刑事一ノ瀬ちづるの事件簿眼鏡
犯人の職業を考えると、つい政治家にしてしまいます。
やはり、現代社会への無言の皮肉になってしまうのでしょうか。
金と権力が腐敗を生み、人を道具として使うような構図は、ミステリーを書くうえで避けて通れない題材です。
本作の主人公・一ノ瀬ちづるは、私が「こんな女性がいてほしい」と願う存在です。
冷静沈着で、誰にも媚びず、感情に流されず、淡々と真実を突きつける――そんな刑事に、私は心から敬意と感謝を込めています。
ちなみに、本作に登場する「カメラ付き眼鏡」ですが、私自身も実際に購入しました。
というのも、某役所にゲジゲジのように不愉快な人物がいまして。記録として残しておこうと思ったのです。
小説と現実の境界は、意外と曖昧なものですね。
【登場人物】
一ノ瀬ちづる:女性刑事。冷静沈着、推理力に優れたベテラン刑事。正義感は強い。スタバのラテを飲んでいる。30代前半。顔は山岸あや花似で髪は黒で短髪。目が印象的。
田村誠:一ノ瀬の部下。
田舎者聖子:蒜田の秘書で売春婦。
黒髪で髪の毛が長い。オテモヤンのような顔、155cm。
蒜田満一:千葉県議会議員。
年齢:70歳/職業:町議会議員/性格:威圧的で横柄、裏で汚職まみれ。
第一章:千葉県議蒜田事務所
古びたビルの二階に構えられた、蒜田満一の政治事務所には、昼なお薄暗い空気が漂っていた。木目の浮いたベニヤ板の壁、スプリングの緩んだ応接セット、そして煤けた表彰状の額縁。外には活気ある商店街が広がっているというのに、この部屋だけは、まるで時間が止まっていた。
午後の光が、レースのカーテン越しにぼんやりと射し込む。わずかに開いた窓から入り込んだ風が、埃を巻き上げ、古紙の束をかさりと鳴らした。
男と女がいた。
交わりは終わっていた。
蒜田満一はワイシャツのボタンをひとつずつ留めながら、革張りのソファにふんぞり返っていた。太い指には、女の肌のぬくもりがまだ仄かに残っているようだった。脂ぎった額に手拭いをあてる仕草が、どこか滑稽で、どこか卑しさを帯びていた。
床には脱ぎ散らかされたスカートと、淡い花柄の下着。田舎者聖子はそのそばで、膝を抱えて座り込んでいた。化粧の落ちかけた頬には、乾きかけの汗の筋が光り、長い黒髪がしっとりと頬に貼りついている。
「……終わりましたね、先生」
聖子の声は、掠れたように低く、どこか遠くを見つめていた。
「終わる?何を言ってる」
蒜田は笑みを浮かべ、ネクタイを緩めたまま水をひと口飲んだ。
「こういうことです。もう、終わりにしたいんです」
女の中で、何かが変わっていた。蒜田はそれを感じていたが、あえて気づかぬふりをした。いつものように、時がたてば元に戻る。彼はそう信じていた。
だが、その思い上がりは甘かった。
「秘書を、辞めます。もう限界なんです」
聖子は、ゆっくりと床の服を拾い上げながら、言葉をはっきりと告げた。
「なにを言っているんだ、お前のアソコは俺の下半身なしでは生きていけないよ」
蒜田は声を低くして、ソファから身を乗り出す。
「そんなことはありません。あたし、売春までして、先生に儲けさせて……いったい、あたしのどこに喜びがあるっていうんですか?」
「中卒のお前を雇ってくれる男がいると思ってるのか?お前はな、オマンコでしか稼げない女なんだよ。身の程を知れ」
「……あたし、みんなに言います。先生のやっていることも、売春も、全部。警察にも、記者にも。先生の奥さんにも!」
その瞬間、蒜田の表情が凍りついた。
「なんだと……」
蒜田の眉がひくついた。次の瞬間、彼は立ち上がると、机の下から一本の道具を取り出した。金属光沢を帯びたそれは、かつて彼が登山に凝っていた頃に愛用していたピッケルだった。今はただの飾りとして置かれていたものだ。
その鋭い先端が、突然空を切った。
鈍い音が室内に響いた。頭部を直撃された聖子は、悲鳴をあげる間もなく、ぐらりと身体を傾け、ソファの下に崩れ落ちた。赤黒い血がじわじわと床を染めていく。無防備に伸びた白い手が、空をまさぐるように揺れたあと、ぴたりと止まった。
