第12話 ONI1タンパク質の阻害剤探索
今日は4月10日、エミリー達が他の星から来た古代人マルガレータの残したタンパク質阻害剤事典を手に入れた次の日だ。
シャモ平原にいる鬼化したスライムのONI1遺伝子の働きを抑制し、スライムに戻すための研究はスライム生命情報解析課で続いていた。
その一つの研究は、培養ミニスライムのONI1遺伝子に変異を加えて培養ミニ鬼にした後に、ONI1タンパク質だけを、他の種類のタンパク質は分解しないと言う意味で、選択的に分解すると言う実験である。
その研究の目的は、鬼化がONI1タンパク質に依存するか否かと言うものである。ONI1遺伝子に変異が入ると、ONI1の遺伝子がオンになり、ONI1のmRNAが作られた。そしてmRNAからONI1タンパク質が作られる。このONI1タンパク質を阻害しただけで鬼化を止められるか否かは分かっていなかったのだ。例えば、タンパク質だけではなくmRNAも取り除かないと鬼化は止められないと言う可能性を排除したかったのだ。
スラ情課のガエル コッサはスライム遺伝子工学を用いて、培養ミニ鬼のONI1のタンパク質だけを分解するシステムを開発したのだ。今回の研究では、それを実際に培養ミニ鬼に対し使ってみた。
結果、培養ミニ鬼は培養スライムに戻った。また、この時、ONI1のDNA上の変異はそのままだったし、mRNAの量も変化は無かった。この事から、スラ情課は、鬼化を解除するには必ずしもDNAの変異を元に戻したり、ONI1のmRNAの量を下げる必要は無く、ONI1のタンパク質を分解するので十分であると結論した。別の言葉で言うと、ONI1の鬼化維持には、そのタンパク質の機能が必要である事がわかったのだった。
タンパク質を分解するのと、薬剤で阻害するのは別の事ではあるが、両方とも、タンパク質が働きにくくすると言う点では共通している。今回のタンパク質分解法は、スライムDNAエディター同様、スライム遺伝子工学に依存しているので、現時点では大容量で用意できない。故にシャモ平原にいる大きな鬼には適用ができないと考えられた。ゆえに、スラ情課内では、薬剤による阻害に益々の注目が集まった。
「ONI1タンパク質の構造がわかれば、薬剤による阻害に向かって一歩前進できるわね。」
スライムのタンパク質は20種類のスライムアミノ酸が一本の鎖に連なってできる。20種類ある普通の生物のアミノ酸も、スライムアミノ酸もどちらも炭素などの原子でできている。つまり、原子レベルでは同じである。だが、分子レベルでは異なっている。よって、それらを構成要素とする、普通の生物のタンパク質とスライムのタンパク質は、互いに分子レベルでは異なっている。
ただ、共通する点もあった。普通の生物のタンパク質の多くは、鎖状になって出来上がった後、例えば丸っこい形に、折り畳まれることが知られている。その方が、細胞内にある水の分子との相互作用を考慮すると、タンパク質がエネルギー的に安定するのだ。スラ情課の研究によると、それは多くのスライムタンパク質でも起こる事だった。
タンパク質の折り畳まれた構造は、薬剤によってそのタンパク質を阻害する事を考える時に重要な情報となる。大きさを比較すると、通常、タンパク質は、薬剤よりずっと大きい。タンパク質構造がわかると、タンパク質のどこに薬剤が結合し得るのか?どの薬剤だと結合し得るのかが予想できる場合があるのだ。
「課長、ONI1タンパク質の三次元折りたたみ構造、解けました。」
そう言ったのは、スライムのタンパク質構造解析のスペシャリスト、ファビアン ゴイエであった。彼は、スライム鬼化事件の発生から今までの超短期間にONI1のタンパク質を結晶化し、高分解能でその構造を決定したのであった。ONI1タンパク質を構成する各(スライム、そして古代人の)アミノ酸の各原子の位置まではっきりとわかる。
「ファビアン、おめでとう、そしてありがとう!では、薬剤の結合できそうなポケットを同定しましょう。」
「そう来ると思って、もう計算機で割り出しましたよ。ポケットは二つあります。」
ファビアンの双子の弟のクリストフ ゴイエがそう言った。彼がやったことは、まず兄のファビアンが解いた、ONI1タンパク質の三次元構造をコンピュータ上に用意し、各原子の位置と電荷から、ONI1タンパク質のどの部位なら薬剤が結合し得るのかと言うことを同定する事だった。タンパク質の表面は、どこでも薬剤の結合のできる可能性が高いわけではないのだ。その可能性が高いタンパク質表面上の部位をポケットと言うのだった。
「クリストフも、おめでとう、そしてありがとう!ここまで情報が揃えばドッキングができますね。」
ここで言うドッキングというのは、ある薬剤と目標となるタンパク質、今の場合だとONI1タンパク質、の表面上のポケットが、どのくらいの強度で結合し得るかを、コンピュータで調べる事である。
「ドッキングはアタシが担当します!」
そう言うのは、スラ情課の元気印、アリス コニェだ。彼女は大規模のドッキングを効率的に計算するのに長けている。大規模と言うのは、沢山の種類の薬剤と目的タンパク質のドッキングを行うと言う意味である。彼女はソレイユ国内のありとあらゆる計算機センターのコンピュータを同時に効率的に用いる事ができるのだ。使うコンピュータはソレイユ国内の企業が提供するクラウドシステムも含むのだが、今回は機密性の高い計算なので、国外のクラウドサービスは使わない。その制約があっても、彼女なら上手く計算ができるであろう。
そして、アリスが計算を始めて二週間が経過し、4月24日となった。この間にシャモ平原の鬼はもう一度分裂し、二匹が四匹となった。
アリスは、一つの化合物がONI1のポケットに強固に結合する事を発見した。それは古代人マルガレータが遺したタンパク質阻害剤事典に載っていたKintaronibという化合物だった。この化合物ならONI1タンパク質の機能が阻害できる可能性がある。
では、次はKintaronibを化学合成したいのだが、ここで障壁が立ち塞がった。国防軍化学課のシモンがマルガレータの阻害剤事典のKintaronibのページの合成経路図解を指差しながら言う。
「Kintaronibの合成経路は一つを除いて現代化学でできます。ただ、ここの部分、魔法熱素シャラァが必要と書いてあります。ここは、どうしてもできない。」
その言葉を聞いていたエミリーとジェレミーが口を開いた。
「待てよ、シャラァって。」
「古代人マルガレータと一緒にいた妖精の名前と同じね。」