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刑事一ノ瀬ちづるの事件簿 指輪は語る

本書を手に取っていただき、誠にありがとうございます。

この物語は、「刑事・一ノ瀬ちづる」という一人の女性刑事の目を通して、

東京の片隅で起きた、ひとつの小さな悲劇を描こうとしたものです。

事件の背後に見え隠れする、釣り合わぬ夫婦の悲しみ。

金と欲望が交錯する世界で、それでもなお真実を追い求める者たちの葛藤。

その中で、ちづる自身もまた、自らの孤独と向き合うことになります。

彼女は完全無欠のヒーローではありません。

疲れ、迷い、ときに苦笑しながらも、それでも前に進もうとする――

そんなちづるの姿を、最後まで見届けていただければ幸いです。

それでは、物語の扉を開きましょう。

【登場人物】

一ノ瀬ちづる:女性刑事。冷静沈着、推理力に優れたベテラン刑事。過去の捜査でトラウマを抱えているが、正義感は強い。スタバのラテを飲んでいる。

岸本佳代きしもと かよ:岸本太郎の妻

岸本太郎きしもと たろう:大富豪

蛭田無犯窓ひるた むはんまど:興信所の社長

林雄星りん ゆうせい:乗馬倶楽部のトレーニング・コーチ


第一章:黒髪と蹄の音

東京・豊島区。

高層ビル群の谷間に、不釣り合いなほど広大な乗馬クラブが存在していた。

白い柵に囲まれた馬場には、朝露に濡れた青草の香りが立ち込め、蹄が土を打つ音が、静かに空に弾けている。

そこは、都会の喧騒を忘れさせる異世界だった。

まだ陽が傾きかけたばかりの馬場には、一組の男女がいた。

女は三十代前半。

艶やかな黒髪をヘルメットの下に束ね、乗馬用のジャケットとパンツに身を包んでいる。

岸本佳代。岸本財閥の当主、岸本太郎の若き妻だ。

鞭を軽く振るう手つきも、鞍上での姿勢も優雅で隙がない。だが、その瞳の奥には、どこか退屈を抱えているようにも見えた。

その隣に立つ男は、林雄星。

乗馬クラブ専属のトレーニングコーチである。

すらりとした長身に浅黒い肌、引き締まった輪郭に鋭い目。

イケメンと言われることに慣れた風情で、女たちの視線を楽しむことを忘れない。

彼は、佳代に対しても、自然に触れる距離を縮めていた。

最終レッスンの時間。

他の客が帰った後、二人の間には甘い空気が流れていた。

林が佳代の腰を支え、佳代が微笑んで彼に体を預ける。

その光景は、訓練などではなく、恋人たちの戯れにしか見えなかった。

――そんな二人の様子を、離れた場所から観察している男がいた。

蛭田無犯窓。

蛭田興信所の社長である。

濃い顔立ちに高級眼鏡をかけ、指には重厚な金の指輪。

アラブ系の母を持つ彼は、幼いころから周囲に馴染めず、裏社会の仕事へと自然に馴染んでいった。

冷徹で、そして傍若無人。

仕事とあらば手段を選ばず、依頼人の秘密を握り、時にはそれを脅迫に使うことさえ厭わない。

「やれやれ、金で買われた成金夫人か……」

蛭田は鼻で笑った。

その視線は、すでに佳代を獲物と見なしていた。

このあと二人が高級ホテルへ消えていったのを確認すると、蛭田は密かに笑った。

「やれやれ、簡単な仕事だ」

***

数日後、蛭田興信所。

重厚な革張りのソファと暗い色のパネルで統一された室内に、岸本太郎が現れた。

禿げ上がった頭頂部、脂っこい顔。

七十代という年齢を物語るたるみきった体躯。

その姿は、巨額の財で若い妻を繋ぎ止めた成金そのものだった。

蛭田は丁重に頭を下げ、調査報告書を机に置いた。

「二週間調査しましたが、奥様には浮気の兆候はありませんでした」

蛭田は平然と嘘を吐いた。

岸本の顔が一瞬で緩み、乾いた笑い声をあげる。

「よかろう、礼を弾もう」