「……しまった、殺す気なんか……」
ピッケルを握りしめた蒜田の手が、ぶるぶると震えていた。青ざめた顔に脂汗がにじむ。政治の世界で何十年と修羅場をくぐってきた彼にとっても、これは初めての“本物の死”だった。
だが、その後悔は長くは続かなかった。
「……アリバイだ」
すぐに思考が切り替わる。まずは、自分がこの時間にここにいなかったという“証拠”を作らねばならない。
蒜田はノートパソコンを開き、自身のYouTubeチャンネルにアクセスした。すでに録画済みだった数十分の動画を「ライブ配信」と偽って流し始める。椅子の上にスマートフォンを固定し、部屋に自分がいるように見せかけるセットを整える。
その間に、彼は事務所の裏から車を出し、ビニールシートに包んだ死体を積み込んだ。
夜の河川敷。街灯の届かない草むらの奥、静まりかえった川音が、かすかに風に乗って聞こえてくる。蒜田は重い身体を引きずるようにして、女の亡骸を草の陰に横たえた。
そのときだった。
草に引っかかった左手の時計が、バンドごと切れ、泥の上に落ちた。
カチャン――
その乾いた音を、彼は“天の啓示”のように受け止めた。
「……使えるな」
壊れた時計をその場に残し、彼は静かに立ち去った。
深夜の川辺に、音もなく女の死が捨てられた。
そして、誰もその瞬間を目撃していない――かに、見えた。
第二章:死体と配信と黒いスーツ
東京近郊、川沿いの土手。
薄曇りの空が、まだ肌寒さを残した春の朝を覆っていた。季節は確かに進みつつあったが、河川敷には冬の名残が重たく貼りついたような空気が漂っている。土手には立入禁止の黄色いテープが張られ、その向こう側では鑑識班が黙々と作業を進めていた。
一ノ瀬ちづるが現場に姿を現したのは、午前六時を少し回った頃だった。
黒のスーツに身を包み、手には紙カップ――スターバックスのラテ。口元にそれを運びながら、彼女は無言で土手を歩いた。髪型は前下がりのレイヤーボブ。毛先はすっきりと首元に収まり、控えめなシャギーが品のある輪郭を作り出している。全体としてナチュラルで大人っぽい雰囲気。まるで都市の洗練をまとったジャーナリストのようだが、その黒く澄んだ瞳だけが、刑事としての鋭さを物語っていた。
遺体は、河川敷の草むらに横たわっていた。若い女性。衣服は乱れておらず、争った形跡もない。血痕も見当たらず、まるで眠るように静かだ。――ここでは殺されていない。
「……どこかで殺されて、ここに運ばれたのね」
ちづるはラテを片手にしゃがみ込み、死体の周囲を丹念に見渡した。ぬかるんだ地面には、車のタイヤ痕がいくつも残っている。乾きかけた泥の縁には、昨夜から今朝にかけて踏み入られたばかりの痕跡が、はっきりと刻まれていた。
「田村くん、あとで鑑識の報告を全部ちょうだい。轍の幅、車種の推定、靴跡、その他も」
「了解です、先輩」
背後でメモを取っていた若い刑事――田村誠が、短く頷いた。
***
そのころ、別の場所――動画配信用のスタジオを兼ねた一室で、千葉県議会議員の蒜田満一が、自身のYouTubeチャンネルに向かって、力強く語っていた。
「――先日、私の有権者から連絡がありました。自分たちの地区で、ごみ捨てに困っていると」
蒜田は、威圧感のある語り口で、指を折りながら訴える。
「原因は不法投棄です。冷蔵庫やマットレスなど、常識では考えられないような粗大ごみを、深夜に置いていく連中がいる。誰か?大抵は、中国人、あるいはイスラム系の移民です」
画面の向こうの視聴者に、重々しく視線を向ける。
「だが、警察も動かない。行政も知らん顔です。結果、地域の人間が監視カメラを買って、セコムと契約し、自分たちの金で見張る羽目になる。正しくごみを出している日本人だけが損をする。これは、あまりにも理不尽ではありませんか?」
蒜田は語調を強め、身を乗り出す。
