刑事一ノ瀬ちづるの事件簿 ~毒そばの甘い罠~
「食」は、命を続けるための手段であると同時に、人の情感をも演出する。喜び、怒り、悲しみ、楽しさ。味はそれらすべてを、不死の証としてこの世に残していく。
『殺人』に「料理」を使うならば、そこには「気づかれない罪」と「歴然たる罪」が同存する。
「初めての手打ち」であるはずのそばに、なぜプロの味が残るのか。
疑問の首紐を手繋きに、黒髪の女刑事・一ノ瀬ちづるが、静かな調子で真相へと達していくさまを、どこか風味素のある文章で縦線を続けたいと願いました。
味覚、記憶、感覚。そして、真実。
この『殺人』は、「食」の入り口から、「真実」への路線を演ずる。
読んでいただき、ありがとうございます。
第一章:犯行
夜の静けさが、まるで息をひそめているようだった。
田茂池秀英は、一心に蕎麦を打っていた。滑らかな手つきで粉を練り、延ばし、包丁で均等に切っていく。静謐な空気が台所に満ちていた。
「最後くらい、美味しく食べさせてやらないとな」
小さくつぶやいたその声には、哀れみとも、愛情ともつかない奇妙な温度があった。
蕎麦の香ばしい香りが立ち上る。だが、その中には見えない死が潜んでいる。
混入されているのは、ジギタリス。毒草──キツネノテブクロから精製された、心臓に作用する自然毒だった。粉末にすれば、味も香りも残らない。料理に紛れさせるには、これ以上ない毒だ。
村田香子。大学の教え子。いまは愛人。だが、もう“関係を清算すべき相手”だった。
彼女は真剣だった。結婚を望み、周囲に漏らし始めていた。世間体、名声、将来──田茂池にとって、すべてを壊しかねない存在になっていた。
食事に誘ったのは、穏やかな別れを演出するためだ。
「少し距離を置こう」と、落ち着いた口調で話す。その代わりに、彼女の好物である手打ち蕎麦を用意した。味でごまかし、最後まで優しい“恋人”を演じるために。
蕎麦が茹で上がると、器に盛り、丁寧に包みにした。
だが彼は、その前にひとつだけ“仕事”を終えていた。香子がバッグから無造作に取り出し、テーブルの上に置いたスマートフォン──それを、彼はすれ違いざまに上着のポケットへと滑り込ませていた。
中身を見る時間はない。だがそれでよかった。重要なのは、彼女が今夜、誰とも連絡を取れなくなること。その一点に尽きる。
やがて、香子が笑顔で現れた。無防備な眼差し。信じきった声音。
「先生、なんか……懐かしい匂い。うれしいな。ありがとう」
「今夜は、一人でゆっくり食べるといいよ。考えごと、したいんだろう?」
香子は頷き、包みを受け取った。
そして、スマートフォンがないことにはまだ気づいていないようだった。
だが、いずれ気づくだろう──自室に戻ったあとで。
「じゃあ、また明日ね。いろいろ話したいことあるから……」
明日など来ないのに。
田茂池はその背を見送り、彼女が角を曲がって視界から消えるまで動かなかった。
部屋に戻ると、すぐにキッチンの後片付けを始めた。
使った器具はすべて漂白し、布巾で磨く。蕎麦を盛った器はすでに処分用の袋に入れてある。証拠は残さない。
彼女との関係を示す物もすべて整理し終えていた。
ポケットの中のスマートフォンは、何の音も鳴らさない。
画面も黒いまま、沈黙している。
香子の部屋では、その頃。
彼女は玄関で靴を脱ぎながら、小さく首をかしげた。
「あれ……スマホ、どこ行ったっけ?」
バッグを開け、ポケットを探すも見つからない。
少し焦ったが、すぐに落ち着きを取り戻す。
──きっと先生の家に置き忘れたんだ。
明日、連絡して取りに行けばいい。
そう考え、香子は夕食の準備に戻った。テーブルに蕎麦を並べる。
信州蕎麦の香り。鰹の香り。彼女の大好きな“あの味”だ。
箸を割り、一口すすった。
「うん……やっぱり、先生の蕎麦がいちばん……」
微笑んだその顔が、少しだけ曇ったのは、それから三十分後のこと。
胸がどきどきと早鐘を打ち、視界が揺れる。立ち上がろうとして、膝が笑う。
