刑事一ノ瀬ちづるの事件簿 目撃者は猫
人が「嘘をつく」とき、そこには必ず理由がある。
愛のため。恐れのため。あるいは、自分自身を守るために。
この物語は、一匹の猫の目がすべてを見ていた――という、ささやかな仮定から始まりました。
都会の片隅、光のように整った住宅地の奥で、人知れず燃え上がった情と欲。
そのなかに、一人の刑事が踏み込んでいく。
一ノ瀬ちづる。
冷静で、観察力に優れ、そしてほんの少しだけ“人間くさい”刑事です。
彼女のまなざしの先にあるのは、「正義」という言葉の下に隠された哀しみ、罪、そして選択の跡です。
タイトルにある「目撃者は猫」。
これは単なる仕掛けではなく、見えないものを見る力、語られないものを感じる存在――そうした比喩でもあります。
この小説が、読者の皆様にとって、静かに心を刺す一作となれば幸いです。
第一章:罪と秘め事
午後二時。春の陽光がカーテン越しに差し込み、リビングをやわらかく照らしていた。都内の閑静な高級住宅街。その一角に佇む黒川邸は、静寂の中にたゆたう空気を抱いていた。
シルクのローブを身にまとった黒川牧子は、ワイングラスを手にソファへ身を預けていた。淡いピンクの布地が滑らかに脚を撫で、香水と赤ワインの芳香が部屋の空気に溶けている。クラシック音楽が低く流れ、時間の流れが緩やかに伸びていく。
隣に座る男は、ワイシャツのボタンを外したところだった。馬目正義。精神科医。四十代半ば、理知的な風貌と静かな口調を持つ男である。
「もう少し、こうしていられたらいいのに」
牧子がぽつりと呟いた。
「黒川さんは今日も出張だろう?」
「ええ。ベトナム。投資案件で、社運を賭けてるとか言ってたわ」
彼女はグラスを傾け、視線を窓の外に向けた。咲き始めたハナミズキの花が、春風に揺れている。
「この家にいても、誰にも見られていない気がするの。彼にとって私は、ただの家具……いえ、それ以下かもしれない」
馬目はそっと牧子の手を取り、やわらかく指先を撫でた。
「君は、ちゃんと愛されるべき人だ。僕は、そう思ってる」
牧子はわずかに微笑み、そして静かに唇を重ねた。ぬくもりがふたりの間を満たしていく。
だが、その穏やかな時間は、突然の電子錠の解除音によって破られた。
ピッ――カチャ。
「……!」
牧子の肩が跳ねる。
数秒の静寂の後、リビングのドアが静かに開いた。
「おまえさんが来ていることは知っていたよ」
黒川外山。牧子の夫であり、IT企業「ヴァーチュノス・リンク」の社長。黒いスーツを着こなし、無表情でリビングを見渡す。
「今日は妻のどんな治療だ? 二人とも全裸で……ずいぶんと宗教的だね」
落ちていたトランクスを拾い、外山はそれを無造作に穿いた。
「精神科医だろうがなんだろうが、破滅させてやる。会社も、医師免許も、人生も……全部だ」
馬目は立ち上がりかけ、言葉を絞り出した。
「僕たちは……愛し合っているんです」
外山の口元に、冷笑が浮かんだ。
「くだらない。牧子はこの五年間で、君で六人目の男だ。すぐに飽きられるさ」
牧子は何も言わなかった。ただ、唇を噛んでうつむいていた。
外山はソファの裏から金属バットを取り出した。鈍く光るその鉄の塊を、ゆっくりと構える。
「やめろ!」
馬目が飛び出し、バットの一撃を肩で受けながら、外山の手首をつかみ、バットを奪い取る。揉み合いの末、反射的に――振るってしまった。
――ゴン。
鈍い音が室内に響いた。外山の体がゆっくりと崩れ落ちる。倒れた頭部から、赤いものが床に広がっていく。
「……やってしまった……」
