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一ノ瀬ちづるの事件簿 毒入りカートリッジ

 人が人を殺すとき、その動機は複雑に絡み合い、単純な線には還元できない。金、名誉、憎しみ、恐怖、そして──過去。  この物語は、過去の罪に縛られた男と、それを嗅ぎ取った女刑事の静かな戦いである。  犯行は、用意周到で、優雅ですらあった。だが、どれほど味覚に優れた者でも、証拠の「におい」までは欺けない。敏腕刑事・一ノ瀬ちづるの鋭い嗅覚が、一滴の毒から真実を引き寄せる。

 倒叙形式で描かれるこの事件の中で、読者の皆様には、“犯人がなぜバレたのか”という視点から、じっくりと味わっていただきたい。

 第一章:交換の手

 金山幸雄は、自分の指先の震えを、コーヒーカップの揺れのせいにした。

 編集部の朝は、いつもと変わらぬ騒がしさだった。新人編集者が資料を抱えて走り回り、校正紙が机の上を舞い、プリンターが絶え間なく音を立てる。その喧騒のなかで、彼だけが異様な静けさを身にまとっていた。

 グルメ雑誌『アペリティフ』の編集長として、金山は編集部の顔だった。ワイン、チーズ、熟成肉──彼の知識とセンスは本物であり、誌面に華を添えてきた。だが、今朝、彼の心を占めていたのは記事の締切ではない。

 ——今日がその日だ。

 篠原田茂一朗。

 大学時代の同級生にして、現在は著名なワイン評論家。テレビにも頻繁に出演し、独自の毒舌と的確な評価で「ワイン界の鬼才」とまで呼ばれている男。その裏側で、ひとつの秘密を握り、金山を十年にわたって脅し続けてきた。

 あの冬の日、学内で起きたワインセラーの火災。事故として処理されたそれは、酔った勢いでライターを倒した金山の過失によるものだった。篠原は、それを知っていた。いや、目撃していた。だが彼は大学を卒業するまで沈黙を保ち、その後、金山の編集者人生が波に乗り始めた頃に、ゆっくりと姿を現した。

 「過去ってのは、寝かせるほど味が出るもんだな」

 篠原は笑いながらそう言った。そして、特集記事、対談企画、イベント優遇、ワイン会の紹介──要求を次々と積み上げてきた。最初は誌面の協力だったが、やがて「活動資金」として金銭を求めるようになった。

 百万単位の振込が何度あっただろうか。表向きは広告費のように偽装していたが、金山の財布はじわじわと蝕まれていた。

 「払えるうちは黙っていてやる。だが、払えなくなったら……ね?」

 そう言った篠原の目は、笑っていなかった。

 金山は、追い詰められていた。過去の罪、キャリアの終焉、そして無限に続く恐喝。抜け出す道は、もはや一つしかなかった。

 彼は計画を立てた。

 仕掛けは、ワインオープナー。炭酸ガス式の電動モデルだ。押すだけで簡単にコルクが抜ける便利な器具で、近年のワイン愛好家に人気がある。金山は、篠原がその型を愛用していることを知っていた。

 毒を仕込むのは、そのカートリッジの内部。通常は炭酸ガスが封入されているが、外装を損なわずに開け、内部の一部に毒を塗布する。

 毒──それは、彼自身の趣味から得たものだった。

 金山は釣りが趣味で、月に何度か千葉の港まで車を走らせる。中でも彼が好んで狙ったのは、フグだった。本来なら、素人が釣ったフグを食すのは違法だ。しかし彼は、珍しい品種を釣ることに快感を覚え、そのまま持ち帰っていた。

 あるとき、毒素を含む部位を試しに冷凍保存し、ネットで得た知識を元に、簡易的な抽出を試みた。すると──濾過した液体を嗅いだだけで、金山は手応えを感じた。無色無臭。ごくわずかでも猛毒。まるで、自分の抱える“秘密”そのもののようだった。

