第11話 古代人のマルガレータ
「うーん、困ったわね。」
スラ情課、課長のエミリーが言う。スライムの鬼化のメカニズムがわかったものの、シャモ平原にいる本物の鬼をスライムに戻す方法が確立できない。
今日は4月9日、ONI1が鬼化の遺伝子である事が、培養ミニスライムを使った実験で分かった次の日だった。
確かに、実験室のスモールスケールな量ではスライムDNAエディターが使えるのだが、量的に、大きなシャモ平原の鬼をスライムに戻せそうにはない。その生産量を増やすのにすぐにかつ大幅に試薬と機械を増やす事ができない。スライムDNAの遺伝子工学用の試薬は小ロットしか生産できていないし、機械は特注オーダーメードだったのだ。
DNAがダメなら、鬼化の遺伝子ONI1のmRNAの発現を抑制したり、ONI1遺伝子の作るタンパク質の機能阻害をする事で、鬼をスライムに戻せるかもしれない。
mRNAの発現抑制は今の所は、スライムDNAエディター同様、スライムの遺伝子工学技術が必要で、大容量にすぐに準備する事ができない。
残る選択肢はONI1タンパク質の機能阻害であるが、これも道のりが険しそうであった。タンパク質の機能阻害は、薬剤を使って行う事ができる。人類は普通の生物のアミノ酸からなるタンパク質の機能阻害をするために薬剤を作る知識や知恵を蓄えている。例えば病気の原因となるタンパク質の機能を阻害するために薬は作られる。それでも、新規薬剤の研究開発は10年以上かかりうる。それほどに新薬の研究開発は難しいのだ。
今回は、その上にスライムはアミノ酸が違うと言う事情が乗っかっている。アミノ酸とはタンパク質の構成要素であり、普通の生物でもスライムでも20種類ある。これが一本の鎖のように連なって、タンパク質が出来上がる。これはDNAが四種類の構成要素、ヌクレオチドを鎖状につなげたものだと言う事に似てる。ヌクレオチドがスライムと普通の生物では違ったように、スライムは普通の生物と異なる20種類のアミノ酸を持っているのだった。
この違いにより、人類が持っている既存の普通の薬剤がスライムの何かのタンパク質を阻害できると言う可能性は低いと考えられた。タンパク質をターゲットとした薬剤はタンパク質を構成するアミノ酸の幾つかと物理的にくっつき合う事で、タンパク質の機能を阻害する。よって相互作用するアミノ酸の部位に届くような分子の形を薬剤が持っている必要がある。スライムの場合、タンパク質の構成要素であるアミノ酸が、そもそも普通の生物のそれとは違う。なのでスライムのタンパク質の表面のアミノ酸を構成している原子の空間的な分布も、通常の生物のそれとは異なるものだと考えられたのだ。よって、既存の薬剤や、それらに少しだけ化学的な変更を加えただけの薬剤がONI1タンパク質の表面に鍵のように入り込み、強固に結合し、タンパク質の機能阻害ができる可能性は低いのではないかと推論されたのだ。
「散歩でもしましょう。」
スラ情課の皆でランチをとった後で課長のエミリーは、そう提案した。ランチ直後に会議や実験などが入っていない10人ほどで、国防軍の敷地内にある庭園を歩き回る。アイディアが湧かない時は、散歩でもするに限る。
「そういえば、ジェレミー。さっきメールしたけど、フュチュール大学のローロンが今日来るわよ。なんでも、この間の古代人についてさらなる発見があったんですって。三十分後に、164会議室ね。会議の目的?そうね、強いていえば、ローロンの新発見と言うのが私達にとって面白いものか判断することかしらね。ここの所、ずっと鬼について研究してきたあなたの気晴らしにもなるでしょうし。」