何かがおかしい、と感じたときには、すでに遅かった。
部屋の隅で倒れ込んだ香子は、力なく息を吐いた。
助けを呼ぶ手段は、ない。
彼女の声は奪われ、繋がるはずだった“明日”も奪われた。
その夜遅く。
田茂池は手袋をはめ、粉砕機のスイッチを入れた。
スマートフォンが金属音を立てて砕かれていく。
画面も、基盤も、記録も、記憶も──何もかもが。
砕けた破片を袋に詰め、ゴミとして処分する。
完璧だった。証拠も、繋がりも、動機すら存在しない。
彼はテレビ番組の台本に目を通しながら、グラスを傾けた。
明日は新作のレシピ披露がある。トマトとバジルの冷製パスタ。
明るい笑顔と軽快なトークで、視聴者の心をつかむ予定だった。
──香子は、もうこの世にいない。
──彼には、なにも残らない。
静かな夜だった。
風が過ぎ、月が流れ、そして朝は、何も知らずにやってくる。
第二章:事件とちづるの違和感
アパートの外階段を、黒いパンツスーツの女刑事が無言で上がっていく。
一ノ瀬ちづる──捜査一課。黒髪のショートカットが風に揺れ、170センチの長身が制服警官たちの視線をすっと受け流していた。
威圧するようなところはないが、彼女が現れると周囲は自然と静かになる。ちづるの足音だけが階段に響いていた。
「ご苦労さま。室内を見せてちょうだい」
現場担当に軽く頷くと、彼女は無言で手袋をはめる。声は落ち着いていて静かだが、その眼差しには、冷ややかな鋭さが宿っていた。
ここは大学生・村田香子の部屋。
地方から進学してきた女子学生が、都内で一人暮らしをしていた小さなアパートだ。間取りはワンルーム。玄関から室内に一歩踏み入れた瞬間、ちづるは目を細めた。
「……ずいぶん、きれいね」
片付いた室内。最小限の家具と生活用品。飾り気はなく、必要なものだけを置いた質素な空間。
無駄がない、というより、何かを持たないようにしていた印象すらあった。
「遺体は?」
「もう搬出されました。死亡推定は昨夜十時から十二時の間。発見は今朝七時過ぎです」
担当が答える間、ちづるはテーブルに近づいた。
そこに残っていたのは、食後の痕跡。洗って伏せられた器、きちんとたたまれた箸袋、湿ったままの布巾。
「……全部、食べちゃったのね」
ちづるの声はわずかに湿り気を帯びていた。
テーブルの上には、もはや食べ物の影はなかった。ただ、空になった器が一つ、静かに物語っていた──この女性は、最後まできちんと食事を終え、片付けまで済ませてから死んだのだと。
「異変が起きたのは、食後ね。それも……だいぶ時間が経ってから」
「毒物の可能性を鑑識が指摘しています。症状は嘔吐、痙攣、不整脈。遺体には胃内容物がほとんど残っていませんでした」
ちづるは頷いた。
まるで心の中に地図を描くように、香子の最後の数時間をなぞっていく。
そして、部屋の片隅──開きっぱなしのノートパソコンに目を止めた。
画面にはSNSの投稿ページ。
投稿時刻は昨夜の六時三十二分。そこに添えられていたのは、蕎麦の写真と一言。
『久しぶりのごほうび♡』
「……スマホは?」
「室内に見当たりません。バッグにもベッドにもなし。現在、行方不明です」
「じゃあ、これはパソコンから投稿したのね。写真はあらかじめスマホで撮って、PCに転送してあったんでしょう」
ちづるは画面をじっと見つめた。
蕎麦の写真。整った盛り付け。美しい麺の切り口。緻密な薬味の配置。
「この蕎麦……素人の打ち方じゃないわね」
つぶやいた声には、明確な確信が混じっていた。
麺の幅が均一で、つゆは黄金色に澄んでいる。学生の一人暮らしで、こんな完成度の蕎麦を出せるとは思えない。
「つまり、誰かからもらった蕎麦。彼女にとっての“ごほうび”だったのよ」
香子は、自分で作ったのではない。料理の技術も、道具もない。
誰かから手渡された蕎麦を、信じて食べた。そして死んだ。しかもそれは、美味しくて幸せな夕食のあとだった。
「だから片付けまで済ませてた。……自分が死ぬなんて、思いもしなかったのね」
