刑事一ノ瀬ちづるの事件簿 点眼薬の毒
事件とは、必ずしも劇的な形で始まるわけではない。静かに、目立たず、日常の隙間に忍び込む。それが人の命を奪う毒であっても。
この物語に登場する刑事・一ノ瀬ちづるは、感情を荒げることもなければ、誰かを声高に責め立てることもない。だが、彼女は“違和感”を見逃さない。事件現場に落ちていた、たったひとつのビニール袋。その何気ない存在に違和感を覚え、拾い上げたことが、すべての始まりだった。
本作は、「毒入り点眼薬による殺人」という静かな事件を通じて、“見えない暴力”と、“見過ごされがちな真実”を描くミステリである。
職場という閉じた空間の中で、声を上げられない被害者がいて、真実が捨てられ、誰かの支配が続いていた。だが、たったひとつの行動、たったひとつの観察が、それらのバランスを崩していく。
刑事一ノ瀬ちづるの鋭い勘と冷静な分析、そして静かな怒りが紡いだ“答え”。ぜひ、最後までお楽しみいただきたい。
第一章:静かな毒
吉田玲奈が「殺意」という言葉を自分の胸に宿したのは、その夜のことだった。
社長室のソファに座らされた彼女の前で、男──蒜田伸三は無造作にスマートフォンを取り出し、画面を彼女に向けて見せた。
「消してほしい?」
その画面に映っていたのは、ベッドの上で彼と絡み合う自分の姿だった。無言のうちに、玲奈の背筋が冷たくなっていく。
蒜田は五十代。会社の創業者であり、今も絶大な権力を握る男だった。玲奈が中堅営業職に昇進したのも、彼の推薦によるものだ。だが、その裏には、取引と呼ぶにはあまりに一方的な「関係」があった。
「別れたい? 勝手にしろよ。ただし、そのときはこの動画をYouTubeで配信する。俺は本気だ」
その言葉に、冗談の気配は微塵もなかった。
玲奈が返事をしないうちに、男はさらに言った。
「このまま関係は続けようよ。あと……金がほしいね。取り敢えず50万円欲しい。ないなら──ソープで働け」
言葉の刃が、玲奈の心に深く突き刺さった。
これはもう、強要でも脅迫でもなかった。ただの支配。魂の搾取だった。
その夜、玲奈は自宅の洗面所の鏡を見つめた。泣いた後の目は赤く腫れ、唇は噛みしめられて血の気を失っていた。
そして──その瞳の奥には、静かな決意の色が浮かび始めていた。
翌日、彼女は耳鼻科を訪ねた。
「花粉症で、目がかゆくて……」
と、症状を偽って診察を受け、アレジオン点眼薬を処方してもらう。
それまで一度も目薬など使ったことはなかったが、それは「仕込み」のための道具に過ぎなかった。
彼女は知っていた。蒜田もまったく同じ点眼薬を使っていることを──
以前、総務の女性が言っていた。
「社長、花粉症がひどくてさ、いつも目薬差してるよ。なんか、ちょっと高いやつらしいけど」
その時、玲奈は何も言わずに笑っていた。だが、その微笑みの裏には確かに毒が生まれていた。
彼女は夜、自宅でインターネットを開いた。
殺さずとも、苦しめ、無力にできる毒。だが、運が悪ければ死ぬ。
そんな「微妙な死神」を探した。
やがてたどり着いたのは、高濃度のニコチン液だった。
電子タバコのリキッドとして市販されているが、数ミリリットルで致死量に達する劇薬。
皮膚からも吸収され、粘膜に入れば即座に反応する。
それを、アレジオンの点眼薬に、玲奈は慎重に混入させた。スポイトを使い、ごく微量──されど、確実な死を招く量を。
最初は手が震えた。けれど不思議なほど冷静だった。
目の前の小さな容器に、玲奈は人生の全てを込めた。
すり替えは一瞬の隙を突いた。
昼休み、蒜田が来客対応で席を外した隙に、玲奈は彼の机にあった点眼薬と自分の「毒入り」を交換した。
手袋を使い、触れた痕跡を残さないよう注意深く。
そして、蒜田が日常的に使用していた、彼自身の指紋が付着した元の点眼薬を、ビニール袋に密封し──社内の可燃ゴミ箱に捨てた。
社内の給湯室脇にあるゴミ箱。誰もがペットボトルや紙コップを放り込む、ごく日常的な空間に、それは紛れ込んだ。
