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刑事一ノ瀬ちづるの事件簿 戦後の闇:影武者

ときどき、自分の誕生日をあと1日ずらしてくれたらいいのに、と思うことがあります。

生まれた時刻ひとつで、誰かとすれ違い、別の名前になっていたかもしれない。

戸籍に載らない兄弟は本当にいないのか――そんな疑問から、この物語を書きました。

これは、「記録されなかった存在」が、誰かの罪とともに姿を現す物語です。

【主要登場人物紹介】

◆一ノ瀬ちづる(いちのせ・ちづる)

警視庁捜査一課の女性刑事。眼鏡をかけた知的な面差し、黒髪のショートボブは、前下がりにカットされ、耳元で柔らかく丸みを帯びている。眉下で切り揃えられた前髪はややシャギーが入り、表情に理知的なニュアンスを添える。冷静沈着な分析力と観察眼を武器に、事件の裏に潜む“影”を暴き出す。

蛭田満吉ひるた・まんきち

1956年生まれ、68歳。IT企業社長にして、政党「平成親切組」から国政選挙への出馬を狙う。老いと過去を忌避し、黒く染めた髪と若作りのスーツで“理想の中年像”を演出するが、その実は冷酷。幹事長・山本太一郎から「過去の女を精算しろ」と厳命され、愛人を排除することを決意する。

印度澤小百合いんどさわ・さゆり

30歳。元コンパニオンで、現在は蛭田の囲う愛人。裏社会ともつながりを持ち、蛭田の“裏履歴”を知る数少ない人物。金で別れを買おうとした蛭田に反発し、最後は毒殺される。

片倉片生かたくら・かたお

建設現場で働く日雇い労働者。貧困にあえぐなか、兄・蛭田と偶然再会する。実は戸籍に記録されていない“もうひとりの蛭田”──双子の弟。兄の命令で蛭田の身代わりとなり、巣鴨のクラブでアリバイを演じる。


第一章:八王子の密室殺人

東京・八王子の閑静な住宅街に建つ古びたマンション。その一室で、女は静かに息を引き取っていた。

印度澤小百合──三十歳。仰向けに横たわったその顔は、血の気が引き、唇にわずかな紫が浮かぶ。扇のように広がる黒髪が、まるで舞台の幕のように床に伸びていた。

午後七時。男は静かにその部屋を後にした。

蛭田満吉ひるた・まんきち──六十八歳。だがその装いに老いは見られない。黒く染めた髪、身体にぴったりと合った若々しいスーツ。彼は、“若くして成功を掴んだビジネスマン”を演じるように歩く。

その夜、彼が身につけていたのは──作業着だった。

「なに?その格好……作業員みたい」

小百合が放った最後の言葉が、蛭田の頭の奥に残っていた。

その服装こそ、彼の計画の要だった。

少し前、偶然に出会ったその男──片倉片生。建設現場で働く、無骨な日雇い労働者。だが顔立ちは──まるで鏡を見ているようだった。

「1956年、習志野病院──」

母・蛭田トメが産んだのは双子だった。だが、隣のベッドにいた片倉森子が死産したその日、誰にも知られることなく、もう一人の赤子は取り替えられた。戸籍に残らぬ“影の蛭田”──片倉片生。

再会は、蛭田に一つの閃きを与えた。

選挙──それには過去が邪魔だ。平成親切組幹事長・山本太一郎からの一言が、決定打となる。

「蛭田くん、過去の女は全部精算しろ。きれいな身体で出馬するのが党の方針だ」

蛭田は小百合の排除を決意した。

片倉には封筒を渡し、こう命じた。

「一晩でいい。俺のふりをして、クラブ西巣鴨会館で飲んでくれ。指名は小比類巻杏里。

片生は初めこそ迷ったが、札束の重みに黙って頷いた。

二人は衣服を交換。片生はスーツ姿で巣鴨へ向かい、蛭田は作業服で八王子へ。

「……別れてくれ、小百合。もう限界なんだ」

「冗談じゃないわ。私の人生、全部あんたに捧げたのよ」

激しい口論。蛭田と印度澤が揉み合いなる。蛭田の拳が、彼女の頬を打つ。ソファに倒れた小百合は、唇から血を滲ませながら睨みつけた。

だが、それだけでは足りなかった。

キッチンから取り出したのは、無味無臭の神経毒。ウイスキーグラスに数滴混ぜ、彼女の唇をこじ開けて流し込む。

「最後の杯だよ、小百合」

身体が震え、やがて沈黙が部屋を支配した。

蛭田は冷静に現場を整えた。

ソファの位置、グラスの角度、照明のスイッチに至るまで、一つひとつを自分の中の「整然」に従って並べ直していく。

手袋を外し、ポケットへしまいこむと、ドアノブに指先でそっと触れた。

開閉の感触を確かめるように、回し、静かに引き、再び閉じる。

目を閉じて、深く息を吐く。

(よし──大丈夫だ)

