014 追跡
奥の小さな間は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。淡い蝋燭の炎が壁に揺らめき、古びた木の梁と漆喰のささやかな亀裂を淡く泳がせる。机の上には筆跡の乱れた紙束と、使い込まれたインク壺が並び、窓の外で夜風が葉を擦る音だけが時折、室内に混じる。そこは紛れもなくウォルの私室で、質素ながらも几帳面に整えられた空間は、彼の人となりをそのまま映しているようだった。
ウォルは来客を椅子へ促すと、振り返って扉に鍵をかけた。鍵を返し入れるとき、指先が一瞬だけ震えたのを、ディルは目の端で見逃さなかった。扉が閉まる音が、外側の世界を断絶する合図となり、三人の間から緊張の糸がすっと引かれてゆく。彼は深く息を吐いた。胸の奥に溜まった重石を、やっと下ろしたかのような仕草だった。
「すまなかった。お前たちを賊と繋がっている者と疑っていた。」
言葉は真摯で、そして少しだけ痛々しかった。最初の一声で頭を下げるその様子に、先ほどまでの鋭い戒めは跡形もなく消え、代わりに素顔に近い柔らかさが差している。
ディルが言葉を発しようとしたが、ウォルが手で制した。
「まずは俺から話そう。この近辺での賊討伐が、どうにも上手くいっていない。隠れ家の情報を掴み、討伐隊を差し向けても……なぜか到着する前に奴らは逃げ出している。これが何度も続いている」
口をついて出たのは、苛立ちと疲労の混ざった声だった。ウォルの瞳に浮かぶ影は、簡単には晴れそうにない。彼は机から数枚の書類を取り上げ、指先で埃をはらうようになぞりながら続ける。討伐の日程表、宿場からの端的な通報記録、行商人の名簿——それらは乱雑に重ねられているが、ひとつの線で繋がりを覗かせる。
「……やはり、内通者が?」
ディルの問いは短く、低かった。彼らはこれまでも疑念を胸に抱えてきた。けれどここまで相手が腹を割って話すなら、もはや探り合いは無意味だ。ウォルは小さく頷き、目を細めた。「ああ。少なくとも数名は怪しい」
ウォルは机上の書類の山から数枚を抜き出した。そこには討伐日程、宿場ごとの通報記録、そして街道沿いで出会った行商の名簿が雑然と記されている。指先で一枚をなぞりながら、彼は言葉を続けた。
「情報を意図的に絞り、誰が何を得ているか『炙り出し』をしている。だが尻尾は掴めん。経路が多層的で、どこで漏れているのか見極められんのだ」
メナスは黙って聞いていた。彼の表情は冷静を保っているが、目の奥で思考が巡り、歯車が静かに回っているのが分かる。やがてゆっくりと口を開いたのは、問いかけというより観察の確認だった。
「……少なくとも、あの先頭を走っていた護衛騎士は内通者で間違いないだろう。で、あんたは――俺たちに何を望む?」
その言葉には、まるで真実に刃を向けるような鋭さが漂っていた。ウォルの瞳がふたりに向けられた。そこには決意と、隠しきれない焦りが混じる。短い沈黙が落ちて、彼は一枚の紙を机に叩きつけた。紙は軽く震え、角が床の煤を掻き上げる。
「賊そのものは別働の討伐隊が追っている。問題は、騎士団そのものの腐敗がどこまで進んでいるかだ。その裏取りを……手伝ってほしい」
それは組織の長としては異例の頼みだった。ウォルの手元にあるのは、表沙汰にできぬ疑惑の証拠と、消えそうな糸口の断片だけ。だが彼の声からは、これ以上内部だけで抱え込めないという、見えない限界が伝わってきた。
メナスは背にもたれかけたまま、ゆっくりと前に身を乗り出す。
「……具体的な依頼内容を聞こうか。」
ディルはその言葉に一瞬、意外さを覚える。普段は冷徹に見え報酬に拘るメナスが、ここで腰を上げるのは——何かを賭ける覚悟の表れだろうか。
メナスの声は平静だったが、そこに含まれる熱は隠しきれない。ウォルはその問いを受け止め、胸の内に溜めていた言葉を一つずつ外に出していった。灯りの下で浮かぶ彼の顔には、ある種の疲労が刻まれている。だが同時に、その向こうには密やかな希望も窺えた。もし外部の目が入れば、見えなかったものが見えるかもしれない——そう信じたい気持ちが、彼を動かしているのだ。
「わかった。俺が望むのは、例の怪しい動きをしている騎士の身辺調査だ。証拠さえあれば……こちらで始末をつけられる。」
翌日、宿場の空は淡い雲に覆われ、石畳に柔らかな影を落としていた。人々が行き交い、荷車の軋む音や露店からの呼び声が賑やかに響く。そんな雑踏の中で、ディルは標的の背を追っていた。
対象の男は守備隊員の一人。普段は軽装の鎖帷子と腰剣を備える統一した制服として着ている。だが、今日の彼はその印象を打ち消すように簡素な外套を羽織り、剣すら帯びていなかった。笑顔を浮かべ、通りすがる人々に軽く頭を下げる様は、まるで宿場の一市民に過ぎないかのようだった。
荷を取り落とした老婆を助け、迷子の子供を親へと導く――その行いに偽りがなければ、誰もが善良な一般人と評するであろう。だが、ディルの胸中には疑念がこだまし続けていた。
(……こいつを追って、本当に何か掴めるのか?)