 午後三時。

 金山は指定された高級マンションを訪れた。受付を通過し、エレベーターに乗る。鼓動がゆっくりと強くなる。

 「やあ、金山くん。久しぶりだね」

 ドアの向こうで笑った篠原は、昔のままだった。人好きのする笑顔、知的な眼鏡、そしてどこかに漂う傲慢さ。

 「今日はすばらしい一本を開けようと思ってね。ドイツのトロッケンベーレンアウスレーゼ。1975年ものだ。ちょっとした宝だよ」

 「それは楽しみですね。でも今日は、あくまで打ち合わせということで」

 部屋の奥には、ガラス棚にワインが並んでいた。その中央、見覚えのあるワインオープナーが置かれている。グレーのボディに赤いスイッチ。金山が用意した“細工済み”のものと同型だ。

 「ワイン、いつ開けます?」

 「夕食にしようと思ってるよ。今夜は独りだから、じっくり味わえる」

 「なるほど。それなら、今日は手ぶらで来たのが惜しいな。せめて、使いやすいオープナーを持ってきました。うちの部でも話題なんですよ」

 「へえ、どれどれ……」

 金山はバッグから新品のオープナーを取り出し、篠原のものと見比べるように並べた。まるでモデル違いを確認するかのように自然な動作で、彼は手に取ったオープナーを入れ替えた。

 「たしかに見た目は一緒だな。けど、触ってみると細かいところが違う気がするな」

 「ええ。持ち手の滑り止めが改良されてるらしいですよ」

 「さすが編集長、目ざといな」

 談笑は、それだけだった。金山は書類を渡し、次号の掲載内容を軽く打ち合わせると、十分も経たずに腰を上げた。

 「じゃあ、またご連絡します」

 「こちらこそ。夜のワインを楽しみにしてるよ」

 ドアを閉めたあと、廊下に出た金山は深く息を吐いた。掌の汗が冷たく、シャツの内側に貼りつく。エレベーターの数字がゆっくりと減っていくのを、彼は無表情で見つめていた。

 篠原田茂一朗は、その夜、ひとりでワインを開けるはずだ。毒入りのオープナーで。静かに、優雅に、死へと導かれる。

 それは釣り上げた魚を締めるようなものだった。静かに、確実に、そして痕跡なく。

 完璧だ。

 そう、彼は思っていた。


 第二章:重さの理由

 現場に到着したちづるは、左手にラテのカップを持っていた。

 湯気の立つそれは、彼女の表情とは対照的に、やわらかな香りを放っていた。

 「捜査開始にはカフェインが要るのよ」

 そう言って、彼女は一口だけ飲むと、すぐにカップを傍らのポストの縁にそっと置いた。現場の空気に、すっと気持ちを切り替える。

 黒のパンツスーツに身を包み、髪は短く切りそろえられている。艶のある黒髪が陽の光を柔らかく反射し、引き締まった顎の輪郭が涼しげな印象を与えていた。身長はおよそ一七〇センチ。すらりとしたその姿に、誰もが最初は気圧される。だが、一度笑えば、左の頬に小さく浮かぶえくぼが、彼女に親しみやすさを添えていた。

 彼女の視線は、建物の外観から玄関ドア、さらに呼び鈴の位置へと流れていった。すべてを、一度で記録するように。

 「死因は、毒物反応です。特殊な成分が検出されました。自然死や事故の線は限りなく薄い」

 鑑識の報告を受けたのは、前夜遅く。一ノ瀬はすぐに現場保存を指示し、今朝、改めて一人で訪れた。現場はすでに検分を終え、必要な物証も確保されている。だが、彼女には自分の目で見なければ納得できない性分がある。

 篠原田茂一朗。美食評論家として名を馳せ、ワインに関する書籍も多く出版していた。テレビでも見かける機会が多く、その饒舌と博識で視聴者を魅了していた男。その彼が、自宅のリビングで死んでいた。グラス片手に、食卓に崩れ落ちるように。

 「美しく、そして……派手ね」

 一ノ瀬は小声で呟いた。テーブルには豪華な食事が並べられていた。ローストビーフ、フォアグラのテリーヌ、サフランライスに、香り高いチーズ。高級食材をふんだんに使い、彩りも完璧だった。料理が運ばれてきた形跡はなく、すべてが自宅のキッチンで用意されたものだ。