証拠は、灰と一緒に消える。
そして数日後──
午前十時から始まった役員会議の途中、蒜田は突然、咳き込み始めた。
顔が赤くなり、目を押さえ、のけ反ったかと思うと椅子ごと倒れ込んだ。
会議室が騒然となり、すぐに救急車が呼ばれたが、搬送中に彼の心臓は止まった。
会社中が混乱に陥ったその日の午後、玲奈は自分の席に戻り、何事もなかったように業務を続けた。
メールを開き、書類を確認し、いつものように電話を取った。
だが、その瞳だけは──深い湖のように静かで、底知れぬ闇を湛えていた。
彼女の心には、ただひとつの言葉だけが、脈打っていた。
──終わった。
その唇には、かすかな微笑みが浮かんでいた。
第二章:刑事・一ノ瀬の違和感
警視庁捜査一課の刑事・一ノ瀬ちづるが現場に到着したのは、午前十一時を少し過ぎた頃だった。
社屋の前にはパトカーと救急車が数台並び、社員たちが沈痛な面持ちで玄関先に集まっていた。
その表情は一様に見えて、それぞれ違っていた。困惑、恐怖、あるいは静かな安堵。蒜田伸三という存在の死は、それぞれの立場に異なる影響を与えている。
一ノ瀬は無言で社内へ入り、エレベーターを使わずに階段を上がった。
黒いパンツスーツに身を包み、無駄のない足取り。揺れる黒髪の下、視線は鋭く研ぎ澄まされている。
その後ろには、捜査一課の同僚・田村刑事が続いていた。四十代半ば、現場経験豊富なベテランで、温厚な印象もあるが、ちづるには常に少し距離を置いて接している。
「社長が倒れたのは十時半すぎ。役員会議の最中だったらしい」
田村が手帳を見ながら口にする。
「搬送中に心停止。即死ではないけど、発作の発端はその場だったわけですね」
ちづるは短く応じた。
会議室の前には白いテープが張られ、鑑識班が出入りしている。すでに社長の遺体は搬送された後で、現場の保存と調査が進められていた。
蒜田伸三、享年五十二。
数十人規模の会社を一代で築き上げた創業社長。社外では有能な経営者として評価されていたが、社内ではその圧政的な性格と人間関係で、しばしば密かな反感を買っていた。
「死因は心停止。薬毒物の検査では微弱な反応が出たが、特定には至っていない。即効性のある毒ではないらしい」
鑑識の一人が報告書を手渡しながら説明した。
「微弱な薬物反応……見逃されやすい物質か、それとも使用量が極端に少なかったか」
ちづるは報告書に目を通しながらつぶやいた。
彼女の視線は、やがて社長の使っていたデスクへと向けられた。
机の上は整っており、高級な文具やメモパッド、ペーパーウェイトが無造作に並べられている。
そして──モニターの脇に転がる、小さなボトルが一つ。
「アレジオン点眼薬……」
ちづるはそれを手に取り、キャップを外して中を覗いた。
透明な液体に異常はない。薬品特有のにおいも目立たない。処方箋が必要な、抗アレルギー用の目薬だ。
「田村さん」
「ん?」
「社長が花粉症だったって、社員の証言は?」
「あるよ。何人かが言ってる。『春になると目薬ばかり差していた』ってさ」
「ふうん……」
ちづるの目に、ふと影が差す。
彼女は考えながら言葉を継いだ。
「目薬を使っていたことは知られていても、どんな目薬だったかまでは誰も知らない。見ていたようで、実は誰も注意を払っていない。そこに、誰か一人だけ“知っていた”人物がいれば──」
田村が眉をひそめた。「それが怪しいってことか」
「ええ。しかもこれは処方薬。わざわざ耳鼻科で診察を受けなければ手に入らない。目薬にしては、ちょっと特別です」
ちづるは再び机の周囲を見回す。
引き出しの中、デスクマットの下、椅子の背もたれ。
そして──ふと、デスク横のゴミ箱に目をやった。
黒いプラスチック製の普通のゴミ箱。中には書類の切れ端、菓子袋、ペットボトルのキャップなどが乱雑に捨てられていた。
その中に──違和感のあるものが、ひとつ。
「……これは?」
