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刑事一ノ瀬ちづるの事件簿 雑草は語る

人は、どこまでを「罪」と呼ぶのだろうか。

この物語は、一人の娘の死から始まります。いじめという言葉では済まされない、静かな殺意の連鎖。社会の網目からこぼれ落ちた悲しみが、やがて復讐という形で立ち上がる。

私はこの作品を書きながら、何度も立ち止まりました。「もし自分だったら」と問いかけずにはいられなかったのです。

主人公・一ノ瀬ちづるは、冷静沈着な刑事でありながら、人の業や哀しみに強く共鳴する人物です。彼女の視線を通じて、加害者と被害者の境界、正義と報いの曖昧な輪郭を描くことができればと思いました。

『雑草は語る』というタイトルには、「誰も気づかない場所にこそ、真実が眠っている」という意味を込めています。小さな違和感こそが、大きな真実へとつながる鍵となる——刑事小説の醍醐味を、ぜひ味わっていただければ幸いです。

【登場人物】

一ノ瀬ちづる:女性刑事。冷静沈着、推理力に優れたベテラン刑事。過去の捜査でトラウマを抱えているが、正義感は強い。スタバのラテを飲んでいる。

長汐早苗ながしお さなえ:被害者。ラウンジ嬢。樋口といっしょにアパートで殺される。

樋口貴子ひぐち たかこ:被害者。ラウンジ嬢。

蛭海伸一ひるみ しんいち:容疑者。元公務員、現在無職。胆嚢がんを患っており、余命宣告を受けていた。娘をいじめにより失っている。

山岳よしさんがく よしこ:蛭海の元妻


第一章:復讐者の影

 その日、空は灰色だった。春の兆しすら霞むような、湿った風が住宅街の隙間を這っていた。

 蛭海伸一は、木製のショーケースに陳列された登山用のカラビナを、ぼんやりと拭いていた。手元は微かに震えていた。すでに彼の中には、何ひとつ力が残っていなかった。

 店の名は「ヒルミ・アウトドア」。十年以上この地で、細々と山用品を扱っていたが、売り上げは下り坂を辿るばかりだった。だが、彼にとってこの店は、娘との最後の会話を交わした場所でもあった。

 その娘——蛭海結衣は、三年前、高校でのいじめを苦にして自ら命を絶った。

 結衣の部屋はそのまま残していた。誰にも触れさせなかった。蛭海は時折そこに入り、ベッドに腰を下ろして、もう聞こえないはずの声を思い出していた。

 ぬいぐるみのクマの隣に置かれた制服のポケットに手を伸ばす。そこには、彼女が死ぬ前に書いたであろうメモが、折りたたまれて残されていた。

 〈早苗と貴子が、また笑ってた。先生は見て見ぬふり〉

 震える指先でその紙を撫でながら、蛭海は顔を伏せた。

 長汐早苗と樋口貴子。その名は、町内会のイベントで耳にした。

 数日前、蛭海はしぶしぶ顔を出した町内会の花見の席で、その名を聞いたのだった。会場は地元のスナック「ラピス」の常連客によって賑わっていた。

 「そういえば、この間、あのラウンジの嬢ふたりが顔出してさ。名前なんだったかな、早苗ちゃんと、えーと、貴子ちゃんか」

 そう言ったのは、顔なじみの工務店の親父だった。

 蛭海は、あのメモの名前がまさか実在の人物と重なるとは思っていなかった。だが、ふたりは確かに、結衣と同じ高校に在籍していた。

 生きていた。笑っていた。酒を飲み、男に媚び、何の痛みも知らぬように。

 彼女たちはいつも一緒に行動していた。花見の席でも、ラウンジでも、町内の誰もが「いつもふたりセット」と口をそろえて言った。それは蛭海にとって、復讐の対象を一度に仕留められる好都合な条件だった。