太郎は取り巻きに電話を入れ、即座に二百万円の振込指示を出した。

蛭田は満足そうに頷き、深々と頭を下げた。

***

その夜。

佳代が帰宅のために歩く裏道に、黒いSUVが音もなく滑り寄った。

運転席の窓が開き、中から蛭田が顔を出す。

「奥さん。蛭田興信所の蛭田と申します。少しだけお時間をいただけませんか?」

佳代は警戒心を隠し、涼しい顔で答えた。

「今は遅いわ。また改めて伺うから、場所を教えてちょうだい」

蛭田は即座に自宅を指定した。

都合のいいように事を運ぶために。

***

午後七時、蛭田の自宅マンション。

無機質なコンクリート打ちっぱなしのリビング。

佳代は、ヒールの音を響かせながら中へ踏み入った。

「ご主人から浮気調査を依頼されましたが……私は、嘘の報告をしました」

蛭田はテーブル越しに微笑んだ。

「それはご親切に。で、何が言いたいの?」

佳代の声は乾いていた。

「ご主人の情報がほしいんです。すべて盗聴していただきたい」

「断るわ」

佳代はきっぱりと言い放った。

蛭田の顔に不快な皺が刻まれる。

「断るなら、全部ご主人に話しますよ。浮気のことも」

「どうぞご勝手に。あの人、何度目の浮気でも離婚なんかしないわよ」

佳代の声には微塵も怯えがなかった。

それどころか、勝ち誇ったような笑みさえ浮かべている。

「それに、私は三十万人のフォロワーがいるの。あなたの悪事を暴露したら、どっちが困るかしら?」

蛭田のこめかみがぴくりと動いた。

彼は、元来温和な人間ではない。

傍若無人で、短気で、すぐに手が出る。

「……この売女が!」

怒号と共に、机の上の花瓶を手に取ると、躊躇なく佳代の頭めがけて振り下ろした。

ゴッ――!

鈍い音とともに、佳代はその場に崩れ落ちた。

目を大きく見開いたまま、二度と動くことはなかった。

蛭田は息を荒げ、壊れた花瓶の破片を踏みしめながら、

冷静に、これからすべきことを考え始めた。

「……仕方ないな」

***

深夜、東京郊外の山道。

蛭田は佳代の遺体をトランクから引きずり出すと、谷底へと投げ落とした。

草がざわめき、何かが闇に消えた音だけが残った。

蛭田は何事もなかったかのようにハンドルを握り、闇の中へと消えていった。


第二章:赤い糸

東京郊外、人気のない山道。

夜の冷気がじわりと大地に染み込み、霧が低く垂れ込めていた。

一ノ瀬ちづるが現場に到着したのは、夜明け前のまだ薄暗い時間だった。

周囲は雑木林に囲まれ、湿った土の匂いが鼻をつく。

聞こえるのは、風に揺れる枝葉のかすかなざわめきだけ。

通報者は、たまたま山道を走っていたトラック運転手だった。

荷台から落ちた資材を拾うため脇道に入り、偶然、異様な光景を目にしたという。

パトカーの回転灯が、赤い光を地面に滲ませていた。

ブルーシートに覆われた遺体の周囲では、鑑識班が黙々と作業を進めている。

スターバックスの紙袋を片手に、ちづるは車から降りた。

軽く息を吐き、ラテを一口すする。

夜勤続きの体に、温かな甘さがじんわりと沁み渡った。

「刑事さん、お疲れさまです」

現場責任者が声をかける。

ちづるは軽く会釈し、ブルーシートの中身に視線を向けた。

若い女性だった。

顔に酷い損傷はないが、額には打撲痕があり、明らかに他殺の痕跡を示している。

衣服に乱れはなく、財布や装飾品も身につけたままだった。

ちづるの視線がふと、遺体の手元に止まる。

被害者の右手の指先に――

赤い繊維のようなものが絡まっていた。

高級な絨毯の糸のように、艶やかでしなやかな質感。

だがちづるはその場では何も言わず、ただ静かに観察を続けた。

(※後日、この繊維がアフガニスタン製の希少な高級絨毯の一部だと判明する。)

