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刑事一ノ瀬ちづるの事件簿 ~偽装されたアリバイ~

第一章:ふたりの晩餐

 三田の裏路地。古びた赤ちょうちんがぼんやりと灯る和食処『福のや』。界隈のサラリーマンに人気の定食屋だが、冬季限定で「ショウサイフグのちり鍋定食」を出していることでも知られていた。

 その夜、七時前に来店した一組の男女。店内は賑やかで、誰も彼らに特別な注意を払う者はいなかった。

「……明美、久しぶりだな。会ってくれて嬉しいよ」

 笑みを浮かべる片山和夫。その口元には、かすかに勝ち誇ったような気配があった。

 対面に座る明澤明美は、緊張感を隠しきれないながらも、平静を装っていた。

「店、よくこんな場所知ってたね」

「お前、ふぐ好きだったろ? この店、安いけどちゃんと処理されてて安心なんだ。昔、よく“稼ぎ”で連れてったじゃねえか」

 “稼ぎ”という言葉に、明美の眉がわずかに動いた。

「……もう、そういう話はやめて」

 片山は構わず、酒を注文し、鍋の火を強めた。

「やめられるかっての。俺がいなかったら、今のお前はいねえよな? 身体張って働いて、俺があれこれ教えてやって……」

「“教えた”? あれはただ、搾取してただけよ」

「はは、言い方ってもんがあるだろ。でもな――」

 片山の手が、ジャケットの内ポケットに滑り込む。

 取り出したのは、折りたたまれた一枚の写真。古びたピンクのドレス、濃い化粧の女――そこに映っているのは、過去の明美だった。

「……なにこれ」

「見覚えあるだろ? ○○店のVIPルーム。お前、あのとき客にしこたまキレて、グラス投げつけたよな。店が揉み消してくれたけど……動画、残ってんだよ。なにせ俺が撮ったからな」

 明美の手が、テーブルの下で震え始める。

「それがどうしたの?」

「出す気はねえよ、今のところはな。でもな、最近の“クリーンな動画配信者様”が、かつて“売れっ子ソープ嬢”で暴力沙汰を起こしてたってバレたら……イメージってのは、一瞬で崩れるもんだ」

「……脅してるの?」

「いや、提案してんだよ。もう一度、俺と組まねえかってな。うまくやりゃ、裏配信だってできる。顔出しなしで儲けりゃいい。俺が手引きする。なにせ、お前の弱みは全部、俺が握ってんだからよ」

