表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/14

刑事一ノ瀬ちづるの事件簿眼鏡

犯人の職業を考えると、つい政治家にしてしまいます。

やはり、現代社会への無言の皮肉になってしまうのでしょうか。

金と権力が腐敗を生み、人を道具として使うような構図は、ミステリーを書くうえで避けて通れない題材です。

本作の主人公・一ノ瀬ちづるは、私が「こんな女性がいてほしい」と願う存在です。

冷静沈着で、誰にも媚びず、感情に流されず、淡々と真実を突きつける――そんな刑事に、私は心から敬意と感謝を込めています。

ちなみに、本作に登場する「カメラ付き眼鏡」ですが、私自身も実際に購入しました。

というのも、某役所にゲジゲジのように不愉快な人物がいまして。記録として残しておこうと思ったのです。

小説と現実の境界は、意外と曖昧なものですね。

【登場人物】

一ノ瀬ちづる:女性刑事。冷静沈着、推理力に優れたベテラン刑事。正義感は強い。スタバのラテを飲んでいる。30代前半。顔は山岸あや花似で髪は黒で短髪。目が印象的。

田村誠たむらまこと:一ノ瀬の部下。

田舎者聖子いなかものしょうこ:蒜田の秘書で売春婦。

黒髪で髪の毛が長い。オテモヤンのような顔、155cm。

蒜田満一ひるたまんいち:千葉県議会議員。

年齢:70歳/職業:町議会議員/性格:威圧的で横柄、裏で汚職まみれ。


第一章:千葉県議蒜田事務所

古びたビルの二階に構えられた、蒜田満一の政治事務所には、昼なお薄暗い空気が漂っていた。木目の浮いたベニヤ板の壁、スプリングの緩んだ応接セット、そして煤けた表彰状の額縁。外には活気ある商店街が広がっているというのに、この部屋だけは、まるで時間が止まっていた。

午後の光が、レースのカーテン越しにぼんやりと射し込む。わずかに開いた窓から入り込んだ風が、埃を巻き上げ、古紙の束をかさりと鳴らした。

男と女がいた。

交わりは終わっていた。

蒜田満一はワイシャツのボタンをひとつずつ留めながら、革張りのソファにふんぞり返っていた。太い指には、女の肌のぬくもりがまだ仄かに残っているようだった。脂ぎった額に手拭いをあてる仕草が、どこか滑稽で、どこか卑しさを帯びていた。

床には脱ぎ散らかされたスカートと、淡い花柄の下着。田舎者聖子はそのそばで、膝を抱えて座り込んでいた。化粧の落ちかけた頬には、乾きかけの汗の筋が光り、長い黒髪がしっとりと頬に貼りついている。

「……終わりましたね、先生」

聖子の声は、掠れたように低く、どこか遠くを見つめていた。

「終わる?何を言ってる」

蒜田は笑みを浮かべ、ネクタイを緩めたまま水をひと口飲んだ。

「こういうことです。もう、終わりにしたいんです」

女の中で、何かが変わっていた。蒜田はそれを感じていたが、あえて気づかぬふりをした。いつものように、時がたてば元に戻る。彼はそう信じていた。

だが、その思い上がりは甘かった。

「秘書を、辞めます。もう限界なんです」

聖子は、ゆっくりと床の服を拾い上げながら、言葉をはっきりと告げた。

「なにを言っているんだ、お前のアソコは俺の下半身なしでは生きていけないよ」

蒜田は声を低くして、ソファから身を乗り出す。

「そんなことはありません。あたし、売春までして、先生に儲けさせて……いったい、あたしのどこに喜びがあるっていうんですか?」

「中卒のお前を雇ってくれる男がいると思ってるのか?お前はな、オマンコでしか稼げない女なんだよ。身の程を知れ」

「……あたし、みんなに言います。先生のやっていることも、売春も、全部。警察にも、記者にも。先生の奥さんにも!」

その瞬間、蒜田の表情が凍りついた。

「なんだと……」

蒜田の眉がひくついた。次の瞬間、彼は立ち上がると、机の下から一本の道具を取り出した。金属光沢を帯びたそれは、かつて彼が登山に凝っていた頃に愛用していたピッケルだった。今はただの飾りとして置かれていたものだ。

その鋭い先端が、突然空を切った。

鈍い音が室内に響いた。頭部を直撃された聖子は、悲鳴をあげる間もなく、ぐらりと身体を傾け、ソファの下に崩れ落ちた。赤黒い血がじわじわと床を染めていく。無防備に伸びた白い手が、空をまさぐるように揺れたあと、ぴたりと止まった。