この前の古代人というのは、ジェレミーがゲノムを読んだ古代人Xの事だった。この古代人Xは普通の古代人ではない。DNAが普通のDNAではなく、スライムのと同じU、N、K、Oの四つの文字で書かれたDNAなのだった。それはスライム以外の生物には見られなかった特徴で、この古代人Xは特異な存在なのだった。また、スライム以外に魔物は惑星マジーにはいない。
三十分してローロンが会議室にやって来た。エミリーとジェレミーは彼を迎え入れた。
「いやー、エミリーはん、ジェレミーはん。お元気でっか?ワイは元気すぎて、原キーでカラオケしてるくらいや。」
「相変わらず陽気なご様子、何よりですわ。それで、何か新発見があったそうですね。」
エミリーは、元気と原キーを掛けたローロンの親父ギャグをスルーして、本題に入った。
「つれないなあ。そうそう。この前ゲノムを読んでいただきました古代人なんやけど、シゾーの街の近くの地中で発見された古代都市遺跡のある館の敷地跡から見つかったていうのを前に話しましたな。おそらく庭に相当する所に墓を作って棺を置いたんでしょうな。今度は館内部に相当する部分を調べていたんやけど、そしたらなんと、地下に小さな図書館的な小部屋がありましたねん。そこで101冊の本が見つかったんです。保存が効くように劣化を防ぐようにしてあった二千年前の101冊の本ということになります。驚くべき事に、その一冊は、恐らくこの前解析していただいた骨となった人物の手記と見て間違いないんですわ。彼女の名前はマルガレータ。」
「な、それはめっちゃ興味ありますね。」
ジェレミーが言った。スライムと同じU、N、K、Oの四つの構成要素からなるDNAを持って生きた古代人X、いやマルガレータがその思考を言語化した本があるというのだ。それは強烈に彼の興味を惹いた。
「すみません。ちょっと待ってくださる?そもそも何語でその本は書かれていたのですか?」
「古代語のテール語やで。」
「テール語って私達の祖先のテール人が使っていた言語でしたよね。DNAの構成要素からして我々と違う古代人のマルガレータさんがなぜ、テール語を使うのですか?」
エミリーは昔学んだ高校の世界史の教科書の知識を動員し、質問した。
「それがでんなー。そこにもう一つのロマンがあるんです。マルガレータの手記によるとテール語はそもそも我々の言語では無かったんです。テール語は元々、他所からやってきた、我々とは違うDNAを持つマルガレータ達の言語で、我々の祖先を彼女らが一時的に支配した時に彼女らが広めた言語なんです。マルガレータの骨の見つかったシゾーの街の近くには聖域があるのは知ってまんな?」
「ユークリッド聖域ですね。」
ジェレミーが答える。ユークリッド聖域、それは惑星マジーの世界七不思議の一つに数えられる。何かの結界が貼ってあり、人間の立ち入れない場所だ。一つの都市と、四つの互いに近接した城があるのが外からは見える。
「彼女の手記によると、マルガレータは、宇宙人で、惑星マジーに着いてからは、元々はユークリッド聖域に住んでたんですわ。」
彼女の手記に書かれていたのは、次の内容だ。今から二千年ほど前のことだが、マルガレータは、ユークリッド聖域を収める女王の三人娘の中の末娘であった。マルガレータの父はすでに他界していた。マルガレータ達は、惑星マジー出身の者ではない。別の惑星から来たオートル人だった。ユークリッド聖域には女王に従う五万人ほどのオートル人が住んでいた。オートル人は、エミリー達、現在のソレイユ国の住人の祖先であるテール人を強力な科学力と魔法力で支配した。オートル人は、服従させたスライムと共に、惑星メルヴェイユからやってきたのだという。
マルガレータは医師であり薬剤師でもあった。惑星マジーに移住したオートル人の医療に多大な貢献をしたのだという。