 テーブルには開栓済みのワインボトルと、一脚のグラスが置かれていた。深紅の液体は、まるで静かに眠るように、その底で揺れている。

 その脇に、電動のワインオープナー。グレーの筐体に赤いスイッチ。シンプルながら高級感のあるデザインで、愛用していたことがうかがえる。

 一ノ瀬は、鑑識から渡されたオープナーの付属カートリッジを手に取り、そっと指先でその重さを量るように持ち上げた。

 ──ほんの、わずかに重い。

 炭酸ガス式のオープナーであれば、カートリッジのガスは抜栓ごとに消費される。今のものは、新品に近い重さだった。

 彼女は胸ポケットから小さな手帳を取り出し、「重量、違和感あり。カートリッジ交換時期の確認必要」とだけ記しておいた。

 現場には争った形跡はない。窓も鍵も施錠されており、侵入者の痕跡もない。自らワインを注ぎ、ゆっくりと食事を楽しもうとしていた矢先に、突然死んだ──そう見せかけるには、あまりに完成されすぎている。

 「これは、演出された“最後の晩餐”よね……」

 一ノ瀬は、篠原のスマートフォンを手に取った。ロックはすでに解除され、データ抽出も済んでいる。カレンダーアプリを開いたその瞬間、彼女の眉がわずかに動いた。

 《15:00 金山幸雄来訪/ワイン特集打合せ》

 金山幸雄。『アペリティフ』編集長。篠原とは何度も仕事をしており、共著や企画にも参加している。美食を語らせれば一級、ワインの知識も深く、社会的信用は高い。だが、事件当日の来訪者であり、死亡直前に会っていた人物。疑いはかけられて当然の位置にいた。

 彼女は即座に、金山に連絡を取り、午後には現場に呼び寄せた。

 「この部屋で、彼が倒れていたんですね……」

 金山の声には余裕があった。

 「この部屋を見て、何か気づいたことはありますか?」

 そう問いかけたあと、一ノ瀬は控室での打ち合わせを理由に席を外した。

 金山は、静かに部屋に入り、迷う素振りすら見せずに栓抜きへと歩み寄った。内ポケットからもともとあったオープナーを取り出し、何事もなかったかのように差し替える。

 (これで、終わりだ)

 彼は心の中でそう呟き、静かに立ち上がった。


 第三章:火の記憶

 都内某銀行の支店にて、篠原田茂一朗名義の通帳が開示されたのは、捜査の一環としてちづるが令状を得てからのことだった。

 「……定期的な振込があるわね。金額は……五十万、百二十万、七十万。毎月じゃない、でも不定期にまとまった額が」

 一ノ瀬は通帳のコピーを指先でなぞりながら、小さく眉をひそめた。入金の名義はいずれも法人や個人名義で、表面上は広告費や原稿料という名目にされていた。しかし、その実態は──強請りだった。

