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池の水ぜんぶ抜く大作戦

 本作『一ノ瀬ちづるの事件簿 池の水ぜんぶ抜く大作戦』は、最初に犯人の犯行とその動機を明かしたうえで、刑事がどのようにして真相にたどり着くか――その過程こそが読みどころとなる形式です。

 主人公・一ノ瀬ちづるは、柔らかな物腰と女言葉を使いながらも、鋭い観察眼と緻密な論理で事件の核心を突いていきます。

 一見、軽く受け流すように見える態度の裏には、綿密な計算と張り巡らされた伏線があり、それらすべてが最後の「罠」へと収束します。

 本作ではまた、現代日本のメディア業界の裏側を舞台に、業界の倫理、権力構造、そして名声と過去の因縁を絡めることで、単なるミステリーではない社会的な視点も描いています。

 読み始めたとき、読者はきっと犯人の“完全犯罪”に肩入れしたくなるかもしれません。

 けれど最後の一撃で、その油断は見事に打ち砕かれることでしょう。

 どうぞ、ちづるの「静かな追い詰め」をお楽しみください。

第一章:過去と恐喝

 豚一のぶた・いちのしんは、テレビ業界でその名を知らぬ者はいない売れっ子プロデューサーだった。番組制作会社「アングルズ」に所属し、バラエティから情報番組、ドキュメンタリーまで幅広く手がけるヒットメーカー。視聴率に敏感で、流行に鋭く、面白いものなら何でも番組に仕立てた。

 だが、そんな豚にも、業界に知られたくない過去があった。

 それは二十代前半、駆け出しの頃。貧乏生活の中、知り合いの紹介で出演した一本の裏ビデオだった。顔出し、ノーカット、モザイクなし。そういう作品だった。金は良かったが、軽い気持ちで出るにはあまりにも生々しく、そして取り返しのつかない映像だった。