また、被害者の左手薬指には、

地味で無骨な指輪がはまっていた。

女性が好む装飾性とは無縁の、異様にシンプルなデザインだった。

だが、ちづるはやはりその場で指摘することはなかった。

心の中に小さな違和感をしまい込み、現場を後にした。

***

数日後。

池袋駅周辺は、外国人観光客で賑わっていた。

だが、少し外れた住宅街に入ると、昔ながらの簡素な家並みが続いている。

その一角。

黒塀に囲まれた豪奢な屋敷の門前で、ちづるは足を止めた。

岸本邸。

ネット通販サイト「Kojizon」の創業者、岸本太郎の邸宅だった。

重厚な鉄の門。

広い庭には、輸入車が何台も無造作に並べられている。

成金趣味をそのまま絵に描いたような豪邸だった。

インターホンを押すと、執事風の男が現れ、無言でちづるを中へ案内した。

応接室。

ソファにどっかりと腰を下ろす岸本太郎が、煙草をふかしながら待っていた。

七十代、禿げ上がった頭頂、油っぽい肌、たるんだ体。

金と権力にまみれた典型的な成金老人だった。

「刑事さん、よく来てくれた」

岸本は、目を細めて笑った。

「……ぜひとも、妻の仇を取ってほしい。いい妻だったんだ。

 もし迷宮入りなんかしたら、私は黙っていないよ。政治家や警察関係に知り合いが多いからね」

あからさまな圧力。

だがちづるは、微笑みもせず、冷静に頷いた。

「ええ、わかっています」

「それと……」

岸本は立ち上がり、奥の扉を開けた。

そこから現れたのは、スーツ姿の細身の男。

鋭い目つきと、どこか人を値踏みするような笑み。

「蛭田無犯窓さん。蛭田興信所の社長だ。

 妻の素行調査をお願いしていた。きっと君たちの力になってくれるだろう」

「なんでも、協力しますよ」

蛭田は頭を下げたが、ちづるはその動作に微かな違和感を覚えた。

何かを伺うような、妙な間合い。

だが表面上は流し、ちづるは壁に飾られた岸本夫妻の写真に目を移した。

「奥様は……乗馬をされていたんですね」

「ああ。近所の林乗馬倶楽部に通っていたよ。

 あそこは中国人が経営しているらしい」

ちづるは軽く頷き、メモを取った。

「そうですか。……後ほど、そちらにも寄らせてもらいます」

一ノ瀬ちづるは、冷たいラテを飲み干しながら、

この事件の裏に渦巻く闇を静かに見据えていた。


第三章:蹄音の余韻

林乗馬倶楽部。

白い柵に囲まれた広い馬場では、朝霧の中、数頭の馬がのんびりと草を噛んでいた。

木造の厩舎は簡素だが、手入れが行き届き、敷地の奥には小さなログハウス風のクラブハウスが建っている。

緩やかな坂を登ると、ちづるは受付に姿を見せた。

そこにいたのは、林雄星。

黒いトレーニングウェアに身を包み、浅黒い肌に精悍な顔立ち。

一目で運動神経の良さがわかる、すらりとした青年だった。

「林さんですね」

ちづるは警察手帳を掲げた。

林は一瞬だけ顔をこわばらせたが、すぐに無表情に戻り、うなずいた。

「すこし、お話を伺いたいのです。岸本佳代さんについて」

クラブハウスの裏手に回ると、林は長椅子に腰掛け、重く口を開いた。

「最初は……ただの生徒とコーチの関係でした。トレーニングが終わった後に、食事に行くくらいの」

彼は、手元を見つめたまま言った。

声には、どこか自嘲気味な響きがあった。

「でも、何度か会っているうちに、自然と、親しい関係になってしまったんです」

ちづるは頷いた。

林の言葉は慎重だったが、十分に意図は伝わった。

「それで?」

ちづるは静かに促す。

「一度、もうやめようって言ったんです。

佳代さんは、軽い気持ちだったのかもしれない。

でも、僕には重かった。……馬鹿ですよね」

林は苦笑した。

その顔には、未練とも後悔ともつかない影が差していた。

「あなたは、彼女を殺していない。そうでしょう?」

林は顔を上げ、ちづるを真っ直ぐに見た。

「わかりますか?」

「ええ」

ちづるは微笑みを浮かべた。

「あなたには、殺す動機がありませんから」

林は深く息をつき、ほんのわずかに肩を落とした。

その様子を、ちづるは冷静に観察していた。

人を殺した人間は、こんなふうに緊張を解くものではない。

***

池袋。

繁華街の喧騒を抜けた先に、蛭田興信所はひっそりと看板を掲げていた。

ビルの二階。

白いプレートに控えめに「蛭田興信所」とだけ記されたドアを押すと、

中は意外なほど質素だった。

壁はくすんだ白。

金属製のデスクとファイリングキャビネットが並び、

簡素な打ち合わせスペースにはソファとローテーブルが置かれている。

目を引くような赤い絨毯などは、どこにも敷かれていなかった。

床は無機質なグレーのタイルカーペットだった。

「これはこれは、刑事さん」

蛭田無犯窓がソファから立ち上がり、にやりと笑った。

「何か、いい情報でも手に入ったんですか?」

「いえ」

ちづるは首を振った。

「まだ確定したものはありません。……こちらに伺ったのは、むしろ、そのためです」

「そうですか」

蛭田は口元をゆがめた。

「ところで、蛭田さん。あなたと岸本さんとは、どういうご関係ですか?」

わずかな間。

蛭田は気まずそうに眉を動かした。

「……ある調査で知り合いましてね。まあ、古い付き合いってほどじゃありませんよ。最近、少しお手伝いを頼まれるようになっただけです」

嘘とまでは言えない。

だが、何かを隠しているような気配をちづるは感じた。

ちづるは話題を変えた。

「佳代さんは、どこで殺されたんでしょうね」

「それは……現場に争った形跡がない以上、別の場所でしょう。

 殺してから、あの山道へ運んだ。そう考えるのが自然でしょうな」

蛭田は無造作に言った。

だが、その目はじっと、ちづるを探るように光っていた。

ちづるは微笑みを崩さず、さらに続けた。

「岸本邸から現場まではかなり距離があります。

佳代さんの足取りがわかっていないのは、夕方から翌朝にかけて。

だとすると――家の近く、あるいは移動中に襲われたと考えるのが自然ですね」

蛭田は、軽く肩をすくめた。

あくまで無関心を装いながら。

ちづるは立ち上がった。

「ご協力、感謝します。また何かあれば、連絡しますね」

「ええ、なんでも協力しますよ」

蛭田はにこやかに答えた。

だが、ちづるは背を向けながら、心の中にわずかな疑念を沈めていた。

(――何かが、引っかかる)