そのとき、わずかな違和感が胸に滲んだ。

だが、それが何かはまだ明確ではなかった。自分の不安か、弟への不信か──それとも、小百合の目に浮かんでいた、あの諦めと怒りの混ざった表情か。

──午後七時十五分。

蛭田は作業服姿のまま、八王子のマンションを後にした。

そのころ、片倉片生は西巣鴨のクラブ「西巣鴨会館」にて、ホステス・小比類巻杏里の隣で静かにグラスを傾けていた。

背筋を伸ばし、馴れないネクタイを気にしながらも、“蛭田満吉”を演じていた。


第二章:鉄壁のアリバイ

夜の巣鴨には、年齢という名の霧がかかっている。

かつて若者だった者たちが、老いの衣をまといながらも、どこか内側にくすぶる“若さ”を諦めきれずに生きている街──。

その一角、「クラブ西巣鴨会館」のネオンサインが紫がかった青に滲み、歩道の水たまりにぼんやりと映っていた。

片倉片生は、その店の扉を静かに押した。

今夜、彼が演じるのは兄──蛭田満吉、その人間そのものだった。

昼間、彼は髪を真っ黒に染め上げ、蛭田と同じようにサイドを流すスタイルに整えた。

額のあたりで前髪がわずかに跳ね、耳元のラインにかけて柔らかな丸みを描いている。

眉の形も剃り揃え、頬にわずかにコンシーラーを塗った。

衣服はすべて蛭田のものだ。

グレーのスリーピース、光沢のあるタイ、イタリア製のレースアップ。

肩幅も、体格も、背筋の伸ばし方すら、入念にリハーサルを重ねた。

鏡に映るその姿は──誰がどう見ても「蛭田満吉」だった。

──入り口脇のベルが鳴る。

片倉はゆっくりと奥へ進む。

店内は、ぼんやりと霞んだような照明に包まれ、甘ったるい香水の香りが静かに漂っている。

氷がグラスに当たる音、ホステスの笑い声、そして、年老いた男たちの冗談──。

そこに、片倉がいた。

出迎えたのは小比類巻杏里こびるいまき・あんり──派手すぎず、だが確実に男を癒やす微笑を身につけた、人気ナンバーワンのホステス。

細い指でスーツの裾を摘まみながら、柔らかな笑顔を見せた。

「こんばんは、蛭田さん。今日も“お元気”そうですね?」

「おう、元気だけが取り柄でね。年は取っても、俺のギャグは昭和からアップデートしてないよ」

杏里が苦笑し、取り巻きのホステスたちもくすくすと笑った。

そのやりとりすら、兄から聞いた“常套句”だった。演じることは、もはや嘘ではなかった。

席に着くと、片倉はタイミングを見て内ポケットからタバコを取り出した。

ポケットの内側がざらりとした。取り出したのは、Hi-Liteの箱だった。

杏里がすぐさま目を細めた。

「あれ?今日はマルボーロじゃないんですか?蛭田さん、いつも赤い箱なのに……」

「たまにはな、古い味を思い出すのも悪くないってさ」

片倉は口角をわずかに上げてみせた。だがその笑顔の内側では、微かな焦燥が疼いていた。

取り巻きのひとりが声を上げた。

「えー、ハイライトとか超レアじゃない?久しぶりに見た~!」

彼女たちは、軽いネタに盛り上がる。だが杏里は、さらに一歩踏み込んだ。

「それに……いつもジッポじゃなかったですか?あの、パチンって音がするやつ。今日は使わないんですね?」

(しまった──)