 その過去を知ったのが、大口太蔵おおぐち・たいぞうだった。

 「なあ、豚ちゃん。これ、あんたで間違いないよな?」

 ある日、制作会議のあと、大口が不意に差し出したタブレットの画面には、見覚えのある映像が流れていた。いや、ただの映像ではない。

そこに映っていたのは、他ならぬ――若き日の自分だった。

 痩せた頬、ぎこちない笑顔、裸の背中。忘れたくても忘れられない“記録”。

豚は言葉を失い、凍りついた。

 「いやあ、俺も驚いたよ。まさか有名プロデューサー様が、こんな作品に出てたなんてさ」

 大口は薄ら笑いを浮かべながら、声を潜めて続けた。

 「で、どうすんの? これ、うっかりネットに流れちゃったら、大騒ぎになるんじゃね? 奥さんとか、会社とか、局とか……」

 「……何が目的だ」

 絞り出すように言った豚の声は、もはやプロデューサーではなく、一人の追い詰められた男のものだった。

 「目的? やだなあ、そりゃ“友情”だよ、友情。俺が黙っててやる代わりに、ちょっとだけ誠意を見せてもらえれば」

 「……いくらだ」

 「月に百万。はした金だろ? あと、うちの娘がタレント志望なんだ。バラエティでも情報番組でもいい。ワンコーナーでいいから出してくれよ」

 ***

 それからの一週間は、豚にとって生き地獄だった。

 銀行口座から金を移し、番組の経費を偽装し、部下に内緒で出金処理をした。

一方で、大口は得意満面で制作会議に顔を出し、スタッフにも平気で口を出すようになった。

 「おい、豚ちゃん。あの池の水抜く企画、ちょっと前倒しできねえ? うちの娘が撮影入ってるんだけど、予定かぶりそうなんだよな。空けてやってくれよ」

 「……調整してみます」

 「おお、助かるわ! やっぱ気が利くな、豚ちゃんは」

 さらに、支払いが一日でも遅れればすぐに電話が来た。

大口の口調は柔らかいが、確実に人を刺す毒を含んでいた。

 そして、あの夜だった。

 豚は、大口の要求を断れなかった。

だが、頭の中で何かが「もう終わらせろ」と囁いた。

 会食のあと、自宅近くまで来たところで、豚は大口を自宅のワインセラーに招いた。

 「珍しいワインが手に入ったんですよ。ちょっとだけ、見ていきませんか」

 「へえ、いいじゃん。酒好きってわけじゃないけど、タダなら飲んでやるよ」

 豚は自然な口調で続けた。

 「エレベーターが調整中なので、非常階段を使ってください。まあ、6階なので、苦労はしないと思います」

 「何だよ、しょうがないな」

 非常階段には監視カメラが設置されていない。これで、大口が来た記録は残らない。

 ワインセラーのドアが閉まる。ひんやりとした空気の中、ワインラックの奥に置かれた鉄パイプが、豚の手に吸い寄せられるように握られた。

 一撃だった。

頭頂部を殴られた大口は、声も上げずに崩れ落ちた。

 ***

 今、豚は再びその部屋に立っていた。

 冷却温度を最低に設定したワイン倉庫。そこに、ビニールシートと毛布で包まれた大口の遺体が置かれていた。周囲にはワインケースを積み上げてある。一見しただけでは、遺体があるとはわからないようになっている。

 「……まだ大丈夫だ。誰も気づいていない。失踪扱いだ。時間はある……」

 自分に言い聞かせるように、豚は呟いた。

 だが、その“時間”は無限ではない。遺体を冷蔵し続けるにも限界がある。

どこか、安全な場所に、確実に“処理”しなければ――

 ふと、頭に浮かんだのは、あの池だった。

 現在進行中のロケ企画。

郊外の観光池を舞台に「池の水ぜんぶ抜く」という大型特番。

市の協力で実現した話題企画であり、収録後は数日間、池の周囲は立入禁止になる。

 池の底に、誰にも見られずに何かを“置く”には――絶好の場所だった。

 「……それだ」

 豚はスケジュール表を見つめながら、ゆっくりと笑った。

だがその笑みは、神経を擦り減らした男の、崩れかけた仮面のようだった。


 第二章:刑事登場

 コーヒーの香りをまとわせながら、一人の女刑事がテレビ局の廊下を歩いていた。黒いスーツに身を包み、艶のあるショートカットの黒髪を軽く揺らしながら、迷いのない足取りで進む。

 その手には、スターバックスのラテ。

そしてその胸には、未解決の“違和感”が静かに燃えていた。

 一ノ瀬ちづる――殺人事件を専門とする捜査一課の刑事。

今回はまだ“殺人”と決まったわけではない。だが彼女の勘が、事件の底に潜む異臭を見逃すはずがなかった。

 訪れたのは、テレビ制作会社「アングルズ」の控室。

中には、プロデューサーの豚一の進がスタッフと何かを打ち合わせている最中だった。

 「失礼します。お時間、いただけるかしら?」

 「あ……どうぞ。何か?」

 豚は慌てた様子は見せなかったが、声の調子がわずかに浮いた。

 「わたし、一ノ瀬ちづると申します。警視庁の者です。ちょっとだけ、お話をうかがいたくて」

 ちづるはラテを軽く持ち上げて会釈する。

豚は顔色を変えず、ドアの前まで案内した。

 別室に移ってから、ちづるは本題に入った。

 「わたしは殺人事件を専門に担当しているんですけど……今回の件は、少し複雑なの。実はね、大口太蔵さんのご家族から、“あの人は殺されたのではないか”って連絡があったのよ」

 豚の眉が、ほんのわずかに動いた。

 「殺された……って、誰が?」

 「そこまでは分からないわ。今は“失踪”として捜査してるけど、ご家族は最初から“殺人の可能性”を強く主張していて」

 ちづるは、カップのフタを外し、ラテをひとくち。

その間に視線を豚の目元に走らせる。わずかに乾いたまばたき。動揺の痕跡。

 「それで……どうして、私のところに?」

 「ご家族のお話によると――大口さん、“あなたのところでワインをご馳走になる”って言って、家を出たのが最後だったそうなの」

 しばし沈黙が流れた。豚は口を開いた。

 「……そうですか。いや、彼は来てませんよ。たしかに、私はワイン好きで有名ですがね。あの人の言うことはあてになりません。デマばっかり飛ばすし、業界の人間も彼の不誠実さにはうんざりしてた。最近は仕事も減ってたんですよ」

