第三十二話 民の意思
「リヴィア王女の名を騙る不届き者どもが、また一つの町で“民意による裁判”などと称して領主を追放しました」
ユリウスの執務室に、軍参謀が青ざめた顔で報告を上げた。
「……民意だと?」
ユリウスは椅子の肘掛けに指をかけ、ぎり、と木を軋ませた。
「法とは王が定めるものだ。それを民が勝手に決めて良いとでも? 民は王の持ち物だ」
その言葉に、場の空気が凍った。
ユリウスは窓の外を見ながら、誰に言うでもなく呟いた。
「……そうでなければ、すべてが崩れてしまう」
彼の目には燃える村の火が、既に幻のように映っている。
「噂を根絶しろ。リヴィアの名が出た者はすべて逮捕。見せしめに十数人を縛り首にせよ。民が何を恐れるべきか、思い出させてやれ」
かくして、ユリウス王の命による“思想狩り”が始まった。兵が市場を封鎖し、街角の噂話に耳を傾けていた者まで連行される。情報の流れを遮断するため、旅人の検問が強化され、書物や手紙の所持も理由なく没収された。
それでも、“言葉”は止まらなかった。
民は口を閉ざしても、手を動かす。兵士への食糧供給が止まり、荷馬車の車輪は錆びついたまま放置される。徴兵の呼びかけにも誰も応じず、町の学校では教員も生徒も一斉に姿を消した。
「リヴィア様が言ったんだ、“武器を持たずに戦う方法はある”って……」
「私たちはもう誰にも所有されないって……」
そうした“静かな戦い”が、国の隅々で始まっていた。
一方、アデルの陣営にも異変が生じていた。
「なぜ民が我らに協力しない……!腐敗した王政を打倒するための軍であるのに……!」
アデルの怒声が響く。
補給線の一部が民間の手によって遮断され、志願兵の数は日に日に減っていた。かつて彼を「英雄」と讃えた農民たちは、今や彼を遠巻きに見て、顔を背けている。
「……どういうことだ。なぜ彼らは、正義から目を背ける……?」
アデルは呟いた。
ハーメルンが、ためらいがちに口を開く。 「アデル殿下……それは、もはや“誰の正義か”という問題ではないのかと。今、民が求めているのは——」
「分かっている!」
アデルは拳で机を叩き、その声を掻き消した。
そして、そんな混迷の中でも、リヴィアは静かに動いていた。
身を隠すように各地を巡り、名を語らず、顔を覆いながら、ただ耳を傾ける。民の声を聞き、その痛みを記録し、言葉を残す。火種となるような短い詩や、物語や、対話の形で——それは街角の壁に、子どもの口に、商人の取引の挨拶にまで染み込んでいく。
それはまるで、乾いた国に降る雨のようだった。
リヴィアはとある農村で、老いた女性から麦を譲られながら、囁かれた言葉を胸に刻む。
「……あの人たちは、王でも反乱軍でもなく、あなたの言葉にだけ希望を持ってるのよ。だってそれだけが、私たちに“選べる未来”をくれたから」
リヴィアは帽子のつばを深くかぶり、静かに微笑んだ。
「ありがとう。私はそれを絶やさない」
そのとき、遠くの空に狼煙が上がる。噂によれば、中央都市で市民のストライキが始まったらしい。
中央都市の広場には、誰の旗も掲げられぬまま、数千人の民が沈黙を貫いて立っているという――それは、どの軍にも与せぬ、民の意志そのものだった。
火はついた。もはや誰の手にも、止められはしない。




