刑事一ノ瀬ちづるの事件簿:最後の診断
皆様、こんにちは。本作『刑事一ノ瀬ちづるの事件簿:最後の診断』を手に取っていただき、ありがとうございます。
本作は、刑事・一ノ瀬ちづるが挑む、医療の闇に隠された殺人事件を描いたミステリーです。医学知識を駆使した完全犯罪、巧妙に仕組まれた殺害計画、そしてその裏に潜む人間の欲望と罪。ちづるの鋭い洞察力と執念が、事件の真相へと迫っていきます。
今回のテーマは、「医療と犯罪の交錯」です。医療とは本来、人を救うために存在するもの。しかし、それが悪意をもって利用されたとき、最も巧妙で見破りにくい犯罪へと変貌します。医療ミステリーならではのスリルと、刑事・一ノ瀬ちづるの冷静かつ情熱的な捜査を、ぜひお楽しみください。
本書を通じて、読者の皆様が「真実とは何か?」を考えながら、最後までお付き合いいただければ幸いです。
第一章:緻密な計画
都内の高級住宅街に佇む瀟洒な邸宅。周囲には整えられた庭園が広がり、夜の静寂に包まれている。リビングの大きなシャンデリアが穏やかな光を放ち、上質な革張りのソファが落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
そのソファに腰掛けるのは蒜田伸一。医師としての名声を持ち、数々のVIP患者を抱える男だった。彼の手には深紅のワインが注がれたグラスがあり、ゆっくりとそれを回しながら、目の前の女性を見つめていた。
「それで……決めたの?」
対面に座るのは蒜田の妻、美咲。長い栗色の髪を肩にかかるほどに流し、その瞳には迷いが見え隠れしている。だが、彼女はそれを悟られまいと微笑んだ。
「ああ、もう後には引けない。慎重にやる。」
蒜田はグラスをテーブルに置き、目の前の分厚い書類を指で軽く叩いた。そこには彼が緻密に練り上げた計画の概要が記されている。彼は医師であると同時に、計算高い男だった。
「まず、アリバイを完璧にする。それが最優先だ。事故死に見せかけるのが理想だが、多少の痕跡が残っても問題はない。警察は他殺とは疑わないだろう。」
美咲は息を飲んだ。指先が震えているのが自分でもわかる。これが本当に実行されるのだろうか。
「あなた……本当に大丈夫なの?」
「大丈夫さ。これまでの経験を活かせば、完璧にやれる。」
蒜田の言葉には一片の迷いもなかった。彼の冷静な表情を見て、美咲は改めて夫の本性を感じ取った。これは単なる計画ではない。彼にとっては、これもまた「医療行為」の一つなのかもしれない。
「ターゲットにはすでに処方を施してある。あとは条件が整えば、自ずと計画通りに進む。万が一、何か問題が起きても、私の立場を利用すればいくらでも誤魔化せる。」
蒜田は微笑を浮かべながら、美咲の手を軽く握った。その手は冷たかった。美咲は小さく頷くと、震える唇を噛みしめた。
夜の帳が下りる中、二人の間には沈黙が流れた。それは、ある決意が静かに固まる瞬間だった。
第二章:事件の発覚
数日後、都内の高級マンションの一室で、異変が発覚した。
午前九時半、IT企業「フューチャーネット」の社長である伊東正義の部屋を訪れた秘書、北村玲奈がインターホンを鳴らす。しかし、応答はない。何度か呼びかけても、彼の姿は見えなかった。不審に思った彼女は管理人を呼び、合鍵でドアを開けた。
その瞬間、彼女は息を呑んだ。
リビングのソファに、伊東が崩れ落ちるように座っていた。目を閉じたまま動かない。手にはスマートフォンが握られていたが、画面は暗くなっている。テーブルの上にはワイングラスが一つ。中の液体はほとんど減っていなかった。
「伊東さん……?」