 「誰かを脅して、定期的に金を引き出していた……」

 その「誰か」を探る鍵は、最後の入金にあった。

 『株式会社アペリティフ』──金山幸雄が編集長を務める、あのグルメ雑誌の運営会社だった。

 一ノ瀬の瞳が鋭く光る。

 「やっぱり、金山……」

 そこからの捜査は早かった。篠原と金山の関係は公になっており、雑誌に共同で企画を立てた履歴も複数見つかった。だが、一ノ瀬はそこにとどまらなかった。

 「ふたりの関係はいつから?」

 大学の卒業アルバム、OB会名簿、旧学生新聞──資料を次々と洗ううちに、彼女は一枚の古い新聞記事にたどり着いた。

 《酒類管理室で小火、学生一名が軽傷》

 場所は金山と篠原が通っていた大学。十数年前のことだ。火災の原因は、ワインセラー内での火気使用。詳細は曖昧にされていたが、記事には名前がなかった。

 だが、同時期の学生名簿には、篠原田茂一朗と金山幸雄の名前が並んで記載されていた。さらに、当時の関係者への聞き込みで、一ノ瀬はひとつの証言を得る。

 「火が出る前に中で騒いでた男がいたって? ああ……眼鏡かけた、大柄なやつだったよ。たしか大学の新聞部に出入りしていて……名前は……カネヤマ、だったかな?」

 「カナヤマ」──それが「金山」だったとするなら。

 ワインにまつわる小火。関係者の証言。そして、その秘密を握っていたのが篠原だとしたら。

 「火事の犯人は金山幸雄。篠原はそれをネタに、金をゆすっていた……」

 すべてが、一本の線につながっていった。

 その日の午後。ちづるは再び金山を呼び出した。

 場所は都内のカフェ。人目があり、会話に集中しやすい。金山は白いシャツにグレーのジャケットを羽織り、相変わらず気障な笑みを浮かべて現れた。

 「またお目にかかれて光栄です。一ノ瀬さん。例の件、何か進展でも?」

 「少し気になることがありましてね」

 一ノ瀬はラテを一口すすった。

 「大学時代、ワインセラーで火事があったそうですね」

 その一言に、金山の笑みがわずかに凍った。手元のカップに目を落とす。

 「……ええ。ありましたね。小さな事故でしたけど」

 「そのとき、あなたも現場にいたとか」

 「僕が? いや、それは……噂じゃないですかね」

 口調は崩れていない。しかし、返答までの一拍の間、目線の揺れ、唇の乾き。一ノ瀬の目は、そのすべてを見逃さなかった。

 「火の記憶って、意外と長く残るものですよ」

 そう言って、一ノ瀬はわざと微笑んだ。

 金山の頬が、わずかに引きつったのを彼女は見逃さなかった。

 その微細な動揺こそが、次なる一手への布石だった。


 第四章:沈黙の毒

 「フグの毒──テトロドトキシンが検出されました」

 鑑識官の口からその言葉が発せられたとき、ちづるは手にしていた手帳をゆっくりと閉じた。

 「テトロドトキシン……」

 無色無臭、わずかな量でも人を死に至らせる猛毒。自然界に存在する毒の中でも、最も危険な部類に入る。特に加熱処理でも毒性が消えない性質を持つフグ毒は、明確な殺意を裏付けるものだった。