 「それにしては……あなたの番組でよくお見かけしてたような気がするわ」

 「ええ……まあ、あれはうちのスタッフが勝手に呼んだんでしょう。正直、私個人としては、あまり好んではいませんでしたよ」

 「そう。じゃあ確認するけど……彼は、あなたの自宅には来ていないのね?」

 「ええ。刑事さん、どうぞ調べてください。うちのマンションには管理人もいますし、出入り口には監視カメラもあります。記録を確認すれば、すぐに分かりますよ」

 ちづるは微笑んだ。

 「ええ、遠慮なく拝見させてもらうわね」

 彼女が立ち上がろうとしたとき、ふと壁のポスターに目を止めた。

 「“池の水ぜんぶ抜く”……この企画、好きなのよね。録画しなきゃ、うっかり忘れちゃいそう」

 その口調は柔らかかったが、その瞳には一切の油断がなかった。

 ***

 翌日、ちづるは豚のマンションの監視カメラ映像を確認していた。

 玄関、ロビー、エレベーター――どこにも大口太蔵の姿は映っていない。

たしかに“来ていない”。

あるいは、“映らないように来た”。

 「……へえ、なるほど。そういうこと」

 ちづるは、映像を停止し、目を細めた。

 「じゃあ、非常階段かしらね。監視の死角を、彼が知ってたとは思えない。でも、案内した側が知ってたら――話は別よね」

 ***

 数日後、ちづるは再び豚のもとを訪れた。

 番組はすでに放送され、池の水は抜かれ、何も出なかったことになっていた。

池は再び満たされ、ただの“きれいな池”として映像に収まっていた。

 「先日、“池の水”の特番、拝見したわ。面白かった」

 「ありがとうございます。反響も上々でしたよ」

 「でも……スタッフの方に聞いたら、あの企画、もともとの予定より前倒ししたんですってね?」

 「ええ。まあ、スケジュールの都合で」

 「それと――大口さん、出演予定だったのよね?」

 豚の笑顔が一瞬だけ固まった。

 「そうですよ」

 「なのに、姿を見せなかった。……不思議ね」

 ちづるは穏やかに言いながら、ラテのカップを机の上に置いた。

 「わたし、ちょっと気になるの。この事件――」

 その口調は、あくまでも柔らかく、そして静かに核心へ近づいていた。

 一ノ瀬ちづるの事件簿


 第三章:けしかけ

 控室のソファに浅く腰かけた豚一の進は、うっすらと笑っていた。

刑事が来た時は驚いたが、その後の展開は――むしろ想像どおりだった。

 大口太蔵の姿は、監視カメラには映っていない。

あれだけ映像にこだわる刑事でも、証拠がなければ動けない。

しかも、あの女刑事、一ノ瀬ちづるは妙に冷静で、感情の動きが読みにくい。

けれど――彼女の口ぶりと視線から、ある“推理の方向性”が垣間見えた。

 (そろそろ、そっちに意識を向けてもらわないとな……)

 豚はわざとらしくスタッフと雑談しながら、大きめの声で話した。

 「例の池のロケ、ほんと綺麗だったな。やっぱり水を全部抜くとスッキリするよな。ああいうの、捜査にも使えるんじゃないか?」

 それを偶然聞きとがめたふりで近づいてきたのが、一ノ瀬ちづるだった。

 「……水を全部抜く?」

 豚は肩をすくめて言った。

 「ええ。うちの特番でやったんですよ、郊外の公園の池。何も出ませんでしたけどね。なんか……ああいうの見てると、思いませんか? 水の下に、なにか“隠れてるかも”って」

 ちづるは、しばらく黙ったまま彼を見つめていたが、やがて小さく笑った。

 「……刑事の勘って、そういう何気ないひと言に反応しちゃうのよね。困ったものだわ」

 彼女はそう言いながら、すっと踵を返して控室を後にした。

 ***

 数日後。ちづるは、都内某所にあるスターバックスの端の席にいた。

愛用のキャラメルラテを手にしながら、スマホをいじるでもなく、ぼんやりと紙ナプキンを折りたたんでいる。

 「……そうだけど、進展してないときのラテって、美味しくないわね」

 苦笑気味に呟く声は、自嘲を含んでいた。

 大口太蔵の行方は、いまだにつかめていない。

姿を消した当日、彼が“ワインを飲みに行く”と話していた相手が豚だったことは確か。

だが、証拠がない。監視カメラには映っていない。管理人の記憶にも残っていない。

 (自分の足で来たんじゃない――“来させられた”のね)

