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刑事一ノ瀬ちづるの事件簿 教授は誰だったか

量子コンピュータという言葉を耳にすると、最先端の技術、未来を変える力、あるいは国家の威信といった、華々しいイメージが浮かぶかもしれません。

しかし、その最前線に立つ人間たちは、意外なほど静かで、慎重で、そして――孤独です。

この物語は、一人の教授の死をきっかけに、名もなき観察者――刑事・一ノ瀬ちづるが、真相を一つずつ掘り起こしていく記録です。

派手なカーチェイスも銃撃戦もありません。

けれど、ごくわずかな“違和感”が、真実の輪郭を浮かび上がらせる鍵となります。

引きずる足音、紙の指紋、帽子の習慣――

人は、小さな癖や行動の中に、正体を隠してしまうのです。

どうぞ、一ノ瀬ちづると共に、静かなる真相へと足を踏み入れてください。

 一ノ瀬ちづる:冷静沈着な刑事。ショートカットにスーツ姿。観察眼に優れ、少ない情報から本質を突く。

 谷川真一教授:量子コンピュータ実用化の第一人者。慎重で誠実な人物だったが、アメリカとの協力話をきっかけに急変。

 比留川准慎一教授:共同研究者。野心家で、教授の態度の変化に疑念と嫉妬を募らせていく。


 第一章:アメリカよりの招待

 成田空港のゲートから、スーツケースを引いて現れた男の姿に、記者たちのシャッター音が走った。

 谷川真一教授――日本における量子コンピュータ実用化研究の第一人者にして、近年は政府のプロジェクトを主導する中心人物だ。

 彼は軽く会釈をしながら、記者の問いかけには答えず、そのまま黒塗りの公用車へと乗り込んだ。顔には微かな疲労の色。そして、その奥に、何かを決意した者だけが持つ沈黙のような光が宿っていた。

 数日後。都内某所にある量子情報研究センターにて、関係者たちを驚かせる発表が突如行われた。

 「我々は今後、アメリカ・マサチューセッツ工科大学との共同研究に踏み切ります。量子アルゴリズムの実用化に向けて、資源と人材を融合し、真のブレイクスルーを目指します」

 静まり返る会議室。その空気の中、ただ一人、谷川教授の隣に座る准教授――比留川慎一だけが、表情をまったく動かさなかった。

 会議終了後の廊下で、若手研究員が小声で囁いた。

 「比留川先生、顔色悪くなかったか?」

 「そりゃそうだよ。この研究、もともと比留川先生が立ち上げたんだ。アメリカに“成果”を持ってかれるなんて、複雑だろ」

 廊下の先――ガラス越しに見える比留川は、黙ってパソコンに向かっていた。画面には、研究データの一部と思しきコード群が映し出されている。

 その目は、光を反射していた。

 まるで、そこに燃えさかる執念が宿っているかのように。

 ──あのデータは俺が作った。谷川は、それをすべて持っていくつもりだ。

 俺の名前は、履歴のどこにも残らない。

 静かに、しかし確かに、何かが始まっていた。

 誰にも気づかれないまま、水面下で、未来の軌道が狂い始めていた。


 第二章:偽りの自殺

 夜の研究棟は、いつにも増して静寂に包まれていた。

 谷川五郎教授の研究室だけが、ほのかな明かりを漏らしていた。

 分厚い扉の向こう。誰にも邪魔されることのない空間で、谷川五郎教授は一人、デスクに向かっていた――はずだった。

 翌朝、研究助手が出勤すると、異変に気づいたのは最初の空気の違いだった。研究室のドアには内側から鍵がかかっている。何度呼びかけても応答はなく、管理室を通じて合鍵で扉が開けられた。

 そこに広がっていたのは、信じがたい光景だった。

 部屋の中央、教授の身体が天井から吊るされていた。

 白衣は脱ぎ捨てられ、黒のスーツ姿。胸元には折りたたまれた一通の封筒。遺書だった。

 現場に駆けつけた警察の鑑識が慎重に検分を進めるなか、研究センターの職員たちはただ沈黙のなかに立ち尽くしていた。自殺という二文字は、あまりにも唐突で、そして似つかわしくなかった。

 封筒から取り出された遺書は、乱れのない筆跡でこう記されていた。


  「私はアメリカとの共同研究に踏み切ったことを、深く後悔している。日本の未来を売ったような罪悪感に苛まれ、もはや前を向くことができない。責任を取って、ここに命を絶つ」