 その瞬間、明美の中で何かが壊れた。

 鍋の湯気の奥で、かつて自分をモノとして扱い、心と身体を蹂躙した男の顔が、赤く歪んで見えた。

 明美はゆっくりと立ち上がった。

「……話は終わり。ありがとう。もう二度と連絡しないで」

 「逃げるつもりか?」というように片山は声を上げそうになったが、彼女は無言でレジに向かい、自分の分を置いて出て行った。

 ――だが、片山はそのままでは終わらない。

 ゆっくりとビールを飲み干し、立ち上がり、後を追う。

 店員はふぐの鍋に夢中で、誰が何を言ったかなど覚えていなかった。

 路地裏を抜け、明美の背中が見える。歩調を崩さず、尾行する。

 やがて、明美の住むマンションへ。彼女がオートロックを開けて入っていく。

 片山は、そのままエントランス脇の通用口へ回り込んだ。数年前に彼女を送り届けた記憶がある。非常階段の暗がりが、彼の存在を呑み込んでいった。

 数分後、明美の部屋。

 「ピンポーン」と鳴ることはなかった。ただ、突然ドアがノックされる。

 明美は、すでに来ると確信していた。水を一口飲み、深呼吸する。

ドアを開けると、片山の顔がそこにあった。

 帽子を浅く被り、酔ったのか、目が据わっている。

「やっぱり来たのね」

 明美は一歩も動かず、冷ややかな声で告げた。

「もう、あたしにかかわらないで。……お願いだから」

「ふざけんなよ。俺の人生返せよ、お前が勝手に抜け出して――」

「勝手にって……私、ずっと……!」

 言葉が詰まった。怒りと悔しさ、そしてなにより、恐怖が胸を押しつぶす。

 その一瞬の沈黙を縫って、片山は当然のようにドアを押して中に入る。

「いいじゃねえか、ちょっと話せば済むんだよ。な?」

 明美は止めようとしなかった。止められなかった。

 片山の背中が室内に消え、扉がゆっくりと閉まる。

 ――そのドアの向こうで、明美の運命は静かに狂いはじめていた。


第二章:血の海の中で

 床に座り込んだ明澤明美は、震える手で口元を押さえていた。

 リビングの床には、片山和夫の遺体がうつ伏せに倒れている。背中に突き刺さった包丁が、静かに立っていた。床のフローリングに広がる血の海は、赤黒く乾きはじめていた。

 部屋の時計は19時を少し回っていた。

「……なんで……こんなことに……」

 明美の声はかすれ、ほとんど聞き取れなかった。視界が揺れ、涙と汗と吐き気が混じったような感覚だけが現実を引き止めていた。

 数時間前、片山はこの部屋に勝手に押し入り、過去の弱みを盾に脅しをかけてきた。

「お前の昔の映像、俺が持ってるって言ったら……ファンはどう思うかな?」

 目の奥が、熱を帯びていた。

 耐えきれず、キッチンにあった包丁を手に取ったのは、ほとんど反射だった。

 気づいたときには、彼の背中に突き立てていた。

 崩れ落ちた自分の手のひらが、血に濡れている。泣き叫びたいのに、声が出ない。ただ、心臓の鼓動だけが、耳の奥で爆発のように響いていた。

 明美は震える手でスマートフォンを取り出した。連絡先をスクロールし、ある名前をタップする。

 鈴木英一――恋人。唯一、信じている人間。

***

「……明美?どうした?」

「英一……お願い……助けて……私……殺しちゃった……片山を……」

 電話の向こうが沈黙した。ノイズだけが数秒、空気のように流れる。

「……場所は? 部屋か?」

「うん……」

「わかった。すぐ行く。絶対にひとりにしない」

 その一言が、命綱のように明美を引き止めた。

***

 三十分後。

 非常階段の扉が開き、マスクとキャップ姿の鈴木英一が入ってきた。黒いパーカーに身を包み、顔はほとんどわからない。慎重に、音を立てずに室内に足を踏み入れた。

 明美はソファの端に座り、両腕で自分を抱くようにしていた。血の気が引いて、唇が紫がかっている。

 英一は片山の死体を見下ろし、静かに確認した。

「包丁一本……深いな。心臓か肺だな。即死か」

「英一……どうしたらいいの……」

 彼は何も言わず、キッチンペーパーを取り、血のついた床の一部を軽く拭き取った。

「明美。今から言うことをよく聞け。これから“偽装”をする」

「偽装……?」

「そうだ。片山は“23時まで生きていた”ことにする。俺が今から**銀座の“ふぐ政”**で、とらふぐを食ってくる。レシートを本物として入手して、それを死体のポケットに入れる」