ちづるは静かにしゃがみ込み、手袋をした手でそれを取り上げた。
透明なビニール袋。軽く丸められているが、妙にきれいだ。油やインクの染みもなく、何かを丁寧に包んでいたような印象を受ける。
「ただのゴミか?」
田村がのぞき込む。
「ええ。ただの袋です」
ちづるはそう言って、そのビニール袋を無言でコートの内ポケットにしまった。
その行為に、田村は何も言わなかった。
ちづる自身も、なぜそうしたのか分かっていない。ただ、感覚が告げていた。これは普通のゴミではない──と。
「田村さん。机の上の点眼薬、一応、成分分析に回してもらってください」
「了解。だが、薬局で出るようなもんじゃないのか? 処方薬とはいえ、変なものは入ってないだろ」
「ええ、そうであればいいんですけど」
ちづるは社長の席に目を戻した。
死は静かに訪れた。だからこそ、不自然な点が目につく。
薬の名前を“誰かが”知っていたなら──その人間は、なぜそれを知っていたのか。
直感ではなく、違和感。
それが刑事・一ノ瀬ちづるの武器だった。
第三章:女の影
蒜田伸三の死を巡る捜査は、静かに、しかし確実に輪郭を現しつつあった。
派手な証拠はない。致命的な物的手がかりも、いまのところ存在しない。
だが、刑事・一ノ瀬ちづるにとって、“現場が語ること”は、常に人間の内側にある。
蒜田の人間関係。社内での立ち位置。誰が彼を恐れ、誰が従い、誰が沈黙を強いられていたのか。
それを知るために、一ノ瀬は部下に指示を出し、役員と社員の関係性を徹底的に洗い直していた。
報告は早かった。
その中で、一つの名前が繰り返し浮かび上がってきた。
吉田玲奈──営業部所属、三十四歳。
直属の部下ではないが、蒜田社長に随行する機会が多く、秘書的な役割を担っていた。
本来の業務と無関係の会食に同席したり、地方出張に同行したりする姿が複数の社員に目撃されていた。
彼女と社長の間に私的な関係があったのでは、という噂は決して珍しくなかった。
「私的な関係を噂する声もあったようですね」
ちづるは資料を見ながら、隣にいた田村に語りかけた。
「まあ、男女の噂なんてどこにでもある。証拠のない話なら掃いて捨てるほどだ」
田村は苦笑を浮かべた。
「でも、“証拠にならない噂”の中にこそ、真実が潜んでいることもあります」
ちづるは静かに言い返した。
一ノ瀬は立ち上がり、吉田玲奈の所属する営業部のフロアへと向かった。
受付のあるオフィスは、どこか緊張した空気に包まれていた。社員たちはこちらの動きを意識しながらも、視線を合わせようとはしない。
情報を伏せようとする空気が、言葉にせずとも伝わってくる。
吉田玲奈は、自席にいた。
姿勢は崩れていない。表情も取り繕っている。だが、モニターの画面から目を離すタイミングが一瞬遅れた。
その一瞬を、一ノ瀬は見逃さなかった。
「吉田玲奈さんですね。少し、お話を伺ってもよろしいですか?」
名刺を差し出すと、玲奈は一瞬まばたきをしてから、丁寧に受け取った。
「……はい、大丈夫です」
フロアの片隅、給湯室の脇にある休憩スペースで話をすることになった。
玲奈は紙コップに注いだお茶を持ちながら立ち、ちづるの前に立った。
「社長とは、近しい立場にあったようですね」
「……はい。営業部の仕事上、ご一緒させていただくことが多くて。接待や、打ち合わせの調整など……」
玲奈の声は静かでよく通る。だが、その目は伏し目がちで、まっすぐには見てこない。
ちづるは一拍置いて、少し意外な質問を投げた。
「花粉症、ひどくないですか? 私は毎年ひどくて、目が真っ赤になるんです」
唐突な話題に、玲奈は戸惑ったように目を見開いた。
「……いえ、私は平気です。花粉症じゃないので」
「そうですか。羨ましいですね。私はもう、目薬が手放せなくて。アレジオンっていう、処方の目薬を使ってるんですよ」
「あ……名前は聞いたことあります」
少し間が空いてから、玲奈はそう言った。