「ここは日本です。なぜ、私たちが外国人に気を遣って生きねばならないのか。そう言いたくなるのも当然です!」
熱気を帯びた配信室では、リングライトが彼の顔を照らしていた。
***
昼前、一ノ瀬ちづるは蒜田満一の政治事務所を訪れた。古びたビルの一階駐車場。ふと彼女の目に留まったのは、泥で汚れた黒のワンボックス車だった。タイヤの側面には、草むらを走ったような泥がべったりとこびりついていた。
(あの轍……)
ちづるは立ち止まり、一瞬だけ目を細めた。
やがてインターフォンを押すと、機械越しにくぐもった声が響いた。
「……どなたですか?」
「警視庁の一ノ瀬です。こちら、部下の田村です。お話を伺えますか?」
しばしの沈黙ののち、内ドアが開いた。
姿を現したのは、グレーのカーディガンを羽織った初老の男。顔には笑みを浮かべていたが、その笑みに自然さはなかった。
「少々、お待ちいただけますか。今、YouTubeの動画撮影中でして……」
彼は慌ただしく後方へ振り返り、スマホに手を伸ばして配信を切ると、こちらに向き直った。
「どうぞ、中へ」
ちづると田村は、簡素な応接室に通された。事務机の上には、三脚に据えられたスマホと、資料が山のように積まれている。
「田舎者聖子さんの件で伺いました」
その名前を聞いた瞬間、蒜田の瞼がぴくりと動いた。目の奥に、一瞬だけ走った動揺を、ちづるは見逃さなかった。
「彼女が……何か?」
「残念ですが、遺体で発見されました。昨夜深夜から今朝にかけての時間帯に、何らかの事件に巻き込まれたと考えられます」
「……そんな、信じられません……」
蒜田は椅子に腰を下ろし、ひとつ深く息をついた。
「彼女は私の秘書ですが、毎日事務所に来ていたわけではないのです。昨日も、来る予定ではなかったはずです」
「そうですか」
ちづるは頷き、ラテに口をつけた。
「昨夜の深夜――そうですね、一時頃。先生はどちらにいらっしゃいましたか?」
「おお……なるほど、アリバイの確認ですね」
蒜田は少しだけ肩をすくめた。
「私はYouTubeで、政治配信を行っていましたよ。録画ではありません、ライブです」
ちづるは、黒い目で蒜田をじっと見つめた。
「その動画、拝見させていただいても?」
「ええ、もちろん」
――録画ではない。
そう言い切った、その言葉。
それが、今後どれほどの重みをもって響いてくるか、彼はまだ知らない。
第三章:不在の時間、沈黙の声
警視庁から戻った一ノ瀬ちづるは、靴を脱ぐと、そのままコートも脱がずにノートパソコンの前に座った。時刻は夜十一時を過ぎていたが、彼女の目は冴えていた。
「……さて」
スターバックスのラテが、コーヒーテーブルに置かれている。温もりを失ったそれを一口啜ると、わずかに残った苦味が喉を刺激した。ちづるはブラウザを立ち上げ、YouTubeの検索バーに「蒜田満一」と打ち込んだ。
表示されたチャンネル名をクリックする。
そこには、選挙ポスターそのままの蒜田の顔――黒々と染め上げられた髪、ピンと張った背筋、見慣れたスーツ姿がサムネイルに並んでいた。
《【激論】移民と行政の闇を暴く!》《ゴミ問題は誰のせい?》《夜中に語る地方政治》
――威勢の良いタイトルが、やたらと並んでいる。
「……こんな時間にこれを?」
ちづるは眉をひそめながらも、目的の動画――問題の夜のアーカイブを選んで再生した。
再生が始まると、画面の中央に据えられた椅子に、蒜田が腰かけていた。背景には「移民対策本部」と書かれた垂れ幕。左手には日本地図、右手には観葉植物というセットが、いかにも“用意された演説空間”であることを示している。
「――こんばんは、千葉県議の蒜田満一です。本日もライブで、現場の声を皆さんにお届けします」
蒜田の口調は終始落ち着いていて、言葉に詰まることも、画面から目を逸らすこともなかった。
(……ずいぶん長いのね)
再生バーを確認する。三時間三十八分。
しかも、ノンストップだ。
(こんなに喋り続けられるもの?)