「そんな……バレないの?」

「食事は俺が一人で行く。個室指定、現金払い。名前も名乗らない。防犯カメラに映るのは俺だけ。片山が一人で来たように見せる」

「……うん……」

「お前は23時ちょうどに、いつも通り配信を開始しろ。テンションは高め。“気を紛らわせようとしてるふり”で十分だ。大丈夫、できる」

「……わかった……やってみる」

***

 午後十一時すぎ。

 銀座「ふぐ政」の個室にて、鈴木英一は黙々と箸を動かしていた。とらふぐの刺身、ちり鍋、雑炊、そしてひれ酒。落ち着いた所作で、それらを自然に口に運ぶ。

 食事が終わると、レジで静かに現金を差し出す。一万円札を数枚、丁寧に揃えて手渡した。

 店員は特に気に留める様子もなく、釣り銭と一緒にレシートを渡した。

 発行時刻:23時04分。

 記載されたコース名、個室番号、人数。すべて完璧だった。

 英一はそれをポケットにしまい、無言で店を後にした。

***

 同時刻。明澤明美は、スマートフォンの前で笑っていた。

「こんばんはーっ! 美容といえば、明澤明美です☆ 今日も来てくれてありがと〜!」

 メイクは完璧。声も明るく、表情も作れている。だが、目の奥だけは、どこか不安げに揺れていた。

 コメント欄が流れる。

《明美ちゃん今日テンション高くない?》

《声がちょっと震えてる気がする……》《でもかわいいからOK》

《何か隠してる? って思うの俺だけ?》

 配信は20分で終わった。明美はスマホを伏せると、そのまま床に崩れ落ちた。

***

 英一はその足で、都内の古びた銭湯へ向かった。

「おう、兄ちゃんが最後の客だよ」

 番台の老人が笑って言った。

「助かります、ちょっとだけ入ります」

 ロッカーの鍵を使い、浴場で軽く体を流し、ドライヤーを使う。

 わずか数分。だが、監視カメラと番台の証言があれば、それで十分だった。

***

 日付が変わろうとする頃、英一は再び明美の部屋に戻った。

 手には大型のスーツケース。

 すでに片山の体は冷えていた。タオルで包み、衣服と共に詰め込む。血痕はマットで隠され、床はアルコールで念入りに拭き取られた。

「これから、片山の遺体を捨ててくる。港の廃倉庫の裏、廃材コンテナの中に入れる。業者が気づくには、数日はかかる」

「英一……ごめんね……本当に、ごめん……」

 明美は、泣きながら英一の袖をつかんだ。

 彼はただ一言、静かに言った。

「俺に任せろ」

***

 深夜二時前。湾岸の廃倉庫。

 街灯のない構内、重機の影が揺れている。英一はスーツケースを車から降ろし、廃材コンテナの蓋を開けた。

 異臭がした。だが、気にも留めない。

 スーツケースごと、片山の遺体を押し込む。奥まで滑り込ませると、鈍い音がして、蓋が閉まった。

 英一はその場を離れ、スマートフォンを取り出し、明美に短くメッセージを送った。

〈終わった。もう安心していい〉

 その文字を読んだとき、明美は初めて静かに、声をあげて泣いた。


第三章:遺体の秘密

 午前六時すぎ。湾岸エリアの廃材置き場に、一本の通報が入った。

「廃材コンテナから異臭がする。中に人のようなものが見える」と。

 早朝の作業に来ていた廃棄物処理会社の作業員が、廃材の隙間から突き出た“何か”を見つけたのは、偶然ではあったが、見逃しようのない異常だった。

 現場に駆けつけた警察が確認したのは、スーツケースの中に丸めて詰め込まれた、一人の男性の遺体だった。

