第三十四話 アデルという男
「……学校の教科書には、ちゃんと“民の声”が載るようにしよう。英雄も、農夫も、戦った兵士も、みんな歴史の一部として」
アデルは、疲れ切った顔にそれでも微笑みを浮かべてそう言った。
机の上には、擦り切れた書類が山のように積まれていた。「教育制度改革案」「医療無償化提案書」「農業税撤廃政策草案」。どれも、戦の最中にしてはあまりにも非現実的で、あまりにも優しすぎる内容だった。
けれど彼は、それを本気で信じていた。戦うのは、殺すためではない。壊すためでもない。守るために、そして、終わった先に“まっとうな生活”を取り戻すために。
「“勝ったその先”がなければ、また誰かが愚かな王になるだけだ。そしたら、また誰かが泣く」
それがアデルの信念だった。
だが、組織が大きくなるにつれて、理想だけでは動かせない事態が増えていく。
「近隣の村から物資を徴発せざるを得ませんでした。自発的協力では、限界が……」
「“アデルもまた王の血だ”と噂されています。“ただの権力者の交代劇”だと。民の間に不満が……」
報告書を読むたび、アデルの顔色は悪くなった。彼は怒らなかった。ただ、自分を責めるように俯き、そして言うのだった。
「……強くなければ、民を守れない」
その言葉を呪文のように唱えながら、彼は眠らなかった。食べる時間も惜しみ、前線と後方を走り、演説をし、子供の教育方針にまで目を通した。
周囲は止めようとした。けれど、止められなかった。彼が止まれば、反乱軍全体が立ち止まってしまうから。
アデルは、一人でその歪みを背負っていた。
——そしてある朝
「アデル、要塞の軍編成について相談したいのだが……」
赤のローブを纏った狼少年・ルーグがアデルの部屋に訪れた。
ノックを何回もするが、一向に返事がない。
ルーグは嫌な胸騒ぎがして扉を開けた。
そこには机に突っ伏したアデル。昼夜問わず働いていたので、疲れて寝てしまったのか、ルーグはそう思い。近くにあった毛布をかけようとした瞬間。
その耳はどんな小さな音でも聞き取れる。例えば寝息でも。
アデルはもう息をしていなかった。
遺体に外傷はなかった。ただ、心臓が静かに、その動きを止めていただけだった。
「過労による心停止」
そう医師は診断した。
けれど、皆が知っていた。あの男が、何を犠牲にして走り続けていたのかを。
アデルの死は、軍の中に沈黙をもたらした。誰もがその喪失の重みに立ちすくんだ。
その数日後、彼の遺品から一冊のノートが見つかった。
その中に、彼自身が記した自らの“出生”と“原点”が、綴られていた。
アデルは、貧民街の片隅で育った。母は柔らかい声の人だった。華やかさはなかったが、物語を語るのが好きで、アデルはそれを聞いて育った。
家は無く、道端にゴザを引いて寝ていた。
「ねえ、お父さんって、どんな人?」
幼い日のアデルがそう尋ねた時、母は一瞬、沈黙して、優しく笑った。
「……遠くに行った人よ」
それきり、父のことは語られなかった。
だからアデルは勝手に想像した。父は母と自分を捨てた男だ、と。だからこそ、母は苦しんでいるのだ、と。
貧しさの中で、理不尽さの中で、アデルはその“架空の父”を憎むようになった。母をこんな目に遭わせた男。
だが、母が病に倒れ、死の床に伏したとき。
震える声で、母は真実を語った。
「……アデル、ごめんね……ほんとは……お前の、お父さんは……この国の王だったの」
「……え……?」
「私は、街で彼に出会ったの……王だとは知らずに……でも、あなたができた時に彼が王だと知ったの……迷惑をかけたくなくて……私は彼の前から姿を消したわ……」
「じゃあ、なぜ今まで……」
「知られてしまったら……あなたの命が、危ないと思ったから……」
アデルは混乱した。
怒りも、戸惑いも、全てが渦を巻いていた。
王は、自分の父だった。
ではなぜ——自分と母は、こんなにも惨めだったのか。
なぜ、王の子が、王の恋人が、灰の中をくぐるように生きなければならなかったのか。
答えはなかった。ただ一つ、アデルの中で芽生えた感情があった。
「王……いや、この国そのものが、間違っている」
だから彼は、国を変えようとした。過去を壊し、未来を作るために。
王という存在を否定することで、自分のルーツさえ断ち切ろうとした。
彼は、民の声を拾い上げた。希望と怒りを集めて、反乱軍を作り上げた。
しかし——理想の火は、強すぎれば、燃え尽きる。
そして、燃え尽きた。
アデルの死は、あまりにも静かだったが、民にとっては雷鳴のように響いた。
「彼は、本気で、私たちのことを考えてくれていた」
「アデル様は、最期まで、民の未来を考えてくださった」
その死は、彼の理想を知らなかった者にすら、深く刺さった。
だが、皮肉なことに。
アデルの死後、軍はその理想を保てなくなっていく。
派閥の対立。強硬派の台頭。民意の分裂。
軍師ハーメルンはアデルの意思を継ぎ、内部分裂を防ごうとしたが、全てが遅かった。
その中で、第三王子・カイアスは静かにアデル陣営から離れた。
ハーメルンは新たな象徴とすべくカイアスを引き留めたが、彼は決してイエスと言わなかった。
「ハーメルンさんよぉ。もうこの陣営は瓦解することをあんたが一番わかってるだろ?俺は傀儡にはならないぜ?なぜなら、この陣営が駄目になったら別ルート探すって言ってたからな」
——そして、カイアスは商会ごとこつぜんと姿を消した。
アデルという男が遺したものは、虚しくも彼の死とともに瓦解していった。
まるで、短く美しく咲いた花火のように。