ちづるは半信半疑のまま、映像をじっと見つめ続けた。
再生速度を倍にし、彼の話し方や目線の動き、画面の変化を追っていく。途中、何度か視聴者からのスーパーチャット(いわゆる投げ銭)が入っていた。画面右のチャット欄に、それらが確かに記録されている。
だが。
「……あら?」
ちづるの目が止まった。
投げ銭は三度入っている。だが、蒜田は一言もそれに触れていない。表情も変わらず、台本を読むように話し続けている。
(……生じゃない。これは、録画)
以前の配信アーカイブを再生して比較してみた。すると、違いは一目瞭然だった。
前回も前々回も、彼は投げ銭が入るたび、笑顔で感謝の言葉を述べていた。
「◯◯さん、ありがとうございます!励みになります!」
「おお、また投げ銭いただきました。感謝感謝です!」
ライブ感を大切にしている男が、三度のスーパーチャットに反応しない。
それは、“見ていなかった”ことの証明に他ならない。
ちづるはふと、ラテに手を伸ばした。だが、カップはすでに空だった。
中身がないと気づいた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
「……糖尿になるか心配ね」
ソファから立ち上がり、薄手のコートを羽織ってコンビニへ向かう。静まり返った深夜の住宅街に、ヒールの音だけが響いていた。
購入したのは、上島珈琲のラテ。帰り道、開けた缶から立ち上る甘い香りが、ようやく眠気を誘ってくれるようだった。
***
翌日午前、一ノ瀬ちづるは再び蒜田の事務所を訪ねた。
昨日と同じように、駐車場の隅には泥まみれの黒いワンボックスカーが停まっている。
ちづるは無言でそのタイヤを一瞥し、インターフォンを押した。
「……どなたですか?」
中から聞こえてきたのは、やや張りのない声だった。
「警視庁の一ノ瀬です。昨日に引き続き、少しお時間をいただけますか」
応接室へ通されると、蒜田は黒々と染め上げた髪を撫でつけながら、ソファに腰を下ろした。
耳の横、こめかみにうっすらと汗が浮いている。
ちづるは、上島珈琲ラテを鞄から取り出して机に置いた。
「先生、昨夜の配信を拝見しました。……長時間でしたね。三時間半も話しっぱなし。食事も取らず、トイレにも立たず、なかなかの体力です」
「……まあ、慣れですよ。私の話を聞きたい人がいる限り、全力で話します」
蒜田は笑みを浮かべて言ったが、その口元はどこかひきつっていた。
「でもね、少し――不自然なんですよ」
「……何が?」
「いつものライブと、何かが違うんです」
「どう違うんですか?」
ちづるは一拍おいて、表情を崩さずに答えた。
「あの日の配信、スーパーチャットが三度ありました。でも、先生……あなたは一度もそれに反応していない」
沈黙が、部屋に広がった。
「前の配信では、ちゃんと名前を呼んで『ありがとうございます』って言ってましたよね。でも、あの日だけは黙ったまま。……不思議ですね。見ていなかったんでしょうか?」
蒜田は肘掛けを強く握りしめた。
「いや、そんなの、忘れることもありますよ。完璧な人間なんていない。配信してれば、そういうことも……」
「もちろん。私もミスはします。でも、先生はいつも“律儀に挨拶するのが信条”って言ってましたよね?」
蒜田の喉がごくりと動いた。染められた黒髪の根元に、わずかな白髪が浮かんでいる。
「そんなことで……私が殺したって証拠になるんですか?」
「誰も、そんなことは言っていませんよ」
ちづるは、さらりと言った。
「……ああ、それで安心しました」
そう答えた蒜田の額から、汗が一筋、静かにこめかみを伝った。
第四章:眼鏡と沈黙と、証言の裏側
スポーツジムのフロアには、低く流れるBGMと、リズミカルなトレーニング器具の駆動音が満ちていた。壁一面の鏡の前で、ランニングマシンの上をひとりの老人が軽快に走っている。
白いTシャツ。引き締まったふくらはぎ。年齢を感じさせない姿。
――蒜田満一、七十歳。
「先生、七十歳なのにお若いですね。筋肉も……かなり立派です」
黒のジャージ姿で立つ一ノ瀬ちづるが、やや笑みを含ませて声をかけた。髪を後ろで軽くまとめ、化粧気のない顔はすっきりと引き締まり、黒い目だけがすべてを見抜こうと光っていた。
「ハハ、年はとっても身体は動かしていないとね。血圧の薬も飲んでますけど、運動が一番だって医者が言うもんだから」
