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刑事一ノ瀬ちづる 毒入り蓋付きマグカップ事件

 日常の中に潜む、静かで致命的な悪意。それがカップ一杯のラテに溶け込んでいたら、誰が気づくだろうか。本作『毒入りマイカップ事件』は、表面上は穏やかなオフィスの裏に渦巻く嫉妬と支配、そして崩壊を描く倒叙推理小説である。

 主人公は冷静沈着な女性刑事・一ノ瀬ちづる。彼女が追うのは、スタバマニアの会社員が愛用のマイカップでラテを飲み死亡するという不可解な事件だ。犯人が誰かは読者に最初から明かされている。だが、証拠は曖昧で動機は謎に包まれており、一ノ瀬がそれを一つひとつ明らかにしていく過程が物語の核心である。

 この作品のテーマは「毒」。化学物質としての毒だけでなく、人間関係に潜む言葉や態度、沈黙までもが毒となりうる。読者には、この毒の正体がどこから生まれ、どこへ向かうのかをぜひ最後まで見届けていただきたい。

【登場人物】

一ノ瀬ちづる:理知的で冷静な女性刑事。矛盾と違和感の積み重ねから犯人を追い詰めていく。

須田久子すだ ひさこ:被害者。スタバマニアの会社員。マイカップ持参で毎日2杯のラテを買う。口が軽く、他人の秘密を弄ぶ性格。

小川喜子おがわ よしこ:犯人。優秀で落ち着いた印象のOL。だが裏では副業で同人無修正AVに出演していた過去を持ち、それを久子に知られ脅迫される。

久子の彼氏:事件の鍵を握る存在。同人AVサイトより動画を購入し、久子にその存在を知らせた張本人。

スタバ店員:久子の常連としての行動をよく知っており、カップの使用状況を証言する。


第一章:毒を塗る女

 白い陶器のマグカップが、音も立てずに棚の上へと戻された。その手は細く、冷たく、そして慎重だった。まるで舞台の小道具の位置を整える俳優のように、小川喜子は微動だにせず、わずかに指先でマグの取っ手を右に傾けた。

 給湯室は静まり返っていた。昼休み、ほとんどの社員がビルを出てランチに向かう時間帯。カチカチと時計の秒針の音だけが、空間を切り裂くように響く。

 この会社では、昼休みの時間帯に一時的な“空白”ができることがあった。近所のカフェや食堂に向かう者、お弁当を買いにビルを出る者——皆がそれぞれの昼食ルートに従って動くため、12時から15分あたりのわずかな時間、オフィスから人の気配が完全に消える瞬間があった。

 その時間を、喜子は何週間も前から観察していた。そして確信していた。

 ——このタイミングしかない。

 その朝、喜子は鏡の前でじっと自分の顔を見つめていた。唇の端が、わずかに震えていた。ファンデーションの下に隠した無表情は、何かを隠していた。鏡の中の自分に向かって、声を出さずに言う。「今日で、終わりにする」

 服を整え、ハンドバッグを手に取り、いつもより5分早く玄関を出た。外は晴れていたが、足取りは重い。街の風景はいつも通りなのに、世界だけが違って見えた。

 電車に揺られ、駅から会社へ向かう道。足音がコンクリートに吸い込まれていくようだった。建物のガラス扉が開く瞬間、心臓が一度跳ねる。中に入ると、同僚たちの声が耳に入ってきた。

 デスクに着くまでの数十秒、久子の姿を探す自分がいた。彼女はいつもの場所、窓際の席にいた。

「おはようございます」

「……おはよ」

 久子は、意味ありげな笑みを浮かべた。喜子はそれを無視して、席に腰を下ろした。椅子のクッションが沈む感触が、なぜか今日だけ異様に重かった。

 9時になっても、心は安定しなかった。キーボードを叩く指先がどこか浮ついている。メールを読み返しても、文字が目に入ってこない。久子が時折こちらを見ては、にやりと笑うのが視界の端に入る。

 10時を過ぎると、デスク周りの空気が息苦しくなってきた。水を飲みに給湯室へ立つふりをしたが、喉は渇いていなかった。鏡に映った自分の顔色を見て、「大丈夫、大丈夫」と何度も心の中で唱える。

 11時にはもう、手のひらに汗がにじんでいた。エクセルのマクロが走る音が遠く聞こえる。周囲の会話が途切れ途切れにしか聞こえない。誰も気づいていない、と思いたかった。