玲奈が恐る恐る近づき、肩を揺さぶる。しかし、彼は微動だにしない。肌は冷たく、まるで命がすでに抜け落ちたかのようだった。
「管理人さん……! 救急車を……!」
しかし、その声が響いた時には、すでに手遅れだった。
***
一ノ瀬ちづる刑事が現場に駆けつけたのは、それから二時間後だった。マンションの住人たちはざわめきながらエントランスに集まり、警察の到着を見守っていた。
「被害者は、伊東正義、三十八歳。IT企業の社長で、若いのに頭のてっぺんだけ禿げている。」
部下の田中巡査が手帳をめくりながら言う。ちづるは彼を一瞥し、静かに頷いた。
「死因は?」
「現時点では急性心不全の疑いが濃厚です。現場に争った形跡はなし。薬物反応については鑑識の結果待ちですが、ワイングラスがテーブルの上に残っていました。」
「第一発見者は?」
「秘書の北村玲奈。午前九時半に訪問した際に応答がなく、管理人とともに室内へ入ったところ、伊東氏がリビングのソファで亡くなっていたと。」
ちづるはリビングの中央に目を向けた。そこには、まるで時間が止まったかのように被害者の姿が残っている。死後硬直が始まっており、その体勢はまるで何かを見ながら倒れたかのようだった。
「不自然ね。」
彼女はつぶやいた。
「どういうことです?」
田中巡査が尋ねる。
「この体勢……彼は何かを見ながら倒れたように見える。でも、手元にあるべきものがないのよ。」
田中は驚いたように被害者の手元を見つめた。
「確かに、何かを掴んでいたような形ですね。」
ちづるは被害者の周囲を歩きながら、静かに考え込んだ。この事件には、何か隠された意図がある。それが何なのかはまだ見えないが、直感が告げている——これはただの事故ではない。
「伊東氏のスマホを解析しなさい。最後に開いていたアプリ、メッセージの履歴、通話記録……すべて洗い出して。」
彼女の指示に田中が頷く。
事件は始まったばかりだった。
第三章:疑惑の影
冷たい風が都会のビル群を吹き抜ける中、一ノ瀬ちづるは事件現場のマンション前に立っていた。朝日が高層ビルのガラスに反射し、黄金色の光を投げかける。しかし、ちづるの表情は険しく、事件に対する疑念が彼女の思考を支配していた。
「伊東正義の死は、本当に事故なのか……?」
彼女は小さくつぶやき、マンションのエントランスをくぐった。すでに鑑識の仕事は一段落し、現場は静けさを取り戻している。エレベーターに乗り、ボタンを押すと、機械音とともにゆっくりと上昇していった。
リビングのソファには、まるで伊東がまだそこに座っているかのような違和感が残る。テーブルの上には飲みかけのワインのグラスが一つ、かすかに赤い液体が揺れていた。その隣には、手入れの行き届いたスマートフォンが伏せられて置かれている。
「急性心不全……それが公式の死因。でも、あまりに出来すぎている。」
ちづるは手袋をはめ、慎重にグラスを持ち上げた。乾いた唇の跡が残るグラスの縁を見つめ、何かを考え込む。
「田中、被害者のスマホは?」
「こちらです、先輩。」
後輩の田中巡査が差し出したスマートフォンの画面には、最後に開かれていたメッセージアプリが映し出されていた。未送信のメッセージが一つ。
『彼が……』
ただ、それだけ。続きを打つ前に、彼は倒れたのだ。
「『彼が』の後に続く言葉……誰のことを指している?」
ちづるは考え込む。メッセージの宛先は匿名のアカウントだった。解析が必要だ。彼は誰かを告発しようとしていたのではないか?
「先輩、彼の診療記録を調べました。最近、蒜田先生のクリニックで何度も診察を受けていたようです。」
「蒜田……?」
ちづるの瞳が鋭く光った。伊東が診察を受けていた理由は? もし彼の死に医療的な介入があったとしたら……?