蒜田は呼吸を整え、マシンの速度を落とした。
「今日は、どんなご用件で?」
「田舎者聖子さんの、異性関係についてお話を伺いたくて伺いました」
「異性関係……?」
汗を拭きながら蒜田の顔に、一瞬だけ警戒の色が走った。
「いや、私はあの子の私生活までは知りませんよ。雇ってはいましたが、あくまで仕事の上でのつきあいです。細かいことまでは」
「ただ、近所の方々のお話では……彼女の住むマンションには、いろんな男性が頻繁に出入りしていたようです」
蒜田は苦笑した。
「でもねぇ、彼女……そんなに男に好かれる顔じゃなかったと思いますよ。民謡で言う“おてもやん”って感じでしょ?」
「……逆に、その素朴さが安心感を与える場合もあります」
「なるほど……」
「それと、どうやら金銭目的の関係だった可能性が高いようです。いわゆる売春ですね」
「えっ、売春?まさか、彼女が?そんなこと……信じられませんよ」
「私たちも、最初は疑っていました。ただ、彼女の銀行口座の動きを調べた限りでは、それらしい取引は見当たりませんでした。手元の現金も少なかった。つまり、収入源が不明なんです」
「…………」
沈黙。蒜田は水を一口飲み、タオルで額の汗を拭った。その仕草はどこかぎこちなく、落ち着きのなさを隠しきれていなかった。
「先生、彼女のお金の使い方について、もし何か気づいたことがあれば……後日でも結構です。教えていただけますか?」
「ええ……わかりました。思い出したら、連絡しますよ」
***
午後、ちづるは田舎者聖子の実家を訪ねていた。
都内の外れ。木造二階建ての家には、春の光が優しく差し込んでいる。庭先では椿が咲きかけ、風に揺れていた。
仏間へ通され、ちづるは静かに線香をあげた。写真立ての中の聖子は、金縁の眼鏡をかけて笑っていた。
「お嬢さん……こちらの写真は、いつ頃のものですか?」
「三年前です。まだ市役所で働いていた頃の……」
「いつも、眼鏡をかけていたんですか?」
ちづるは写真を見つめたまま、穏やかな声で尋ねた。
「そうですね。視力が悪くて。家では眼鏡、外出するときはコンタクト……どちらかは必ずつけてました」
(やはり。裸眼で出歩くようなタイプじゃない)
ちづるは深く頷き、帰庁するとすぐに検案記録を再確認した。
《右コートポケットよりソフトコンタクトレンズ(ケース入り)を発見》
装着していなかった理由が、ここで判明する。
外出中に眼鏡もコンタクトも使っていないのは、不自然だ。意図的に外した。あるいは、奪われた可能性もある。
(眼鏡の所在が、次の鍵)
彼女は鑑識班に連絡を入れ、死体発見現場の再捜索を依頼した。
そして自らも、現場へと足を運んだ。
河川敷。
風は冷たく、草はまだ朝露を含んでいた。
死体が遺棄されていた地点から、川の流れに沿って下流へ、ちづるはじっくりと歩を進めた。
そして――ついに、それは見つかった。
枯れ草の陰。半ば泥に沈み込んだ小さな光が、ちづるの目をとらえた。
眼鏡だった。レンズの片方が割れ、金属フレームには土がこびりついている。
だが、ちづるの目は中央――レンズをつなぐブリッジ部分に小さな違和感を見つけた。
「……カメラ?」
専門機関に依頼し、解析が進められた。
眼鏡には、ごく小型のピンホールレンズが内蔵されていた。
しかも、映像はしっかりと記録されていた。
第五章:証明と告白と、キャラメル・マキアート
蒜田満一の政治事務所には、いつものように薄い光が射していた。
表彰状の色あせた額縁、整然と並ぶ選挙ポスターの写真たち。
だが、その空間には、どこか重苦しい空気が漂っていた。
ノックの音がして、黒のスーツに身を包んだ一ノ瀬ちづるが静かに現れる。
「……先生。犯人がわかりましたよ」
蒜田は、ソファからゆっくりと立ち上がった。
うっすらと笑みを浮かべてはいたが、その目の奥に揺らぎが走る。
「……誰ですか?」
「あなたです。蒜田満一さん。あなたが田舎者聖子さんを殺したんです」
沈黙が落ちた。
「……なぜ、そう断言できるんですか?」
ちづるは一歩前に出て、机の前に立った。
「私が最初にここを訪ねたとき、駐車場に停まっていたあなたの車のタイヤが、泥で汚れているのが見えました。私はその泥をハンカチに包んで、鑑識に提出したんです。普通の泥に見えても、科学は嘘をつきません」
蒜田は一瞬、視線をそらした。
「泥を……調べた?」
「ええ。“マイクロバイオーム鑑定”をご存じですか?」