  谷川五郎


 形式としては整った遺書。文章も、内容も、死に臨む者として不自然なところは見当たらない。だが、それでも、研究センターの関係者たちは口々に「そんなはずはない」と言い合った。

 谷川はそんな人間ではなかった、と。

 彼の生き方は常に誠実だった。厳しいプロジェクトにも愚痴ひとつこぼさず、若手にも目を配り、研究の未来について語るときには、まるで少年のような瞳をしていた。

 だが、確かに彼は最近、何かを抱えているようにも見えた。海外から戻って以降、食事も減り、冗談にも笑わず、会議での発言も減っていた。

 「教授は……悩んでたのかもしれません」

 誰かがぽつりとつぶやいた。

 その声が引き金になったように、現場は急速に“自殺”という空気に染まっていく。

 警察は淡々と現場を記録し、監視カメラの映像を解析した。夜中の2時15分、教授が一人で研究室に入る姿が記録されている。扉の開錠ログも一致していた。室内に侵入した形跡はなし。天井の梁にロープをかけたのは自分の意志によるものと見なされても不思議ではない。

 だが、ひとつだけ腑に落ちない痕跡が残されていた。

 セキュリティ管理室のログに、同時間帯にアクセスされた記録があるのだ。

 記録されたIC番号は、誰のものでもなかった。

 無効化されていたはずの、存在しないカードのデータが、一瞬だけシステムに侵入していた。

 「バグか? それとも、誰かが……」

 担当者が首をかしげるその横で、調査員の一人がつぶやいた。

 「谷川教授、帽子をかぶったままでしたね」

 「え?」

 「普段、教授は研究室に入る前に必ず帽子を脱いで、ロッカーにしまっていたんですよ。あれが“礼儀”だって、昔から徹底してたんです」

 その言葉に、場の空気がふと止まる。

 小さな違和感。だが、それは確かに、“谷川五郎らしくない”。

 遺書、監視カメラ、スーツの襟、かぶったままの帽子、そして存在しないICカード。

 それらはまだ線として結びつかず、バラバラに散らばっていた。

 だが、この違和感たちは、やがて一人の刑事によって繋ぎ合わされることになる。

 彼女の名は、一ノ瀬ちづる。

 冷静沈着、そして観察力の化け物のような女刑事だった――。


 第三章:刑事一ノ瀬ちづる登場

 朝の冷たい風が研究棟の窓を叩いていた。

 その静寂を破るように、一人の女が静かに現場へと足を踏み入れた。

 刑事・一ノ瀬ちづる。

 冷静沈着、感情を表に出さないその表情と、黒のパンツスーツに身を包んだ姿は、現場の誰よりも場の空気に馴染んでいた。

 肩までのショートカットが、風に少し揺れている。

 「警視庁から応援で来ました。一ノ瀬です」

 「ご苦労さまです。こちらです……少し、変わった現場でして」

 迎えた刑事の案内で、一ノ瀬は研究棟の上層階にある谷川五郎教授の研究室へ向かった。

 殺風景な廊下を抜けた先、白いドアの前には簡易な封鎖線が張られている。

 中に足を踏み入れると、まだ微かに薬品の匂いが残っていた。

 整理されたデスク。整然と並んだ書類棚。

 椅子は引かれたままで、床にはコートと鞄が置かれている。

 「遺体の第一発見は助手の方です。鍵は内側からかかっていました」

 一ノ瀬は、部屋を一周するように歩き、無言で壁、天井、机、そして床を見つめた。

 「遺書は机の上に封筒で。手書きです。内容も自然。死因も一致。部屋に侵入の形跡もありません」

 「監視カメラの映像は?」

 「夜中の二時すぎ、教授が一人で研究室に入る姿が確認されています」

 「ふうん……」

 一ノ瀬は机に置かれた遺書を見た。彼女は手袋をつけ、紙をそっとめくる。

 内容には目を通さず、ただ紙そのものを見ている。

 次に、壁のロッカーに近づいた。扉を開けると、中には教授の白衣や何枚かのネクタイがかかっている。

 「教授、普段はスーツの上に白衣を着てた?」