ちづるはもう一度リビングを見渡した。何かが足りない。何かが決定的におかしい。しかし、その正体がまだ掴めない。
「田中、監視カメラの映像を確認して。事件の前日と当日の出入り記録も洗い直すわ。」
「了解しました。」
事件の真相は、まだ闇の中にあった。しかし、ちづるは確信していた——これは、ただの偶然ではない。
第四章:疑惑の医師
都心の一等地に位置する「蒜田クリニック」は、近隣の高級マンションに住む富裕層たちにとって、信頼のおける医療機関のひとつだった。モダンなデザインの建物に、大理石のカウンターと間接照明が配された待合室。清潔感あふれる空間は、病院というよりも高級ホテルのラウンジに近い雰囲気を醸し出している。
一ノ瀬ちづるは、ゆっくりとクリニックの自動ドアをくぐった。受付に座る若い女性スタッフが、愛想のいい笑顔を向けてくる。
「いらっしゃいませ。ご予約の患者様でしょうか?」
「いいえ、警察の者です。」
ちづるが警察手帳をさっと掲げると、女性スタッフの表情が一瞬こわばった。そのわずかな動揺を見逃さず、ちづるは静かに微笑む。
「院長の蒜田先生に、お話を伺いたいのですが。」
「あ、少々お待ちください……」
スタッフが奥へと消えていく間、ちづるはクリニックの内部に目を走らせた。壁に掛けられた数々の医療資格証、著名な患者から贈られたらしき感謝状。どれも見事なまでに整然と並び、まるで蒜田の経歴の輝かしさを誇示するかのようだった。
ほどなくして、診察室のドアが開いた。中から現れたのは、白衣を纏った蒜田伸一。五十代半ばのはずだが、黒く染められた髪に整った容貌、鋭い眼光は実年齢よりも若々しく見えた。
「刑事さんが医者のところに何の用です?」
低く響く声。余裕のある微笑を浮かべながらも、その目の奥には警戒の色がちらついていた。
「伊東正義さんをご存知ですよね?」
ちづるは単刀直入に切り出す。
「ええ、もちろん。彼は私の患者でした。」
蒜田は、まるで何の問題もないかのように頷く。その落ち着いた態度は、場数を踏んできた人間特有のものだった。
「最後に診察されたのはいつですか?」
「二週間ほど前だったと思います。彼は不眠を訴えていましたので、軽い睡眠導入剤を処方しましたが、それが何か?」
「診察の際、彼に特別な異変は?」
「特にはありません。強いストレスを抱えていたようですが、仕事柄仕方のないことでしょう。」
ちづるは彼の言葉を聞きながら、蒜田の表情の変化を細かく観察していた。今のところ、嘘をついているようには見えない。ただ、何かが引っかかる。
「伊東氏が死亡した日のことですが、先生はどちらにいらっしゃいましたか?」
「その日は終日、クリニックにおりましたよ。予約の患者さんも何人かいましたし、受付のスタッフが証言できると思います。」
ちづるはわずかに眉を寄せた。アリバイがあるということか。しかし、それが本当だとしても、間接的に関与している可能性は十分にある。
「彼の死因は急性心不全とされていますが、先生は彼の健康状態について何か気になる点はありませんでしたか?」
「特に心疾患の兆候は見られませんでした。血圧も正常、動悸の訴えもなし。ただ、彼は強いストレス下にありましたから、それが引き金になった可能性は否定できませんね。」
まるで医師として当然の説明をしているかのように、蒜田はさらりと言ってのける。しかし、ちづるの直感は告げていた——この男は何かを隠している。
「伊東氏が亡くなる直前、未送信のメッセージを残していました。」
「ほう、それが?」
「『彼が……』という言葉です。その続きを書き残せないまま亡くなった。」
蒜田は一瞬、目を細めた。そして、すぐに小さく笑う。
「興味深いですね。しかし、私は彼の担当医に過ぎません。彼が何を言おうとしていたかまでは、知る由もありませんよ。」
「本当にそうでしょうか?」
ちづるは鋭い視線を向ける。だが、蒜田は動じない。まるで彼にとっては、すべてが「想定内」であるかのように。
「先生、あなたには過去に不審な死亡例があったことをご存知ですよね?」
蒜田の表情が一瞬だけ硬くなった。それはほんのわずかの変化。しかし、ちづるは見逃さなかった。
「十年前、あなたが勤務していた病院で、複数の患者が急性心不全で亡くなっています。そして、その患者たちはある特定の薬を処方されていました。」
「刑事さん、それはただの偶然では?」
「偶然かどうか、調査させていただきます。」