ウォルから与えられた調査対象は二人。一人は主犯格と思わしい騎士で、こちらはメナスが追う。そしてもう一人、雑務を任される下位の隊員をディルが監視している。
勢い込んで身辺調査を開始したものの、男の行動からは狡猾さも不自然な影も見えてこない。能動的に情報を売る素振りは見られない。
(いや……善人だから安全とは限らないな。知らぬ間に賊の手助けをしている――そんなことも十分あり得るし…)
心中でそう言い聞かせながらも、ディルの視線は鋭さを増していった。善性を誇示するほどの人間は、往々にして仮面をかぶっている。見えぬ影を隠すために、光の中で笑顔を振りまく。
「……善人の仮面ほど、扱いに困るものはないな」
低く呟き、彼は気配を限りなく薄めて追跡を続けた。
やがて一刻ほどが過ぎたとき、違和感が形を持って現れる。ディルはふと歩みを止め、瞳の奥に冷たい光を宿した。
この男――目的を持って歩いていない。
市場へ赴くでもなく、宿に戻るでもなく、ただ路地を往復し、そこに居合わせた人々と些細な関わりを続けるばかり。無意味に見える繰り返しの行動。しかし、それはむしろ明確な意図の裏返しに思えた。
(……いや、違う。これは、自らを囮として誰かを誘っているのではないか?)
その仮説が胸に落ちた瞬間、背筋を薄氷が走った。もしそうなら、追っている自分を炙り出すための仕草か――あるいは、この「演技」を観察している第三者が、すでに周囲に潜んでいる可能性すらある。
ディルは自然な動作で視線を逸らし、通り沿いの喫茶店へと足を運んだ。扉を押し開けると、豆を煎る芳ばしい香りが鼻をくすぐる。窓際の席に腰を下ろし、軽く飲み物を頼んで時間を稼いだ。
懐から取り出した宿場の地図を広げ、男が歩いた道を丁寧に印で辿っていく。
同じ道を繰り返すのなら、必ず「観察に適した地点」があるはずだ。そこを特定できれば、新たな手掛かりを掴める――。
指先で地図に印をつけながら、ディルの思考は静かに研ぎ澄まされていった。
一方そのころ、メナスは主犯格と目される騎士の背を追っていた。
本来ならば非番のはず――にもかかわらず、男は全身を鋼の鎧に包み、腰の剣を隠すことなく宿場を抜けていく。その背は陽光を受けて冷たく輝き、群衆の中でも異質な存在感を放っていた。
「……非番で鎧か。やはり何かあるな」
メナスは低く心中で呟き、行き交う商人の一団に歩調を合わせて身を隠す。露店の荷を運ぶ車輪の音、飛び交う値切りの声、その喧騒に紛れれば、追跡はさほど難しくはない。
だが、わずか一刻も経たぬうちに、騎士は突然、街道を外れた。
脇道などない草むらを迷いなく進むその姿は、ただの散策ではありえぬ。だが、群れをなす商人たちは「任務の一環」とでも思ったのか、気にも留めず歩みを続けていく。
(……選択を迫るか。)
このまま街道を外れれば、尾行していると告げるようなもの。しかし、見送るわけにもいかない。
メナスはわずかに歩を止め、腰の袋から朝食の固い黒パンを取り出した。歯で千切り、噛み締める――行き過ぎた焦燥を押しとどめ、冷静を取り戻すための儀式のように。
「……距離を取るか。足跡が残っている限り、追えるな。」
呟きは誰にも届かない。だが、それこそが彼の流儀だった。勇み足で飛び込むよりも、冷徹に機を伺うことを選ぶ。
やがて食事を終えると、用を足すふりをして街道を外れた。二百メートル先――背丈を超える草むらに踏み入り、音を殺す。もはや騎士の姿は見えない。だが、草を踏み伏せた跡が道となり、時折かすかに響く金属の擦過音が、確かな導きとなる。
踏み荒らされた細い獣道は、幾度となく通った痕跡を物語っていた。
(……やはり確信犯か。)
メナスは草木の陰に身をひそめながら、歩みを重ねる。騎士は時折、肩越しに振り返り視線を向ける。警戒はしているようだが、今のところ気取られた様子はない。むしろ、その過剰な警戒が怯えにも見え、ウォルの調査は正しかったと事への裏付けともとれる。
