第1話 スライム生命情報解析課
今日はカリウメ暦2200年3月23日、ちょうど春分の日だ。ここはπ陽系、四番惑星マジーにある、ソレイユ国の首都、フュチュールである。ソレイユ国、人口一千万人のうち二百万人がこの首都に住んでいる。ソレイユ国は、この惑星マジーに百ある国の中では、先進国であり現代的なバイオテクノロジー、機械技術、通信技術そして計算機技術が発達している。21世紀中頃の地球と同程度か、部分的にはより進んだ文明が発達している。
フュチュールにある国家防衛軍の食堂に20人ほどの人々が集まっていた。スライム生命情報解析課、略してスラ情課の面々である。今は、朝の9時である。昼の12時からオープンするこの食堂を借り切って、ささやかな朝食パーティーが開かれていた。
「スライムゲノム配列決定の論文、ナチュールに掲載、おめでとう、ジェレミー!」
課長のエミリー ベルナールが部下のジェレミー ジャコブに祝いの言葉を捧げる。
「ありがとうございます、課長。多額の予算を獲得し、ふんだんに研究時間を確保できる態勢を整えてくださっている課長のご支援あってこそです。」
ジェレミーがお礼を言った。
「すげーな、ジェレミー!これでナチュールに論文が掲載されたのは二回目じゃんか!」
同僚の一人、医師でもあるゲン サカモトが言う。確かにこれは、この時代の科学としては快挙だ。ナチュールは最も権威のある科学雑誌の一つでそこに論文が載ると言うのはとても栄誉な事だ。
今回、ナチュールに掲載になるのは、スライムの遺伝情報の全て、スライムのゲノム配列の決定に関する論文である。
ゲノムとは何かをもう少しイメージするために、我々、地球人について考えてみよう。ヒトの各細胞の核にはDNAの紐が存在する。その紐は全部で46本ある。父から受け継いだ23本と母から受け継いだ23本が存在するのだ。このDNAの紐は染色体とも呼ばれる。つまり、ヒトには46本の染色体がある。一つのDNAの紐をとってズームインしてみると、それはヌクレオチドという基本的な単位が連なってできていることがわかる。ヌクレオチドはある程度大きな分子だ。ヌクレオチドには四種類あり、AとGとCとTがある。それらをそれぞれ一つの文字と同一視してみると、四つの文字がある事になる。各DNAの紐がその四文字がどの順番で繋がれてできているかと言う情報の全てがゲノム情報である。ただ四文字がどのように並んでいるのか、それだけなのに案外色々なことがわかるのである。
ちなみに染色体DNAは相補的な二つの鎖からなる二重鎖になっている。より紐みたいな感じだ。二つの鎖をくっつけている物理的な相互作用が存在するのだ。ヌクレオチド単位で考えると、AとTが相互作用でペアになり、CがGと相互作用でペアリングしている。染色体DNAはそのペアリングが鎖の端から端まであるようなイメージだ。
今回ジェレミーが調べたのは、ここ、惑星マジーに生息するモンスター、スライムのゲノムである。惑星マジーで確認されているモンスターはスライムのみで、ガーゴイルとかドラゴンとかグリフォンなど、その他のモンスターは未確認である。
さて、スライムであるが、ジェレミーの研究がされる前には、原子レベルでは我々普通の生き物と変わらないことがわかっていた。例えば、ここ、惑星マジーには太陽系第三惑星、地球同様に、水素、酸素、窒素、そして炭素などの元素が存在する。そして、それら原子が結合し分子を構成している。
ただ分子レベルで言えば、スライムは他の生物と異なっていた。ヌクレオチドはA、G、C、Tの四つではなく、それらとは微妙に異なるU、N、K、Oと命名された別の四つである事が、ジェレミーの今回の研究が始まる前にわかっていた。スラ情課の彼の先輩が既にそれを明らかにしていたのだ。構成要素の文字が違うのだから、スライムの細胞にあるのは、もはやDNAとは呼べない。簡単のために、それはスライムDNAと名付けられた。
地球でも、そして偶然の一致だが惑星マジーでもヒトの細胞には46本の染色体がある。そしてスライムには30本の染色体がある。ジェレミーは、スライムDNAシークエンサーを開発し、30本あるスライムDNAの上でU、N、K、Oの四文字がどの順序で連なっているのかを明らかにしたのだった。これは、スライムを分子レベルで理解する重要な足掛かりだった。
ジェレミーは、彼が好めば、大学などの研究機関に、彼の業績を持ってして移ることは、できるだろう。実際に彼の元には、有名な国内外の研究機関より、教授職のオファーがいくつかすでに届いていたのだった。
だが、ここは研究機関ではなく、国家防衛軍なのである。
「おやおや、スライム生命情報解析課の皆さんではないですか。」
「おはよう!対スライム戦闘部隊、第7小隊隊長バリアン ベルモント。」
スライム生命情報解析課課長のエミリーとバリアンの間に、急に少し緊張した空気が流れる。