まだその「何か」が形にならないまま、

ちづるは蛭田興信所を後にした。


第四章:失われた輪

岸本邸。

池袋の喧騒を少し離れた場所に建つその豪奢な屋敷は、

黒い塀と高い門に囲まれ、訪れる者を威圧するかのようにそびえ立っていた。

秋風が冷たく吹き、庭木の葉がささやく。

一ノ瀬ちづるは重厚な門をくぐり、石畳を踏みしめながら玄関へと向かった。

応接間へ通されると、以前と同じように、

岸本太郎が重厚なソファに腰を下ろして待っていた。

禿げ上がった頭頂に光る汗、くすんだスーツ、たるんだ体躯。

それでも、その目だけは鋭く、年齢に屈してはいなかった。

「刑事さん」

岸本は煙草をもみ消しながら、声をかけた。

「捜査の方は、どうですか?」

「……あまり進展はありません」

ちづるは静かに答えた。

重く淀んだ空気が、応接間に満ちる。

岸本は膝の上で手を組み、しばらく黙っていた。

ちづるもまた、無言で彼を見つめた。

ふと、壁に飾られた一枚の写真が目に留まった。

若い女性――岸本佳代。

長い黒髪に控えめな笑みを浮かべ、シンプルなドレスを纏っている。

指輪もネックレスも、飾り気は一切なかった。

「奥様……」

ちづるはそっと口を開いた。

「指輪や装飾品は、身に着けない方だったんですね」

岸本は顔を上げ、頷いた。

「ええ。飾り立てるのが嫌いでね。

指輪、ネックレス、イヤリング、ピアス――何一つ、身につけたがらなかった。

変わった女ですよ、ほんとに」

岸本は、ふっと苦笑した。

その表情には、憎しみとも愛情ともつかぬ複雑な感情が滲んでいた。

「ただ、一つだけ……妙なものは好んでつけてましたよ。

金のボディ・チェーン。

腰に巻く、細い鎖みたいなやつだ。

あいつ、腰が細かったからね。妙に……セクシーで」

岸本は、言葉に詰まり、咳払いでごまかした。

「……失礼。こんな話をするつもりじゃなかった」

ちづるは無言で首を横に振った。

岸本の中に、いまだに消えぬ妻への情がわずかに残っていることを、敏感に感じ取ったからだ。

「それで――」

ちづるは話題を戻した。

「事件当日、奥様に何か変わった様子は?」

岸本はしばらく考え込むように眉間に皺を寄せた。

「……いや、特に変わったところはなかったな。ただ……」

「ただ?」

「思い出した。

あいつ、その日は指輪をしてた。

珍しいことだ、普段はあんなもの、絶対に身に着けないのに」

ちづるの胸に、かすかな警鐘が鳴った。

「それは、どんな指輪でしたか?」

「いや、よく覚えてない。

私は細かいことに気がつかない性質でね。

ただ、見慣れないものをしていたな、とは思った」

岸本は苦々しげに言った。

***

池袋警察署、鑑識課。

蛍光灯の白い光の下、遺留品の検証作業が進められていた。

ちづるは白衣を着た鑑識官に案内され、遺留品保管室へと足を踏み入れた。

「岸本佳代さんの所持品です」

鑑識官が無表情にファイルを開き、小さな箱をいくつか机に並べた。

財布、スマートフォン、ハンカチ、そして――銀色の指輪。

ちづるの目が、その指輪に留まった。

「これも、佳代さんの?」

「はい」

鑑識官は淡々と答える。

「一見して、特に異常はありませんでした。

通常のアクセサリーと判断しています」