***

 遺体は中年男性。白のワイシャツに高級ジャケット、足元には革靴。倒れた体の背中部分には、刃物で刺された痕跡がはっきりと残っていた。だが、凶器はすでに抜かれていた。

 財布とスマートフォンは所持したままだった。その中に、ひときわ目を引くものがあった。

 一枚のレシート。

 銀座の高級とらふぐ料理店「ふぐ政」で、23時04分に発行されたもの。記載には“ふぐ会席・一名分”とある。

「犯行時刻は……23時から0時の間ってとこか」

 捜査員がぽつりとつぶやいた。

「ふぐ食って、帰り道に刺された……ってのは、どうにも胡散臭いな」

「ま、ひとまず身元の確認だな。カード払いじゃなかったのが逆にありがたい」

***

 午前十一時。港署に設置された臨時捜査本部に、都内本部の刑事が姿を現した。

 一ノ瀬ちづる。刑事課・殺人犯捜査係所属。

 黒いパンツスーツに細身のシルエット。髪を後ろで一つに束ね、眼差しは鋭い。感情を外に出さない、冷静沈着な人物として知られている。

 捜査責任者から書類を受け取り、さっと目を通したちづるは、小さくうなずいた。

「遺体の身元は?」

「財布と指紋から照合できました。**片山和夫、52歳。無職。前歴はなしですが、女性関係で複数の民事トラブルがあるようです」」

「死因は?」

「背部刺創。一本。凶器は刃渡り15〜18センチほどの包丁と思われます。凶器は抜かれており、現場には残っていません」

 ちづるは、被害者のスマートフォンに目を落とした。

 最後の通話履歴――19時02分、「アケミ」という登録名の番号。

「この“アケミ”が、被害者と最後に話した人物だな」

 捜査員が頷いた。

「番号を追ったところ、該当者は明澤明美。有名な動画配信者です。登録者数は100万人を超え、テレビにも出演しています」

「明澤明美……名前は聞いたことがある」

 ちづるは手帳を開き、個人情報に目を走らせる。

「履歴を見ると、四年前まで経歴が空白。住民票の移動先に片山の名前……同棲していたということか」

「はい。元風俗勤務歴も、業界筋から裏が取れました。片山が“管理”していたようです」

「つまり、“過去の関係”があったわけだ」

 一ノ瀬は立ち上がった。

「……本人に、直接会ってみるか」

***

 午後三時。港区の高級マンション。

 オートロック付きの建物の前に、ちづるが立つ。明澤の部屋は2階。インターホンを押すと、少しして音声が返ってきた。

『……はい』

「警視庁の一ノ瀬と申します。片山和夫さんに関する件で、お話を伺えますか」

 しばらくの沈黙の後、無言でエントランスのロックが解錠された。

 応接を断られたため、ちづるはまず管理人室を訪ねた。年配の男性管理人が応対に出る。

「明澤明美さんについて、昨夜の出入り記録を確認させていただきたいのですが」

「はい……記録はすべてこの端末で見られます。1階エントランス、エレベーター、廊下……映像はここに残っています」

 昨夜18時以降の映像を確認する。一ノ瀬は目を細めながら早送りを繰り返す。

「……いませんね。昨日の夜、明澤さんは一度もカメラに映っていない」

 管理人がうなずく。

「明澤さん、普段からそうなんですよ。ほとんどカメラに映りません。」

「どういう意味ですか?」

「非常階段をいつも使ってるんです。2階ですし、エレベーターには乗りません。顔を見られたくないんでしょうね。カメラに映るのは、管理人室に用があってくるときくらいです」