「……聞いたことはありませんね」
「土壌には、地域ごとに異なる微生物の群集が存在します。細菌や藻類、菌類――それぞれが固有の構成を持っていて、DNA分析で“その泥がどこのものか”を特定することができます」
ちづるはポケットから、鑑識報告書を取り出し、テーブルに置いた。
「あなたの車に付着していた泥と、田舎者聖子さんが倒れていた河川敷の泥。微生物の構成が一致しました。同じ場所のものと判断されています」
「……しかし、泥が一致しただけで、殺した証拠にはならないでしょう?」
「そのとおりです。ただ、あなたの車が“つい最近”その河川敷へ行ったことは明白になりました。あの夜の犯行時間帯に近い時刻に」
「……じゃあ、それだけでは僕じゃないと言えるでしょう」
蒜田の声には、わずかに力が戻りかけていた。
だが、ちづるはふっと表情を変え、窓の方を向いた。
カーテンの隙間から、春の鋸山が遠くに霞んで見えた。
「先生。田舎者さんは、いつも眼鏡をかけていたと、近所の方々が話していました。実家のお母さまからも、眼鏡かコンタクトは必ず使っていたと伺いました」
彼女は再び机へ向き直る。
「遺体のポケットには、ソフトコンタクトレンズのケースが入っていました。つまり――あの日、彼女は眼鏡をかけていた。裸眼では歩けない視力の持ち主です」
そう言って、ちづるはビニール袋を取り出し、テーブルにそっと置いた。中には泥まみれの眼鏡が入っている。
「河川敷の下流で、この眼鏡が見つかりました。ただの眼鏡ではありません。ブリッジ部分に小型カメラが仕込まれており、MP4形式で録画されていました」
彼女はタブレット端末を取り出し、再生ボタンを押した。
画面には、薄暗い室内。
テーブルの向かいに座る蒜田満一。怒りを抑えきれない口調で何かをまくし立てている。
対する田舎者聖子の震える声が重なる。
「……あたし、全部言いますから……売春のことも、政治資金のことも……」
蒜田が立ち上がり、画面の隅からピッケルを掴む。
カメラの視界が激しく揺れ、衝撃とともに血飛沫がレンズを覆った。
映像は、数秒後に静かに止まった。
ちづるは何も言わず、タブレットを閉じた。
「……これでも、逃げられると思いますか?」
沈黙が落ちた。
蒜田は、ソファの背もたれに手をついたまま、ふらりとその場に崩れ落ちた。
「……俺は、政治家として……どうしても、成功しなきゃならなかった……資金が……必要で……」
声が震える。
「秘書に売春をさせて、稼がせていた。もっと若い女を集めて……あいつはソープに入れて、金を貢がせようと……そう思ってたのに……!」
「それを全部暴露するって言い出したから――殺した。……ピッケルで……」
涙ではなかった。
それは、崩れた権威が地に落ちるときの、ただの音だった。
「女を“集金マシーン”としてしか見ていなかったんですね。……最低です」
ちづるの声は、低く、静かに響いた。
***
数日後――
春風の強い午後、一ノ瀬ちづるはスターバックスの隅の席にいた。
事件を解決したあとの恒例の習慣。
彼女の前には、キャラメル・マキアートが置かれている。ふんわりと盛られたホイップの上に、飴色のソースが美しく格子を描いていた。
一口、ゆっくりと飲む。
「……事件が片付くと、甘いものも、やけに美味しく感じるのよね」
思わず、独りごちた。
誰に向けるわけでもなく。
「でも……これも、血糖値が上がるわね」
彼女は、ふっと笑った。
その横顔は、どこか満ち足りたようでいて、また次の事件を見据えているようでもあった。
(完)
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
『刑事一ノ瀬ちづるの事件簿』は、いわゆる“倒叙型”のサスペンスを意識して書いています。
犯人が最初から明かされているからこそ、そこからどう追い詰め、どう崩していくかが問われます。
一ノ瀬ちづるという女性刑事を通して、「声にならない怒り」や「見えづらい正義」を浮かび上がらせたいと考えました。
被害者である田舎者聖子にはモデルはいません。
しかし、こうした立場の弱い女性たちが、社会の陰で傷つき、黙って消えていく現実がある――そのことを、私は日々感じています。
またいつか、一ノ瀬が新たな事件に向き合う日が来たら、そのときは再び、皆さんとページの上でお会いできることを願っています。
それでは、また。