その沈黙を、ちづるは聞き逃さなかった。
「社長も、花粉症だったと聞いています。やっぱり同じ目薬を使っていたのかもしれませんね」
玲奈は黙ったまま、何も答えなかった。
紙コップを持つ手が、わずかに力を入れているように見えた。
「ありがとうございました。捜査の中で、またお話を伺うことがあるかもしれませんが、ご協力お願いしますね」
礼を述べてちづるが歩き去ったあと、玲奈はその場に立ち尽くしていた。
お茶の中に浮かぶ茶葉を見つめたまま、眉根をわずかに寄せて。
オフィスを出たちづるの手元には、情報班からの医療機関への照会結果が届いていた。
その中の一文に、彼女は足を止めた。
──吉田玲奈、三日前に区内耳鼻科を受診。アレジオン点眼液0.1%(5mL)を処方。症状は「目のかゆみ」、診断名は「季節性アレルギー性結膜炎」。
「……花粉症じゃないって言ってたわよね」
ちづるは小さくつぶやいた。
処方された薬は、アレジオン点眼液0.1%。
社長が使っていたものと、同じ薬。
市販されていない処方薬。病院を受診し、花粉症と偽って手に入れなければならない。
そこには、意図がある。必要もない薬を手に入れた理由は一つしかない。
田村が合流してきた。
「ちづる、確認取れた。彼女、アレジオン持ってた。耳鼻科で処方受けたってよ」
ちづるは、ゆっくりと頷いた。
「これで──“同じ目薬を持っていた”という事実が、確定したわね」
玲奈の掌にあった薬。
そして、蒜田のデスクにあった薬。
偶然では説明できない、一つの線が繋がった。
その線の先に──女の影が、静かに揺れていた。
第四章:袋の中の真実
東京・桜田門。警視庁捜査一課の共有フロア。
午後の陽が斜めに差し込む中、一ノ瀬ちづるは自席に戻っていた。
目の前のモニターには、蒜田伸三の死亡診断書、社内の相関図、そして鑑識から上がってきた物品検査の報告書が並んでいる。
だが、ちづるはそれらには目もくれず、デスクの端に置かれた小さな透明のビニール袋をじっと見つめていた。
──あの日、社長室のゴミ箱から拾い、無意識のうちにポケットへしまったもの。
「ただのゴミかもしれない」
そう思いながらも処分できずにいた袋。
指で挟むと、かさりと音を立てる。中身は何もない。ただの袋。だが、それが“何かを包んでいた”形跡がある──そう感じたからこそ、彼女は捨てなかった。
その直感が、今、現実へと形を持ち始めていた。
「鑑識、これ。中の残留物と指紋を精査してもらえる?」
頼んだのはほんの一時間前だった。
鑑識の若手が、やや訝しげな顔で引き受けていったのを思い出す。
そして、今──
ちづるは、送られてきた報告書の一枚に目を通し、わずかに眉をひそめた。
「袋内壁より薬液痕を検出。容器内に使用されたアレジオン点眼薬の残留成分と一致。」
次の行には、こう記されている。
「ビニール袋の内側からは、アレジオン点眼容器(5mL)が一つ回収された。指紋鑑定の結果、蒜田伸三のものと一致。」
「……やっぱり」
あの袋は“捨てられた容器”を包んでいた。
そして、その容器は間違いなく蒜田本人が使っていた“本物の”点眼薬だった。
しかし、それだけでは終わらない。
もう一つ、別の報告書が目に入る。
こちらは、社長のデスクに残されていたアレジオン点眼薬──毒入りと思われる“すり替え後”の容器に関するものだった。
「毒物混入が疑われる点眼薬容器について:外装および容器本体から蒜田伸三の指紋は検出されず。」
ちづるは目を閉じ、静かに息を吐いた。
“使っていた容器には指紋がある。現場に残っていた容器には、ない。”
つまり──完全に、すり替えられていたのだ。
しかも、手袋などを使い、社長に触れさせる前に、毒入りの容器を置いていた可能性が高い。
殺意は計画的だった。
偶発でもなければ衝動でもない。冷静で、慎重で、事前の準備に手間をかけた犯行。
問題は、そのビニール袋だ。
社長の指紋が付着した使用済みの容器を、誰が捨てたのか。