「……しまった、殺す気なんか……」

ピッケルを握りしめた蒜田の手が、ぶるぶると震えていた。青ざめた顔に脂汗がにじむ。政治の世界で何十年と修羅場をくぐってきた彼にとっても、これは初めての“本物の死”だった。

だが、その後悔は長くは続かなかった。

「……アリバイだ」

すぐに思考が切り替わる。まずは、自分がこの時間にここにいなかったという“証拠”を作らねばならない。

蒜田はノートパソコンを開き、自身のYouTubeチャンネルにアクセスした。すでに録画済みだった数十分の動画を「ライブ配信」と偽って流し始める。椅子の上にスマートフォンを固定し、部屋に自分がいるように見せかけるセットを整える。

その間に、彼は事務所の裏から車を出し、ビニールシートに包んだ死体を積み込んだ。

夜の河川敷。街灯の届かない草むらの奥、静まりかえった川音が、かすかに風に乗って聞こえてくる。蒜田は重い身体を引きずるようにして、女の亡骸を草の陰に横たえた。

そのときだった。

草に引っかかった左手の時計が、バンドごと切れ、泥の上に落ちた。

カチャン――

その乾いた音を、彼は“天の啓示”のように受け止めた。

「……使えるな」

壊れた時計をその場に残し、彼は静かに立ち去った。

深夜の川辺に、音もなく女の死が捨てられた。

そして、誰もその瞬間を目撃していない――かに、見えた。


第二章:死体と配信と黒いスーツ

東京近郊、川沿いの土手。

薄曇りの空が、まだ肌寒さを残した春の朝を覆っていた。季節は確かに進みつつあったが、河川敷には冬の名残が重たく貼りついたような空気が漂っている。土手には立入禁止の黄色いテープが張られ、その向こう側では鑑識班が黙々と作業を進めていた。

一ノ瀬ちづるが現場に姿を現したのは、午前六時を少し回った頃だった。

黒のスーツに身を包み、手には紙カップ――スターバックスのラテ。口元にそれを運びながら、彼女は無言で土手を歩いた。髪型は前下がりのレイヤーボブ。毛先はすっきりと首元に収まり、控えめなシャギーが品のある輪郭を作り出している。全体としてナチュラルで大人っぽい雰囲気。まるで都市の洗練をまとったジャーナリストのようだが、その黒く澄んだ瞳だけが、刑事としての鋭さを物語っていた。

遺体は、河川敷の草むらに横たわっていた。若い女性。衣服は乱れておらず、争った形跡もない。血痕も見当たらず、まるで眠るように静かだ。――ここでは殺されていない。

「……どこかで殺されて、ここに運ばれたのね」

ちづるはラテを片手にしゃがみ込み、死体の周囲を丹念に見渡した。ぬかるんだ地面には、車のタイヤ痕がいくつも残っている。乾きかけた泥の縁には、昨夜から今朝にかけて踏み入られたばかりの痕跡が、はっきりと刻まれていた。

「田村くん、あとで鑑識の報告を全部ちょうだい。轍の幅、車種の推定、靴跡、その他も」

「了解です、先輩」

背後でメモを取っていた若い刑事――田村誠が、短く頷いた。

***

そのころ、別の場所――動画配信用のスタジオを兼ねた一室で、千葉県議会議員の蒜田満一が、自身のYouTubeチャンネルに向かって、力強く語っていた。

「――先日、私の有権者から連絡がありました。自分たちの地区で、ごみ捨てに困っていると」

蒜田は、威圧感のある語り口で、指を折りながら訴える。

「原因は不法投棄です。冷蔵庫やマットレスなど、常識では考えられないような粗大ごみを、深夜に置いていく連中がいる。誰か?大抵は、中国人、あるいはイスラム系の移民です」

画面の向こうの視聴者に、重々しく視線を向ける。

「だが、警察も動かない。行政も知らん顔です。結果、地域の人間が監視カメラを買って、セコムと契約し、自分たちの金で見張る羽目になる。正しくごみを出している日本人だけが損をする。これは、あまりにも理不尽ではありませんか?」