静かな言葉だった。
それは、どこか悼むようでもあり、冷静な観察でもあった。
「誰かが蕎麦を持ってきた。信頼できる相手。しかも、料理のプロ級。……そういう人間に、彼女は“心を許してた”」
ちづるは、わずかに口元を引き結んだ。
「──とても静かな殺意ね。美食に紛れた、綺麗な毒」
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
その光のなかで、ちづるの黒髪がきらりと光った。
その目の奥には、すでに次の一手を思い描く光が宿っていた。
第三章:鑑識
午後、鑑識課からの報告が届いた。
一ノ瀬ちづるは分厚い封筒を受け取ると、静かにそれを開き、中の文書を一枚ずつめくっていった。周囲にいた若い刑事たちは、彼女の沈黙に自然と口をつぐんだ。
「……やっぱり、ジギタリスね」
小さく漏らしたちづるの言葉に、誰かが息を呑んだ。
ジギタリス──キツネノテブクロとも呼ばれる毒草。乾燥させ粉末状にすれば、味も香りもなく、熱にも強い。摂取後、数時間から一日ほどで症状が現れる。不整脈、吐き気、幻覚、そして心停止。
「料理に混ぜるには最適な毒よ。しかも、時間差で襲ってくる。食事中は何の違和感もない」
ちづるは報告書を綴じると、香子の部屋へ再び足を運ぶ決意を固めた。
*
午後三時過ぎ。香子が暮らしていたアパートの室内は、すでに人の気配がなく、春の陽射しがレースのカーテン越しに静かに差し込んでいた。
ちづるは一人で玄関を開け、靴を脱ぎ、まるで亡き香子の痕跡を探すように、ゆっくりと部屋を歩いた。
生活感はあるが、物は少なく、丁寧に整えられていた。質素で、静かな暮らしだったことが伝わってくる。
ちづるはテーブルの横にある小さなチェストに目を留めた。午前中には気づかなかった引き出し。静かに開けると、ノートと封筒が数枚、そして──一枚の写真。
香子が笑っていた。隣には、一人の男。スーツ姿で肩に手を回し、カメラ目線で微笑んでいる。背景は白い壁とキッチン。おそらく、料理教室での一枚だ。
「……田茂池秀英」
ちづるは写真を見つめたまま、しばらく動かなかった。
料理研究家。テレビや雑誌にも出演する有名人。だが、ただの著名人ではない──香子がかつて“憧れの先生”として語っていた相手。
ちづるは香子のパソコンを起動し、デスクトップに並ぶフォルダを調べていく。
『料理メモ』『授業ノート』『食べたもの記録』──そうしたファイルの中に、彼の名前は確かにあった。
「田茂池先生の味、忘れない」
そのメモの一文は、大学生の淡い憧れと信頼を物語っていた。
「この子、真剣だったのね……」
ちづるはゆっくり立ち上がった。
さらに調査を進めると、香子が在籍していた大学の資料に行き着いた。
二年前、夏季集中講座──「特別講師:田茂池秀英」。
一ヶ月だけの短期コース。和食と家庭料理の実習。参加者名簿に、香子の名前も記載されていた。
蕎麦は、その講座の最終課題だった。
「味で記憶をつなげるなんて、料理人らしいやり方ね……」
***
その日の夕方、ちづるは田茂池の自宅を訪れた。
白壁の戸建て。庭には手入れされた植木。表札は洒落た筆文字で“田茂池”。玄関チャイムを鳴らすと、すぐに本人が出てきた。
「どうぞ、どうぞ。お忙しい中ご苦労さまです」
テレビで見た通りの笑顔。白いシャツにベージュのカーディガン。爽やかで清潔感のある男だった。
リビングには取材記事が飾られ、テーブルには紅茶の香りが漂っていた。
ちづるは警察手帳をちらりと見せて、本題に入った。
「村田香子さんの件で、少しお話を伺いたいの」
「彼女……何かあったんですか?」
「亡くなりました。自室で。死因は、ジギタリス中毒の疑いが強いです」
一瞬、田茂池の笑顔が揺らいだ。だが、すぐに取り繕うように小さく首を傾げる。
「それは……驚きました。けど、僕はもう、しばらく彼女とは会っていません。連絡も途絶えていたし、まさか……」