 「ええ。帽子が好きで、通勤中も研究棟に入る直前までかぶっていたそうです」

 「……なるほど」

 ちづるの指先が、一着の白衣の裾を軽くなぞった。

 その動作に意味はないように見えたが、彼女の視線は、その奥で何かをつかもうとしていた。

 「ところで……教授は、最近何か変わった様子は?」

 「アメリカから戻ってきてから、少し疲れているように見えましたが……でも、自殺なんてする人じゃなかったと、みんな口をそろえて言ってます」

 「そうでしょうね」

 一ノ瀬はもう一度部屋を見渡した。静かで、整いすぎている――そんな印象だった。

 不自然ではない。だが、自然すぎる。

 「すみませんが、この部屋の監視映像、再度確認させてもらえますか?」

 「はい、こちらに」

 別室のモニターに映されたのは、深夜の研究棟の廊下。

 教授の姿が静かに現れ、扉の前に立つ。帽子をかぶり、スーツの襟を整えているようにも見える。

 扉を開け、教授は中へと入っていった。

 それだけの映像だった。

 「……足取りが重いですね」

 「そうですね。やっぱり悩んでたんですかね」

 一ノ瀬は返事をせず、じっと画面を見つめ続けた。

 映像は、ただ事実を映している。

 何もおかしくはない――はずだった。

 「……この人、本当に谷川五郎教授?」

 誰にともなくつぶやいたその言葉は、空気のなかに溶けていった。


 第四章:きのこそばととんかつ定食

 昼下がりの研究センターの食堂は、妙にのんびりした空気に包まれていた。

 メニューの電子パネルには、日替わり定食の「チキン南蛮」と「きのこそば」が並び、職員たちは手慣れた様子でトレイを手に列に並んでいる。

 その一角――窓際のテーブルに、とんかつ定食を前に腕を組んで座る男がいた。比留間慎一。准教授。

 研究棟では「生真面目で無表情」と評判の彼だが、目の前のとんかつには人一倍真剣だった。

 その男の前に、すっとトレイが置かれた。

 「ここ、ご一緒していいですか?」

 顔を上げた比留間の目に、ショートカットの女刑事の姿が飛び込んでくる。手には湯気を立てるきのこそば。

 「……あ、はい。どうぞ」

 一ノ瀬ちづるは席に座ると、小さく礼をして、湯気の立つそばに箸をつけた。

 「研究者の昼食って、もっとカロリー控えめかと思ってましたけど。がっつりいくんですね」

 「いや……昼くらい、気を抜かないとやってられませんから」

 比留間は苦笑しながら、ソースをかけたとんかつをひと切れ頬張る。

 「なるほど。私はね、そば派なんです。軽くて消化にいい。事件現場って、胃にくるんですよね」

 「……それは、お察しします」

 しばし、ふたりは無言で食事を進めた。箸の音と、他の客の談笑が遠くに聞こえる。

 しかし、次の瞬間、ちづるはそっとポケットから一枚の紙を取り出した。

 「これ、ちょっと持ってもらえます?」

 「……えっ?」

 比留間は口をもごもごさせながら紙を受け取った。

 白い無地の紙。それだけだ。

 「……何の紙ですか?」

 「実験です」

 「……実験?」

 「ええ。人間が紙を“自然に”持つと、どういうふうに指紋がつくかっていうね」

 「……ああ、なるほど……?」

 比留間は紙を持ち直し、裏表を眺めながら戸惑ったように笑う。

 「それで……?」

 ちづるは箸を止め、そばの汁を静かにすすったあと、言った。

 「教授の遺書、片面にしか指紋がなかったんですよね。表だけに、きれいに」

 「……へえ」

 「ふつう、紙を持つと両面に指紋がつきます。手袋でもしてない限り。ほら、あなたも今、つい両手で持ったでしょう? 表にも裏にも、指紋、ばっちり」

 「……あー……まあ、そうなりますね」

 「でしょ?」

 ちづるは軽く笑って、またそばに箸をのばす。