蒜田は語調を強め、身を乗り出す。

「ここは日本です。なぜ、私たちが外国人に気を遣って生きねばならないのか。そう言いたくなるのも当然です!」

熱気を帯びた配信室では、リングライトが彼の顔を照らしていた。

***

昼前、一ノ瀬ちづるは蒜田満一の政治事務所を訪れた。古びたビルの一階駐車場。ふと彼女の目に留まったのは、泥で汚れた黒のワンボックス車だった。タイヤの側面には、草むらを走ったような泥がべったりとこびりついていた。

(あの轍……)

ちづるは立ち止まり、一瞬だけ目を細めた。

やがてインターフォンを押すと、機械越しにくぐもった声が響いた。

「……どなたですか?」

「警視庁の一ノ瀬です。こちら、部下の田村です。お話を伺えますか?」

しばしの沈黙ののち、内ドアが開いた。

姿を現したのは、グレーのカーディガンを羽織った初老の男。顔には笑みを浮かべていたが、その笑みに自然さはなかった。

「少々、お待ちいただけますか。今、YouTubeの動画撮影中でして……」

彼は慌ただしく後方へ振り返り、スマホに手を伸ばして配信を切ると、こちらに向き直った。

「どうぞ、中へ」

ちづると田村は、簡素な応接室に通された。事務机の上には、三脚に据えられたスマホと、資料が山のように積まれている。

「田舎者聖子さんの件で伺いました」

その名前を聞いた瞬間、蒜田の瞼がぴくりと動いた。目の奥に、一瞬だけ走った動揺を、ちづるは見逃さなかった。

「彼女が……何か?」

「残念ですが、遺体で発見されました。昨夜深夜から今朝にかけての時間帯に、何らかの事件に巻き込まれたと考えられます」

「……そんな、信じられません……」

蒜田は椅子に腰を下ろし、ひとつ深く息をついた。

「彼女は私の秘書ですが、毎日事務所に来ていたわけではないのです。昨日も、来る予定ではなかったはずです」

「そうですか」

ちづるは頷き、ラテに口をつけた。

「昨夜の深夜――そうですね、一時頃。先生はどちらにいらっしゃいましたか?」

「おお……なるほど、アリバイの確認ですね」

蒜田は少しだけ肩をすくめた。

「私はYouTubeで、政治配信を行っていましたよ。録画ではありません、ライブです」

ちづるは、黒い目で蒜田をじっと見つめた。

「その動画、拝見させていただいても?」

「ええ、もちろん」

――録画ではない。

そう言い切った、その言葉。

それが、今後どれほどの重みをもって響いてくるか、彼はまだ知らない。


第三章:不在の時間、沈黙の声

警視庁から戻った一ノ瀬ちづるは、靴を脱ぐと、そのままコートも脱がずにノートパソコンの前に座った。時刻は夜十一時を過ぎていたが、彼女の目は冴えていた。

「……さて」

スターバックスのラテが、コーヒーテーブルに置かれている。温もりを失ったそれを一口啜ると、わずかに残った苦味が喉を刺激した。ちづるはブラウザを立ち上げ、YouTubeの検索バーに「蒜田満一」と打ち込んだ。

表示されたチャンネル名をクリックする。

そこには、選挙ポスターそのままの蒜田の顔――黒々と染め上げられた髪、ピンと張った背筋、見慣れたスーツ姿がサムネイルに並んでいた。

《【激論】移民と行政の闇を暴く!》《ゴミ問題は誰のせい?》《夜中に語る地方政治》

――威勢の良いタイトルが、やたらと並んでいる。

「……こんな時間にこれを?」

ちづるは眉をひそめながらも、目的の動画――問題の夜のアーカイブを選んで再生した。

再生が始まると、画面の中央に据えられた椅子に、蒜田が腰かけていた。背景には「移民対策本部」と書かれた垂れ幕。左手には日本地図、右手には観葉植物というセットが、いかにも“用意された演説空間”であることを示している。

「――こんばんは、千葉県議の蒜田満一です。本日もライブで、現場の声を皆さんにお届けします」

蒜田の口調は終始落ち着いていて、言葉に詰まることも、画面から目を逸らすこともなかった。

(……ずいぶん長いのね)

再生バーを確認する。三時間三十八分。

しかも、ノンストップだ。

(こんなに喋り続けられるもの?)