「そう。あなたが特別講師をしていた夏季講座で、香子さんはあなたから料理を学んだ。メモにも、あなたの名前が何度も記されています」
「ええ、あのときは確かに。だけど、それだけですよ」
「香子さんの最後の食事は、蕎麦でした。SNSにも写真が上がっています。“久しぶりのごほうび♡”──そう書かれていました」
ちづるはそう言って立ち上がり、静かに言葉を続けた。
「プロの味よ。素人が作れるものじゃない。……まるで、あなたの打った蕎麦のようだったわ」
沈黙。
田茂池は笑みを保ったまま、手元のカップに視線を落とした。
部屋にはティーの香りと、奇妙な静けさだけが残った。
第四章:取調室の心理戦
取調室の空気は、静かすぎるほど静かだった。
冷えた壁、無機質な照明、鉄の扉。そして、テーブル越しに向かい合うふたり。
田茂池秀英は無言だった。
姿勢を崩さず、腕を組んで座っている。だが、表情には覇気がなく、どこか焦点の合わない目をしていた。口を閉ざしたその顔には、沈黙こそが最大の防御であるとでも言わんばかりの緊張感が漂っていた。
向かいに座るのは、一ノ瀬ちづる。
黒髪ショートカット、端正な顔立ち。理知的な目で相手を観察しながらも、言葉を投げつけることはしない。ただ、じっと、機が熟すのを待っていた。
時計の針がわずかに音を立てる。
やがて、ちづるが口を開いた。
「先生、お腹すきましたね。……ちょっと待ってくださいね」
そう言って立ち上がり、静かに取調室を出ていった。
田茂池は目を閉じ、深く息を吐いた。その沈黙の中に、ほんのわずかだが、緊張が緩んだようにも見えた。
数分後、扉が再び開く。
ちづるが丼を二つ持って戻ってきた。ふたつのかけそばから、立ち上る湯気がふわりと部屋を包み込む。
「今日は先生に食べてもらおうと思って、そばを持ってきたんですよ。初めて打ったんです。昨夜ちょっと練習して……まぁ、形は不揃いですけど」
にこやかにそう言って、ちづるは丼を差し出した。
田茂池は一瞬だけちづるの顔を見たが、何も言わずに丼を受け取った。
ちづるは席に着き、割り箸を丁寧に割ると、つゆをひとすすりした。
「……うん、悪くない」
小さく笑って、もう一口。
「味、どうですか?」
田茂池は、恐る恐る麺をすくい、一口すする。
その舌に広がったのは、馴染みのある風味。ほんの少し薄めだが、昆布の旨みと鰹の香りが利いている。
「……まぁまぁですね。うん。香りも、悪くない」
その言葉に、ちづるはわずかにうなずいた。
ふたりは黙って、しばしそばをすすった。静かな取調室に、箸と丼の音だけが響いた。
やがて、食べ終えたちづるが口を拭いながら、ふと思い出したように言った。
「そうだ、言い忘れてましたけど──」
田茂池が顔を上げる。
「……あまりに良いそばだったんで、少しだけ持ってきたんです。香子さんの分、検査用に確保していた一部を、いまのに混ぜてみました」
その瞬間、田茂池の体が跳ねた。
「な……何を言ってるんだ君は! バカか君は! 医者を呼べ!毒だ!殺す気か!」
丼を突き飛ばし、喉元を押さえて立ち上がる。
顔は蒼白になり、汗が額を伝う。目は見開かれ、焦点が定まらない。取調室は騒然とし、ドアの外にいた警官が思わず駆け寄ろうとする。
だが、ちづるはそれを制し、ゆっくりと立ち上がった。
「落ち着いてください。毒は入っていません」
その声は冷たくも、優しくもない。ただ事実を告げる音。
「入っていたのは、あなたの記憶と、恐怖だけです」
田茂池の顔から、力が抜けた。
喉を押さえていた手が震えながら下がる。全身がガクッと沈み、椅子に崩れ落ちた。
「……私は……」
絞り出すような声が漏れる。
否定ではない。怒声でもない。そこにあったのは、はっきりとした“自覚”だった。
それだけで、充分だった。
ちづるはテーブルの上から一枚の報告書を取り出し、彼の前に静かに差し出した。
「専門家の鑑定では、香子さんが最後に食べたそばの“出汁の構成”、“薬味の配合”、“麺の打ち方”──すべてが、あなたの番組で紹介されていたレシピと一致しています」