 「これで、事故や過失の線は完全に消えたわね」

 一ノ瀬は、篠原田茂一朗の遺体が発見された夜を思い返した。豪華な食事、開かれたワイン、そして何より、異常なほど整えられた“死の演出”。

 「毒を、どうやって手に入れたか……」

 ちづるの捜査はそこから始まった。

 まず彼女が訪ねたのは、篠原が通っていた高級割烹だった。毒を扱う調理資格を持った料理人が常駐するこの店なら、何らかのルートでフグ毒が流出する可能性がある。

 しかし、店主は資料の提出にも協力的で、仕入れ先も公的に登録された業者ばかりだった。厨房の管理体制も厳格で、不審な点は見当たらなかった。

 次に訪れたのは、金山の自宅近くにある老舗の魚屋だった。扱っている鮮魚の中にはフグも含まれており、過去に料理店へ直接卸していた経歴もある。

 「金山さん?いや、うちには来ませんねぇ。あの人、あんまり料理するタイプじゃなさそうですし」

 店主は腕を組みながら首を横に振った。

 「……でしょうね」

 割烹でも、魚屋でも、手がかりは得られなかった。追い詰めたはずの輪郭が、煙のようにぼやけていく。だが、一ノ瀬は諦めなかった。

 「彼が毒を仕入れる理由もルートも、まだ見えていないだけ」

 編集部に戻ったちづるは、金山の周辺を洗い直すことにした。日々の行動パターン、私的な関係、趣味嗜好──あらゆる情報を洗い出す。

 そんな中、編集部のスタッフのひとりがふと漏らした。

 「金山さん、けっこう釣り好きなんですよ。月に何度か、千葉のほうまで行ってるって」

 ちづるの視線が止まる。

 「釣り……?」

 「ええ。外ではあまり話さないですけど。たしか、高級魚狙いが好きらしくて、フグ釣ってきたこともあるとか……」

 「フグを……?」

 ようやく、糸口が見えた。

 素人がフグを釣るのは違法ではない。しかし、調理・摂取・譲渡には国家資格が必要である。その毒部分を抽出し、自宅で保存していたとしたら──

 「彼は、自分で毒を作ったのよ」

 思考が確信に変わる。

 その日の夕方、一ノ瀬は鑑識に依頼して、金山の車と倉庫の捜索を開始した。鍵となるのは、釣り具の中に紛れた毒物の痕跡。素人が扱うにはあまりにも危険すぎる物質。

 「……これで、ようやく追い詰められる」

 彼女の目に浮かんだのは、あのとき見せた金山の一瞬の動揺──そして、沈黙の奥に隠された殺意の匂いだった。


 第五章:黒き波紋

 午後の光が柔らかく差し込む公園の一角。ベンチに座る金山幸雄は、片手に紙コップのコーヒーを持っていた。

 香り立つ湯気がかすかに揺れ、無言のまま遠くを見つめるその姿には、どこか疲れた男の静けさが漂っていた。

 そんな彼の前に、ゆっくりと足音が近づいてくる。パンツスーツ姿の女性が、慎重かつ自然な歩みで近づき、隣に腰を下ろした。

 「お待たせしました、金山さん」

 声をかけたのは、一ノ瀬ちづる。黒髪のショートカットに鋭い眼差し。だが、笑うと左頬に浮かぶえくぼが、彼女の存在に柔らかな輪郭を与えていた。

 「一ノ瀬さん……いえ、今日は私服なんですね」

 「オフというほどでもないですが。少しだけ、お話を伺えたらと思って」

 金山は小さく頷き、コーヒーを一口すすった。

 「……自殺という可能性は、考えられませんか?」

 彼の問いかけは、唐突で、しかも抑揚に欠けていた。だが、それが逆に計算された響きを持って耳に残る。

 「考えにくいんじゃないんですか?」

 一ノ瀬はすぐには返事をせず、ゆっくりと視線を前に向けたまま口を開いた。

 「篠原さんのような人が、自分のワインに毒を混ぜて死ぬとは思えません。彼の性格、ご存じですよね?」

 金山の唇がわずかに歪んだ。「素人の思いつきですみません」と付け加えたが、その声にはどこか自嘲の響きが混じっていた。

 ちづるはカバンからメモ帳を取り出すと、少し声のトーンを下げて言った。

 「鑑識の結果が出ました。テトロドトキシンでした」

 彼女は金山の顔を静かに見つめる。

 「……フグの毒ですよ」

 「そういえば、金山さんは釣りがご趣味とか。どんな魚を釣られるんですか?」

 「……たいしたことはないですよ」

 表情は崩さず、返答も控えめ。だが、その瞬間、彼の右手の指がほんのわずかにカップを強く握ったのを、一ノ瀬は見逃さなかった。

 「海ですか? それとも川?」

 「海ですね。千葉のほうまで、たまに」

 「いいですね。釣った魚は、ご自分で調理を?」

 「ええ、まあ……簡単なものだけ」

 言葉の端々に躊躇が混じる。質問のテンポをあえて緩やかにしながら、一ノ瀬は静かに観察を続けた。

 「フグなんかも釣れるんですか?」

 金山は一瞬、答えに詰まった。目線がわずかに泳ぐ。そして、ごく短い間の後、軽く笑ってこう言った。

 「……それはないですね。僕、フグは釣ったことないです」

 それが、決定的な瞬間だった。

 彼の声の調子、呼吸のリズム、そしてコーヒーカップを握る手の力。

 そのすべてが、一ノ瀬には手に取るように分かっていた。

 (いま、この瞬間……彼は私に殺意を抱いた)