ちづるは半信半疑のまま、映像をじっと見つめ続けた。

再生速度を倍にし、彼の話し方や目線の動き、画面の変化を追っていく。途中、何度か視聴者からのスーパーチャット(いわゆる投げ銭)が入っていた。画面右のチャット欄に、それらが確かに記録されている。

だが。

「……あら?」

ちづるの目が止まった。

投げ銭は三度入っている。だが、蒜田は一言もそれに触れていない。表情も変わらず、台本を読むように話し続けている。

(……生じゃない。これは、録画)

以前の配信アーカイブを再生して比較してみた。すると、違いは一目瞭然だった。

前回も前々回も、彼は投げ銭が入るたび、笑顔で感謝の言葉を述べていた。

「◯◯さん、ありがとうございます!励みになります!」

「おお、また投げ銭いただきました。感謝感謝です!」

ライブ感を大切にしている男が、三度のスーパーチャットに反応しない。

それは、“見ていなかった”ことの証明に他ならない。

ちづるはふと、ラテに手を伸ばした。だが、カップはすでに空だった。

中身がないと気づいた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。

「……糖尿になるか心配ね」

ソファから立ち上がり、薄手のコートを羽織ってコンビニへ向かう。静まり返った深夜の住宅街に、ヒールの音だけが響いていた。

購入したのは、上島珈琲のラテ。帰り道、開けた缶から立ち上る甘い香りが、ようやく眠気を誘ってくれるようだった。

***

翌日午前、一ノ瀬ちづるは再び蒜田の事務所を訪ねた。

昨日と同じように、駐車場の隅には泥まみれの黒いワンボックスカーが停まっている。

ちづるは無言でそのタイヤを一瞥し、インターフォンを押した。

「……どなたですか?」

中から聞こえてきたのは、やや張りのない声だった。

「警視庁の一ノ瀬です。昨日に引き続き、少しお時間をいただけますか」

応接室へ通されると、蒜田は黒々と染め上げた髪を撫でつけながら、ソファに腰を下ろした。

耳の横、こめかみにうっすらと汗が浮いている。

ちづるは、上島珈琲ラテを鞄から取り出して机に置いた。

「先生、昨夜の配信を拝見しました。……長時間でしたね。三時間半も話しっぱなし。食事も取らず、トイレにも立たず、なかなかの体力です」

「……まあ、慣れですよ。私の話を聞きたい人がいる限り、全力で話します」

蒜田は笑みを浮かべて言ったが、その口元はどこかひきつっていた。

「でもね、少し――不自然なんですよ」

「……何が?」

「いつものライブと、何かが違うんです」

「どう違うんですか?」

ちづるは一拍おいて、表情を崩さずに答えた。

「あの日の配信、スーパーチャットが三度ありました。でも、先生……あなたは一度もそれに反応していない」

沈黙が、部屋に広がった。

「前の配信では、ちゃんと名前を呼んで『ありがとうございます』って言ってましたよね。でも、あの日だけは黙ったまま。……不思議ですね。見ていなかったんでしょうか?」

蒜田は肘掛けを強く握りしめた。

「いや、そんなの、忘れることもありますよ。完璧な人間なんていない。配信してれば、そういうことも……」

「もちろん。私もミスはします。でも、先生はいつも“律儀に挨拶するのが信条”って言ってましたよね?」

蒜田の喉がごくりと動いた。染められた黒髪の根元に、わずかな白髪が浮かんでいる。

「そんなことで……私が殺したって証拠になるんですか?」

「誰も、そんなことは言っていませんよ」

ちづるは、さらりと言った。

「……ああ、それで安心しました」

そう答えた蒜田の額から、汗が一筋、静かにこめかみを伝った。


第四章:眼鏡と沈黙と、証言の裏側

スポーツジムのフロアには、低く流れるBGMと、リズミカルなトレーニング器具の駆動音が満ちていた。壁一面の鏡の前で、ランニングマシンの上をひとりの老人が軽快に走っている。

白いTシャツ。引き締まったふくらはぎ。年齢を感じさせない姿。

――蒜田満一、七十歳。

「先生、七十歳なのにお若いですね。筋肉も……かなり立派です」

黒のジャージ姿で立つ一ノ瀬ちづるが、やや笑みを含ませて声をかけた。髪を後ろで軽くまとめ、化粧気のない顔はすっきりと引き締まり、黒い目だけがすべてを見抜こうと光っていた。