 計画の輪郭が、ゆっくりと心の中に浮かび上がっていった。

 その夜、蛭海は酒を飲みながら、ある番号に電話をかけた。

 「……よし子、久しぶりだ」

 電話の向こうに少しだけ沈黙があった。山岳よし子。元妻。結衣の母親。事故の後、車椅子生活となったが、施設を出た今は、郊外の古いアパートで一人暮らしをしている。

 「あなた、何の用?」

 「結衣のことだ」

 もう一度、重たい沈黙が降りた。

 翌日、ふたりはよし子の部屋で顔を合わせた。

 「やっぱり、私も……許せないの」

 よし子は、口を震わせながら言った。

 車椅子に座るその足は、膝から下に力が入らず、自由には動かせない。だが、その目は、昔のように強かった。

 蛭海は、計画の一端を話した。ナイフを、スタンガンを、部屋の見取り図を。

 「できるかもしれない。あいつらを、この手で……」

 「私は、足は不自由。でも、手ならまだ動く。……やるなら、私も行く」

 かすれた声で、山岳よし子は言った。

 四月一日。月曜日の深夜。雨上がりの空気に、桜の匂いがまじっていた。

 ふたりは、ラウンジの常連である町内の男から聞き出した住所を頼りに、古びたアパートの一室を訪ねた。

 黒い帽子、サングラス、マスク。そして登山用品店に残されていた防寒用のダウンジャケット。

 よし子の車椅子は、折りたたみ式でレンタカーの後部に積み込まれていた。

 足音を消すため、蛭海は靴底に登山用のゴムパッドを貼りつけていた。

 部屋の扉は、意外にも簡単に開いた。

 情報通り、長汐と樋口は揃っていた。

 早苗がベッドに寝転びスマートフォンをいじり、貴子は缶チューハイを飲みながら隣に腰かけていた。

 蛭海は一歩踏み出し、無言でスタンガンを起動した。

 閃光が室内を走り、空気が焼けるような音がした。

 悲鳴は、息になる前に喉の奥で凍りついた。

 蛭海はためらわず、ナイフを一人目の胸元に深々と突き立てた。

 布団が濡れ、香水の残り香に血の匂いが混ざった。

 残る一人も、混乱する間もなく制圧された。

 「結衣の仇だ……」

 よし子の震える手が、もう一つの命を止めた。

 階段を降りる途中、蛭海は一瞬足を止めた。

 口の中に広がる鉄の味と、腹部の鈍い痛み。

 だが、そんなものに構っている暇はなかった。

 足元の雑草が、雨に濡れて静かに揺れていた。

 月は薄く曇っていた。

 ふたりは何も言わず、アパートをあとにした。

 車に戻ったあとも、蛭海はハンドルに手を置いたまま、しばらく動かなかった。

 静寂が、全身にのしかかっていた。


第二章:痕跡

 腐臭は、風に乗ってゆっくりと建物を這っていた。

 築四十年を超える木造アパート。その二階の一室から異臭が漂い始めたのは、発見の三日ほど前だったと、近所の住人は証言していた。

 「ちょっと我慢ならない臭いでねぇ。最初はネズミでも死んだのかと思ったけど、だんだんこう……人の匂いっていうの? わたし、昔、介護の仕事してたから、わかるのよ」

 そう語ったのは、同じアパートの一階に住む老婦人だった。

 管理人が合鍵を使って部屋を開けたとき、ドアの向こうには、地獄が広がっていた。

 長汐早苗と樋口貴子。ふたりの若い女性が、布団の上で動かぬ姿となって横たわっていた。

 その胸には、深く突き刺さったままのサバイバルナイフ。血はすでに乾き、鉄のような臭いが室内に染みついていた。

 やがて、赤色灯を点けたパトカーが到着し、現場は封鎖された。

 白い防護服に身を包んだ鑑識員たちが、黙々と作業を始める。

 その中に、ラテのカップを片手に現れたひとりの女刑事がいた。

 ベージュのスーツに黒髪のショートカット。鋭い眼差しで現場を一瞥する。

 警視庁捜査一課・一ノ瀬ちづる。冷静沈着、だが内に強い正義を秘めたベテラン刑事である。

 「被害者はふたりとも二十代半ば。ラウンジ勤務。死後三日ってところかしら」

 現場担当の若手刑事が報告するのに頷きながら、ちづるは遺体に目を落とした。

 「この刺し方……明らかに一撃で心臓を狙ってる。怨恨の線が強いわね」

 捜査本部が設けられ、ふたりの交友関係が洗い出された。

 近隣住民への聞き込みで、長汐と樋口がほぼ毎日のように一緒に行動していたことが分かる。

 「とにかくふたり、いつも一緒だったわねぇ。どっちかが来ると、もうひとりもすぐ来てたのよ」

 住人のそんな証言に、ちづるは小さく相槌を打った。

 また、部屋への男の出入りも多く、捜査班は交際関係や金銭トラブルの可能性にも目を向けた。

 だが、現時点で決定的な動機や容疑者は浮かび上がらなかった。

 そうした中、資料係がある古い記事を発掘した。

 「ちょっと見てください、これ……」

 差し出されたのは、高校の卒業アルバムと、数年前の新聞記事のコピーだった。