 そして12時。

 昼休みを告げるチャイムが鳴ると、社員たちは一斉に立ち上がり、財布とスマホを手にオフィスを出て行った。お弁当を買いに行く者、定食屋に向かう者。

 静まり返るオフィス。残ったのは、喜子ひとり。

 喜子は珍しく弁当を広げた。箸を手に取ったが、口には何も入らなかった。社内に残ったのは、彼女ただ一人。食事の味は覚えていない。

 ポケットには、白い粉が入った小さなチャック付き袋。

 給湯室の扉を開けたとき、喜子の耳には一切の音が届いていなかった。

 久子のマイカップは、いつもの場所に置かれていた。派手なキティちゃんのシールが貼られたステンレスカップ。その存在が、今や憎しみの象徴だった。

 喜子はポケットから袋を取り出し、蓋をそっと開け、その内側にごく薄く粉を塗りつけた。白い跡が残らないよう、乾いた布で軽く撫でて自然な状態に整える。手袋を外し、ティッシュに包んでハンドバッグへ。

 彼女の表情には、悔恨も恐怖もなかった。ただ静かに、全ての行動に意味を込めていた。

 トイレの個室で毒を塗布した手袋をティッシュに包み、女子トイレの奥のゴミ箱に捨てた。普段から清掃の目が行き届かない場所を選んだのは、長年の観察の賜物だった。

 喜子は再び席に戻り、何事もなかったようにパソコンの画面を開いた。目の前にあるエクセルシートの数字はぼやけて見えたが、手は自然に動いた。指先の震えは、なんとか抑え込んでいた。

 午後の業務が終わる頃、久子が自分の机のカップをバッグにしまうのを、喜子は遠くから見ていた。

 笑顔すら見せていた。


第二章:静かなる死

 その日、須田久子の一日はいつもと何ひとつ変わりなかった。朝は定刻に出社し、出勤途中にスタバでマイカップにホットラテを満たしていた。午後の会議では軽口を飛ばし、誰かの噂話に笑いを交えた。どこにでもある、よくある一日。

 17時30分。定時をきっちり守るように席を立ち、「おつかれさま」と軽く手を振って、久子は会社を後にした。バッグにはいつも通り、昼に洗って乾かしておいたマイカップが入っていた。

 彼女が向かったのは、自宅近くのスターバックスだった。週に5日は通う常連。中でもピンクゴールドのステンレス製マイカップは、店員たちの間でも覚えられていた。

「あ、須田さん。今日もラテでいいですか?」

「うん、アーモンドミルクでね」

 カウンター越しに会話を交わす。少し時間があるときには、「最近また値上げしたよね」とか「桜の新作、もう出るんだって」などと世間話も交える間柄だった。

 店内は混雑しておらず、久子は笑顔でラテを受け取ると、マイカップの蓋をしっかり閉めて店を出た。

 帰宅後、彼女はリビングのソファに腰を下ろし、テレビをつけた。スマホにはSNSの通知がいくつも溜まっていたが、今日は開かなかった。膝に置いたマイカップをそっと開け、ラテの香りを確かめる。