「ハハ、年はとっても身体は動かしていないとね。血圧の薬も飲んでますけど、運動が一番だって医者が言うもんだから」

蒜田は呼吸を整え、マシンの速度を落とした。

「今日は、どんなご用件で?」

「田舎者聖子さんの、異性関係についてお話を伺いたくて伺いました」

「異性関係……?」

汗を拭きながら蒜田の顔に、一瞬だけ警戒の色が走った。

「いや、私はあの子の私生活までは知りませんよ。雇ってはいましたが、あくまで仕事の上でのつきあいです。細かいことまでは」

「ただ、近所の方々のお話では……彼女の住むマンションには、いろんな男性が頻繁に出入りしていたようです」

蒜田は苦笑した。

「でもねぇ、彼女……そんなに男に好かれる顔じゃなかったと思いますよ。民謡で言う“おてもやん”って感じでしょ?」

「……逆に、その素朴さが安心感を与える場合もあります」

「なるほど……」

「それと、どうやら金銭目的の関係だった可能性が高いようです。いわゆる売春ですね」

「えっ、売春?まさか、彼女が?そんなこと……信じられませんよ」

「私たちも、最初は疑っていました。ただ、彼女の銀行口座の動きを調べた限りでは、それらしい取引は見当たりませんでした。手元の現金も少なかった。つまり、収入源が不明なんです」

「…………」

沈黙。蒜田は水を一口飲み、タオルで額の汗を拭った。その仕草はどこかぎこちなく、落ち着きのなさを隠しきれていなかった。

「先生、彼女のお金の使い方について、もし何か気づいたことがあれば……後日でも結構です。教えていただけますか?」

「ええ……わかりました。思い出したら、連絡しますよ」

***

午後、ちづるは田舎者聖子の実家を訪ねていた。

都内の外れ。木造二階建ての家には、春の光が優しく差し込んでいる。庭先では椿が咲きかけ、風に揺れていた。

仏間へ通され、ちづるは静かに線香をあげた。写真立ての中の聖子は、金縁の眼鏡をかけて笑っていた。

「お嬢さん……こちらの写真は、いつ頃のものですか?」

「三年前です。まだ市役所で働いていた頃の……」

「いつも、眼鏡をかけていたんですか?」

ちづるは写真を見つめたまま、穏やかな声で尋ねた。

「そうですね。視力が悪くて。家では眼鏡、外出するときはコンタクト……どちらかは必ずつけてました」

(やはり。裸眼で出歩くようなタイプじゃない)

ちづるは深く頷き、帰庁するとすぐに検案記録を再確認した。

《右コートポケットよりソフトコンタクトレンズ(ケース入り)を発見》

装着していなかった理由が、ここで判明する。

外出中に眼鏡もコンタクトも使っていないのは、不自然だ。意図的に外した。あるいは、奪われた可能性もある。

(眼鏡の所在が、次の鍵)

彼女は鑑識班に連絡を入れ、死体発見現場の再捜索を依頼した。

そして自らも、現場へと足を運んだ。

河川敷。

風は冷たく、草はまだ朝露を含んでいた。

死体が遺棄されていた地点から、川の流れに沿って下流へ、ちづるはじっくりと歩を進めた。

そして――ついに、それは見つかった。

枯れ草の陰。半ば泥に沈み込んだ小さな光が、ちづるの目をとらえた。

眼鏡だった。レンズの片方が割れ、金属フレームには土がこびりついている。

だが、ちづるの目は中央――レンズをつなぐブリッジ部分に小さな違和感を見つけた。

「……カメラ?」

専門機関に依頼し、解析が進められた。

眼鏡には、ごく小型のピンホールレンズが内蔵されていた。

しかも、映像はしっかりと記録されていた。


第五章:証明と告白と、キャラメル・マキアート

蒜田満一の政治事務所には、いつものように薄い光が射していた。

表彰状の色あせた額縁、整然と並ぶ選挙ポスターの写真たち。

だが、その空間には、どこか重苦しい空気が漂っていた。

ノックの音がして、黒のスーツに身を包んだ一ノ瀬ちづるが静かに現れる。

「……先生。犯人がわかりましたよ」

蒜田は、ソファからゆっくりと立ち上がった。

うっすらと笑みを浮かべてはいたが、その目の奥に揺らぎが走る。

「……誰ですか?」

「あなたです。蒜田満一さん。あなたが田舎者聖子さんを殺したんです」

沈黙が落ちた。

「……なぜ、そう断言できるんですか?」

ちづるは一歩前に出て、机の前に立った。

「私が最初にここを訪ねたとき、駐車場に停まっていたあなたの車のタイヤが、泥で汚れているのが見えました。私はその泥をハンカチに包んで、鑑識に提出したんです。普通の泥に見えても、科学は嘘をつきません」