蒜田は肩をすくめ、微笑を浮かべた。
「ご自由に。ただし、私は何も隠していませんよ。」
言葉とは裏腹に、その笑みには薄氷のような冷たさが漂っていた。
ちづるは最後にもう一度、診察室を見渡した。壁際に並ぶ薬棚、整理されたカルテ。すべてが整然としている。だが、その整いすぎた空間こそが、何よりも不自然に思えた。
「では、失礼します。」
診察室を後にしながら、ちづるは確信していた。
——この男が何かを企んでいる。
第五章:崩れる仮面
夜の帳が下りる頃、一ノ瀬ちづるは捜査資料の束を前にして、冷めかけたコーヒーに手を伸ばした。
事件はまだ核心に迫れていない。
伊東正義の死因は急性心不全とされている。しかし、彼のスマートフォンには未送信のメッセージ——『彼が……』が残されていた。その『彼』とは誰なのか。すでに蒜田伸一の名が浮上しているが、決定的な証拠には乏しい。
「先輩、重要なデータが出ました。」
田中巡査が興奮気味に報告に駆け寄った。手にはタブレット端末を握りしめている。
「伊東氏の血液検査の追加分析結果です。通常の睡眠導入剤の成分だけでなく、ごく微量ですが、ある特定の薬品が検出されました。」
ちづるは画面をのぞき込んだ。
「これは……ベータブロッカー系の薬? しかも高濃度だな。」
「ええ。少量であれば血圧を下げるだけですが、長期間にわたり服用すると、心臓に負担をかけることが知られています。そして、何より問題なのは——」
「この薬、蒜田のクリニックで処方されたものなのね?」
田中が大きく頷く。
「そうです。伊東氏の診療記録を調べたところ、睡眠導入剤の処方記録はありましたが、この薬の記録はどこにもありませんでした。」
「つまり、非公式に投与されていた可能性がある。」
ちづるは腕を組み、鋭い眼差しで画面を見つめた。
「田中、蒜田の過去の患者データを洗い直して。十年前の病院時代の患者記録と照らし合わせてみて。」
「了解です。」
***
翌日、ちづるは再び「蒜田クリニック」を訪れた。
白衣をまとった蒜田は、診察室の奥のソファにゆったりと座り、微笑を浮かべていた。冷静で余裕のある態度——だが、ちづるはその裏にある何かを見逃さない。
「またお会いしましたね、刑事さん。今度はどんなご用件でしょうか?」
「少し確認したいことがありまして。」
ちづるは資料を机に置いた。
「伊東正義さんの血液から、あなたのクリニックで処方された覚えのない薬が検出されました。これはどういうことでしょう?」
「おや、それは初耳ですね。」
蒜田は表情を変えず、静かに資料を眺める。
「彼には睡眠導入剤を処方しましたが、それ以外の薬は処方していませんよ。」
「では、なぜ彼の体内から出たのでしょう?」
「それは私にも分かりませんね。彼は他の医者にもかかっていたのでは?」
「ですが、彼の診療履歴には、あなた以外の医師からこの薬を処方された形跡はありません。」
蒜田は静かに笑った。
「それが何を意味するかは分かりませんが、私の関与を証明するものではありませんね。」
ちづるは懐からボイスレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。
『それは……ストレスのせいでしょう?』
蒜田の声が、無機質な空間に響く。
「先生、この言葉を覚えていますか? これは、あなたが私に言った言葉です。」
蒜田は一瞬、目を細めたが、すぐに肩をすくめた。
「ええ、覚えていますとも。しかし、それが何の証拠になると?」
「“診察もせずに、患者の異常な数値をストレスのせいにする”——これは医者としては不自然な発言です。そして、この録音はあなたが伊東氏の異変を知りながら、それを隠そうとしていた証拠になり得ます。」
蒜田はゆっくりと立ち上がった。
「ふむ……刑事さん、あなたはなかなか鋭い。しかし、それだけでは私を逮捕することはできませんよ。」
「そうですね、これだけでは不十分です。しかし、もう一つあります。」
ちづるは新たな資料を取り出した。
「十年前、あなたが勤務していた病院で、不審死が相次いでいましたね。患者が特定の薬を投与された後、急性心不全を起こすというパターン。そして、その時の担当医が——あなたでした。」
蒜田の表情が、わずかに曇る。
「あなたは医療の名を借りて、何かをしていた。そして、それは伊東氏の死にも繋がっている。」
静寂。
長い沈黙の後、蒜田はふっと微笑を浮かべた。
「なるほど。だとしたら、刑事さん、あなたはこの先どうするのです?」