「器の破片も見つかっています。あなたが使用していた信楽焼の限定モデル。すでに製造元から型番の一致も確認が取れています」
田茂池は、もう目を逸らさなかった。
それは、認めたわけでも、言葉にしたわけでもない。
だが、その沈黙と表情が、何より雄弁に真実を物語っていた。
第五章:ラテと微笑
取調室の扉が静かに閉まり、背後の沈黙がぴたりと途切れた。
一ノ瀬ちづるは無言のまま廊下を歩き、角を曲がったところでふと立ち止まった。
ほんの一瞬だけ、誰にも見られない場所で、肩の力を抜く。
深く、静かなひと息。
黒髪の前髪が、エアコンの風にわずかに揺れた。
その顔には、感情の色はなかった。いつものように、何も表には出さない。だが、胸の奥では、確かにある言葉が脈打っていた。
──香子さん。
あなたが最後に味わった“ごほうび”は、
愛でも、優しさでもなかった。
それは、あの男が人生で最後に仕込んだ、“完璧な毒”だった。
けれど、それさえ──味で暴ける。
ちづるは、そう確信していた。
料理は、人間を映す。
優しさも、欺瞞も、執着も、支配欲も──すべて、味になる。
一ノ瀬ちづるは静かに歩き出した。
長い事件の幕は、いま閉じようとしていた。けれど、“記憶の味”だけは、まだ舌の奥にかすかに残っている。
***
日が傾きかけた午後の街。
冷たい風が頬をなでる中、ちづるが足を向けたのは、路地裏にある小さなカフェだった。
「Café Orée」。白木のドアとガラス張りの窓、控えめな看板。知る人ぞ知る、静かな店。彼女のお気に入りの場所でもある。
ドアベルが小さく鳴くと、カウンターの奥からいつもの店員が顔を出した。
「いらっしゃいませ。……あ、事件、解決したんですね。ニュース、見ましたよ」
ちづるは軽く会釈しただけで、カウンター席のいつもの場所に腰を下ろした。
「いつもの、お願いします」
「カフェラテですね。少し温かめで?」
「ええ、お願いします」
やがて運ばれてきた白いカップには、ミルクの泡が美しく広がっていた。
その上に描かれたラテアートは、控えめなハート模様。だが、ちづるはそれには目もくれず、指先でそっと泡に触れ、小さな渦を描いた。
香りがふわりと立ち上る。
深煎りの豆とミルクの甘さが混ざり合う、落ち着いた香り。
「事件、大変でしたか?」
店員がそっと尋ねると、ちづるは一拍おいて、ふっと口元を緩めた。
「……まぁ、料理は正直ですから」
それだけを言って、再びカップを見つめた。
言葉以上に、そこに込められた意味は深い。
罪を隠す者がいても、味は隠せない。
記憶を消したくても、香りは残る。
料理は、ごまかしが利かない。
ちづるは心の中で、ゆっくりと言葉をなぞった。
──香りも、温度も、残り方も――
味はウソをつけない。
だからこそ、料理で殺した人間は、料理で捕まえるのよ。
彼女の指先は、ラテの泡の縁をなぞり、わずかに揺れた。
その仕草に、誰も気づかない。
ちづるは静かに、カップを口元へ運び、一口だけ味わう。
温度。質感。残香。
今度の味は、優しかった。
目を閉じる。
浮かんできたのは、香子の笑顔だった。あの写真の中で見せていた、少しはにかんだ笑顔。
彼女が信じて食べた蕎麦──その一杯の記憶。
ちづるは、カップの縁にそっと微笑をのせた。
「……ごちそうさま」
低く小さな声が、泡の静けさに吸い込まれていった。
カップの底に残るラテの渦だけが、ゆっくりと時を刻んでいた。
(完)
『初めて自分で打ったそば』を、『愛』と言われながら食べることがあるだろうか。
それはあまりにも優しさに覆われていて、しかし、ひたすらに冷たく。
本作は、持ち前されたそばの香りから、小さな違和感を手繋きに、真実へと精密な策略を経て迫りよむ、逆倒型ミステリーです。
ウソをつき通せないのは、情報ではなく、味覚。
思い出ではなく、記憶。
食に問われ、食で答えることしかできない人間の、奥巻をご高読くださいませ。
最後まで読んでいただき、本心から感謝します。