 ひとくち、ふたくち。

 その瞬間だった。

 喉の奥に、何か鋭い刃が突き刺さるような感覚。熱ではない。むしろ異様な冷たさ。彼女は思わずソファから崩れ落ち、カップが手から滑り落ちた。

 身体が痙攣する。目は見開かれ、手足が突っ張る。苦しみながらも、声にはならなかった。喉を押さえ、床を掴みながら、久子は無言のまま、ゆっくりと力を失っていった。

 すべてが終わるまで、数分もかからなかった。

 次の日、出社時間になっても、久子は会社に姿を見せなかった。最初は「遅れているのだろう」と誰も気に留めなかったが、昼を過ぎても連絡がない。

 上司が電話をかけるも、着信音が鳴るばかりで応答はない。

「めずらしいな……連絡もないなんて」

 不安が社内に静かに広がっていった。

 一方で、喜子は何事もなかったように机に向かっていた。パソコンに視線を落とし、口元に微かな笑みを浮かべながら、業務に集中しているふりをしていた。

 久子の遺体を発見したのは久子の彼氏だった。

 夜、彼は久子の住むマンションの一室に向かった。インターホンを押しても応答はない。ドアノブを回すと——開いた。

 不用心にも鍵はかかっていなかった。

 部屋の中は、生活の気配がそのまま残っていた。ソファの前、カーペットの上。久子はうつ伏せに倒れていた。

 彼は一瞬声を失い、やがて我に返って救急車と警察に連絡した。しかし、駆けつけた救急隊員の判断は非情だった。

「死後硬直が始まっています」

 ニュースは、翌日の朝に小さな社会面で取り上げられた。

『スタバ常連の会社員、帰宅直後に急死。青酸系毒物の可能性も』

 それを見た社内は、騒然とした。まさか久子が、突然死ぬなんて——そんなこと、誰が想像できただろう。

 会議室に集められた社員たちは皆、口をつぐみ、沈黙の空気に包まれていた。その中で、ひときわ目立たず立っていた喜子が、突然、声を震わせた。

「うそ……なんで……どうして、久子さんが……」

 涙をためた目元を手で覆い、肩を震わせる。

 その姿は、まるでドラマの中の女優のようだった。

 周囲の同僚たちは、その涙に心を打たれたように言葉を失い、ただ静かにその演技を見守っていた。

 ただひとり——喜子自身を除いて、誰もそれが演技だとは気づかなかった。


第三章:観察者の視線

 そこは、静かな高級住宅街だった。白を基調にした低層マンションが並び、街路樹の緑が整然と続いている。どこか人工的な落ち着きと、見せかけの安心感が漂うその場所に、須田久子は暮らしていた。マンションの名は〈パレ・ド・ルミエール〉、彼女の部屋は201号室。

 朝の陽が傾きかけたころ、一ノ瀬ちづるはマンション前に車を停め、片手にラテのカップを持って現れた。艶やかな黒髪のショートカットが顔立ちを引き立て、アイボリーのトレンチコートに身を包んだ彼女の姿は、いかにも“できる女”という印象を漂わせていた。

 「またスタバですか、警部。髪、ちょっと乱れてますよ」

 鑑識の若い男が、苦笑まじりに声をかけてきた。

 ちづるはラテをひと口すすると、軽くため息を吐いた。

 「隣の外国人が夜うるさくてね。眠れなかったのよ」

 カップを片手に、マンションのエントランスに向かう。玄関ドアの鍵はすでに開けられており、部屋の中では鑑識班が作業を進めていた。

 現場は乱れていない。久子の倒れていた場所には白いチョークの輪郭が残され、床にはラテの染みたカーペットがまだ生々しく残っていた。

 「死因は青酸カリです。カップの中に反応が出ました。飲み物に混入されたか、あるいはカップに直接仕掛けられていたかと」

 鑑識の報告に、ちづるは小さくうなずいた。

 「……つまり、毒は“カップを通じて口元まで運ばれた”可能性があるわけね」

 手にしたマイカップを見つめながら、彼女は考えを巡らせる。

 マンションの管理人から久子の生活ぶりについて話を聞いたが、特に変わった様子はなかったという。顔見知り程度で、印象は「明るくて人懐っこい人」だった。

 次に向かったのは、久子が通っていた近所のスターバックス。ちづるがカウンターでラテを頼みながら話を向けると、店員はすぐに久子のことを思い出した。

 「ああ、須田さん。毎朝と夕方、ほぼ毎日来られてましたね。ピンクのマイカップで」

 だが、店員の記憶にも異常な点はなかった。ラテの受け渡しも通常通りだったという。

 次に、ちづるは会社を訪れた。フロアの空気は沈んでいたが、どこか日常を装っているようでもあった。

 ちづるは久子の同僚たちから、彼女のルーチンや人間関係について話を聞いていった。特に注目したのは、マイカップの取り扱い。

 「いつも朝スタバに寄って、昼に給湯室でカップを洗ってましたよ。乾かして、そのままロッカーに入れて……あ、違ったかな、その日は机の上に出しっぱなしだったかも」

 誰かが言いかけた言葉に、ちづるは反応した。

 「その日は、特別だったのかもしれませんね」

 給湯室の配置を確認し、昼休み中の社員の行動記録を照らし合わせていく。そしてひとりの名前が浮かび上がった。

 小川喜子。

 聞き取りの中で、彼女はこう答えた。

 「カップは私が昼に洗ってあげたんです。彼女、忙しそうだったから」

 「……あたしじゃありません!」

 突然、喜子が声を荒げた。

 「誰も、あなたが犯人だなんて言ってませんよ。ただ、刑事って職業はね、何でも聞いてしまう悪い癖があるんです」

 ちづるは笑みを浮かべて答えたが、その眼差しは一瞬たりとも喜子を離していなかった。

 トイレの個室に向かい、ちづるは手袋を発見した。女子トイレの奥、清掃の目が届きにくいゴミ箱の底に、ティッシュに包まれた使い捨て手袋。それをそっとポケットに忍ばせ、誰にも気づかれぬよう鑑識に渡す。

