プロローグ 王の死
王が死んだ。
その報は、春まだ遠い王都にひそやかな雷鳴のように落ちた。
冬の空は灰色に沈み、凍てついた石畳の城門を越えてなお、重々しい沈黙が王城の奥深くまで這い寄る。
王の亡骸は、白銀の棺に納められ、長く仕えてきた神官たちの祈りに包まれていた。王の白髪の頭髪や髭、深く刻まれた皺は彼の苦悶の末に生きた証であった。
香炉の煙がゆらりと揺れ、無機質な石壁に影を作る。
第一王子、ユリウス。
漆黒の髪が、冷えた玉座の間に静かに揺れる。
陶器のように滑らかで蒼白な肌と、血のように深紅の唇。その美貌はまるで人形めいて冷ややかで、見る者を思わずたじろがせるほどだった。
だが、その麗しさの奥に宿るのは情ではなく、氷のような決意だった。
彼は棺に一瞥すらくれず、ただ真っすぐに、かつて父が腰かけていた玉座を見上げていた。そこにあるのは「空席」という現実。ただそれだけだった。
ユリウスは一歩、白く冷たい石の床を踏みしめる。
そして、白雪のような頬に沈黙を引き結ぶ紅の唇が、低く呟いた。
「……王はもういない。次は我が身か……」
静かに落ちた声は、まるで夜の雪のように静かで、重く響いた。
だが、誰も返さない。
その場にいる者たちは、ただ彼の美しさと冷酷さに凍りついたように、息を潜めていた。
第二王子、レオン。
病的なほど白い肌に、体の線がわかるほど薄い礼服。華奢な身体が、棺の前で静かに揺れていた。
後頭部でまとめられた三つ編みは、解けば地面に広がるような絹糸のような銀髪――それはまるで、彼の弱さも優しさもすべて封じ込め、結わえ上げているかのようだった。
伏せた睫毛の奥、水のように透き通った瞳は何も映さず、ただ沈黙を宿していた。
細く震える指先が、そっと棺の縁に触れる。
その仕草は、別れを告げるというより、懺悔のようだった。
「……お父様、どうか……安らかに」
かすれた声は風にすら聞こえず、彼自身の胸の内にだけ落ちた。
それでもレオンは、泣かなかった。いや、泣けなかった。
銀の髪に誓うように、彼はそっと目を閉じた。
第三王子、カイアス。
肩にかかるほどの水色の髪が、怒りとも呆れともつかぬ仕草にふわりと揺れた。ぱちくりとした大きな目は鮮やかな光を宿しながらも、今はどこか醒めていた。
まだ子供の面影を残す整った顔立ちをほんの少し歪め、彼は短く息を吐く。軽やかな足取りで踵を返すと、その背には――「茶番には付き合いきれない」とでも言いたげな、皮肉な笑みが滲んでいた。
陽焼けした首筋に揺れる銀の耳飾りが、玉座の間の静寂を裂くように、かすかな音を立てた。
第四王子、ルーファス。
誰より幼いはずの彼は、まるで時が止まったかのように静かに棺の前に立っていた。
母譲りの淡い金髪は丸く整えられ、横には小さな三つ編みが結ってあった。それがぴくりとも揺れないほど、彼は動かなかった。
翡翠の眼差しが静かに棺の中を見つめている。
その視線は年相応の幼さに似つかわしくなく、どこか深い――いや、“悟ったような”気配を孕んでいた。
ルーファスは黙っていた。泣きもせず、取り乱しもせず。
指先が、棺の縁にそっと触れる。けれどその動きは、何かを「確かめる」ような慎重さすらあった。
彼はただ、穏やかな死に顔を見下ろし、静かに目を細めた。
「……よく、眠っている」
それは――少年の言葉としては、あまりにも静かすぎる。
まるで、永い旅路の終わりに眠る“同志”に寄せる祈りのようだった。
そして、第一王女。
リヴィアは王の亡骸の傍らに、そっと膝をついていた。
華奢な身体を包むのは、淡く墨を帯びた黒の喪服。その襟元から覗く首筋は真珠のように輝き、張りつめた空気の中でなお、凛とした気品を放っていた。
肩にかかる一筋の三つ編みには、哀悼の意を込めるように黒いリボンがきゅっと結ばれている。
その編み込みはまるで、彼女自身の“意志”の象徴のようでもあった。
金のように淡く輝く髪は光を吸い、真珠の肌にそっとかかる。祈りに組まれた手の指先は、わずかに震えていた。
瞳はサファイアのように透き通った青。そこに宿るのは涙ではなかった。
王の死が、玉座の空白が、国に何をもたらすのか——そのすべてを知ってしまった者だけが抱ける、静かな覚悟だった。
やがて、祈りの手をほどくと、リヴィアは静かに立ち上がった。
その動きには迷いがなく、空席となった玉座をまっすぐに見上げる。
「父上……どうか、私たちの行く末を見守りくださいますように」
その声は小さかった。けれど、響いた。
まるで未来を導く光のように、そこに確かに在った。
夜が明けるころ、王城の塔に旗が翻る。
王国は今、新たな運命を迎えようとしていた。
その日、王都に雪は降らなかった。
しかし冷たい風が、まるで新たな混乱の兆しを告げるように吹き荒れていた。
民たちは重い戸を閉め、商人たちは取引を渋り、兵士たちの剣は鞘の中で、静かに熱を帯びはじめていた。
そして——。
“彼”は、ついに姿を現した。
西の外れの古い街。
煤けた石造りの劇場跡にて、金の髪を灰にまみれさせた男が人々の前に立った。
風に乱れたショートヘアの隙間からのぞく瞳は、透きとおるような碧眼。
その眼差しはまっすぐに群衆を見据え、光と影の間に生まれたような冷たさと熱を同時に帯びていた。
まだ若い。だが、その背に宿るものは重い。
傷のある過去も、血にまみれた出自も、すべてを抱えてなお立つ姿には、奇妙な凛然さがあった。
「……王は死んだ。そして、もう一人の王の血を継ぐ者が、ここにいる」
低く、よく通る声だった。
その声はただ響くだけでなく、聞く者の胸を掴み、揺さぶった。
「わたしの母は、王と愛し合った女だった。だが捨てられ、踏みにじられ、誰にも知られず死んだ」
ざわめきが群衆を駆け抜けた。
アデルの顔は静かだった。だが、その静けさの奥に宿る怒りと哀しみは、王族たちのどこにもなかった色をしていた。
「この国の玉座は、正しき者のためにあるべきだ。民の声を、血の涙を、忘れた王家に任せてはならない!」
掲げられた手の動きに合わせ、空が灰に染まる。
アデルの背後、朽ちた劇場の舞台から立ちのぼる黒い煤煙が渦を巻き、まるで煤の翼のように彼を包みこんだ。
それは、異能力だった。
民は知った。
この男がただの騙りではないことを。
王の血と、王の異能を継ぐ、正しき“落とし子”であることを——。
「アデル・ルシエン……!」
誰かがその名をつぶやいた瞬間、空気が変わった。
まるで、王国全土が新たな風を感じたように。
やがて、王国は分断される。
正統の王子たちと、異端の王子。
誇りと嫉妬、正義と私欲。
交わらぬ意志が絡み合う、血の継承戦が始まろうとしていた。