馬目の呼吸は乱れ、手に持ったバットが震えている。牧子はソファにへたり込み、唇を押さえて顔をそむけた。
「逃げよう」
馬目の言葉に、牧子は無言で頷いた。ふたりは手早く服を整え、鞄も持たず、家を出る準備を整えた。
玄関のドアを開け、午後の光の中へ出る。日差しは明るく、まるで何もなかったかのように、街は穏やかだった。
車まで数歩。馬目がふと、横の塀に視線を向けた。
そこに、一匹の三毛猫がいた。
白と黒と茶が混じった毛並みの猫が、塀の上にちょこんと座り、じっとこちらを見つめていた。まるで全てを見ていたかのように。いや、それ以上に、心の奥まで見透かしているような目だった。
馬目は立ち止まり、目を細める。胸の奥に少しだけ、熱がこみ上げた。
不思議なことに、少しだけ安心していた。
牧子は先を歩いている。猫の存在に気づくこともなく、足早に車へ向かっていた。
馬目も黙って猫に背を向け、歩き出す。エンジンをかけ、車は静かに住宅街を離れていった。
塀の上の三毛猫は、動くことなく、ただいつまでもその場に座っていた。
第二章:スタバと能面と嘘の匂い
午後の陽射しが淡く射し込む、無機質な一室。ここは黒川邸のリビングである。床には乾きかけた血の跡が残り、ソファは乱れたまま。テーブルには倒れたグラスがひとつ、ワインの赤がじわじわと絨毯を染めていた。
鑑識班が淡々と作業を進めている。その中に、ひときわ異彩を放つ人物がいた。
「警部とお仕事できて光栄です」
若い鑑識員が畏まった調子で声をかける。
「おだてないでよ」
そう答えたのは、痩身の女刑事――一ノ瀬ちづる。
黒髪のショートカット、黒縁のメガネ、タイトな黒のパンツスーツ。その手には、スターバックスのカップ。アイスソイラテ、斜めに刺さったストローがまるで銃のように指先で構えられている。
「これ、いつも飲んでるやつ。甘くないけど、飲むと頭が冴えるのよ」
ちづるは軽口を叩きながらも、目の奥は鋭かった。鑑識員が差し出した報告書に目を通し、すぐに顔を上げる。
「奥さん、少しお話いいですか?」
ソファに座っていた女が、ゆっくりと立ち上がった。黒川牧子。細身の体を深緑のカーディガンで包み、表情は憔悴しきっている。だが、その憔悴が本物かどうかは、ちづるの観察眼が試すところだった。
「あたしが一人でいたら、突然、強盗が……」
牧子の声は震えていた。しかし、ちづるはその震えを額面通りには受け取らない。震えの質は、長年の経験で見抜ける。
「そのとき、ご主人は?」
「たまたま帰ってきたんです。犯人と揉めて……主人が殴られて倒れて……犯人は逃げました」
「犯人の顔は見ましたか?」
「見ました。でも……お面を被っていて……白い、お面です」
「どんなお面?」
「……能面でした」
一瞬、ちづるの動きが止まった。ストローを握る指に、わずかな力がこもる。
「能面……。変わった趣味の強盗ですね。ご主人を殺しておいて、何も盗らずに逃げた?」
「……あたしが騒いだからじゃないかと」
ちづるはゆっくりと首をかしげる。
「それはあるかもしれません。でも普通、何か持っていきますよ。財布でも、腕時計でも、目につくものだけでもね」
牧子は目を伏せたまま、口元を引き結ぶ。
「あそこに防犯カメラがあります。録画は……念のため確認させていただいても?」
「ええ……でも……オンになってなかったかもしれません。あたし、そういうのに疎くて。情弱っていうんですか……」
「まあ、あるだけマシですね。念のため確認しておきます」
ちづるの視線が部屋を一巡したとき、ふと壁のカレンダーが目に入った。赤ペンで丸がつけられた日付がある。
「この印、何かご予定が?」