ちづるは手袋をはめ、指輪をそっと手に取った。

銀色の滑らかな表面。

だが、細部を凝視すると、内側に微細な継ぎ目と極小の穴があることに気づいた。

(……待てよ)

ちづるはふと、最近のニュースを思い出した。

ペンダント型や指輪型に偽装された小型ICレコーダーが、

市販され始めているという話を。

「……これ、ただの指輪じゃないかもしれない」

独りごちると、ちづるは指輪を慎重にくるりと回した。

内側には、ごく小さな突起があり、押すとカチリと小さな手応えが返ってきた。

(録音ボタン……間違いない)

「鑑識さん」

ちづるは声を低くした。

「この指輪、ICレコーダーの可能性があります。

USB端子やメモリも確認してください。記録データが残っているかもしれません」

鑑識官は目を見開いたが、すぐに頷き、指輪を専用袋に収めた。

ちづるは深く息を吐いた。

岸本佳代は、この指輪で何を録音しようとしていたのか。

誰の秘密を、記録しようとしていたのか。

そして、それが彼女の死へ繋がったのか。

事件の裏側に、静かに蠢く影が、ちづるの心を鋭く刺していた。


第五章:記憶された声

取調室。

白い蛍光灯が低く唸り、室内には冷たい空気が漂っていた。

薄い鉄板のテーブルを挟み、蛭田無犯窓は無表情で座っていた。

スーツはきちんと着こなしているものの、その表情にはわずかに疲労の影が見えた。

向かいに座る一ノ瀬ちづるは、資料の束に指を滑らせながら、静かに口を開いた。

「……あなたは気づかなかったでしょうが、佳代さんの爪の間から、赤い絨毯の繊維が検出されました」

蛭田の表情が微かに動いた。

ちづるは淡々と続ける。

「そこで私は、あなたの事務所を訪ねました。

ですが、あなたのオフィスには赤い絨毯は敷かれていなかった。

あたしは直感しました。これは、“あなたの家”にある絨毯だと」

一瞬の間。

蛭田の喉がごくりと鳴る。

「だから、部下の田村誠をあなたの自宅周辺に張り込ませたんです。

あなたが、赤い絨毯を処分するか、あるいはクリーニングに出すと踏んで」

ちづるの声は、冷たく、確信に満ちていた。

「結果は、私の予想通りでした」

彼女は一枚の写真をテーブルに置いた。

写っているのは、クリーニング業者に預けられた赤い絨毯。

「あなたは絨毯を処分せず、クリーニングに出した。

当然、すぐに押収させてもらいました」

ちづるは指先で資料をめくる。

「検査の結果、絨毯には佳代さんの血液が付着していました。

DNA鑑定も終わっています。

完全に、佳代さんのものと一致しました」

蛭田はじっと、無言でちづるを見つめていた。

「……あなたが佳代さんを呼び出したのは、間違いでしたね」

ちづるは淡々と言った。

「佳代さんは、それに備えていた。

あなたを警戒して、相応の準備をしていたんですよ」

そう言うと、ちづるはポケットから小さなビニール袋を取り出した。

中には、銀色に光る指輪が入っていた。

ちづるは袋を開き、指輪をテーブルの上に置いた。

「この指輪。あなたはただの地味な装飾品だと思ったかもしれない。

だが違う。

これは、最新型のICボイスレコーダーです」

蛭田の顔がわずかに引き攣った。

「私も最初は、妙だと思っただけでした。

あれほど飾り物を嫌っていた佳代さんが、なぜ指輪を?