「軍で学術研究とは、やはり雅なものですな。」
「軍に雅さがあって何がいけないのか、わからないわ。それに、いつの日かスライムを科学するのは、役にたつかもしれない。悪魔の証明ってご存知かしら?何かが無いっていう事って、証明することはできませんでしてよ?」
「ふん、いつの日か、か。その文句、聞き飽きましたよ!ずっとその文句で巨額予算をかっさらって行くのだからな、あなたは。だが実際のスライムとの戦闘を見ればどうだろうか!エーテルを使い戦うのは、我ら戦闘部隊、スライムの科学の結果など用いた事、一度もないですよ!」
バリアンのその一言は、スラ情課の軍内部でのポジションを的確についたものだった。
惑星マジーには、魔法元素エーテルが空気中にふんだんに存在する。そのように人は感じている。しかし、実際にはエーテルは科学的な特徴づけが全く進んでいない何かでしかなかった。また魔法元素エーテルと呼ばれるが、他の魔法元素があるのか否かも不明だし、そもそも、魔法元素と言う名前がふさわしいのかも本当はわからない。ただ、ヒトのうち5%位の者は、それを操る才能がある。彼ら、彼女らは能力者と呼ばれた。そしてスライムは、能力者が放ったエーテルで攻撃する事で倒す事ができる。対スライム戦闘部隊は、その能力者達でなる特殊部隊なのである。
非常に興味深い事に、スライムを倒すにはエーテルを使って攻撃する以外に方法がないのだ。過去に人類は、銃や爆弾など、科学技術を基にした兵器でスライムを討伐できないか試したが、それは全て失敗した。今の科学技術ではスライムは倒せないのだ。
スライムはスライムDNAなど、科学的実態を部分的に持っている存在ではあるのだが、魔法元素にも依存した生き物でもあると考えられている。故に、今回ジェレミー達がゲノム解読に成功したとは言え、生き物としてどれほどの特徴づけができたかは、未知な部分が大きい。
そして、エーテルとの関連の掴めない範囲でのスライムの科学的実態の部分だけが、いくらわかってこようと、それは軍のパフォーマンスには影響しない。故にそのような科学的知識を積み上げてきたスラ情課ではあったが、軍の中では、お荷物と揶揄する声も大きかったのだ。
さらに言えば、スライムの中の魔法元素依存パートと科学的実態パートのミッシングリンクは、もしかすると、あるのかもしれないし、その二つのパートはほぼ独立なのかもしれなかった。
それでも、スラ情課の研究資金は潤沢だった。まず各国の軍隊がスライムを研究をしているため、出し抜かれて何か不利になる状況になるといけないということで、軍はお金を出した。また、先述のエーテルの件もあってスラ情課の研究はスライム退治には役に立たないかもしれないが、一般の生命研究には大いに役立つ可能性があった。更には軍の活動の広報には、研究はもってこいだったりと、様々な大人の事情があり、スラ情課の予算は大きかったのだ。
「この話を私たちで続けても平行線のようですわね。」
エミリーが言った。
「そう。とにかく、スラ情課が食堂をイベントに使える時間はもう終わりです。今はもう、うちの部隊がチームビルディングに使う時間だ。ちゃんと電子システムでここは予約しましたよ。さっさと出て行ってくださいね、エミリー先輩。」
第七小隊隊長バリアンが言う。
「それは失礼。みなさん、オフィスに戻りましょう。」
「へーい。」
スラ情課の皆はテーブルの上に出していたお菓子の守られた皿やコップを手に持って、ゾロゾロと退出を始めた。
「ジェレミー。」
ヒソヒソ声で彼の名を呼びながら、第七小隊の一人の女性が、ジェレミーに近づき、彼の手にそれとなくメモ用紙を渡した。それは国家防衛軍対スライム戦闘部隊の若きエース、マリア モノーであった。
スラ情課によるスライム科学まとめ
・惑星マジーでは普通の生き物のDNAは四種類のヌクレオチドA、G、C、Tからなる。(四種類の呼び名は偶然にも地球でも同じ)
・スライムのDNA、スライムDNA、は普通の生き物のそれとは違う四種類のヌクレオチド、U、N、K、Oからなる。
・ヌクレオチドは文字に例えられる。
・普通のDNAもスライムDNAも二本鎖になっている。これらは二つの鎖を構成するヌクレオチドの片方の鎖にあるものがもう片方の鎖にあるものと、物理的な相互作用をしているためである。普通の生き物のDNA二本鎖ではAとTがくっつき、GとCがくっついている。スライムDNA上ではUとN、KとOがくっついている。
・今回ジェレミー達は、スライムDNAのヌクレオチドの配列を読む機械、スライムDNAシークエンサーを開発し、惑星マジーのスライムの、全部で30本あるスライムDNA、別の言葉ではスライム染色体を読んだ。つまり、それらの鎖はどの文字がどの順序で並んでできたのか、全て解明した。この文字の並びをスライムゲノムと呼ぶ。