「ああ……不眠症で、神経科のお医者さんに通っているんです。その日が、次の診察日です」
「どこの病院ですか?」
「馬目精神科医院です。先生がとても優しくて……。あたし、何度も助けられてるんです」
涙を拭うような仕草。しかしちづるは、その動きに演技の匂いを感じ取っていた。
リビングに倒れたグラス。整いすぎた現場。何も盗られていない家。あまりにも滑らかに整いすぎている。
――これは偶然か、それとも精巧な舞台装置か。
ちづるはストローを口に含み、氷の音を聞きながら言った。
「鑑識。カレンダー、現場写真、PCの履歴、全部回して」
「了解しました」
そして、スタバのカップを片手にちづるはリビングを出た。玄関を抜け、眩しい春の日差しに目を細める。
彼女の目には、すでに明確な疑念があった。
――あの奥さんは、犯人の顔を知っている。
――犯人は強盗ではない。
――能面は嘘だ。
だが、今はまだ決定的なことは言えない。ただ、におう。強く、濃く、嘘の匂いが――
ちづるはカップをもう一度口に運び、ソイラテの苦みに目を細めた。
捜査は、ここからだ。
第三章:白衣と沈黙
曇天の空が低く垂れ込め、午前の陽射しはほとんど届かない。雨こそ降っていないものの、風には湿気を含んだ重さがあった。
馬目精神科医院は、文京区の住宅街にひっそりと建っていた。三階建ての小さな建物。白い外壁と緑の看板。その控えめな佇まいには、どこか“何かを隠している”ような空気が漂っている。
一ノ瀬ちづるは、白いカップを片手に入り口をくぐった。今日のスタバはホットのアメリカーノ。肌寒いこの日のために、ほんの少しだけシナモンを加えてある。
待合室には数人の患者がいた。誰もが無口で、空気のように静かに椅子に座っていた。壁には淡い風景画。窓際には人工の観葉植物。穏やかなBGMが流れているが、そこに“意図された沈黙”が乗っていることを、ちづるはすぐに感じ取った。
受付に警察手帳を見せると、若い女性スタッフが緊張した面持ちで頭を下げた。
「先生は、診察が終わり次第、お通しします」
「ええ。時間はありますから」
ちづるは壁際のソファに腰を下ろし、カップを口に運ぶ。コーヒーの香りとほろ苦さが、頭を切り替えてくれる。すでに脳裏には質問の設計図が組まれていた。
しばらくして、扉の向こうから白衣の男が現れた。
「お待たせしました。馬目です」
馬目正義――精神科医。年齢は四十代半ば。温厚な笑顔と穏やかな声を持ち合わせているが、その佇まいには「近寄りがたい知性」が混じっていた。少し痩せた頬、眼鏡の奥の目は細く、表情の裏にわずかな計算の気配がある。
診察室に通されると、机の上には整然とカルテが並べられていた。無駄のないレイアウト。それだけで彼が几帳面な性格だとわかる。
「黒川牧子さんの件でお聞きしたくて伺いました」
「ええ……突然のことで、私も驚いています。彼女には一年ほど前から通っていただいていました。主訴は不眠。症状は軽度でしたが、ストレスが強くて」
「ご主人との関係で?」
「そうですね……詳しいことは控えますが、少なくとも、夫婦関係は良好とは言えなかったでしょう」
ちづるは頷きながら、視線を診察室の棚へ滑らせる。書棚には専門書のほかに、妙に古びた心理学の全集が並んでいる。その中に一冊だけ、背表紙が剥がれかけたファイルがあるのを見逃さなかった。
「牧子さんが、あの日“強盗”に襲われたと話していますが、先生、彼女には虚言の傾向がありますか?」
「いえ……そういう印象はありませんでした。むしろ、感情の抑制が強すぎて、言葉が出にくいタイプです」
ちづるはアメリカーノをひと口すすった。