 彼女は、そこに至るまでの過程を、すでに何度も頭の中でシミュレートしていた。

 自分がどこまで踏み込めば、相手の心が揺れるのか。

 どの言葉で、どの沈黙で、どの間合いで、相手の“スイッチ”が入るのか。

 金山幸雄という男は、そうやって人を見下ろしてきた。

 冷静を装いながら、内側に火種を抱えたまま、それを表に出さずに生きてきた。

 そして今、その火が、確かに彼の中で揺らめいた。

 「釣りって奥が深いですね。ときには危ない魚も混じるでしょう?」

 「そうですね……気をつけないと」

 笑顔の裏に、薄く滲む怒気。それが、微かに空気を震わせた。

 一ノ瀬は立ち上がった。「お時間、ありがとうございました」

 金山も立ち上がる。その背筋は変わらずまっすぐだったが、コーヒーカップを握る手は、明らかに強張っていた。

 一ノ瀬は歩き出しながら、最後に一度だけ振り返った。

 「また、じっくりお話を聞かせてください。……編集長」

 彼女のえくぼが、ほんの一瞬だけかすかに浮かんだ。

 金山はその笑みの意味を測りかねたまま、空になったコーヒーカップを見つめていた。


 第六章:証拠の香り

 「一ノ瀬さん、これ、ぜひご自宅で楽しんでください」

 金山幸雄はそう言って、ちづるに一本のワインと、丁寧に包まれた電動オープナーの箱を差し出した。包装紙には小さなリボンが丁寧に結ばれており、まるで高級なギフトのように見えた。

 「編集部の方針で、協力いただいた方には試供品をお渡ししてるんです。特別な一本ですから」

 ちづるは受け取りながら、にこりと微笑んだ。

 「ありがとうございます。大切にしますね」

 ちづるはその足で鑑識課に向かった。

 ちづるは金山から渡されたワインとオープナーを鑑識課に提出した。カートリッジの内部には微量のテトロドトキシンが残留しており、毒物反応が確認された。

 しかし、篠原宅で使用されたオープナーは事件後に金山によって持ち去られており、直接の照合は不可能だった。

 「比べようがない……でも、私を殺そうとした、それが証拠よ」

 取調室。

 金山は椅子にもたれ、表情を崩さぬまま、口角だけで笑った。

 「証拠なんて、どこにもないでしょう。一ノ瀬さん」

 ちづるは静かに首を振る。

 「いいえ。あります。ワインオープナーのカートリッジ、重量の不自然な差。篠原さんの口座に流れた金。そして、あなたから直接私に贈られた“毒入りの贈り物”」

 金山の口元から笑みが消えた。

 ちづるは言葉を止め、間を取った。そして、最後の一撃のように静かに言った。

 「せっかく才能がおありなのに、悪いことにしか使わないなんて。残念です。」

 金山は黙ったまま、視線を落とした。

 刑事が静かに立ち、無言のまま金山を連行していった。

 ***

 週末。事件はすでに新聞をにぎわせていた。

 ちづるはいつものスターバックスに立ち寄り、キャラメル・マキアートを注文した。

 カップを受け取りながら、彼女はひとりごとのようにつぶやく。

 「捜査中はソイラテ。事件が終わったあとは、こっちって決めてるの」

 キャラメルの甘い香りに包まれながら、ちづるはベンチに腰を下ろした。

 えくぼが、ゆっくりと浮かんだ。

 (完)

 一ノ瀬ちづるというキャラクターは、論理と直感、冷静と情熱の間で揺れながら、事件の核に迫っていく存在です。彼女の佇まい、鋭さ、そしてほんの少しの人間味。それらを軸に、今回は「毒」というテーマを用いて物語を編みました。

 毒は目に見えず、音もなく、においすらないことがある。だからこそ、人の内面と深く結びつく。金山という犯人は、罪を犯しながらも、その手口に「美意識」を持ち込もうとした。だが、どれほど精緻な犯行でも、人を殺そうとする“意志”は必ずどこかに滲む。ちづるはその匂いを嗅ぎ分け、掴んだのです。

 小説としては珍しく、章をまたがずに密度を高めた構成を意識しました。少しでもお楽しみいただけたなら幸いです。

 次回作でまた、ちづるがどんな事件に挑むのか──ご期待ください。

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