しかもあんな地味なものを?」

ちづるは指輪を指先で転がした。

小さなカチリという音が、静かに響く。

「あなたと佳代さんの会話――すべて、ここに録音されていました」

蛭田は、背もたれに深く体を沈めた。

苦々しい笑みが、彼の唇に浮かんだ。

「……随分前から、私を疑っていたようだな」

低く、掠れた声だった。

「どうして、そう思った?」

ちづるは一瞬、間を置き、静かに答えた。

「佳代さんの交友関係を調べました。

ご主人――岸本太郎。

乗馬トレーニングのコーチ――林雄星。

それ以外に、佳代さんと継続的に接触していた人物は――あなたしかいなかった」

ちづるの目は、まっすぐに蛭田を射抜いていた。

「あなたは、仕事で佳代さんをマークしていた。

そして、ある瞬間、立場を越え、衝動に走った」

蛭田はうつむき、乾いた声で笑った。

「……つい、かっとなってな。

選んだ女が悪かった。

売春婦で……インフルエンサーなんて、地獄の組み合わせだ」

ちづるは静かに立ち上がった。

「蛭田無犯窓。

あなたを、殺人容疑で逮捕します」

警察官が近づき、蛭田の両手に手錠が掛けられた。

カシャン、という冷たい音が、取調室の空気をさらに重くした。

蛭田は抵抗しなかった。

ただ、すべてを諦めたような目で、ちづるを見つめていた。


第六章:甘い余韻

翌朝。

東京の空は、どこまでも澄み渡っていた。

ビルの谷間を吹き抜ける秋風が、乾いた音を立てていく。

黒のパンツルックに身を包んだ一ノ瀬ちづるは、池袋駅近くのスターバックスにいた。

シンプルながら洗練されたジャケットスタイルは、すらりとした肢体をより引き立てている。

控えめな低めのヒールブーツが、床を軽やかに鳴らした。

カウンターで注文したキャラメル・マキアートを手に取り、

ちづるは窓際の席に腰を下ろす。

朝の店内は、通勤途中の客たちで程よく賑わっていた。

コーヒーとキャラメルの甘い香りが、店内いっぱいに漂っている。

カップを両手で包み込むように持ち、そっと一口すする。

ほんのりとした苦味と、キャラメルの優しい甘さ。

熱すぎないその温度が、疲れた体と心にじんわりと沁み渡っていった。

窓の外では、スーツ姿のビジネスマンたちが、忙しそうに行き交っている。

その姿をぼんやりと眺めながら、ちづるはふと思った。

(……釣り合わない夫婦には、悲しみがつきまとうものね)

岸本太郎と佳代。

金と若さ、欲望と寂しさ。

交わらぬまま結びついた二人の運命は、あまりにも悲しい結末を迎えた。

(あたしも、気をつけないと……)

ちづるは、自嘲するように小さく笑った。

結婚――その二文字は、まだ彼女にとって縁遠いものだったが、

心のどこかで、微かな孤独を感じることも確かだった。

「フフ、ハハハハ……」

不意に漏れた笑い声に、近くの客がちらりと視線を向ける。

ちづるは肩をすくめ、小さく首を振ってみせた。

キャラメル・マキアートの甘さが、

ほんの一瞬、胸の中の苦味を優しく包み込んだ。

朝の光が、窓から柔らかく差し込む。

ちづるは静かに立ち上がり、カップを手に、

新しい一日へと歩き出した。

(完)

最後まで本書を読んでくださり、心より感謝申し上げます。

「刑事・一ノ瀬ちづる」は、冷静沈着な一方で、どこか脆さを内に秘めた存在です。

事件を追う中で、彼女は他人の闇だけでなく、自らの心の奥に潜む影とも向き合わなければなりませんでした。

今回の事件は、彼女にとって、外の世界だけでなく、

自分自身を見つめ直すきっかけにもなったはずです。

釣り合わぬもの同士が織りなす悲しみ。

それは決して他人事ではなく、私たち一人ひとりの中にも潜んでいるのかもしれません。

またいつか、一ノ瀬ちづるが新たな事件に立ち向かう姿を、

どこかでお届けできればと願っています。

改めて、最後までお付き合いくださった皆さまに、心からの感謝を込めて。

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