「そうですか。けれど、気になるんですよね。犯人が“能面”をつけていたと証言しているんです」
馬目の表情がわずかに曇った。
「能面……ですか。ずいぶん、奇妙ですね」
「ええ。私も今まで、そんな強盗事件は聞いたことがありません」
ちづるは机の上に指を置き、軽く叩いた。音が、静寂に吸い込まれていく。
「私はね、あの奥さんが“犯人を知っている”と感じています。彼女は嘘をついている。先生は、どう思われます?」
馬目の笑顔がわずかに硬くなった。
「……なぜ、そう断定されるのですか?」
「“能面”というのは、あまりにも象徴的すぎます。顔を隠すのは見られたくないから。でも、彼女は“見た”と言い、“わからなかった”と言った。おかしいでしょう?」
馬目はしばらく沈黙したまま、口を閉じていた。ちづるの言葉は静かだったが、冷たい針のように核心を突いていた。
やがて彼女は、すっと立ち上がった。
「……今日はこれで失礼します。何かあれば、また伺います」
「ええ、いつでも。ご協力できることがあれば」
馬目はそう言いながらも、机の上のカルテに視線を戻していた。その目は、何かを押し隠すような静けさを湛えている。
ちづるはドアを開けかけ、ふと振り返った。
「先生――黒川牧子さんのような、“嘘がつけない人間”ほど、いざというとき、驚くほど器用に嘘をつくことがあります。覚えておいてください」
診察室の扉が静かに閉まった。
外の空気は、いっそう湿り気を帯びていた。
馬目は、机の上に置かれた一冊のファイルにそっと手を伸ばす。中には黒川牧子の記録が収められている。それは診療記録というより、密やかに綴られた個人的な――回顧録のようだった。
そのファイルには、他人には決して見せられない“関係”の匂いが、確かに染みついていた。
第四章:夜の公園と腹の靴跡
夜の風が骨に染みる。空はどこまでも暗く、街灯の光だけが階段を照らしていた。
大塚公園。
昼間は子どもたちの遊び声が響くこの場所も、今は静まり返っている。遠くで車の音が流れ、猫の鳴き声が一度だけ短く響いた。
階段の中腹、コートの裾を広げるようにして倒れている男がいた。
仰向け。頭部からの出血。顔は潰れて原形を留めず、胸の前で腕が不自然に折れ曲がっている。
片倉和人。五十二歳。個人で興信所を営む探偵だった。
一ノ瀬ちづるは、コートの裾を翻して階段に近づいた。手にはスターバックスのテイクアウトカップ。ホットのアメリカーノ。今日はミルク抜き。眠気を振り払うための武器である。
「……顔、潰されてるわね」
同行した鑑識がぽつりとつぶやく。
「転落、あるいは、何者かに押されて頭部を強打……」
「押された? 違うわね」
ちづるは膝を折り、倒れた片倉の腹部に目を向ける。
コートの上からでもわかる、はっきりとした泥の痕。
それは不自然な“円”を描いていた。
「蹴られてるわ。正面から腹に。止めの一発」
地面には、薄く踏み込んだ足跡が残っていた。鑑識がすぐに覆いをかぶせる。
「これ、武道をやってる人間ね。素人じゃこうはならない」
ちづるは立ち上がり、アメリカーノをひと口。口内に広がる苦味が、夜の空気と交じって心地よい。
「事故死に見せかけた殺人。けれど、詰めが甘い」
ポケットから手袋を取り出し、ちづるは周囲を見渡す。
そして、草むらに落ちたスマートフォンを拾い上げた。
画面は割れておらず、ロックもかかっていない。まるで――見てほしいかのようだった。
通話履歴を開く。最後の発信は、十六分前。
相手の名前は――馬目正義。
ちづるの眉がかすかに動いた。
「……あなたね」
