“父”として、私たちを見守ってくれた……それだけで、どれほど救われたか」
グレゴリウスの瞳に、涙が溢れた。
その涙は大きな目を伝い、枕に染み込んでいく。
「リヴィアよ……お前も、優しい子だな。私は……優しいお前と旅ができて……幸せだった」
「お前にこの手記を託そう。私の想いが全て綴られている。ここで全て話すことは……ゴホッ……できなさそうだからな……」
グレゴリウスは懐から手記を取り出し、リヴィアに託した。
その言葉を最後に、父はゆっくりと目を閉じた。
呼吸が浅くなり、手の力が抜けていく。
リヴィアは、固唾を呑んで見守った。
その最後の瞬間に、父が口にしたのは――
「余は……いや、私は……お前たちを、愛している」
もう返らない声。
けれど、確かにその言葉はリヴィアの心に届いた。
まるで、ずっと欲しかった最後の贈り物のように。
リヴィアはその手を放さず、そっと額を父の手に当てた。
涙が、頬をつたって静かに落ちた。
それは、別れの涙であると同時に――確かに受け取った愛への返歌だった。