「もちろん、徹底的に調査させていただきます。あなたが何をしてきたのか——すべて。」
蒜田は微笑んだまま、ゆっくりとソファに腰を下ろした。
「それは楽しみですね。」
ちづるは鋭い視線を向け、診察室を後にした。
冷たい夜風が彼女の頬を撫でる。
——この事件は、まだ終わっていない。
第六章:決定的証拠
夜の闇が都会を覆い尽くす頃、一ノ瀬ちづるは捜査資料が散乱するデスクに肘をつき、じっと考え込んでいた。
伊東正義の死は、ただの事故ではない。だが、決定的な証拠が足りない。
彼の血液から検出された不審な薬物。その処方を巡る疑惑。そして、蒜田伸一という男。すべての点がつながりかけているが、あと一押しが必要だった。
「先輩、解析結果が出ました。」
田中巡査が小走りで駆け寄ってくる。手には解析済みのスマートフォンデータが表示されたタブレット端末。
「伊東氏のスマホのメッセージデータですが、未送信の『彼が……』の続きが判明しました。」
ちづるの目が鋭く光る。
「なんて書かれていた?」
田中が画面をスクロールしながら答えた。
「『彼が、俺を殺そうとしている』です。」
ちづるは息を呑んだ。
「伊東は死の直前、自分が殺されることを確信していた……。」
田中が続ける。
「そして、もう一つ。彼が最後にアクセスしていたクラウドフォルダを解析したところ、重要なデータが見つかりました。」
田中はファイルを開いた。
そこには、蒜田クリニックの処方記録が並んでいた。しかし、公式のデータとは微妙に異なる点があった。
「このリストには、正式な診療記録にない処方が含まれています。中には、伊東氏が服用したとされるベータブロッカーもある。」
ちづるは唇を引き結んだ。
「つまり、蒜田は非公式に薬を処方し、それを伊東に投与していた……?」
「ええ。それが事故を装った殺害計画だった可能性があります。」
***
翌日、ちづるは再び蒜田クリニックを訪れた。
院内は静かだった。待合室には数人の患者がいたが、どこか緊張した空気が漂っている。受付の女性が驚いたようにちづるを見つめた。
「先生は診察中ですが——」
「構いません。緊急の用件です。」
ちづるは迷うことなく診察室の扉を開けた。
蒜田は、白衣姿のままデスクに座っていた。目の前の患者が驚いてちづるを振り返る。
「先生、何か?」
「いや、大丈夫だ。少し話をさせてくれ。」
蒜田は患者を帰し、静かにちづるに向き合った。
「またお会いしましたね、刑事さん。今度は何でしょう?」
ちづるは無言でスマートフォンを取り出し、録音データを再生した。
『彼が、俺を殺そうとしている』
伊東の声が、静寂に包まれた診察室を切り裂いた。
蒜田の顔がわずかに動いた。ほんの一瞬——だが、ちづるは見逃さなかった。
「これは、伊東正義氏が亡くなる直前に打とうとしたメッセージです。」
蒜田は微笑んだ。
「それがどうしました? ただの憶測では?」
「では、これも単なる憶測でしょうか?」
ちづるはタブレットを差し出し、クラウドフォルダの解析データを見せた。
「あなたが非公式に処方していた薬のリストです。正式な診療記録には載っていない。なぜですか?」
蒜田は肩をすくめた。
「刑事さん、私は多くの患者を診ています。中には特別なケースもあります。それに、私が処方したという証拠は?」
「証拠なら、あります。」
ちづるはもう一つのファイルを開いた。
「伊東氏は、自分が不審に思っていたことを日記に残していました。そこには、『蒜田から渡された薬の成分が違う気がする』と書かれていました。」
沈黙。
診察室の空気が張り詰める。
蒜田の余裕の笑みが、次第に消えていく。
「あなたは患者の信頼を利用して、慎重に計画を練った。薬を少しずつ投与し、心不全を誘発させる。それが、あなたのやり方ですね?」
蒜田は深く息をついた。そして、ゆっくりと立ち上がる。
「なるほど、ここまで調べましたか。刑事さん、あなたはなかなか優秀ですね。」
「捜査は、ここで終わりではありません。これからさらに追及させてもらいます。」
蒜田は微笑を取り戻した。
「お好きにどうぞ。ただし……真実とは、時に違う形を取るものです。」
「それは、どういう意味でしょう?」
「あなたが今見ているものが、本当に“真実”なのか。考えたことはありますか?」
ちづるは蒜田の言葉の意味を測りかねながらも、ゆっくりと診察室を後にした。
彼の言葉はただのはぐらかしか、それとも……?