もう一つの検出結果に、ちづるの目が止まる。
「袋の外側表面から、吉田玲奈の指紋を検出」
──吉田玲奈。
あの日、彼女が落ち着いていたことは、ちづるの記憶に鮮明に残っている。
感情を揺らさず、淡々と振る舞っていた。だが、その裏には明らかに張りつめた“何か”があった。
ちづるは玲奈を再度呼び出し、面会室で向き合った。
「このビニール袋、見覚えありますか?」
差し出した袋を見て、玲奈は表情を変えなかった。だが、その目だけが、一瞬、揺れた。
「いえ、特には……。でも、似たような袋なら、会社の備品にもありますし、私が掃除したときに触ったのかも……」
「掃除?」
「はい。亡くなる数日前、社長が席を外しているとき、少し机の周りを片づけました。あまりにも散らかっていて」
「そのとき、点眼薬の空き容器がありましたか?」
玲奈の答えは、わずかに遅れた。
「……覚えていません。でも、あったとしたら、捨てたのかもしれません」
言い訳としては成立しているように聞こえる。
だが、ちづるは冷静に一枚の写真をテーブルに置いた。
鑑識が回収した点眼薬の使用期限が、数週間前のものであること。
そして、蒜田が倒れた日まで使用していた形跡があること。
要するに──その容器は“事件直前”まで使われていた。にもかかわらず、“数日前の掃除で捨てた”という証言は成立しない。
「吉田さん。あなたがこの袋に触れたのは、蒜田社長が倒れた後ですよね?」
玲奈は黙っていた。
ただ、うつむいたまま、何も答えなかった。
その沈黙こそが、肯定に等しかった。
証拠は語らない。
だが、証拠は嘘を許さない。
ちづるの目には、ついに“線が一つに結ばれる瞬間”の光が宿っていた。
第五章:崩れる供述
警視庁・取調室。
一ノ瀬ちづるは、長机の向かい側に静かに座っていた。
目の前の吉田玲奈は、淡いグレーのカーディガンに身を包み、手を膝に置いたまま、黙ってうつむいている。
壁際には田村刑事が控えていたが、ほとんど口を出さない。
この空間を支配しているのは、間違いなく一ノ瀬だった。
「今日は、少しだけ確認したいことがあります。これまでのお話と、私たちが集めた事実を照らし合わせるだけです」
一ノ瀬の声は柔らかい。だが、その声音には冷えた鋼のような芯があった。
玲奈は視線を上げなかった。
ただ、小さくうなずく。
一ノ瀬は一枚の書類を手元に置いた。
鑑識報告のコピー、指紋照合結果、社内証言の要約。どれも、それ単体では決定打にならない。
だが、彼女はそれらを**“順に積み上げる”**ことで、相手の防壁を静かに崩していく。
「まず、社長が花粉症だったことは、何人かの社員が知っていました。ただし、“目薬を使っていた”という証言は、一人も出ていません」
玲奈の眉が、わずかに動いた。
「社長は人前で点眼しなかった。容器も外には持ち出さなかった。つまり、“社長がどんな薬を使っていたか”を知っている人間は、ごく限られていたことになります」
沈黙が落ちる。
「あなたは、アレジオン点眼液0.1%を、事件の三日前に処方されていますね。花粉症ではないと自分で言っていたのに」
玲奈の手の甲から、うっすらと血の気が引いていく。
「あなたが持っていた薬と、社長の机にあった薬は、まったく同じものでした。処方薬ですから、市販では買えません」
一ノ瀬は資料に目を落としながら、淡々と続けた。
「そして、社長の机のゴミ箱から回収された点眼容器。そこからは、社長本人の指紋が検出されました。つまり、それが“本物”だったわけです」
玲奈の唇が、かすかに開いた。
けれど、声は出なかった。
「一方、社長の机に残されていた点眼薬──毒が混入されていた容器からは、社長の指紋が検出されなかった」
一ノ瀬は顔を上げ、玲奈を見つめた。
声の調子は変えず、だが、言葉の重さだけを増していく。
「あなたが持っていたのは、まったく同じ薬。社長が使用していた容器には指紋があり、それは袋に入れられて捨てられていた。そして──その袋の外側から、あなたの指紋が検出されました」