「ジッポ……ああ、壊れちまってな。火が点かなくなったから、今日はこいつで代用だよ」

そう言って片倉が取り出したのは、コンビニで買った100円ライター。

赤いボディに薄れた販促ロゴが残る、いかにも安物だ。

杏里は驚きながらも、首を傾げて「蛭田さんにしては珍しい」と呟いた。

だがそれ以上は追及せず、微笑みで流した。

片倉の指先に火が灯り、タバコの先が赤く染まった。

──それで、すべては終わるはずだった。

会話はダジャレ、ギャグ、ちょっとした下ネタを挟みつつ、何もかも“いつも通り”に流れていった。

杏里も、取り巻きのホステスたちも、何の疑いも抱いていない──ように、見えた。

閉店の音楽が静かに流れた。

杏里が、彼の肩に手を添えながら言った。

「今日は、なんだか雰囲気が違って見えました。でも……それもまた素敵です。来週も、お待ちしてますね」

「おう、来週は……ギャグ三本仕込んどくよ」

片倉はドアを押し、夜風の中へ出た。

──すべては完璧だった。

ホステスたちは、彼を「蛭田満吉」だと信じて疑わなかった。

タクシーが横づけされ、片倉は後部座席に乗り込む。

──そのころ八王子では、蛭田満吉本人が、静かに一人の女を“処理”したあとだった。

二人の人生が、すり替わった夜だった。

完璧に──見えた。


第三章:すり替えられたアリバイ

六月の朝。湿った空気を切り裂くように、パトカーのサイレンが静かな住宅街にこだました。

東京・八王子。どこにでもあるような、古びた四階建てマンション。その一室で、女は冷たく横たわっていた。

名前は——印度澤小百合いんどざわ・さゆり。三十歳。フリーの映像ライターとして活動していたという。

発見者は、同じ棟に住む隣人の老女だった。朝になっても郵便物が取られず、部屋からは異様な沈黙が漂っていたという。

間もなく、捜査一課からの応援として、一人の女刑事が現場に現れた。

黒のパンツスーツ、シャープなラインのノーカラージャケット、前下がりのレイヤーボブ、毛先が首元まであり、少し丸みとくびれがあり、前髪は眉下でややシャギー。全体としてナチュラルかつ大人っぽい雰囲気だ。

そして彼女の右手には、温かいスターバックスのラテがあった。

紙カップには、丁寧に「Chizuru」と書かれていたが、彼女はそれに目をやることもなく、無言で現場に足を踏み入れた。

彼女の名は、一ノ瀬ちづる。警視庁捜査一課刑事。冷静沈着な現場勘と、細部を見逃さぬ観察眼で知られている。

「……何も触れないで」

ラテのカップを床に置き、ビニール手袋をはめる。室内にはすでに検視班が入っていた。

寝間着姿のまま、女はベッドの上に仰向けになっていた。両手は胸の上で静かに組まれ、顔には苦悶の色はない。——まるで、死を受け入れて眠る者のようだった。

しかし、唇には乾いた泡と、微かに滲んだ血の跡。

ベッド脇のローテーブルには、半分飲まれたウイスキーのグラスと、口の開いた錠剤の小瓶が転がっていた。

「毒物反応が出ました。急性の神経遮断系です。中毒死と見て間違いありません」

検視官の報告に、ちづるは黙って頷いた。

「服毒……自殺の可能性は?」

「否定はできません。ただ、今のところ、遺書やメッセージは見つかっていません」

室内に争った痕跡はなく、ドアも窓も施錠されていた。

しかし——スマートフォンの履歴に、奇妙な記録が残っていた。

深夜一時。最後の通話相手は「蛭田満吉」。

「蛭田……市議の?」

ちづるの声が低く響いた。

さらに確認が進み、この部屋の登記上の所有者もまた、蛭田満吉であることが判明する。

偶然にしては、できすぎている。

ちづるはすぐさま、蛭田の選挙事務所を訪れた。

「……印度澤小百合さんが、亡くなりました」

その言葉に、蛭田は目を見開き、演技じみた驚きを浮かべた。

「えっ、なんだって……!?嘘だろ……!?小百合ちゃんが……?」

椅子から腰を浮かせるその仕草が、妙にぎこちない。

顔には驚きの表情を貼り付けているが、その裏に“準備していた反応”のような空気が透けて見える。

「最後に会ったのは、いつですか?」

「いや、もう数日前……いや、あれは……いつだったかな……昨晩はずっと、知人の店にいたよ。クラブ西巣鴨会館っていう店。指名もしたし、客もいた。映像も残ってるはずだよ」