 その推測は確かに当たっている。だが、それを裏付ける証拠がない以上、ただの勘でしかなかった。

 ちづるはスマホのメモを開き、やるべきリストをスクロールしていく。

その中に、新たに追加された項目があった。

 《池の水抜き現場の調査申請/自治体》

 (捜査として水を抜くのは、思った以上に手間がかかるのよね……)

 彼女はその一件を思い出して、再び苦くラテをすすった。

 自治体への許可申請は出してあるが、「前例がない」「公園利用者への影響がある」などと言われ、なかなか許可が下りない。

環境課、維持管理課、そして危機管理課――次々にたらい回しにされ、対応は遅々として進まない。

 「役所って、ほんとこういうときだけ妙に真面目なのよね……」

 彼女はそう呟いてから、ふと思い立ってノートPCを開いた。

警察の照会システムにアクセスし、大口太蔵の銀行口座を再度チェックする。

 (殺された動機に心当たりがなかったわけじゃないの。あの人、敵が多かったし……でも、何か引っかかる)

 口座の入出金記録は、ごく普通に見えた。だが――月に一度、必ず振り込まれている“ある種の定額”が目についた。

 金額はちょうど100万円。

送金者の名義は法人名だったが、名義変更の履歴をたどっていくと、番組制作会社のペーパー会社に突き当たった。

 (……これは、明らかに“隠して送ってる”わね)

 ちづるは指先でテーブルをトントンと叩いた。

 (恐喝されてたのかもしれない。それも、かなり執拗に)

 受け取る側――つまり大口の口座に、証拠が残っていたのは幸いだった。

 (じゃあ、誰が払ってたの……?)

 名義をたどった先に浮かび上がったのは、「アングルズ・ビジョン」。

豚一の進が番組を受け持っている子会社の名前だった。

 「……これは、偶然じゃ済まされないわね」

 ちづるはそうつぶやきながら、カップのラテを飲み干した。

でも、やっぱり味はさえない。

 「なんか、もやもやするわ……ラテがまずくなる事件なんて、最低よ」

 ***

 一方その頃、テレビ局の控室で豚はメイクを終え、モニターをぼんやりと眺めていた。

番組は順調に終わり、池の水もすでに元に戻されている。スタッフの間では「思ったより何も出なかったな」と笑い話になっていた。

 (よし、これで“何もなかった”という事実が世間に広まった)

 池の水を抜いた“あと”であれば、そこに何かを“置いて”も、誰も疑わない。

 (あの女刑事……まさか本当に池を調べようとするとはな。チョロいもんだ)

 豚はにやりと笑い、ネクタイを締め直した。

 その目は、すでに“水の下”に思いを馳せていた。


 第四章:沈黙の池

 郊外の駅から徒歩三分。看板もない、古びた雑居ビルの三階にその店はあった。

金属製の扉を開けると、埃のにおいと古いエロ雑誌の匂いが混じった空気が押し寄せる。

 カウンターの奥にいた店主は、五十がらみの男だった。目が細く、手の指先が黄ばんでいる。

 「いらっしゃい。……お姉さん、もしかして警察?」

 ちづるは黒いスーツのまま、スターバックスのカップを手にしていた。

 「ええ、そうよ。刑事の一ノ瀬と申します」

 「いやあ、何もしてませんよ、こっちは」

 「そうじゃないの。あなたは、大口太蔵さんをご存知ですね?」

 男は一瞬まばたきをしたのち、口元を緩めた。

 「……ええ、仲がいい方ですよ。あの人、昔からゴシップ好きでね。うちにもよく来てましたよ」

 「最近はいつ、いらっしゃったかしら?」

 「随分前ですけどね……ちょうど、あれを見せた日ですな。豚一の進の裏DVD」

 ちづるはわずかに眉を上げた。

 「裏……って、どういう意味かしら?」

 「そりゃあまあ……表に出せないやつ。モザイクなしで、本人バッチリ映ってるやつ。一本しかないですけどね。豚さん、若い頃金に困ってたみたいで。今じゃ名物プロデューサーですから。あれがバレたら業界追放でしょうな」