玲奈の肩がわずかに揺れた。
一ノ瀬はすぐに言葉を続けなかった。沈黙を与え、その揺れが全身に広がるのを待つ。
やがて──
「……私は……ただ……」
玲奈の口から、かすれた声が漏れた。
一ノ瀬はそれに反応せず、あくまでも静かに言う。
「“たまたま掃除をしたときに触っただけ”という、あなたの説明。ですが、袋の中の点眼薬は事件当日まで使用されていたもので、数日前に捨てたという説明とは一致しません」
玲奈の目から、ぽつりと涙がこぼれた。
それでも、一ノ瀬は変わらぬ声で、最後の一言を投げた。
「──あなたは、何のために点眼薬をすり替えたんですか?」
しばらく、長い沈黙が続いた。
取調室の時計の針が、小さく時を刻む音だけが響いている。
そして──
「彼を殺さなければ、私は一生“あの人のもの”だった……」
その言葉は、まるで独白のようだった。
誰かに聞かせるためではなく、誰にも届かないと思っていた胸の底から湧き出た、苦しみの結晶。
玲奈はゆっくりと顔を上げ、涙をぬぐいもせず、ちづるを見つめた。
「……目薬を替えただけ。毒なんて、ほんの少し……
黙って終わってくれるなら、それでよかったのに」
その声には、後悔も、開き直りも、悲しみも──すべてが同時に含まれていた。
一ノ瀬は何も言わなかった。
ただ、机の上にある報告書の一枚を、静かに裏返した。
すべては、言葉よりも重く、そこにあった。
第六章:捨てられたもの
午後、霞がかった空の下。
吉田玲奈は、速やかに警察官に伴われ、庁舎を後にした。
抵抗はなかった。取り乱しもなかった。
ただ、静かに、背筋を伸ばし、何かを終えた人間のように歩いていった。
蒜田伸三の死から、わずか一週間。
不審死から殺人へと切り替えられた捜査は、短期間ながらも濃密な展開を経て終結した。
毒入りの点眼薬、社長の指紋が付着した空容器、捨てられたビニール袋──
どれも、一つひとつは小さく、地味な“異物”に過ぎなかった。
だが、それらを丁寧に拾い上げたことで、事件の全体像が浮かび上がった。
取調室を出た一ノ瀬ちづるは、刑事部のフロアで机に向かっていた。
報告書を閉じ、書類をクリップでまとめていたところへ、田村刑事がやって来た。
「……なあ、ちづる。結局、あの袋って、どうして拾ったんだ? 社長室のゴミ箱に突っ込まれてた、ただのビニール袋だろ。鑑識に回したのも、報告を受けたときも、正直びっくりしたぜ」
一ノ瀬は、ゆっくりと視線を田村に向けた。
机の上にペンを置きながら、小さく息をつく。
「なんとなく、よ」
「“なんとなく”で拾ったって、そりゃまた適当な……」
「違うの」
ちづるは言葉を遮るようにして静かに続けた。
「意識してたわけじゃない。でも──あのとき、ゴミ箱を見たときに、ふとね、“一番大事なものが、ああいう場所に紛れてる気がした”のよ」
「勘か?」
「ええ、たぶん。……刑事の勘。でも、本当は記憶と経験の積み重ねなの。頭では気づいてなくても、身体が先に覚えてる、そんな感覚」
田村は、やや呆れたように笑い、肩をすくめた。
「なるほどね。俺ならスルーしてたな、完全に。ただのゴミだと思って。拾ったお前はやっぱり、そういうとこ、刑事なんだな」
ちづるは軽く笑って見せたが、すぐに視線を落とした。
彼女の脳裏には、あの透明なビニール袋が、まるで記号のように浮かんでいた。
ごく普通の袋。どこにでもあるもの。
でも、その中には、事件の核心に触れる“なにか”が入っていた。
──捨てられたもの。その中にこそ、真実が宿っていた。
***
夜。
ちづるは帰り道、駅のホームで立ち止まり、ふと空を見上げた。
東京の夜は明るすぎて星は見えないが、月の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。
吉田玲奈という女の人生が、どこで狂ったのか。