数日前、彼女が訪れた精神科医。温厚な笑みと白衣の奥に、何かを沈めたような男だった。
片倉和人。個人経営の探偵。
依頼主は黒川外山――殺されたIT企業の社長。
調査対象は、妻・牧子。
そして、おそらく――片倉は何かを“聞いてしまった”。
黒川邸で起きたあの事件の夜、彼は車の中にいた。エンジンを切り、録音機器を回し、タイミングを見て連絡を入れようとしていた。
だが――馬目に接触した。
そして殺された。
「片倉さん、詰めが甘かったわね……。あんな男に接触するなんて」
ちづるはそっと目を閉じ、呼吸を整えた。
自分の内側にある“冷たい目”を呼び起こす。
ここからは、推測ではなく、証明の時間だ。
足元の地面に視線を戻す。泥のついた場所――そこには力が集中していた。
踏み込みと、引き足。
まさしく訓練された蹴りだった。
「剛柔流、か……」
あの日、牧子の診察記録に目を落としたとき、馬目の手元にあった護身術の資料を、ちづるは見逃していなかった。
白衣の下に、もう一つの顔。
穏やかな声の奥に、力を知っている男。
夜風が、静かに木々を揺らす。
その葉擦れの音の中に、ちづるは確信を得ていた。
――片倉は口封じされた。
――そして、その蹴りは、武道の達人のものだった。
ちづるはスマートフォンをビニール袋に収め、アメリカーノを持ち直した。温もりがわずかに残る。
だが、心の奥はもう冷えている。
この死は、偶然ではない。
これは、連鎖の一撃だ。
第五章:そば屋のテーブル
雨上がりの路地に、つゆの香りが漂う。
「更科庄兵衛」。文京区の裏手にある、木造二階建ての古びたそば屋。時間が巻き戻ったような店内には、静かにラジオの演歌が流れている。
馬目正義は、小上がりの席で湯気を立てるにしんそばを前にしていた。
白衣ではなく、グレーのジャケットにタートルネック。どこにでもいる中年男の装いだ。
背筋をまっすぐに保ち、落ち着いた所作で箸を割る。眼差しには、感情の波がない。
そのとき、引き戸が音を立てて開いた。
「やっぱり、ここでしたか」
現れたのは一ノ瀬ちづる。
黒のスーツにメガネ、短く整えられた黒髪。表情には疲労の色がありながら、声には一分の狂いもない。
「刑事さん。偶然ですね」
「いいえ、たぶん、三度目の偶然は偶然じゃないんですよ」
彼女はにこりともせず、馬目の向かいに腰を下ろした。
店員がすぐに来た。
「肉そば、ください」
「お疲れですか」
「ええ、がっつりしたのが食べたい夜で」
二人の間に、湯気と音のない間が生まれる。
割り箸が割られ、そば湯の湯呑みが置かれ、ラジオの音が遠ざかっていく。
ちづるがふいに言った。
「先生、北海道でそばを食べたことあります?」
馬目が少し目を細めた。
「……いいえ。行ったことはありますが、そばは記憶にありません」
「私は旅行で札幌に行ったとき、肉そばを頼んだんです。でも出てきたのは、カレーそば」
「はあ、それは……間違いでは?」
「そう思ったんですけど、店の人が言うには“北海道ではカレーそばのことを肉そばって呼ぶ”んですって。でもメニューには肉そばとカレーそば、両方あったんですよ。ふざけてるでしょ?」
ちづるは湯呑みに口をつけ、少しだけ笑った。
「結局、肉そばは豚肉入りのカレーそばで、カレーそばは牛肉入りなんですって。詐欺じゃないけど、まぎらわしいことこの上ない」
「……地方には地方の常識があるものですね」
「ええ、まったく」
再び静けさ。
湯気が器から立ちのぼり、ふたりの間に薄い膜のようなものをつくる。
「先生、片倉和人さんという方、ご存じありませんか?」
馬目はすっと顔を上げ、首を横に振った。