 それは、いじめによる自殺事件を扱ったもので、被害者は当時の女子生徒。

 加害の中心にいたとされるのが、長汐早苗と樋口貴子だった。

 「長汐がリーダー格で、貴子は取り巻き。ふたりで中心になって、地味な子を徹底的に追い込んでいたらしいです」

 資料係の刑事の言葉に、ちづるは目を細めた。

 「つまり、これは——あのときの“報い”なのかもしれないわね……」

 次に、鑑識が注目したのは凶器のナイフだった。

 特殊な形状のそのナイフは、量販店では扱われておらず、柄に彫られたロゴから「小島商会」という登山用品専門店のものと判明する。

 捜査員が小島商会を訪ねたところ、店主の小島弘之がレジの販売記録を確認した。

 記録によれば、そのナイフは四月二日に売れていた。

 店内の監視カメラ映像には、黒帽子・サングラス・マスクに黒のダウンジャケットを着た人物が、店内で商品を吟味する様子が映っていた。

 「……この人かもしれませんね。でも、正直覚えてないです。うちは現金払いだし、防犯のために記録だけは残してるんですよ」

 小島は肩をすくめて言った。

 「購入が四月二日なら、犯行もそれ以降……そう考えるのが自然ね」

 捜査班はこの日付を基準に、容疑者のアリバイ確認に着手していく。

 しかし——

 現場に戻ったちづるは、何か引っかかるような表情をしていた。

 「犯人は、なんでナイフを置いていったのかしら。わざわざ持ち帰ることだってできたのに」

 それに、という言葉を飲み込む。

 この刺し方には、明らかに“怒り”がこもっていた。ただの衝動殺人とは違う、深い憎しみのにおいがする。

 ちづるは、改めて部屋の中を見渡した。

 布団の上にうつぶせに倒れた若い女性たち。その顔は、すでに判別が難しいほどに変わり果てていた。

 しかし、その過去にどれだけの罪があったのか——今となっては、誰にも裁けない。

 ナイフの詳細は、科学捜査班によって慎重に調査が進められていた。

 しかし、現時点で明かされていることは少なく、ちづるもあえて口に出さなかった。

 ラテの香りが、ほんのりと鼻をくすぐった。

 彼女は静かに一口すすりながら、現場を見渡した。

 「……焦ることはないわ。必ずどこかに、綻びがあるはずよ」


第三章:雑草の証言

 春の午後、風はやわらかく、しかしどこかひんやりとしていた。一ノ瀬ちづるは再び、犯行現場となった東小金井の古びたアパートに足を運んでいた。ラテの紙カップを片手に、彼女は静かに階段を見上げる。

 前回訪れたときには気づかなかった。だが今、その階段の下にあるわずかな空き地に、妙な違和感があった。

 雑草が、一部分だけ、不自然に枯れている。

 周囲は春の陽気を受けて青々と伸びているのに、そこだけがまるで焦げたような黒ずみを帯び、異様にしおれていた。

 「……これは」

 ちづるはしゃがみ込み、目を細めて観察した。階段の中腹あたりから、コンクリートの段に沿って、乾いた水滴のような痕跡が数滴、点々と残っていた。

 まるで、何か液体が滴り落ちたように。しかも、それは水ではない。

 ちづるはすぐに警察無線に連絡し、鑑識班を呼んだ。現場にはすぐに科学捜査係が到着し、彼女の指示に従って階段下の草地と、階段の痕跡を採取していった。

 「これ、腐食の痕にも似てますね。」

 「植物が枯れた原因、分析に回します。」

 捜査員たちは手際よくサンプルを袋詰めし、ちづるはその様子を見守りながらメモを取った。

 続いて、ちづるはアパートの住人にも話を聞いて回った。

 「草が枯れてる? そういえば……」

 そう答えたのは、一階に住む中年の男性だった。

 「三月三十一日にね、俺が草刈りしたんですよ。階段の下とか、そこら辺も全部。だけどその時には、そんな枯れてる場所なんてなかったですよ。全部きれいに緑だった。」

 その証言に、ちづるは目を細めた。三月三十一日には、確かに雑草はまだ青かった。それが今、部分的に枯れている。つまり——

 「四月一日以降に、何かがかけられた可能性が高いわね……」

 つぶやいたその声は、誰にも聞こえないほど小さかった。

 その夜、ちづるは都内の大病院を訪れた。蛭海伸一が通院しているという情報を得ていたのだ。

 病院の資料によれば、蛭海は胆嚢の末期がんを患っており、医師の診断でも余命は長くなかった。定期的に外来を受け、胆汁の排出処置を受けていたという。

 「蛭海さんは胆嚢の働きがほとんどなくなっていて、胆汁が逆流して体内に炎症を起こす恐れがあるため、外部に排出する処置をしています。」

 担当の看護師はそう説明した。彼の腹部には小さな排出口が設けられ、胆汁がチューブを通じて外に出されている。その胆汁は、小型の容器に貯められ、満杯になると自分で捨てているのだという。