 一ノ瀬は無言のまま、再び映像を巻き戻した。やはり、彼女は映っていない。

「非常階段にカメラは?」

「つけていません。 コスト面の問題で……共用階段は防犯対象外なんです」

「なるほど……ありがとうございます」

***

 その後、一ノ瀬は明澤の部屋の前に立った。

 ドアが開くと、明美は無言で立っていた。顔色は悪く、目の下に隈がある。昨夜の事件を知らされたことを察しているようだった。

「少しだけ、お話を伺います」

「……どうぞ」

 明美は、決して多くを語らなかった。

 19時すぎ、片山から通話があったのは認めた。だが、内容については「一方的に相談めいた話をされただけ」とだけ答えた。

「直接会ってはいません」

 ちづるはその言葉に、何の反応も示さなかった。ただ頷くだけだった。

 部屋の中には異常な様子はない。整頓されすぎているほど整っていた。何かを“消した”後に似ている、とちづるは感じた。

 だが証拠はない。

 今のところは。

***

 マンションを出て、ちづるは青空を仰いだ。

 明澤明美――

 元風俗嬢、今は人気配信者。

 片山和夫――

 元“ヒモ”、そして管理者。

 ふぐ店のレシート、深夜の死体、そして防犯カメラに映らない足取り。

 すべてが、まだ静かに水面下でつながろうとしている。

「……この女、何かを隠してる」

 ちづるの目が細くなった。

 ビルの隙間から、また冷たい風が抜けていった。


第四章:胃の中の真実

 銀座・並木通りの一角。冬の冷気が街を包むなか、木製の引き戸と和紙の行灯がひっそりと灯っていた。

 「ふぐ政」。

 表通りからは奥まった位置にある、知る人ぞ知る高級とらふぐ料理店だった。客の多くは常連で、政財界の顔ぶれも多い。予約なしでは入れず、ふぐの季節には連日満席となる。

 開店前の静かな空間に、一ノ瀬ちづるは黒のスーツ姿で現れた。

 刑事であると名乗ると、接客係はすぐに奥へ通し、店主が現れた。五十代半ば、和装の板前姿。物腰は丁寧で、落ち着いた気配を漂わせていた。

 ちづるは一枚のレシートを差し出した。

 ふぐ政 202X年1月○日 23:04発行 ふぐ会席 一名 個室:楓

 店主は丁寧に受け取り、目を細めて印字を確認する。

「はい。たしかに当店のレシートです。紙も印字も間違いありません。この時間帯であれば、個室“楓”で通常の会席コースをご提供しています」

「この“ふぐ会席”で提供されるふぐは?」

「すべて“とらふぐ”です。他の種類のふぐは一切使用しておりません」

 その答えは、明確だった。

 高級店としての誇りと品質の保証。それを守るための選択だったのだろう。

 「ショウサイフグ」や「マフグ」といった安価な品種の名は、彼の口から出ることはなかった。

 ちづるは静かにうなずいた。

「ご協力、感謝します」

***

 港署。監察医務室。

 冷たい蛍光灯の下、白衣姿の女性医師がモニターを前に座っていた。

 ちづるが入室すると、すぐに振り返って立ち上がる。

「一ノ瀬さん。胃の内容物から、白身魚の筋肉繊維が複数検出されました。加熱処理されており、ふぐちりの可能性が高いと思われます」

「ふぐの種類、特定できる?」

「はい。昨日、“種類を特定してほしい”とご依頼がありましたので、DNA鑑定に回しました。その結果が……こちらです」

 封筒に入れられた鑑定報告書を、ちづるは受け取る。

 ゆっくりと開き、中ほどに記された種名に視線が止まった。

 検出種:ショウサイフグ(Takifugu poecilonotus)

 ちづるの目が細くなる。

 とらふぐではない。

 銀座の高級ふぐ店「ふぐ政」では絶対に使用しない、庶民的で安価な品種――ショウサイフグ。

「間違いないの?」

「はい。胃の中の組織片から検出されたDNAと、ショウサイフグの標準データが完全に一致しました。確定です」

 室内に、静かな緊張が走った。

 ちづるは報告書を閉じ、ポツリと呟いた。

「……“ふぐ政”で食べたのなら、とらふぐのはず」

 医師は口を閉ざしたまま頷く。

「レシートは本物。でも、胃の中のふぐは違う」

 ちづるの声は低く、しかし確信を持っていた。

「誰かが、食事を偽装した。時間も、店も、ふぐの“顔”までも――」

 ふっと、口元に皮肉めいた笑みが浮かぶ。

「……ふぐまで、嘘をついてるわけ」

 その言葉は独り言のようだったが、室内の空気を鋭く切り裂いた。

 完璧に見えた“アリバイ”のなかに、わずかな裂け目が生まれていた。

 それは、胃の中から発見された、もうひとつの“声”だった。


第五章:不法投棄の影

 冬の朝、港湾倉庫の裏手にあるごみ捨て場は、先月よりもはるかに荒れていた。

 空き缶、段ボール、雑多な家庭ごみ。電気製品や粗大ごみまでもが無造作に積まれ、風にあおられてビニール袋が舞っている。立て看板の「不法投棄禁止」の文字はすっかり色あせ、ほとんど読めなくなっていた。