「いいえ。聞いたこともありません」
「個人で探偵をやっていた人です。黒川さんの依頼で、奥さんのことを調べていたみたいですね。……先日、死にました」
馬目の表情は変わらない。箸の動きも、ゆるやかに続いていた。
「そうですか。どんな死に方だったんですか?」
「階段から転落。大塚公園で。頭を強く打って――即死。事故に見せかけた、殺人かもしれないっていう声もあるにはありますけど」
「お気の毒ですね」
「そうでしょうね。……ただ、彼のスマホが見つからないんです。どこにも」
馬目は湯呑みに口をつけ、無言で頷いた。
「まるで、死んだあとに誰かが“持っていった”みたいにね」
ちづるの声には揺らぎがなかった。
馬目は顔を伏せもせず、器の中のにしんをゆっくりとつついた。
「刑事さん、まさか……私がその“誰か”だと?」
「私は事実を並べているだけです。確かなのは、片倉さんが、事件の夜に黒川邸の近くにいた。そして、その後すぐ死んだ。そして彼の携帯が、どこにもない」
「……」
「それだけです」
ちづるの肉そばが届いた。彼女は箸を取り、麺を少し啜った。味を確認するように。
「美味しい」
「そうですか」
ちづるは器に視線を落とし、湯気の向こうにある馬目の顔をじっと見つめた。
ラジオの演歌が途切れ、店内はさらに静けさを増す。
「……まあ、今はその話はいいですね」
彼女は小さく笑みを浮かべ、そばをもうひと口すする。
会話の熱をすっと落とすように。
馬目はそば湯を口に含み、静かに頷いた。
やがて、ふたりは黙ったままそばを啜った。
小さな湯気の向こうに、それぞれの思惑だけが濃く残っていた。
店の外には、また微かな雨の気配が戻っていた。
第六章:静かな夜の沈黙
曇った空からわずかに光が差す午後、馬目精神科病院には、ほとんど人影がなかった。
予約患者はキャンセルが続き、待合室の椅子は虚ろに並んでいる。
その中で、ただ一人、姿勢を崩した女がいた。
黒川牧子。
淡いグレージュのコートに身を包み、薄い化粧。
その目元には、睡眠不足と葛藤の影が色濃く浮かんでいた。
受付に顔を見せた彼女に、看護師は気まずそうに応じた。
「先生、空いておりますので、どうぞ……」
診察室のドアを開けると、馬目正義が静かに立ち上がった。
白衣の前をきっちりと留めた姿。だが、目元はどこか張りつめていた。
「牧子さん。……どうしました?」
牧子は一歩、二歩と中へ進んだ。その足取りは不安定で、まるで床に吸い込まれそうだった。
「……先生、もう……耐えられないの」
馬目は目を細め、静かに頷いた。
「……座って、話して」
牧子はソファに腰を下ろした。その手は膝の上でこわばり、小さく震えていた。
「あたし……もう、だめなの。……嘘をついてるの。ついてるってわかってる。誰かが死んで、その理由を知ってて、でも口を閉ざして……あたし、それができない」
「……何を言っているんだ」
馬目の声には、わずかに冷たさが混じった。
「本当のことを……言っていいでしょうか」
牧子の目には涙がにじんでいた。だが、それは静かに、音もなく溢れた。
耐えるように唇を噛み、必死に自分を支えていた。
馬目は机の引き出しから薬の小瓶を取り出し、ゆっくりとテーブルに置いた。
「……疲れてるんだよ、牧子さん」
声は優しかった。だが、その響きはどこか遠かった。
「今日は、いつものじゃない薬を出す。少し強めだけど、よく眠れるから……今のは捨てて、これを飲んで。ベッドで休んでいきなさい」
牧子は、わずかに頷いた。
何も言わず、薬を受け取り、水で流し込む。
そのまま促されるように、診療室の隣室――安静室の簡易ベッドに向かった。