あまりに整いすぎた言い訳だった。

だが、それを裏付ける証言や記録がある限り、ちづるは強く出ることができない。

「では、そのクラブを訪ねてみます」

ちづるは一礼し、再び動き出した。

夜。雑居ビルの二階にある、クラブ西巣鴨会館。

ネオンに照らされた入り口と、厚手のカーテンが重なる店内は、どこか昭和の香りが色濃く残っていた。

「昨晩、蛭田満吉さんはこの店にいらっしゃいましたか?」

「ええ、確かに来ました。指名も入っていましたから」

「どなたが接客されたんでしょうか?」

「杏里ちゃんですね。今呼びます」

現れたのは、背が高く、茶髪のロングヘアを巻いたホステス。赤いドレスがよく似合い、涼しげな目元にはプロの空気が漂っていた。

「昨夜の蛭田さん、何か変わった様子はありませんでしたか?」

「うーん……いつもと変わらずって感じでしたね。髪を黒く染めてて、いつもの親父ギャグ連発して……あたしたちも愛想笑いするの大変なんですよ」

ちづるは微笑を浮かべたようでいて、目は笑っていなかった。

「他に何か気になった点は?」

「あ、そういえばタバコが違ってました。いつもはマルボーロなのに、昨夜はハイライト吸ってましたね。うちの若い子たちが『懐かしい』って喜んでたくらい」

「ありがとうございます。店内の防犯カメラ映像、確認させていただけますか?」

店側は協力的で、ちづるは個室で映像を確認した。

そこには確かに、蛭田とされる男が映っていた。

黒髪、スーツ、堂々たる態度。……だが。

「……なにか、おかしい」

言葉にはしなかったが、ちづるの眉間に皺が寄る。

声のトーン。笑うタイミング。視線の動き。すべてが“らしさ”を装っているように見えた。

完璧に似せている——だからこそ、余計に浮かび上がる違和感。

なぜだかわからない。だが、ちづるの中に、霧のような引っかかりが生まれていた。

それは経験でも、理屈でもない。

無数の現場を踏み、数多の嘘を見抜いてきた一人の刑事としての、本能に近い勘だった。

彼女はラテの紙カップを手に取り、ぬるくなった中身を一口含んだ。

そのわずかな苦味と共に、思考の渦が深まっていく。

この夜、何かが偽られていた。

けれど、その正体は、まだ霧の向こうにある——。


第四章:双子の影

警視庁の地下。薄明かりに照らされた戸籍資料室で、一ノ瀬ちづるは静かに端末を操作していた。

無音の空間に、ページを繰る小さな音と、スターバックスのラテを啜るかすかな気配だけが満ちていた。

「蛭田満吉、昭和31年、千葉県習志野市生まれ……一人っ子」

ちづるの目が端末の画面をなぞる。戸籍の記録には兄弟姉妹の欄はなく、親族にも蛭田と年齢の近い男性の記載は見当たらなかった。

父・蛭田満太、母・トメ。すでに二人とも故人となっていた。

「兄弟はいないのか。……じゃあ、身代わりはいないはず」

しかし、どこかが引っかかった。

クラブ西巣鴨会館の映像に映っていた“蛭田”——あの妙な挙動。仕草は本物に似せている。だが、何かが違う。

ちづるの中に、説明できないざらつきが残っていた。

蛭田の出生地に記された「習志野総合病院」。

次に彼女は、そこでの記録を調べるため千葉へ向かった。

習志野総合病院。建て替えられたばかりの新館には、蛭田が生まれた1956年当時の記録も職員も残っていなかった。

だが受付の女性が、ふと思い出したように口にした。

「その頃の院長先生、まだお元気で、近所にお住まいだと聞きました。“伊藤司”という方です」

その情報を頼りに、ちづるは旧住宅地の一角にある一軒家を訪ねた。

軒下には風に揺れるよしず。木製の表札に「伊藤」の文字。

ラテのカップを片手に、ちづるは静かにインターホンを押した。

「どなたかね?」

かすれた声。ほどなく現れたのは、痩せた体を白い作務衣に包んだ、九十を過ぎた老人だった。背筋はまっすぐで、瞳には昔の鋭さが残っていた。

名刺を見て、伊藤は居間にちづるを通した。

濃い緑茶の湯気が立つその場で、ちづるは切り出した。

「蛭田満吉さんについて、お聞きしたくて参りました。彼は一人っ子とされていますが……」

伊藤は静かに首を振った。しばしの沈黙のあと、懐かしむように目を細めて語り出す。

「……いるよ、もう一人」

「え……?」

「蛭田トメさんは、双子を産んだんじゃ。男の子が二人。しかしな……同じ病室におった片倉森子さんが、死産でのう。えらく泣いておってな。トメさん、見かねたんじゃよ。“それならこの子を”って。……弟の方を、森子さんにあげたんじゃ」

ちづるは息を呑んだ。

「そんな……届け出は?」

「当時はな、届けなんて紙一枚。戦後十年じゃ、戸籍なんてまだ緩い。兄弟を別の家にやるなんてこと、珍しくもなかった。わしも、黙っておった……そうするのが良いと思ってのう」