 「処置の手順はご本人が把握されていて、必要なときは自宅でも自分で容器を取り替えておられました。」

 「……その胆汁、捨てるときは?」

 「普通はトイレや流しに。でも、病気が進むとにおいが強くなるので、ビニール袋に入れて密封する方もいます。」

 ちづるは頷いた。だが、その表情には複雑な影が差していた。

 あの雑草の枯れ方。階段の水滴のような痕。——もしかして。

 それ以上は、まだ考えないようにした。

 冷めかけたラテを口に含みながら、ちづるはエレベーターホールに立った。

 そこから見える夕暮れの空は、まるで何かを沈黙で語っているようだった。


第四章:取り調べ

 科学捜査の結果は明快だった。階段に残されていた乾いた痕跡の成分は、胆汁と一致。さらに、その胆汁には胆嚢がんの進行にともなう異常な物質変化が見られた。

 「あたしの予想、当たってたわね」

 一ノ瀬ちづるは独りごちた。

 警視庁内の取調室。冷たい蛍光灯の下、ちづるは黒いスーツの膝に手を置いて座っていた。向かいには山岳よし子。車椅子の上、ブランケットで下半身を覆い、目を伏せている。

 「よし子さん。あなたにちょっと見ていただきたい映像があります」

 ちづるがノートパソコンを開き、再生ボタンを押す。

 「これ、小島商会の監視カメラ映像。黒帽子にサングラス、マスク、黒の上着。全身黒尽くめ。あなたですよね?」

 よし子は何も言わない。ただ微動だにせず、画面を見つめていた。

 「歩き方がぎこちないの。おそらく、慣れない靴を履いていたんでしょうね。実際、この人物、歩くたびに体のバランスを崩しそうになってる」

 ちづるは目を細めた。

 「足を、見せていただけますか?」

 よし子の視線が揺れた。だが無言のまま、ブランケットを握りしめた指先に力が入る。

 「下半身不随の方に、靴擦れの跡があるのは不自然ですね。足を動かして歩いた痕がある。……あなた、歩けるんでしょう?」

 よし子の肩が、わずかに震えた。

 ちづるは立ち上がり、備え付けの証拠保管箱から一振りのナイフを取り出した。銀色の刃、重厚な柄。それをテーブルの上に置くと、彼女はゆっくりと言葉を続けた。

 「これが、事件で使われたナイフです。……でもね、あのときあなたが購入したナイフではないんです」

 ちづるは柄の部分を外してみせた。

 「見てください。ひとつひとつにシリアル番号が彫られていて、それを管理していた小島商会の在庫記録と一致しました。どのナイフがいつ売られたか、販売履歴もちゃんと残っていました。犯行に使われたナイフのシリアル番号と、あなたが購入したナイフのそれは違っていた。調べた結果、こちらは一年前に販売されたものでした」

 「残念ながら、そのときの映像はもう残っていなかったけれど……記録は、残っていました」

 よし子の唇がかすかに動く。しかし言葉にはならなかった。

 次の取調室。蛭海伸一が机に手をつき、深く項垂れて座っている。

 「蛭海さん。あなたは、四月一日に長汐早苗さんと樋口貴子さんを殺害しました」

 ちづるの声は淡々としていた。だがその言葉の重みは、部屋全体を静かに圧迫していた。

 「階段を降りるときに、あなたが腹部に装着していた容器から胆汁が漏れた。そして、庭に降りたとき、あなたは容器を開けて中の胆汁を雑草の上に捨てた。鑑識の分析で、階段の痕跡と雑草の枯死は、胆汁によるものであることが証明されました。さらに、アパートの住人が三月三十一日に草むしりをした際には、草は青々としていたと証言しています。つまり、雑草が枯れたのは四月一日以降。あなたが現場にいた痕跡としては、十分すぎるわ」

 蛭海は黙ったまま、テーブルの上に視線を落としている。

 「病院の記録には、あなたが末期の胆嚢がんを患い、胆汁を体外に排出する処置を受けていたことが明記されています。……あなたのDNAも、階段に残された胆汁と一致するでしょう」