夜風がちづるの頬を冷たく撫でた。
——事件は、まだ終わっていない。
第七章:追い詰められた医師
夜の静寂を破るように、一ノ瀬ちづるの携帯が震えた。画面に映し出されたのは田中巡査の名前。
「先輩、証拠が揃いました。今すぐクリニックに向かってください!」
田中の声には興奮と緊迫感が混じっていた。ちづるはすぐに車を走らせ、蒜田クリニックへ向かった。
***
クリニックの前に到着すると、すでに数人の刑事が待機していた。警察車両が通りを封鎖し、周囲には緊迫した空気が漂っている。ちづるは深く息を吸い、ゆっくりと診察室の扉を開いた。
蒜田伸一は、白衣姿のままデスクに座っていた。まるで、ちづるが来ることを知っていたかのように。
「おや、またお会いしましたね、刑事さん。」
相変わらずの余裕の微笑。しかし、その目の奥には警戒の色が宿っていた。
「先生、もうお芝居は結構です。」
ちづるは証拠のファイルを机の上に広げた。
「伊東正義氏の死因となった薬物。あなたのクリニックの在庫リストには載っていませんでしたが、密かに処方していた証拠が見つかりました。あなたの電子カルテの改ざん記録も解析済みです。」
蒜田の笑みがわずかに揺らぐ。
「……それだけでは、私が直接彼を殺害した証拠にはなりませんよ。」
「いいえ、決定的な証拠があります。」
ちづるはスマートフォンを取り出し、録音データを再生した。
『蒜田先生、これは……本当に大丈夫なんですか?』
『問題ない。ゆっくり時間をかければ、誰も不審には思わないさ。』
静寂。
「これは、あなたが伊東氏に薬を投与するよう指示していた時の音声です。クリニックの監視カメラのログを調べたところ、スタッフの一人が会話を録音していたことが分かりました。」
蒜田の表情がついに硬直した。
「……ふむ、なるほど。」
彼は小さくため息をついた。
「やはり、あなたは優秀ですね。しかし、私が罪を認めると思いますか?」
「すでに逮捕状が出ています。先生、観念してください。」
ちづるが手錠を取り出すと、蒜田はふっと笑った。
「ほう、警察というのは面白いものだ。証拠を突きつけられれば、人間は無力だと信じている。しかし、私は医者だ。人の命を操る側の人間だった。」
「その自信が命取りになりましたね。」
ちづるは静かに手錠をかけた。
「蒜田伸一、あなたを殺人の容疑で逮捕します。」
***
数日後。
ちづるは警察署の一室で、捜査資料を整理していた。伊東正義の死の真相は明らかになった。蒜田は、過去の不正を知られたことを恐れ、伊東を静かに排除しようとした。しかし、彼の完璧な計画は、ちづるの執念と証拠の力によって崩れ去った。
田中がコーヒーを差し出しながら言う。
「先輩、これで事件は解決ですね。」
ちづるはコーヒーを受け取り、窓の外の夜景を眺めた。
「……そうね。でも、正義って何なのか、時々分からなくなるわ。」
田中が不思議そうにちづるを見つめる。
「それってどういう意味です?」
「もし、蒜田が本当に“医療”の名のもとにこれをしたのだとしたら? 彼は自分なりの正義を貫こうとしただけかもしれない。でも、それは許されることじゃない……。」
ちづるは静かに息をつき、コーヒーを一口飲んだ。
夜の闇は深く、それでも、新しい朝は必ず訪れる。
事件は幕を閉じた。
(完)
本書『刑事一ノ瀬ちづるの事件簿:最後の診断』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この作品では、「医療」という身近なテーマを題材にしつつ、その裏に潜む危険や倫理的な問題にも触れました。医師という職業は、患者の生死を左右する大きな責任を担っています。しかし、その権限が誤って行使されたとき、どのような悲劇が生まれるのか――本作では、その一端を描いたつもりです。
一ノ瀬ちづるは、これまでもさまざまな事件に挑んできましたが、本作では彼女自身が「正義とは何か?」という問いに直面しました。法律や倫理の枠組みを超えたところで、人間の信念がどのように揺らぐのか。その葛藤を少しでも感じていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
最後に、本作を読んでくださった皆様に心からの感謝を申し上げます。刑事・一ノ瀬ちづるの物語はまだまだ続きます。これからも彼女の活躍を見守っていただければ幸いです。
また次回作でお会いしましょう。