やがて視界は開け、平原は終わり、薄暗い林が現れる。湿り気を帯びた土の匂い、風に揺れる枝葉のざわめきが、かえって静寂を濃くした。
そして、一刻にわたる追跡の果て、木々の隙間に見えたのは――朽ち果てかけた一軒のあばら家だった。
メナスの眼差しに鋭い光が宿る。
(ここがアジトなら、昨日の襲撃者四人とこの騎士で五人。戦闘になれば、勝ち目は薄い…)
冷ややかな計算が頭をよぎる。勇気を誇示して飛び込むことは容易い。だが、それは死地に身を投げ入れるに等しい。必要なのは英雄譚の蛮勇ではなく、冷徹に状況を量る判断力――。
しばしの逡巡ののち、メナスは意を決して動き出した。
愚直に騎士の背を追うのではなく、あばら家を別の角度から探ることにしたのだ。
決断が下れば、その動きは淀みなく鋭い。重鎧の騎士のように音を響かせるでもなく、軽業師のように優美でもない。だが木々の影を縫い、草を押し分け、獣のように地を這って回り込む様は、戦場を生き抜いた者の確かさを帯びていた。
葉擦れが小さく耳を打つたびに、メナスは立ち止まる。風が梢を揺らす瞬間に合わせて息を吐き、音を消し去る。
やがて木立の隙間に、朽ちかけた小屋の輪郭が見えた。
屋根の苔は濡れ、壁板はところどころ腐食し、倒壊こそ免れているものの、人の住まうにはあまりに頼りない。
それでも、窓の裂け目から覗いた藁の寝床は、確かにここが誰かの根城であると告げていた。――だが、先ほど視界にあったはずの騎士の姿がない。
冷汗が背をつたう。脳裏に最悪の想定が瞬く。すなわち、自分は囮に誘われ、すでに包囲の只中にあるのではないか。森の静けさは異様で、耳に届くのは自分の心音だけ。
メナスは歯を噛みしめ、長く息を吐いた。
退くこともできる。今ならまだ引き返せる。だが――。
メナスは長く息を吐いた。彼は前に出ることを選んだ。
木陰を渡り、ひとつ、またひとつと幹を盾に移動する。そのたび森の闇は濃く、空気は重く沈んでいく。静けさは、罠の前触れに他ならない。耳を澄ませば、風に混じるわずかな異音――。金属が擦れる音。直後、一羽の鳥が枝を蹴り、慌ただしく空へ舞い上がった。森がざわめき、同時に木立の隙間に黒い影が揺れる。
騎士か。あるいは伏兵か。判別はつかない。
メナスは即座に身を沈め、背を太い幹に預けた。
昨日、賊たちが弓も魔法も持たなかったことは確か。ならば、間合いを保てばこちらに分がある。退路を確保するだけなら、まだ勝機はある――。
己にそう言い聞かせながら、メナスは気配を消し去った。
割と遅筆です。エピソードを一つ書ききったら、週1で投稿します。
何かあれば、感想の所かXのDMでご連絡いただければ幸いです。
→ https://x.com/feally_leaf
あとがきで、何かしらの設定を1話ごとに描いておきます。
設定 - 014
聖鉄騎士団
聖鉄騎士団は、清紋騎士団・陽炎騎士団に次ぐルベリア王国の第三騎士団として知られる。各領の自警団や在地の戦士たちを基盤に組織され、町や村、港、市場を抱える都市、さらには街道沿いにまで分散して配置されることで、地域に深く根を下ろしてきた。駐屯地ごとに小団が形成され、その団の長には多くの場合、その領に仕える騎士が任命されるため、土地ごとの事情に即した柔軟な運営が行われている。現地雇用を積極的に取り入れ、住民に寄り添った治安維持や国営の運送護衛、集落の守備任務を担う姿は、人々の暮らしを支える柱となっている。団員の多くは各地で実戦を重ねたたたき上げであり、派手さには欠けるが、その堅実な働きぶりで広く信頼を集めている。
一方で、独立独歩の色合いが強まるにつれ、監視の目が届きにくい駐屯地では、権力の集中や地元豪族との癒着、物資の横流し、賄賂や不正な徴兵調整などの腐敗が見られる場所もあり、王都にとって頭痛の種となっている。こうした腐敗は住民生活に影響を及ぼし、税の不正徴収や治安の悪化として現れることもある。