 蛭海の両肩が、静かに震えた。

 「あたしはね、ナイフをどうして置いていったのかがわからなかった。犯行を一日遅らせたように見せかけることで、アリバイを成立させたかったのでしょうね。ナイフを残しておけば、購入記録と照合される。まさか別のナイフを使ったとは、誰もすぐには気づかないから」

 ちづるは、蛭海の目を真っ直ぐに見つめた。

 「あなたたちが何を思い、何を選んだのか。それは裁判で争われるでしょう」

 蛭海はついに顔を上げた。その目には涙がにじんでいた。

 「娘が……殺されたんだ。生きながら、殺された……あの子たちに、毎日、毎日……」

 声が震え、言葉が詰まった。

 「だからって、人を殺していい理由にはならないわ」

 ちづるの声は冷たく、しかし悲しみに濡れていた。

 取調室には、長い沈黙が流れた。ラテの紙カップは、すでに空になっていた。

 夕暮れの光が、取調室の小さな窓から差し込み、蛭海の肩を静かに照らしていた。


第五章:キャラメルの余韻

 「蛭海さん、サバイバル・ナイフを一年ほど前に購入されていますが、その頃から殺そうと考えていたんですか?」

 ちづるの問いに、蛭海伸一は静かに頷いた。だがすぐに首を振る。

 「……考えたこともありました。でも、すぐにできることじゃなかった。怒りや憎しみだけじゃ、あの子たちを……いや、自分を動かすことなんて……」

 彼の目はどこか遠くを見ていた。まるでその記憶が、現実よりも鮮明であるかのように。

 「そんなある日、町内会の連中とクラブへ行ったんです。ちょっとした遊び半分の付き合いでした」

 言葉を継いだとき、蛭海の声がかすかに震えた。

 「そこに、長汐と樋口がいたんです。笑ってた。男に絡んで、酒を飲んで、大声で笑って……。あれが、あの娘たちが、人を追い詰めた人間の顔かと、思えなくて」

 娘・結衣の顔が、蛭海の脳裏に浮かんでいたのだろう。

 「娘は、自殺しました。毎日、学校から帰るたびに表情が消えていって、最後は何も言わずに……。いじめの主犯が、長汐早苗と樋口貴子。そう警察に言っても、証拠がないって、何も変わらなかった」

 蛭海は拳を握りしめた。

 「医者に余命を宣告されたとき、もう時間がないと思った。……だから、復讐を決意したんです」

 「あのとき、山岳よし子さんも共犯だったんですね?」

 ちづるの静かな問いかけに、蛭海はわずかにうなずいた。

 「娘のことが、彼女にもずっと残ってた。自分を責めてた。でも、同時に俺をも責めた。『守ってやれなかった』って、そう言われた夜もあった」

 蛭海の瞳が揺れた。

 「それから夫婦の関係も壊れて……別れました。彼女が事故で下半身を動かせなくなってからも、連絡は取ってなかった。でもあるとき、久しぶりに会ったんです」

 彼は言葉を選びながら、静かに続けた。

 「よし子は、何も言わなかった。ただ、一緒に涙を流してくれた。あのとき初めて思ったんです。本当に辛かったのは、あの人だったのかもしれないって。俺の無力さが、彼女をそうさせたのかもしれない」

 ちづるは黙って頷いた。

 「よし子は、力を貸してくれました。最初は反対していた。でも最後は、『後悔していない』と言ってくれました」

 取調室の静寂が、すべてを包み込んだ。

***

 翌日、スタバでちづる。

 キャラメル・マキアートを飲む。

 「……こんな後味でも、キャラメルの甘さは変わらないのね」

 (完)

ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。

本作は、当初「ひとつの復讐劇」として構想していましたが、登場人物たちを書き進めるうちに、彼らの中にある“赦し”や“後悔”といった感情が、思いがけず物語を導いてくれました。

蛭海伸一という男が、なぜ罪を選んだのか。山岳よし子が、なぜ共に歩んだのか。そして、それを冷静に追う一ノ瀬ちづるが、なぜ最後に「キャラメル・マキアート」を口にしたのか。

それぞれの答えは、読む方の心の中にあるのかもしれません。

社会の隙間にある“語られなかった声”に、耳を傾ける物語を書いていけたらと思っています。

またいつか、一ノ瀬ちづるが静かにラテを手に、次の事件に向き合う日が訪れることを願って。

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