 一ノ瀬ちづるは、無言でその光景を見つめた。

 ――ここに、片山和夫の遺体が捨てられていた。

 だが、それからというもの、ますます不法投棄が増えているという。

 ちづるは近隣の住民への聞き込みを開始した。すると、複数の証言が同じ方向を示していた。

「最近、外国人の男が夜中に軽トラックで来て、ごみを捨てていくのを見ました。音楽を鳴らしてることもあるし、こっちは迷惑してるんですよ」

「顔はよく見えないけど、いつも夜中なんです。ちょっと怖くて……」

 ちづるは頷きながら空を仰いだ。曇天、冷たい風。

 この場所に、まだ何かが残されている――そんな直感があった。

***

 その夜。

 ちづるは、ごみ捨て場から少し離れた場所に車を停めた。エンジンを切り、ライトも落とし、運転席でじっと息を潜める。

 手には、スターバックスで買った熱いソイ・ラテ。

 紙カップの温もりが、冷えた指先をじんわりと温めてくれる。だが、口にはしなかった。

 時刻は深夜一時を回った頃だった。

 低く唸るようなエンジン音とともに、黒っぽいワンボックスカーがごみ捨て場に滑り込んできた。ヘッドライトは消え、車は音もなく停車する。

 運転席から降りてきた男は、青いパーカーを着ていた。

 男は周囲を警戒するようにきょろきょろと見回し、大きな黒い袋を抱えてごみの山の奥へと歩いていった。何かを隠すように、ごみの隙間へ押し込む。

 ――青いパーカー。がっしりした体格。灰色の古いワゴン。

 ちづるは車を出ることなく、その姿と動作、車のナンバーを頭に刻み込んだ。

***

 翌日、ごみ捨て場近くの工場で、外国人労働者への聞き込みを行った。

 その中の一人が、決定的な証言を口にした。

「ぼく、夜にごみ出しに行ったら、青いパーカーの男が袋を捨てているのを見たんです。車の色はグレー。トヨタの古いワゴンっぽかったです」

 ――完全に一致している。

 ちづるは、確信を得た。次はこの男が“誰なのか”を突き止める必要がある。

***

 数日後、ちづるは明澤明美のマンション近くにあるスターバックスを訪れた。

 昼下がりの店内はほどよく混み合い、作業中の若者やスーツ姿のビジネスマンたちがコーヒー片手にくつろいでいた。

 その中に、ちづるは彼女を見つけた。

 明澤明美。

 黒のロングコートにニット帽、マスク姿。だが目元の輪郭と姿勢で、ちづるはすぐにそれと分かった。

 彼女はカウンターに並び、小さな声で注文した。

「……熱いソイ・ラテ、トールで」

 紙カップを受け取り、奥の窓際の席へ。スマートフォンを見ながら、どこか落ち着かない様子で周囲を気にしていた。

 ――誰かを待っている。

 そう思った矢先、明美は急に立ち上がり、そのまま足早に店を出た。

 そして入れ替わるようにして、青いパーカーの男が入ってきた。

 ちづるはすぐに動いた。カウンターへ向かい、店員に声をかける。

「さっきまであの席にいた女性、よく来ますか?」

「ええ、**週に一度くらいは来てますね。いつも男の人と一緒ですよ。今日はひとりでしたけど……あ、あの人です。さっき入ってきた方」

 ちづるは頷き、ジャケットの内ポケットから警察手帳を取り出して開いた。

「警視庁の者です。少し、お話を伺ってもよろしいですか?」

 男が振り向いた。驚くそぶりもなく、静かな目でちづるを見返す。

「……はい。なんでしょうか」

「お名前を」

「鈴木英一といいます」

「少し、お時間いただけますか?」

 二人は店の奥のテーブルに腰を下ろした。

「○月○日の夜、23時から0時ごろ、どちらにいらっしゃいました?」

 鈴木は一瞬だけ目を細め、肩をすくめるようにして答えた。

「銭湯にいました。ちょうど閉店間際だったから、最後の客になっちゃって。店員に聞けば分かると思いますよ」