蒜田は一瞬、視線をそらした。

「泥を……調べた?」

「ええ。“マイクロバイオーム鑑定”をご存じですか?」

「……聞いたことはありませんね」

「土壌には、地域ごとに異なる微生物の群集が存在します。細菌や藻類、菌類――それぞれが固有の構成を持っていて、DNA分析で“その泥がどこのものか”を特定することができます」

ちづるはポケットから、鑑識報告書を取り出し、テーブルに置いた。

「あなたの車に付着していた泥と、田舎者聖子さんが倒れていた河川敷の泥。微生物の構成が一致しました。同じ場所のものと判断されています」

「……しかし、泥が一致しただけで、殺した証拠にはならないでしょう?」

「そのとおりです。ただ、あなたの車が“つい最近”その河川敷へ行ったことは明白になりました。あの夜の犯行時間帯に近い時刻に」

「……じゃあ、それだけでは僕じゃないと言えるでしょう」

蒜田の声には、わずかに力が戻りかけていた。

だが、ちづるはふっと表情を変え、窓の方を向いた。

カーテンの隙間から、春の鋸山が遠くに霞んで見えた。

「先生。田舎者さんは、いつも眼鏡をかけていたと、近所の方々が話していました。実家のお母さまからも、眼鏡かコンタクトは必ず使っていたと伺いました」

彼女は再び机へ向き直る。

「遺体のポケットには、ソフトコンタクトレンズのケースが入っていました。つまり――あの日、彼女は眼鏡をかけていた。裸眼では歩けない視力の持ち主です」

そう言って、ちづるはビニール袋を取り出し、テーブルにそっと置いた。中には泥まみれの眼鏡が入っている。

「河川敷の下流で、この眼鏡が見つかりました。ただの眼鏡ではありません。ブリッジ部分に小型カメラが仕込まれており、MP4形式で録画されていました」

彼女はタブレット端末を取り出し、再生ボタンを押した。

画面には、薄暗い室内。

テーブルの向かいに座る蒜田満一。怒りを抑えきれない口調で何かをまくし立てている。

対する田舎者聖子の震える声が重なる。

「……あたし、全部言いますから……売春のことも、政治資金のことも……」

蒜田が立ち上がり、画面の隅からピッケルを掴む。

カメラの視界が激しく揺れ、衝撃とともに血飛沫がレンズを覆った。

映像は、数秒後に静かに止まった。

ちづるは何も言わず、タブレットを閉じた。

「……これでも、逃げられると思いますか?」

沈黙が落ちた。

蒜田は、ソファの背もたれに手をついたまま、ふらりとその場に崩れ落ちた。

「……俺は、政治家として……どうしても、成功しなきゃならなかった……資金が……必要で……」

声が震える。

「秘書に売春をさせて、稼がせていた。もっと若い女を集めて……あいつはソープに入れて、金を貢がせようと……そう思ってたのに……!」

「それを全部暴露するって言い出したから――殺した。……ピッケルで……」

涙ではなかった。

それは、崩れた権威が地に落ちるときの、ただの音だった。

「女を“集金マシーン”としてしか見ていなかったんですね。……最低です」

ちづるの声は、低く、静かに響いた。

***

数日後――

春風の強い午後、一ノ瀬ちづるはスターバックスの隅の席にいた。

事件を解決したあとの恒例の習慣。

彼女の前には、キャラメル・マキアートが置かれている。ふんわりと盛られたホイップの上に、飴色のソースが美しく格子を描いていた。

一口、ゆっくりと飲む。

「……事件が片付くと、甘いものも、やけに美味しく感じるのよね」

思わず、独りごちた。

誰に向けるわけでもなく。

「でも……これも、血糖値が上がるわね」

彼女は、ふっと笑った。

その横顔は、どこか満ち足りたようでいて、また次の事件を見据えているようでもあった。

(完)

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

『刑事一ノ瀬ちづるの事件簿』は、いわゆる“倒叙型”のサスペンスを意識して書いています。

犯人が最初から明かされているからこそ、そこからどう追い詰め、どう崩していくかが問われます。

一ノ瀬ちづるという女性刑事を通して、「声にならない怒り」や「見えづらい正義」を浮かび上がらせたいと考えました。

被害者である田舎者聖子にはモデルはいません。

しかし、こうした立場の弱い女性たちが、社会の陰で傷つき、黙って消えていく現実がある――そのことを、私は日々感じています。

またいつか、一ノ瀬が新たな事件に向き合う日が来たら、そのときは再び、皆さんとページの上でお会いできることを願っています。

それでは、また。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