 あくまで雑談。そう見える。だが、その目は、比留間の手元から表情まで、一つも見落としていなかった。

 「教授、遺書と一緒に何か別のものを持っていたんでしょうかね? 本とか?」

 「それは……ありえますね。何かの上に置いて、それで片面だけ……とか?」

 「ふむ。そうですね。だから“表には指紋があるが、裏にはない”……理屈としては、成立しますね」

 「そういうことも、あるんじゃないですか」

 比留間は曖昧に笑った。

 その目元には汗が一筋、じんわりと滲んでいた。

 食堂の温度が急に上がったわけではない。だが、彼の額には、微かな緊張の光が浮かんでいた。

 ちづるは紙を丁寧にしまい、すっと立ち上がった。

 そして最後に、冗談のような笑みを浮かべて言った。

 「とんかつ、美味しそうでした。いいですね、しっかり噛んでる人って」

 「……は、はあ」

 そう言いながら去っていくちづるの背中を、比留間はとんかつの端を口に入れたまま見送った。

 その味は、さっきより、やや苦かった。

 「ご協力、感謝します。紙は回収しますね」


 第五章:英國屋

 銀座の裏通り、重厚な木のドアを押して一ノ瀬ちづるが足を踏み入れると、静かなクラシック音楽とともに、落ち着いた空気が全身を包み込んだ。

 天井まで届くようなラックには、整然とスーツが並び、控えめな照明が生地の質感を柔らかく浮かび上がらせている。

 「いらっしゃいま――……って、ちづる?」

 カウンターの奥から顔をのぞかせた女性が声を上げる。大学時代の友人、奈美だった。変わらない知的な雰囲気に、ちづるも思わず頬を緩めた。

 「やっぱりここだったのね、奈美。急にごめん、確認したいことがあって」

 「なんだか懐かしい顔が続くわね。元気そうで安心した。刑事なんでしょ?」

 「うん。ちょっと、面白くない話かもしれないけど」

 ちづるはバッグから封筒を取り出し、中の写真を奈美に見せた。

 写っているのは、谷川五郎教授と比留間慎一准教授――ふたりの研究者のスナップ写真だった。

 「このふたり、最近この店で買い物したことある?」

 奈美は目を細めてじっと見つめ、すぐにうなずいた。

 「この人――比留間さん。来たわよ、ついこの間」

 「どんなものを?」

 「吊るしのスーツと帽子。全部セットで。“ある人と同じスタイルのものをそろえてほしい”って言われたの。色も生地も指定されたわ。記録にも残ってる」

 そう言って彼女は帳簿を取り出し、ページをめくる。

 「はい、これ。グレーのスリーピース、ネイビーの中折れ帽。どちらも、谷川さんがよく選んでいたものと同じライン」

 「やっぱり……」

 ちづるの視線が写真の谷川五郎に戻る。研究者らしく、質素だが品のある装い。実際、谷川はこだわりがなく、サイズさえ合えば吊るしのスーツで満足する人間だった。

 「体型、ふたりは似てた?」

 「かなり。肩のラインも身長もほぼ同じ。サイズ表を見ながら、ほとんど調整なしで決まったくらいよ」

 「比留間は、谷川に“見せかける”必要があった」

 ちづるはそう言いながら、目を伏せて小さくうなずいた。

 「監視カメラ……」

 「え?」

 「監視カメラで“谷川五郎”に見せかける。それが目的だった」

 奈美は無言のまま帳簿を閉じた。目線はまっすぐちづるを見ているが、余計な詮索はしなかった。

 「奈美。あんたの記憶力と気づきに、いつも助けられてる」

 「礼なんていらないわ。でも……気をつけて。スーツだけじゃ人間はごまかせない。ちづるなら、わかるでしょ?」

 「わかってる。服は飾り。だけど、その“飾り”が動機を隠すときもある」

 ちづるは軽く手を挙げて店を出た。ドアの向こうには銀座の通り。

 人々はコートの襟を立て、忙しなく行き交っている。

 その流れに身を投じながら、ちづるは胸の内で、ひとつの仮説を静かに確かめていた。

 (映像に映っていた“谷川五郎”は、本当に――)