白いシーツに身体を沈め、彼女は目を閉じた。
窓の外には、重たい灰色の空が広がっていた。
彼女の瞼は、その空をもう二度と見ることはなかった。
***
翌朝、看護師が安静室の扉を開けたとき、そこにはもう、息づかいもぬくもりもなかった。
黒川牧子は、白いベッドの中で静かに横たわっていた。
顔は穏やかで、まるで深い眠りの中にいるようだった。
だが、体温は失われ、脈もなく、呼吸も止まっていた。
すぐに救急が呼ばれたが、処置の余地はなかった。
警察の手配により、鑑識が入り、現場の確認が行われた。
結果――死因は睡眠薬の過剰摂取。
遺書はなく、部屋に乱れもなく、牧子自身が死を選んだという証拠もなかった。
ただ一つ言えるのは、「飲んだ薬」が“いつもの処方”とは違っていたことだった。
その日、馬目は診察をすべてキャンセルし、病院にこもったまま外に姿を見せなかった。
第七章:塀の猫の記憶と証言
春の風が、黒川邸の庭を静かになでていた。
花は散り、新芽が塀を覆う。屋敷は空になり、主も妻も、すでにこの世にはいなかった。
応接室には、一ノ瀬ちづると馬目正義の二人。
整えられた家具と、止まったままの掛け時計。時間だけが、この部屋には残されていた。
ちづるはテーブルにファイルを広げ、無言のままそれを馬目の前に差し出した。
「片倉和人さん。階段で転倒し、頭を打って死亡――表向きは事故。でも、彼の腹部には深く踏み込んだ蹴りの痕がありました」
馬目は無言でファイルを見た。整った文字で綴られた報告書を、一文字も読まぬまま。
「事故ではありません。明確な殺意があった。……その場に残された靴跡と、先生の靴のソールパターンが一致しました」
「……そんなもの、同じ靴なんてどこにでもありますよ」
「その通りです。靴跡だけでは、決め手にはなりません」
ちづるは静かに、窓を開けた。春の光と風が、部屋の奥まで流れ込んできた。
「黒川外山さんは、あの日“海外出張”だと妻に告げて家を出ました。でも実際には会社に少し顔を出しただけで、すぐに戻ってきています。……奥さんがそう言っていました」
「……あの奥さんの証言ですか」
「ええ。ですが彼女は、日記も服薬記録も丁寧に残していた几帳面な方でした。あの日だけ、飲んだ薬が違っていた。致死量の睡眠薬です」
ちづるはさらに別の資料を広げる。
「彼女が通っていた病院は、先生のところだけ。記録に残らない形で、あなたは薬を手渡していた。包装ごと――それが、屋敷のゴミ箱から見つかりました」
馬目は目を細めた。
「それだけで、私が渡したと?」
「彼女は他にどこにも通院していませんでした。処方が記録されていない分だけを、あなたが包装ごと手渡した。そこが甘かったんです」
馬目は顔をしかめもせず、ただ視線を落とした。
「……弱いな。そんなことで、私が犯人ですか?」
「ええ。まだ決め手にはなりません。……でも、つじつまは合ってきています」
ちづるは立ち上がった。
「天気もいいので、少し外に出ませんか。気分転換です」
馬目は数秒だけ黙っていたが、やがて頷いた。
二人は庭へ出た。空は抜けるように明るかった。
その塀の上に、猫が一匹いた。黒猫。じっと動かず、二人を見下ろしていた。
「……猫ですか?」
馬目がつぶやいた。
「ええ、ただの猫です。あの日も、ここにいました。……猫が、見ていたんです」
馬目はふと、塀を見上げ、思わず言った。
「……あのときは、三毛猫だった」
その瞬間、ちづるの視線が射抜くように鋭くなる。
馬目もすぐに自分の失言に気づき、口を結んだ。
ちづるは黒猫を指差す。