 ***

 翌日、社内の休憩室。ちづるは喜子に声をかけた。

 「須田さんが亡くなった日、あなたはお弁当を持参されていたそうですね」

 「急にいわれてもわかりませんよ。えーと…そうでした。」

 「ええ、たまにはいいでしょう。いけませんか?」

 「いえ、別に。ただ……このオフィスの12時から12時10分までは、あなた一人だったと聞きました」

 「そんなことは、よくありますよ」

 ちづるの視線が、じわじわと喜子の表情を追い詰めていく。

 そして喜子は、それを感じ取ったのか、ほんの一瞬だけ、息を呑んだようにまばたきをした。

 その小さな動揺を、ちづるは見逃さなかった。


第四章:崩れる仮面

 空はどんよりと曇っていた。午後の灰色の光が、オフィスビルのガラスに鈍く反射している。社内ではいつもと変わらぬ業務が進行していたが、一ノ瀬ちづるの視線はパソコンのモニター越しの別の領域を追っていた。

 その手には、契約会社から提供された閲覧履歴の一覧があった。対象は小川喜子。必要な手続きはすでに完了しており、捜査令状の名のもとに得られた正当な証拠だった。

 その中に、異質なURLがひとつだけ混じっていた。

 ——孤児魔商会。

 ちづるは指でその文字をなぞる。一般的な検索エンジンでは引っかからない裏サイト。明らかに表に出ることのない取引が行われている闇の領域。

 さらに調べを進めると、喜子のスマートフォンにTorブラウザのインストール履歴が見つかった。通常のブラウザではアクセスできない匿名ネットワーク。その存在自体が、裏取引を前提とした行動の裏付けだった。

 履歴には、青酸カリというキーワードを含んだページへの複数回の訪問記録。カート投入履歴。配送先はもちろん匿名化されていたが、決済タイミングとスマホの位置情報には微妙な一致があった。

「なるほど……そういうことね」

 ちづるは静かに、独りごちた 。

 殺意は衝動ではなかった。計画され、段取りを整えられ、時を見計らって実行されたものだった。

 その緻密な準備の痕跡が、皮肉にも犯人の周囲に残されていた。

 喜子の普段の振る舞いは冷静そのものだった。話し方は穏やかで、同僚への気配りも欠かさず、業務にも忠実。だが、ちづるの目には、その静けさの裏に“何か”が貼り付いているように見えた。

 「休憩時間の行動、もう一度確認できますか?」

 ちづるは人事担当者にそう尋ね、社内の入退室ログ、休憩記録、PCの操作履歴を時系列で並べ直させた。

 すると、ある時間帯だけ、妙に空白が目立った。

 12時05分から12時18分までの13分間。

 この間、喜子のデスク周辺には誰もおらず、彼女のPC操作も停止していた。ほかの社員は外出中。監視カメラの死角もあり、証言も曖昧だった。

 「たまたまお弁当を持ってきていた日」

 「給湯室に寄ったような……でも、定かじゃない」

 言葉は濁され、細部はぼやける。しかし、それこそが何かを隠している証だった。

 午後、ちづるは再び喜子の元を訪れた。

 「こんにちは。少しだけ、よろしいですか?」

 「ええ、どうぞ」

 喜子は穏やかな表情で応じた。だが、その指先がわずかに震えているのを、ちづるは見逃さなかった。

 「あなたのスマートフォン、少し拝見できますか? 閲覧履歴など、必要に応じて確認させていただいています」

 「……それって、強制ですか?」

 「いえ、任意です。ただ、ご協力いただけると助かります」

 喜子は一瞬だけ躊躇した。だが、やがてスマホを差し出した。その表情は、あくまで無垢を装っていたが、目元の緊張は隠しきれない。

 ちづるは端末を受け取り、あらかじめ用意していたデータ解析チームへと渡した。

 その後ろ姿を見送りながら、彼女は思う。

 ——仮面は、最初に崩れるのではない。

 ひとつひとつ、ひびが入る。

 静かに、確実に。

 その“音”を聞き取るために、刑事という仕事があるのだ。


第五章:喜子の暗い秘密

 午後の陽射しはすでに傾きはじめていた。ビルの窓から差し込む光が、床に淡いオレンジ色の影を落としている。だがその温かさとは裏腹に、一ノ瀬ちづるの内心には、いまだ晴れない霧が立ち込めていた。