マルガレータの二人の姉は双子だった。長女がベアタで次女がソフィアという名前だった。この二人は、次期女王の座をめぐり大喧嘩をしてしまった。女王とマルガレータ以外のオートル人はベアタ派とソフィア派に別れた。そして二人は、それぞれの派閥を引き連れて、彼女らが元々住んでいた惑星メルヴェイユとも異なる、二つの別々の惑星へと移住していったのだった。
二人の娘を失った女王の悲しみは大きかった。せめて末娘のマルガレータだけは失いたくないと思った女王はマルガレータの好きなように彼女の人生を生きれるようにサポートした。マルガレータはテール人の男グレゴリーと愛し合うようになり、ユークリッド聖域も出て、グレゴリーの住む現在のシゾーの街付近の館に棲家を移した。
興味深い事に、マルガレータは、シャラァと呼ばれる妖精を彼女が20歳の時に母である女王から引き継いだのだと彼女に手記にはある。グレゴリーの館に移ったマルガレータはそこで四十歳の時に亡くなるまでユークリッド聖域には戻らなかったのだという。彼女の死の間際には女王が見舞いに何度も来たが、マルガレータはグレゴリーの館で死に、墓もそこに作ることを希望したのだという。これがローロンが、その場所でマルガレータの骨を発掘した事につながっている。
ちなみに、彼女が亡くなった後で、母である女王と妖精シャラァはどうなったのかは、書かれていなかった。
「マルガレータは、惑星マジーにやって来た異星人だったなんて、マジー?って感じや。」
「ドテッ。」
「あ、エミリーはん、今度はギャグに反応してくれました。おおきに。」
「すごい壮大な話ね。ロマンも感じるわ。それで、その手記は今回見つかった101冊のうち1冊だけなのでしょう?一体他の100冊には何が書いてあったの?」
「それが残りの100冊は全部、タンパク質の機能を阻害する薬の事典になってましたんや。ほら、マルガレータは医師であり薬剤師でしたやん。オートル人が知っていた約40,000種類のタンパク質阻害剤の化学式と、合成方法を詳細に記録したと考えられる合計100冊の事典を彼女は残したんです。」
「タンパク質の阻害剤の事典!」
エミリーとジェレミーは興奮した。
「オートル人にとってのタンパク質ってスライムの20種類のアミノ酸でできていたと考えられるのよね、ジェレミー?」
「そうです。スライムのアミノ酸の合成酵素は、マルガレータのゲノムにもコードされていました。惑星メルヴェイユの生き物はスライムと同じアミノ酸を一般に持っていた可能性もあります。」
「するとスライムのタンパク質を、この辞典に載っている阻害剤が阻害する可能性もあるわけよね?」
「そうですね。」
「ONI1タンパク質をこの事典の中にある化合物で阻害できないか、試してみましょうよ。まずは、計算機内でのドッキングテストから。」
「計算機の中で、阻害ができると示唆されたとして、実際に合成するのはどうするんですか?オートル人の書き残した化学合成に関する本なんて他にないだろうから、この100冊の本に古代語で書いてある阻害剤合成法を本当に現代語に直せるのかどうか。少なくとも、先ほどの手記よりは翻訳が難しそうですが。」
「そこは、我々、現代人の現代化学の力を信じるのよ。合成経路が図解で書いてあるんだから、それに現代化学の知識を合わせていけば、その説明文も現代語に翻訳できるかもしれないし、別に我々独自の合成経路を使ったって言い訳よ。」
エミリーとジェレミーは専門家特有のやや早口に盛り上がって話した。
「もりあがってまんなー。ほんでは、ワテはマルガレータの手記と、100冊のタンパク質阻害剤事典の原文を電子化したもの、ワテの方で翻訳できた部分を翻訳した後に電子化したもの、この二つをメールで送らせていただきますー。」
「ありがとう、ローロン、これは面白い情報です!」
「エミリーはんの寄付でできた研究です。還元させていただきますー。」
ローロンを見送ったエミリーは早速、国防軍の化学課の主任のシモン ロジェに連絡をとった。