蒜田という男の支配が、どれほど彼女を縛っていたのか。
彼女の罪が許されることはない。けれど──もし誰かが、ほんの少しでも早く、彼女の苦しみに手を伸ばせていたなら。
そう思うことが、一ノ瀬にはあった。
「……私たち刑事は、結果にしか関われない」
つぶやいた言葉は、電車の音にかき消された。
列車が来る。
明日になれば、また新しい事件が起きる。
誰かが傷つき、誰かが泣く。
それでも彼女は立ち止まらない。
なぜなら──
ゴミ箱の底に、誰にも見えない真実が落ちているなら、
自分はそれを拾える刑事でありたいと、そう願っているからだ。
***
《スターバックスにて》
スターバックスの窓際の席に、春の光がやわらかく差し込んでいた。
午後三時を少し過ぎた時間。ビジネスマンたちの喧騒も落ち着き、店内には穏やかな静けさと、コーヒーの香りが満ちている。
一ノ瀬ちづるは、カップを片手に、革張りの手帳を開いた。
注文したのは「られ」──ラテのことを店員が略して口にした言葉が、ちづるの中でなぜかしっくりきてしまい、それ以来ちょっとしたマイルールになっている。
「……“られ”って響き、なんか間抜けで好き」
微かに笑いながら、フタを少しずらして一口すする。
フォームの柔らかさと苦味のバランスが心地よい。
この時間だけは、事件からも書類からも解放される。
ペンを取り、手帳の一角にそっと記す。
《点眼の毒》
まるで小説のタイトルのように、一言だけ。
ちづるにとって、これは事件の“まとめ”ではない。
ただ、記憶に小さな旗を立てるような、ひとつの儀式のようなものだ。
手帳のページは、ぎっしりとした文字と余白とで埋め尽くされている。
だが、まだ書かれていないページもある。
つまり──また新しい真実が、どこかで眠っているということだ。
ちづるはペンを指先で回しながら、ふと外を見た。
春の陽射しが歩道に長い影を落としている。
それでも、東京の風はまだ少しだけ冷たい。
「さてと……次は、何が待ってるかな」
独りごちた声は、小さくて、店内の音楽に紛れて誰の耳にも届かなかった。
ただ、隣の席の学生がちらりと視線を向けたが、ちづるは気にせず、いたずらっぽく笑った。
「ゴミ箱の底にあるかもしれないし……カップの裏かもね」
自分でも意味がわからない言葉を口にしながら、カップの最後の一口を飲み干す。
ちょうどいい温度。ちょうどいい余韻。
手帳をパタンと閉じ、立ち上がる。
事件は終わった。だけど、刑事の日常に「終わり」はない。
また誰かが困っているかもしれない。
また、見過ごされる何かがあるかもしれない。
ちづるはコートの襟を軽く整え、カップを片手にごみ箱へ向かった。
蓋を開けて、空になった「られ」を落とす。
──今回は、拾ったけれど。
誰にも気づかれないように、ちづるは小さく笑い、そして歩き出した。
春の光が、再び彼女の背中を押していた。
(完)
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
『刑事一ノ瀬ちづるの事件簿 点眼薬の毒』は、派手な銃撃戦や血飛沫のない、“静かな殺意”の物語です。ですがその分、日常と地続きのリアルな恐怖、見逃されがちな暴力、そしてそこから脱出しようとする一人の女性の姿を描きたいと思いながら執筆しました。
事件の真相を明らかにしていくちづるは、決して感情的に動く刑事ではありません。だが、だからこそ“見逃さない”。
ゴミ箱の中に投げ込まれた証拠、ほんのささやかな嘘、震える声、目をそらした仕草。彼女はそのすべてを拾い上げ、ひとつずつ確かめていきます。そこに、“声を上げられなかった誰か”を救うための、確かな優しさが宿っているのではないかと思います。
もし、この物語の中に、何かひとつでもあなたの心に残る“かけら”があったなら、それは作者にとってこの上ない喜びです。
また別の事件で、また別の静かな真実の前で。
刑事一ノ瀬ちづると再び会っていただけることを願って。