 動機。

 小川喜子の犯行は、論理的に見ればほぼ間違いなかった。青酸カリの入手経路、昼休みの不自然な行動、トイレで発見された使い捨て手袋。状況証拠は積み重なっていた。

 しかし、彼女が須田久子を“なぜ殺したのか”——そこだけが、まだ霧の向こうに隠れていた。

 その答えを最初に掴んだのは、久子の彼氏だった。

 ちづるは彼の自宅を訪れ、事実確認のために話を聞いていた。

 「……Kojikoji2って、知ってますか? 同人AV系の、ちょっと特殊なサイトなんです」

 男は、伏し目がちに言葉を継いだ。

 「久子といっしょに見ているときに、久子が気がついたんです。そこに、喜子さんらしき女性が出てたんです。顔にはモザイクがかかってましたけど……声と体型、ほくろの位置、それに脇にある傷……久子は昔、社員旅行のときに一緒にお風呂入ったことがあって、すぐに“あれ、喜子じゃん”って気づいたみたいで……」

 ちづるは黙って聞いていた。男の語る内容が真実かどうかは、すでに自分で調べて裏が取れている。

 ——あのサイトには、確かに小川喜子が出演していた。

 出演名は別だったが、特徴的な傷跡と声紋が一致していた。

 ちづるは重たいコートの前を整え、再び社屋へ戻った。

 社内は夕方の気配に包まれていた。蛍光灯の明かりが窓の暗さを照らす中、ちづるは応接室に喜子を呼び出した。

 「少し、プライベートなことで話があります」

 喜子は黙ってうなずいた。

 二人きりになった空間。ちづるはテーブルの上にスマートフォンを置き、喜子に目を向けた。

 「Kojikoji2という動画サイト、ご存じですか?」

 その瞬間、喜子の瞳から色が抜け落ちたように見えた。唇がわずかに開き、空気を吸い込むような音がした。

 「……見たんですね」

 「確認しました。音声、傷跡、体型。映像には加工がありましたが、鑑定は終わっています」

 喜子は沈黙した。やがて、ゆっくりとまぶたを閉じ、深く息を吐いた。

 「お金に困って……ほんの一度だけ、って思ったんです。でも……出ちゃったんです、他にも……」

 言葉は途中で詰まった。

 「会社には、内緒にしてください。お願いです」

 ちづるはしばし無言で彼女を見つめていた。

 その後、ちづるは久子のスマートフォンの解析結果を再確認した。

 LINEの非公開フォルダの中に、メモアプリに保存されたログが見つかった。

 そこには、驚くべき内容が並んでいた。

《喜子の動画、あれガチじゃんww》

《主任にしてくれたら、黙っててあげようかって言ったら顔真っ青w》

《毎日少しずつビビらせるの楽しいw》

 ちづるの表情は、読み終えるにつれて硬くなっていった。

 それは、悪意の記録だった。遊び半分の悪意。人の秘密を暴き、それを盾にして、職場で優位に立とうとする企み。脅し、からかい、ねじ伏せる。そのすべてが、記録として残っていた。

 ——喜子が壊れた理由が、ここにある。

 だが、どんな理由があれ、命を奪っていいはずがない。

 ちづるはスマートフォンをポケットに戻し、静かに応接室のドアを閉めた。

 ——終わりが、近い。


第六章:毒の記憶

 取調室の空気は乾いていた。蛍光灯の光は無機質に照り返し、白い机の上には一枚の報告書が静かに置かれている。

 一ノ瀬ちづるはその紙に目を通したあと、顔を上げた。

 目の前には、小川喜子。肩を落とし、伏し目がちに椅子に座っている。彼女の表情は、静けさの仮面を被っていたが、その内側では何かが崩れかけているのが見て取れた。

 「あなたは、“孤児魔商会”という裏サイトをご存じですね?」

 ちづるの声は静かだった。しかし、その言葉には確信と重みがあった。

 「知らないわ……そんなの……」

 喜子の声は小さかった。

 「喜子さん、あなたのスマートフォンからTorブラウザのインストール履歴と、“孤児魔商会”へのアクセス履歴が見つかっています。青酸カリに関する商品ページを閲覧していた記録もあるんです」