「銭湯の名前を教えてください」

「●●湯です。あの辺じゃ古いけど、いい雰囲気なんですよ」

 ちづるは静かにメモを取りながら、無表情を崩さなかった。

***

 翌日、ちづるはその銭湯を訪ねた。

 番台にいた年配の男性は、記憶をたどるようにしながら言った。

「若い男の人なら覚えてますよ。閉店ギリギリに来て、確かに“最後の客”でした。ただ、見たのはその日が初めてです。常連じゃなかったですね」

 ちづるは、その言葉を確かめるように記録と照らし合わせた。

 男が風呂に入った時刻――それは、片山の遺体がごみ捨て場に遺棄されたと推定される時刻の、直後だった。

 これはアリバイではない。

 遺棄の直後に、自らを“最後の客”として記録に残すための偽装工作だった。

 服装、車、行動、そして何より――明澤明美との接点。

 すべての点が、静かに線となり、輪郭を現し始めていた。

 一ノ瀬ちづるの瞳が、鋭く細められた。


第六章:真実の裁き

 警視庁・取調室。

 寒々しい蛍光灯の下、ステンレスの机を挟んで向かい合うのは――明澤明美。

 黒のコートに、帽子とマスク。化粧は薄く、瞳には光がなかった。あの配信で見せていた、華やかな笑顔はどこにもなかった。

 一ノ瀬ちづるは、正面に座ると、黙って書類を並べていった。

 一枚ずつ、ゆっくりと、重ねるように。

 レシートのコピー。

 監視カメラの記録映像一覧。

 胃の内容物に関する鑑定書。

 そして――不法投棄の目撃証言。

「あなたが、“ふぐ政”で食事したレシートを、片山和夫のポケットに入れましたね」

 明美の手が、かすかに震えた。

「このレシートは本物です。ですが、胃の中から検出されたふぐは、“ショウサイフグ”。“ふぐ政”では扱っていません。鈴木さんが食べたのは高級なとらふぐです。片山和夫の胃から検出されたのはショウサイフグ。片山さんの胃の中から検出されたDNAとは一致しません。そして、この矛盾から、あなたが計画的にアリバイを作ろうとした証拠が浮かび上がったんです。」

 ちづるの声は低く、静かだった。

「そしてあなたの動線。マンションの監視カメラには、あなたの姿が一度も映っていません。管理人の証言では、あなたはいつも非常階段を使っていた。そこにカメラはない。だから、出入りの記録が残らなかった」

 明美は俯いたまま、何も答えなかった。

 ちづるは最後の一枚を出す。

 それは、青いパーカー姿の鈴木さんがごみを遺棄する姿を目撃した証言記録だった。

 「あの日、外国人が不法投棄しようと先に来ていたんです。その後、鈴木さんが来ました。全部見ていたんですよ。鈴木英一さんは共犯として、既に別室で取り調べを受けています。死体遺棄は彼。あなたが殺害し、彼が運んだ。――そうですね?」

 沈黙が落ちた。

 部屋の中から、時計の針の音だけが響いていた。

 やがて、明澤明美はぽつりと呟いた。

「……ただ、幸せになりたかっただけなのに」

 ちづるは目を細め、その言葉に返事をしなかった。

 手元のボタンを押し、部屋のドアが開いた。

「明澤明美、殺人の容疑で逮捕します」

***

 夜。ちづるは警視庁の建物を出たあと、無言のまま歩き続けた。

 しばらくして、ちづるは近くのスターバックスに入った。

 少しだけ、気が抜けたように髪を耳にかけながら、レジに並ぶ。

「……キャラメルマキアート。トールで」

 甘い香りと温もりが、少しだけ疲れを癒してくれる気がした。

 彼女はカップを受け取り、無言で席に着く。

 窓の外には、銀座の街が静かに瞬いていた。

 (完)

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