 答えはまだ霧の中だった。だが、その霧は、確実に晴れ始めている。


 第六章:沈黙の輪郭

 研究棟のロビーには、夕日がゆっくりと沈みかけていた。

 窓の外の光が赤みを増し、床に落ちる影は、二人の足元に淡く重なっていた。

 ソファの端には、比留間慎一がタブレットを片手に座っていた。

 ページを送る指先は落ち着いているようでいて、その視線はどこか虚ろだった。

 「……お疲れのようですね、比留間准教授」

 一ノ瀬ちづるが、コーヒーのカップを二つ手に近づいてくる。

 「ええ……まあ、いろいろと考えることがあって」

 「ここ、いいですか?」

 「どうぞ」

 ちづるは隣に腰を下ろし、ひとつのカップを比留間の前に置いた。

 二人の間には、最初だけ心地よい静けさが流れる。

 「そのスーツ、落ち着いた色ですね。少し着慣れているように見えます」

 「え? ああ、これは古いやつです。気に入ってるわけじゃないけど、サイズが合うのでつい」

 「最近買ったわけではない?」

 「いえ、ずっと前のものです。新しいのは……あまり似合わなかったので」

 ちづるは、コーヒーをひと口すすりながら、にこりと笑った。

 「実は、私の大学時代の同級生が、近くの英國屋という店で働いていましてね。比留間さんとよく似た方が、谷川教授と同じ型のスーツと帽子を買ったと言っていたんですよ」

 比留間の手が、一瞬だけ止まった。

 「スーツを買うのが珍しいことでしょうか?」

 「いいえ。でも、その“誰かと同じように”っていうのが、少し気になっただけです」

 「……気まぐれということもありますよ。真似したくなるときだって、あるでしょう」

 「そうかもしれませんね」

 ちづるは視線をカップの縁に落としたまま、ぽつりと続けた。

 「谷川さんは、帽子マニアでした。研究室のロッカーに何個も帽子が並んでいた。でも――比留間さんが帽子をかぶっているところ、私は見たことがありません」

 「そうですね。私も普段はまったく」

 「それが、1週間ほど前に帽子を購入されたそうで。なぜでしょう?」

 「……買ってみただけです。妻に“似合わない”って言われましてね。結局、かぶらずじまいです」

 「なるほど。もったいないですね」

 「そんなものですよ。試してみたくなるときもある」

 「ええ、ありますよね。でも……興味のない方が急に帽子を買うと、なんとなく引っかかるものです」

 比留間は軽く笑い、肩をすくめた。

 「疑う材料にでもなりますか?」

 「いえ。ただの会話です」

 ちづるは静かに立ち上がった。

 夕陽はその背に影を伸ばし、ソファに残された比留間の表情を、斜めに照らしていた。

 「ありがとうございました。ちょっと気になっていたことが聞けたので」

 「……いつでもどうぞ。私にわかることなら」

 「ええ。またお伺いしますね。たとえば――帽子の話の続きとか」

 一瞬、ふたりの視線がぶつかる。

 だが、ちづるはすぐに微笑みを浮かべ、何事もなかったかのようにロビーをあとにした。

 比留間の手元のコーヒーは、冷め始めていた。

 その表面に揺れるのは、揺れた心の影だったかもしれない。


 第七章:一ノ瀬ちづる 対 比留間慎一

 研究棟の会議室。

 夜の静寂の中、天井のライトだけがテーブルを照らしていた。

 無機質な空間に、ふたりの影が向かい合って伸びている。

 一ノ瀬ちづるは静かに資料を広げ、コーヒーを片手に座っていた。

 対面には比留間慎一。

 普段と変わらぬスーツ姿に、無表情のまま座っている。

 「……あの晩、あなたと谷川教授は口論になったんですね?」

 ちづるの声は、いつもどおり抑制されたトーン。だが、その内容は鋭く、核心へと向かっていく。

 「教授がアメリカとの共同開発に踏み切ったことで、あなたは“自分の研究を奪われた”と感じた。そうではありませんか?」

 比留間は反応しない。ただ、静かにちづるを見つめている。

 「その後、教授を殺害し、いったん研究棟を出た。セキュリティは正常に戻り、監視カメラも作動した」

 ちづるは一枚の資料を指先でなぞる。

 「でも――深夜二時。監視カメラには、再び“教授”が研究室に入る姿が映っていた。帽子をかぶり、スーツ姿。立ち姿も、歩き方も、まさしく“谷川教授”そのものでした」

 比留間のまぶたが、わずかに動く。

 「でも……それはあなたです」

 ちづるは、机に置かれたカードキーの複製記録を示した。

 「あなたは量子コンピュータを自在に操れる。自身のICカードを解析し、教授のアクセスキーを偽造した。そして、“教授のカード”で再び研究室に入り、セキュリティを完全にオフにした」