「つまり……蛭田には双子の弟がいた。しかも、別の戸籍で育ったと」

「片倉片生。あの子が、もう一人の……」

捜査は急展開を見せた。

“片倉片生”——名前を追えば、記録はすぐに見つかった。現住所は東京都府中市。日雇いの土木作業員として、数か所の建設現場に出入りしていた。

その日の午後。

ちづるはスーツに薄いブルゾンを羽織り、再びラテを手に建設現場へと足を運んでいた。

土埃の舞うなか、鉄骨が軋む音。黄色のヘルメットをかぶった男たちの間に、似た顔の中年男がいた。

片倉片生——蛭田によく似た輪郭、黒染めされた髪、がっしりとした肩幅。

「……片倉片生さんですね?」

男は作業を止め、少しだけ眉をひそめて振り返った。

「なんだよ、警察か?」

「あなたには、お兄さんがいますね」

「は?なに言ってんだ、俺は一人っ子だよ」

「◯月◯日、午後七時、どこにいましたか?」

片倉は不快そうに顔をしかめ、ポケットから取り出したハイライトに火をつけた。

「警察ってのは乱暴だな。そんなこと、いちいち言う義務あるのか?」

「ありません。ただ……お話は聞きたかった」

ちづるは名刺を差し出し、一歩下がる。

「何かあれば、こちらにご連絡ください。今日はこれで失礼します」

片倉は煙を吐き出しながら、無言でそれを受け取った。

その夜、ちづるは再びクラブ西巣鴨会館を訪れた。

応対に出たのは、前回と同じホステス・小比類巻杏里。

深紅のドレスに身を包み、化粧は濃いが、声には落ち着きがあった。

「刑事さん、また来たの?事件って、やっぱり……」

「ひとつだけ。教えてほしいことがあります」

「なに?」

「この店に、マルボーロは置いてますか?」

杏里は目をぱちくりさせ、ふっと笑った。

「もちろん。ここ、高級クラブですよ?銘柄の希望があれば、だいたい揃えてます」

ちづるが頷いたそのとき、杏里がふと思い出したように言った。

「あ、そうだ。蛭田さん、この前“ハイライトと100円ライター”を忘れていったんですよ。ロッカーに入れてあります。今度来たときに返そうと思ってて」

ちづるの目が細くなった。無表情のまま、声のトーンを落とす。

「……それ、預からせていただけますか。ご迷惑はおかけしません。預り証も用意しています」

杏里は少し戸惑いながらも、うなずいた。

「わかりました。じゃあ、ロッカーから取ってきますね」

その一言が、静かな闇に灯る小さな炎となった。

何気ない忘れ物の中に、真実へつながる証拠が眠っている。

スターバックスのラテを啜りながら、ちづるは思った。

——アリバイは、煙のように、どこかで形を失うものだと。

そして、いまその煙の向こうに、ひとつの真実が浮かび上がろうとしていた。


第五章:煙の行方

夜の帳が東京の空をゆっくりと覆っていく。

選挙ポスターが黄ばんだ壁に無造作に貼られた、蛭田満吉の選挙対策事務所。

その狭い空間で、彼は一人、せせこましく紙をめくっていた。

ホワイトボードには「街頭演説〇月〇日14時〜駅前」と書かれ、マーカーの匂いだけが満ちている。

古い扇風機が、ガタガタと一定のリズムで回り続けていた。

インターフォンが鳴った。

「……もう誰もいませんよ、帰ろうかと思ってたところです」

ドアを開けると、そこに立っていたのは一ノ瀬ちづるだった。

黒のスーツに、左手にはスターバックスのアイスラテ。

彼女は無言で一歩、蛭田の前に進み出た。

「少しだけ、お話を」

「……ええ、どうぞ」

冷房のない空間に、ぬるくなった空気が満ちている。

ちづるはラテのストローを口に運び、一口すすると、ゆっくりと切り出した。