 「大口さんは、それを手に入れたのね?」

 「ええ、すごく喜んでた。『これで豚をコントロールできる』って言ってたなあ。結局、大口をテレビ界から追い出したのは、豚さんですからね。なんか根に持ってたみたいで」

 「そのDVD、見せてもらえないかしら?」

 「いいですよ。取調室に持っていかれるのはご勘弁だけど、今ここで見るくらいなら」

 男はカウンター下から古びたDVDケースを取り出し、無造作にちづるへ差し出した。

ちづるはそれを手に取り、無言でケースの裏面を見つめた。

 「……これが動機、ってわけね」

 独りごちた声は、部屋の空気に静かに沈んでいった。

 ***

 数日後。

市の協力を得て、ちづるは正式な捜索として「池の水抜き」を実行に移した。

時間はかかったが、警察が関与することと“失踪者に関係する可能性”を説得材料にして、ようやく自治体の許可が下りたのだ。

 早朝から作業員たちが集まり、ポンプ車が池の端に並ぶ。警察からも数人の応援が来ており、ちづるは現場監督のように池のふちに立っていた。

 「よろしくお願いします」

 「はい。水の量はそこまで多くないですし、底は浅いコンクリート敷きなので、比較的早く抜けると思います」

 ポンプが稼働し始め、水面が少しずつ波打ち、音を立てて池の中へ吸い込まれていく。

 作業員が注意深く排水の流れを監視しながら、池の水はゆっくりと引いていく。

途中、空き缶や自転車のタイヤ、長靴の片方などが泥と共に現れ、作業員が引き上げては片隅に寄せていった。

 「……何もないじゃないの」

 ちづるの横に来た別の刑事がぽつりと呟いた。

 夕方には、池の底がほぼすべて露出した。ぬかるみも少なく、探査は順調に進んだ。

ドローンによる上空からの記録も撮られたが、死体らしきものは見つからなかった。

 池は、ただの池だった。

 ***

 「これが“警察のやること”ですか? なんの証拠もないのに、池の水をぜんぶ抜くなんて……あきれてものが言えませんよ」

 番組控室。豚一の進が怒鳴っていた。

 「仕事の妨害ですよこれは。局にも迷惑がかかってる。うちはちゃんと番組としてロケした池ですよ。そこをいきなり“捜索”なんて。法的手段、取らせてもらいますからね。覚えておいてください」

 ちづるは黙って彼の罵声を聞いていた。

その表情は、悔しさも怒りも見せず、ただ淡々としていた。

 「そう。ご自由にどうぞ」

 たったそれだけ言って、スタバのラテを手に、静かに部屋を出た。

 背中越しに、豚の舌打ちが聞こえた。


 第五章:真夜中の罠

 真夜中、東京郊外の高級マンション。

その非常階段に、ゆっくりと重い影が降りてくる。

六階から地上まで、静かに、慎重に――男は背中に重い荷物を背負い、足元の音に神経を尖らせていた。

 豚一の進。

肩にかけたシートの中には、大口太蔵の遺体が包まれている。

 死後硬直はすでに解け、身体はぬめるように重い。

何度も踊り場で足を止めては息を整え、また降りる。

 「……あと少しだ。もうすぐ終わる」

 吐息は細く、額には汗がにじんでいた。

マンションの防犯カメラに映らないルートを選び、誰にも見られず外へ出る。

 駐車場に停めていたワンボックス車の後部ハッチを開け、シートごと大口を押し込む。

後部にはブルーシートが敷かれ、ビニール手袋と簡易スコップが積まれていた。

 車は静かに、郊外の公園へと走り出した。

 ***

 午前二時過ぎ。人気のない道を抜け、目的地の公園に到着する。

エンジンを切ると、辺りはしんと静まり返っていた。

照明は落ち、周囲には人の気配もない。

 (あの池の底には“何もなかった”と、番組で証明されてる。水も戻された。もう誰も疑わない)