「その猫は、偽物です。3Gです。猫好きの技術者が開発した“監視用模型”。あの日が、試験運用の初日でした。偶然って、あるんですね」
ちづるはタブレットを取り出し、画面を馬目に向ける。
そこには、塀の上の視点から映された映像。庭の門を開けて出ていく男の姿。顔は、明瞭だった。
馬目正義。
奥さんが証言した“あの時間”に、この屋敷から立ち去っていた。
「猫の目は、すべて見ていました。そして、録画もしていました」
馬目の肩が、ほんのわずか落ちた。
「……偶然って、あるんだな」
「ええ。そしてそれを、証拠と呼びます」
ちづるは冷静に言い放ち、胸ポケットから手帳を取り出す。
「馬目正義さん。あなたを、殺人の容疑で逮捕します」
その声に、塀の上の黒猫が小さく尾を揺らしたように見えた。
春の風がまた吹いて、若葉を揺らしていた。
第八章:エピローグ
塀の上の黒猫が、尾をゆるやかに振った。
その下で、パトカーのドアが閉まり、馬目正義を乗せた車両が静かに走り去っていく。
タイヤの音が角を曲がるまで続き、それが消えたとき、黒川邸の庭に残されたのは、風と木々の音、そして一人の女刑事だった。
一ノ瀬ちづるは、しばらくじっと塀の上を見上げていた。
黒猫──否、3Gで作られた監視用のフェイク猫。その目がすべてを記録していた。無言で、偏見なく、ただそこにいて、見ていた。それが決め手になった。そういう時代なのだ。
ちづるはふうと息をつき、両手を伸ばして背伸びをした。
塀の上の猫に、指先が届くわけもない。だが、どこか触れてみたくなった。
「……賢い猫ちゃんだね」
軽く笑いながら、手を引っ込めた。
「スタバでキャラメルマキアートでもご馳走しましょうか? ──あんたは来ないだろうけど」
彼女は黒川邸の門をくぐり、歩き出した。
アスファルトは乾ききっていて、空は青く、雲ひとつなかった。
事件は解決した。殺意も、偽証も、苦しみも。だが、正しさだけが残ったわけではない。
牧子は死んだ。
夫を裏切り、愛人と共謀し、そして薬で眠った。
だが、ちづるの胸には、あのとき彼女が見せた“壊れそうな目”が、妙に残っている。
正義と哀れは、ときに背中合わせだ。
歩いて十分ほど。
ガラス張りのカフェ。チェーンのスターバックス。ちづるは扉を押して中に入った。
カウンターで注文を告げる。
「キャラメルマキアート、トールで。猫ちゃんの代わりに」
店員は意味を飲み込めないまま、にこりと微笑んだ。
席に着くと、窓の外の陽光がちょうどいい具合に差してきた。
紙カップを両手で包み込み、ちづるは小さくひと息つく。
自分は、冷たい人間なのかもしれない。
けれど、温かい飲み物くらいは、人並みに好む。
事件がひとつ終わっても、人生は続いていく。苦いものと甘いものを、交互に味わいながら。
カップの中のマキアートから、湯気が立ちのぼる。
外は、晴れやかだった。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『刑事一ノ瀬ちづるの事件簿 目撃者は猫』は、人が人を裁くということの、儚さと確かさを描こうとした物語です。
「真実」が暴かれ、「罪」が裁かれる。
それはもちろん必要なことです。ですが、その過程で置き去りにされる“感情”というものが、確かに存在します。
ちづるがスターバックスでキャラメルマキアートを飲むラストシーン。
あの小さな行動に、彼女の揺れる人間性や、正しさだけでは救えない心の複雑さを込めたつもりです。
またどこかで、一ノ瀬ちづるが新たな事件と向き合う日が来るかもしれません。
そのときはまた、猫がどこかで静かに見ていることでしょう。