 彼女の語り口は、まるで事件の再現映像のようだった。

 「監視カメラは、もう作動していなかった。研究室に残るのは、演出された“自殺”の痕跡だけ。……完璧に見える偽装でした」

 比留間は、わずかに椅子に体を預け、脚を組み直した。

 その動作すらも、無駄がなく抑制されている。

 だが――。

 「一つだけ、見落としていたことがあります」

 ちづるは、監視カメラの音声データをテーブル上のモニターに表示した。

 波形が並ぶ中に、異なるピークが周期的に現れる。

 「音です。足音。特に、左足から“キン”という金属音が微かに混じっていました」

 ちづるは比留間の足元に視線を落とす。

 「あなたの革靴。左足の金具――それ、少しだけ緩んでいませんか?」

 比留間は無言のまま足を引き、組んだ膝を直す。

 「今もついているその金具。わずかに浮いていて、歩くときに独特の“引きずる音”を出す。監視カメラの音声には、それがはっきりと記録されています」

 しん――と部屋が静まり返る。

 「谷川教授の足音には、そんな癖はなかった。だからあの夜、カメラに映っていたのは“谷川五郎”に見せかけた“別人”だったと……私は確信しています」

 ちづるは一拍、間を置き、やや低い声で続けた。

 「――あの日、あの晩、あなたは研究室にいたんです」

 言葉はやさしく、しかし確実に胸を突く。

 比留間は、それに応えなかった。

 ただ、ほんのわずかに唇の端を引き、コーヒーに手を伸ばす。

 その手が、わずかに止まりかけていたことに、ちづるは気づいていた。


 第八章:追い詰められて

 会議室の空気は、静かだった。

 暖房の音が微かに唸っている。外はすでに夜。窓の外には研究棟の照明がぽつぽつと灯っていたが、人の気配はなかった。

 その中央、ひとつのテーブルを挟んで向かい合うふたり――一ノ瀬ちづると、比留間慎一。

 その場には、もう駆け引きも推測もなかった。

 「……あなたは完璧に見えた。でも、左足の金具の音は、あなた自身の証言になっていたんです」

 ちづるの声は低く、落ち着いていた。だが、突き刺すような確信があった。

 比留間の手がカップを握ったまま、動かなくなる。

 その口元が、わずかに歪んだ。

 「……まさか……そんな音で……」

 呻くような声だった。自嘲とも、敗北ともつかない。けれど明らかに、“崩れた”響き。

 「足音なんて……俺の完璧な計算に、そんな……」

 言葉の先は、誰にも届いていなかった。

 やがて比留間は、机に置いた眼鏡を外し、片手で顔を覆う。

 長い沈黙の後、ぽつりと呟いた。

 「――俺の研究を、谷川が全部持っていこうとしたんだ……」

 その声には怒りも憎しみもなかった。

 ただ、虚しさと悔しさ、そしてぶつける先を失った哀しみだけがにじんでいた。

 ちづるは黙ってその言葉を受け止めた。

 メモも取らず、録音もしていない。

 ただ、真正面から見つめることで、すべてを刻み込んでいた。

 その夜の会議室は、まるで時間が止まったかのようだった。

 ***

 建物を出ると、外の風が思ったより冷たかった。

 ちづるは胸元のボタンをひとつかけ直し、ゆっくりと歩き出す。

 「……さて、帰ろうか」

 街の灯りは、思いのほかまぶしかった。

 仕事帰りの人々が駅へ向かい、学生たちが笑いながら歩き、世界は何事もなかったかのように回っている。

 ちづるは足を止めて、角のスターバックスに入った。

 カウンターでメニューを見ながら、ほんの少しだけ迷い――それから、ふっと表情をゆるめた。

 「……今日は、少し贅沢に。キャラメル・ラテを」

 温かいカップを両手で包み、窓際の席に腰を下ろす。

 ガラス越しに見える街は、いつもより静かに感じられた。

 香ばしいキャラメルの香りが立ちのぼる。

 それをゆっくり口に運ぶと、ほんの少しの苦味と甘さが、胸の奥をやわらかく溶かしてくれた。

 彼女の仕事には、拍手も感謝もない。

 けれど、誰かの正義が、ほんの少しでも報われるなら――

 そのために動く価値は、きっとある。

 ちづるは目を閉じた。

 コーヒーの温度と、真実の重みが、心の中でゆっくりと溶け合っていく。

 夜は、深く、そして静かだった。

 (完)

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

刑事一ノ瀬ちづるの事件簿』というシリーズを構想する中で、私は「完璧な偽装」と「見逃されがちな小さな真実」のせめぎ合いを描いてみたいと考えました。

ちづるは鋭く冷静な刑事ですが、彼女の武器は派手な直感ではなく、観察と沈黙の中の対話です。

この物語では、“音”という微細な証拠から、彼女が犯人の仮面を剥がすまでの過程を描きました。

一杯のキャラメル・ラテにほっとする一ノ瀬ちづる。

そんな彼女の日常のワンシーンが、読者の皆さんの心にもやさしく残れば、これ以上の喜びはありません。

次回作も構想中です。

また別の事件で、ちづるがどんな謎を解いていくのか――ぜひ楽しみにしていてください。

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