 「……でも、それだけじゃ私が買った証拠には」

 「ええ。だから、他にも調べました。決済のタイミング、あなたのスマホの位置情報。それと、配送の受け取り履歴。匿名配送でしたが、あなたのスマホはその時間、配送ボックスの前にありました」

 喜子の瞳が揺れた。

 ちづるは報告書を閉じ、少し身を乗り出す。

 「あなたは、事件当日の昼休み、社員が外出していた隙に給湯室へ行きましたね。そして、久子さんのマイカップを“洗ってあげた”と言い、そのまま久子さんの机の上に置いたと証言している」

 「そうよ、洗っただけ。毒なんて入れてない」

 「でもね、喜子さん。不自然なことがあるんですよ」

 ちづるは新しい報告書を取り出した。鑑識の分析結果だった。

 「久子さんのマイカップから検出された指紋は、久子さん本人とスターバックスの店員のものだけ。あなたの指紋は検出されていません」

 「そ、そんな……」

 「あなたは“洗った”と言いました。でも、カップを触っていながら、なぜ指紋が残っていないのか。おかしいとは思いませんか?」

 喜子の唇が震えた。

 「……じゃあ、どうして?どうして私の指紋がないのよ」

 「簡単なことです。あなたは、薄い透明な手袋をしていた。そのままカップを洗い、毒を塗布した。そしてその手袋を、トイレのゴミ箱に捨てたんです」

 ちづるの指先が報告書を軽く叩いた。

 「その手袋からは青酸カリの成分が検出されました。そして——」

 ちづるは一瞬、言葉を切って喜子を見つめた。

 「あなたは肝心なことを忘れていたんですよ。普通の手袋ではそうは行きませんが、あの使い捨て手袋は薄すぎた。内側に、あなたの指紋が残っていたんです」

 喜子の顔色がさっと青ざめる。

 「あなたの指紋は、すでにあなたのデスクにあった備品と照合済み。完全に一致しました。完全犯罪のつもりだったんでしょうが、甘かったんですね。会社のトイレのゴミ箱ではなく、他所で処分すればよかった」

 喜子は、両手を握りしめたまま、小さく震え始めた。

 やがて、その唇から、かすれたような言葉が漏れた。

 「……殺されて当然よ、あんな女……。上品ぶって、上級国民ぶってるけど、弱い者いじめが大好きな、残忍な性格。あたしのAV出演をバラすって言うのよ。黙ってて欲しかったら金をよこせって。しかも、もしあたしが先に主任になったら辞退しろって——そんなの、ある?」

 「人を殺しておいて、“当然”はないでしょう」

 ちづるの声は静かだったが、その芯は揺らがなかった。

 その後、喜子は殺人の容疑で逮捕された。

 社内には、静かな衝撃だけが残った。

 彼女のデスクは空白のまま、誰もその椅子に触れようとしなかった。

 須田久子の死を巡る噂もやがては消えていくだろう。ただ、そこにあった悪意と崩壊だけが、静かに記憶の底で発酵していく——。

***

 ちづるは事件後、久子が通っていたスターバックスを訪れた。あのピンクゴールドのマイカップは、もう店には持ち込まれることはないだろう。

「キャラメルマキアートを。ホットで」

 受け取ったカップの温かさを手に感じながら、彼女は窓際の席に座った。

 ひと口すすり、ふう、とため息をつく。

「毒が入っていたのは、カップだけじゃない。会社にも、心にも、言葉にも……」

 ちづるは、カップを見つめながら静かに呟いた。

「それを飲み干したのは、誰だったのかしらね」

 (完)

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 本作は「完全犯罪」に見せかけた、極めて人間的な事件である。冷静な犯人、被害者の二面性、そして観察者としての刑事。善悪が明快に割り切れる世界ではない。喜子は加害者であると同時に、ある意味では被害者でもある。だが、どれほど辛い過去があっても、人を殺していい理由にはならない。

 この物語では、オフィスというごく普通の空間を舞台に、静かに人が追い詰められていく過程を描いた。毒は、特別な場所にあるとは限らない。会議室の笑顔の裏にも、給湯室の沈黙にも潜んでいる。だからこそ、わたしたちは「観察者の視線」を持ち続ける必要があるのかもしれない。

 一ノ瀬ちづるはその目で、真実の輪郭をじわじわと浮かび上がらせていった。次の事件で彼女が何を見つめることになるのか、それはまた別の物語。

 今作が、あなたの心にささやかな影を落とし、同時に灯りとなったのなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。

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