第九話 逃避行
刺繍のほどこされた純白のドレスが、リヴィアの前に差し出されたのは、春雨が静かに王都を濡らした日のことだった。
その白は、祝福の色ではなく、彼女にとって“鳥籠”の色だった。
「王女殿下、このあたりをあと数寸詰めておきましょう。隣国の王子殿下は細身の方と伺っておりますから、並んだときの見栄えも――」
侍女たちは口々に言葉を重ね、婚姻の準備を滞りなく進めていく。
式場の飾り、招待客の選定、結婚の誓約に使う銀の杯……。
すべてが、本人の意志とは無関係に決められていった。
相手は東方の隣国、ヴィルゼン王国の第一王子。温厚で聡明と噂されていたが、リヴィアは興味を抱くことすらできなかった。
「隣国からの物資支援、兵の貸与、そして講和交渉の仲介……全てはこの婚姻で得られる」
ユリウスの言葉は冷たかった。まるで彼女の名に価値があるだけで、中身など必要とされていないかのようだった。
夜、部屋に戻るたびに、胸の奥に黒いものが積もっていった。
アデルの勝利、灰の脅威、王家の分裂――
すべてが、自分の「声」とは無関係に進んでいく。
私が結婚すれば、この国は安泰。
皆がそう言う。
でも、それでいいの? 本当に?
鏡の前に立つたびに、リヴィアは問いかけていた。
そこに映るのは、自分の顔をした「人形」だった。
誰かの望むままに微笑み、誰かの計画に組み込まれる存在。
心を押し殺すことが“正しさ”だと教え込まれて育った、誰かの器。
――違う。私はもう、黙って従うだけの存在ではいられない。
その夜、リヴィアは静かに決意した。
このまま結婚式を迎えるくらいなら、いっそ……私自身で、人生を選ぶ。
王宮の回廊に夜風が吹き抜けるころ、リヴィアは黒衣に身を包み、足音を殺して階段を降りた。
手にあるのは簡素な旅装。豪奢な衣装も宝飾品も置いてきた。
ただ、“リヴィア”という名前を背負って、生きる覚悟だけを握っていた。
南門の通用口に差しかかったとき、茂みの影から誰かが現れた。
「ふぁ……ねむぃ……どこ行くの?」
第四王子ルーファスだった。
まだ九つの少年でありながら、その寝ぼけ瞳は姉の心の痛みをまっすぐに映していた。
「……見逃して。私は、もう嫌なの。王女でいるのも、人形として生きるのも」
「ふぅん……それが姉さんの決断なんだね。僕もついていこうかな」
リヴィアは驚いたように彼を見た。
「どうせ僕の茨は、“盾”とか“防壁”とか呼ばれて、都合よく使われるだけだし。……兵士じゃないんだけどね、僕」
ふたりは言葉少なに、うなずき合った。
「レオン兄様にも声かけしましょう」
「お人好しだね。……まぁ、姉さんのそういうところ、好きだけど」
ルーファスはやれやれと肩を揺らした。
第二王子・レオンの部屋の前に来たリヴィアは、ドアをノックしようとしたが、ルーファスに止められた。
「音立てちゃ駄目でしょ。衛兵が来るよ」
しーっと人差し指を立てるルーファスに、リヴィアはハッとしたように頷いた。
そっと部屋に入ると、レオンは鏡台の前で、結い上げた銀の髪をほどいていた。
鏡に映ったリヴィアの姿に気づいて、彼は振り返った。
「びっくりした……。リヴィアか……どうしたんだい?眠れないのか?」
「ええ。私はもう眠らないの。……人形のように眠ったふりをして生きるのは、もうやめる」
「それって……どういう意味だい……?」
「そのままの意味よ。私は婚姻の道具にはならない。今夜ここを抜け出すの」
「なっ……」
部屋の外で話を聞いていたルーファスが、やれやれといった様子で部屋に入ってきた。
「要するに姉さんはここから出てくの。僕もついていくことにした。レオン兄さんはどうする?」
レオンは髪を指でいじりはじめた。それは彼の現実逃避の癖だった。
「そんな……抜け出すなんて……もしバレたら……」
「レオン兄様、あなたはここに居ても、ユリウス兄様に異能力を利用されるだけ。……一緒に行きましょう」
「ごめん……リヴィア……僕は行けない。ユリウス兄さんを一人にはできない」
「どうして?」
「一番近い兄弟だから分かるんだ。ユリウス兄さんは、本当は悪い人じゃない。ただ、すごく怖がりなんだ。だから……行けない」
レオンの決意が固いのを見て、リヴィアはそっと頷いた。
「分かったわ。でも、無理はしないでね」
リヴィアとルーファスはそっと部屋を出た。
門番の目を盗み、ふたりは誰にも気づかれぬように抜け出した。
星明かりだけを頼りに、城下町の石畳をひたすら歩いていった。
「行く先も決まっていないのに、本当にいいのね?」
リヴィアが問うと、ルーファスは大きなあくびをひとつ。
「戦争を止める道を探すんでしょ?だるいけど、ついて行ってあげるよ。姉さん、ちょっと放っておけないし」
その言葉に、リヴィアは小さく笑った。
ようやく、自分の意志で何かを選べた気がした。
王冠の重みも、血筋のしがらみも、夜の闇に置いてきた。
小さな姉弟の足音だけが、確かに“新しい人生”を刻んでいた。