 豚はそう確信しながら、後部ハッチを開け、大口の遺体を肩に担ぐ。

 足元に注意しながら、一歩一歩池へと進む。

池は静かに横たわり、月明かりに照らされて白く光っていた。

 「……もうすぐ、終わる」

 まさにそのときだった。

 ――パッ。

 突然、池の周囲にライトが灯る。

舞台の幕が上がるように、池のまわりが白く、無機質に照らし出された。

 「ここまで、ご苦労さん。重かったでしょう?」

 声の主は、池の向こうからゆっくりと歩いてくる。

黒いスーツの女刑事――一ノ瀬ちづるだった。

 豚はその場に凍りついた。担いでいた遺体がずり落ちかけ、慌てて抱え直す。

 「な、なんで……」

 「驚いたかしら? この瞬間を、ずっと待ってたのよ」

 ちづるは池の縁を歩きながら続けた。声は落ち着き、余裕すらある。

 「裏DVDから動機ははっきりしたし、通帳からは脅迫の痕跡もつかんだわ。

でも……最後までわからなかったの。死体をどこに隠したかってことだけ」

 豚は口を開こうとしたが、言葉にならない。

ちづるの声は続く。

 「でもね、あたし気づいてたの。“池の水を抜いたあとに何かを隠すつもりなんじゃないか”って。

だから、あなたの思いどおりに“無駄な水抜き捜査”をしてあげたの。悔しそうな顔も演技だったのよ」

 ちづるは微笑み、立ち止まる。

 「ええ、全部あなたの筋書きどおり……に“見えた”でしょうね。

でも、あたしは最初から気づいてたの。あなたが“池を安全な場所にしたがってる”って」

 「だから、泳がせてあげたのよ。まんまと喜んで、池に遺体を運んでくるまでね」

 豚の顔は青ざめ、足元がふらついていた。

 「なるほど……全て計算づくだったんだね……」

 「そう。“相手には合わせなくちゃ”ってね。演技派女優、一ノ瀬ちづるとしては」

 ちづるが手を挙げると、池の木陰から複数の警官たちが現れた。

すでに包囲は完了していた。

 「豚一の進さん、あなたを殺人および死体遺棄の容疑で逮捕するわ」

 その声は静かで、そして容赦がなかった。

 豚はもう抵抗する力も残っておらず、肩の上で沈黙する大口の遺体とともに、ただその場に崩れ落ちた。

 ***

 翌日――

 ちづるは、都心のスターバックスにいた。

窓際の席で、熱々のキャラメルマキアートをゆっくりと口に運ぶ。

 事件が解決したとき、彼女が必ず注文するご褒美の一杯だ。

 「やっぱり……事件解決のあとのキャラメルマキアートは最高ね。でも、これ……高いのよねぇ」

 ラテアートが溶けかけたカップの中に微笑を落としながら、ふとスマートフォンが震える。

画面には田村からのSNS通知。

 《事件発生》

 「……ふぅ。また?」

 そうつぶやき、ちづるは残りのマキアートを飲み干した。

 (完)

 ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。

 『池の水ぜんぶ抜く大作戦』という、ややトリッキーなタイトルから始まった本作ですが、物語の中身は倒叙ミステリーとして丁寧に組み立てました。

 犯人である豚一の進は、ある意味で同情の余地もあるキャラクターです。若気の至りとはいえ、裏ビデオ出演という消し去りたい過去。

 その過去が暴かれることへの恐怖は、現代のSNS社会にも通じる普遍的な問題だと考えています。

 だからこそ、「池」という一見無関係な要素を、“隠す場所”から“暴かれる場所”へと変換し、物語の核心に据えました。

 そして一ノ瀬ちづる。

 彼女は今回も感情的になることなく、冷静に、粘り強く、真実へと迫っていきました。

 どれだけ泥水をかき混ぜられても、彼女のキャラメルマキアートだけは、変わらず熱く、甘かったのです。

 この作品が、読者の皆さまの心に“静かな興奮”や余韻を残せていたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。

 また、次の事件でお会いできる日を楽しみにしています。

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