「蛭田さん。タバコは吸われますか?」

「いや、やめました。選挙に出る人間が吸ってたら、イメージが悪いでしょう?」

「では、昨夜クラブ西巣鴨会館で吸われた“ハイライト”は?」

蛭田は、一瞬だけ視線を逸らした。

ちづるはラテを置き、凍りつくような静けさで言った。

「——印度澤小百合さんを殺害したのは、あなたですね?」

蛭田は口元で笑った。だが、目は笑っていなかった。

「……証拠でもあるんですか?」

「あります。まず、昨夜クラブにいた“蛭田満吉”は、あなたではありません。

弟の片倉片生さんです。指紋の一致、映像の体格差、そして吸っていたタバコ。

マルボーロではなく、ハイライト。さらに、弟さんはそれを忘れていった。

クラブ側が保管していたライターとタバコの箱、いずれも片倉片生さんの指紋が出ました。

クラブにいたのは——あなたではない」

蛭田の顔が固まり、目の奥に焦燥の色がにじみ始めた。

「……それでも、それだけじゃ俺がやったって証拠にはならないでしょう?」

「ええ。なので、もう一つお話します」

ちづるは間を置いてから、淡々と続けた。

「事件当夜、あなたが着ていたのは——弟さんの作業着でしたね」

蛭田が顔を上げる。無言のまま、ちづるを見つめた。

「その作業着を、我々は押収しました。

袖、胸元、肩——複数の箇所に、印度澤小百合さんの指紋が検出されています。

彼女と揉み合い、殺害したのは、あなたです。

そしてその服を弟さんに返し、弟さんはあなたにスーツを返した。

あなたは、弟を利用して、アリバイを偽装した」

沈黙。

蛭田は机に両手を突き、肩を揺らした。

「……違う……違うんだよ……!」

ちづるは目を伏せず、ただ淡々と続けた。

「すでに弟さんの身柄も確保しています。

彼は“兄に頼まれた”と証言しました。

偽名でクラブに行き、アリバイを作った——共犯として、刑事責任を問われることになります」

「……俺は……悪くない……!」

声が裏返る。蛭田の顔から色が失せ、脂汗が額を伝う。

「どれだけ金を積んでも、別れてくれなかった……!

小百合が悪いんだ……!

弟だって、嫌がってなかった……俺たち、兄弟なんだよ……!」

その瞬間、ちづるの瞳がわずかに動いた。だが、感情は見せなかった。

「——あなたは、“やっと巡り合えた弟”を、殺人の道具に使った。

あらたに見つかった弟の存在すら、犯罪の手段に変えた。

……私は、そういう人間を、軽蔑します」

蛭田は、机に額を押しつけ、わなわなと震えながら、嗚咽を漏らした。

翌日、午後。

都内スターバックス、通り沿いのテラス席。

一ノ瀬ちづるはキャラメル・マキアートを手に、静かに空を見上げていた。

目を細め、雲のない空にストローをくわえる。

「……名刑事は糖尿になるか。……そろそろ血糖値、控えなきゃね」

甘さと苦さが舌に残る。

その余韻を感じながら、彼女は目を閉じた。

(完)

殺人事件を書くとき、いつも悩むのは“殺す理由”より、“どうやって日常に戻るか”です。

今回は、「アリバイ」という古典的なモチーフに、少し変則的な兄弟関係を組み合わせました。

最近はタバコを吸う人が少ないので、物証として扱うのは少し不自然かとも思いましたが、指紋と銘柄の違いという“物語に残る煙”を使ってみました。

血のつながりは、絆にもなれば凶器にもなる――

ちづる刑事の冷静さが、読んでくださった皆様の記憶に、ほんの少しでも残れば幸いです。

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