キャスターの罠
犯罪とは計画通りに進むものではない。どれほど完璧に仕組まれた犯行であっても、思わぬところにほころびが生じる。刑事・一ノ瀬ちづるは、冷静な推理と鋭い観察眼を持ち、そんなほころびを見逃さない。本作では、知性を武器に犯人を追い詰める彼女の活躍を描いている。あなたは、この事件の真相にどこまで迫れるだろうか。
【密やかな夜】
宮抱紀子は、ベッドの上でシルクのガウンをまといながら、天井を見つめていた。隣では小島弘之がぼんやりと天井を眺めている。
「あたしの身体を堪能させてあげるわ」
宮抱は甘えるように言ったが、その声に色気はなく、ただの儀式のようだった。小島は苦笑しながら手を伸ばし、彼女の肩を引き寄せる。
「お前も相変わらず冗談がきついな」
愛のない交わりは、互いの欲望のためではなく、互いの立場を維持するためのものだった。宮抱にとってはキャスターとしての地位を守る手段であり、小島にとっては自分の権力を誇示するための娯楽に過ぎなかった。
行為の後、小島は何気なく言った。
「そういえば、明澤に冠番組をもたせることにした」
その言葉に、宮抱は一瞬凍りついた。
「えっ」
短く発せられたその声には、驚きと怒りが混ざっていた。小島は気にする様子もなく、続ける。
「若いし、勢いがある。視聴率も期待できるからな」
それ以上の説明はなかった。しかし、宮抱には十分すぎる言葉だった。
翌日、局内の廊下で明澤詩織とすれ違う。
「先輩!今度、冠番組をいただくことになりました!」
明澤は満面の笑みで宮抱に話しかけた。その目には一切の悪意がない。ただ、純粋に嬉しさを伝えたかっただけなのだろう。しかし、その無邪気さが宮抱の中で静かに何かを壊した。
宮抱は努めて穏やかな笑顔を浮かべた。
「おめでとう。今度、二人きりでお祝いをしましょう」
そう言いながら、彼女の心の中では、ゆっくりと殺意が芽生えていた。
――この女は、消さなければならない。
【明澤詩織の部屋】
明澤詩織の部屋で、宮抱紀子は完璧な計画を胸に秘めていた。
「せっかくだから、心を込めておもてなしするわ。」
明澤は楽しげにキッチンに立ち、手際よく料理を進めていた。テーブルには、彼女が用意した料理が並ぶ。一方、宮抱は持参したワインボトルを手にしていた。
「ワインも持ってきたの。せっかくだから一緒に乾杯しましょう。」
宮抱はそう言ってワインを開けようとしたが、一瞬手を滑らせ、ラベルの端で指を切ってしまった。
「痛っ……。ちょっと切っちゃったわ。」
彼女はさりげなくナプキンで指を押さえ、何事もなかったかのように続けた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「ええ、たいしたことないわ。それより、あなたの料理が楽しみよ。」
明澤は微笑みながら、「先輩のために頑張りました!」と言い、二人はワインを注ぎ合った。
宮抱はワインを注ぐふりをしながら、慎重に明澤のグラスへ強力な睡眠薬を垂らした。
「それじゃ、乾杯!」
グラスが軽く触れ合う音が響く。
しばらくして、明澤は瞼を重くし、ソファにもたれかかる。
「ちょっと……疲れが……」
「無理しないで。少し横になったら?」
宮抱は微笑みながら、彼女の髪をそっと撫でた。完全に意識を手放したのを確認すると、準備していた小さなカプセルを取り出し、明澤の口にそっと滑り込ませる。
このカプセルは、特殊なコーティングが施されており、時間が経つと体内で徐々に溶け出す仕組みになっていた。
宮抱はそっと明澤の肩を揺さぶった。
「詩織、大丈夫?」
明澤はぼんやりと目を開け、微笑んだ。
「今日はなんか変だわ……疲れてるのかしら。」
宮抱は優しく微笑みながら言った。
「また、今度は外で食事でもしましょう。」
「すみません。忙しいところ来ていただいたのに……」
「早く寝てね。」
そう言い残し、宮抱は静かに部屋を後にした。
時計を確認し、予定通りにテレビ局へ向かう。生放送が始まれば、完璧なアリバイが成立する。
その頃、明澤詩織は深い眠りの中で静かに毒が体内へ広がるのを知らなかった。
【完全犯罪】
宮抱紀子はニュース番組のスタジオにいた。照明が強く輝き、スタッフが忙しなく動く中、彼女はまるで何事もなかったかのようにカメラの前に立っていた。
「本日もお伝えします、トップニュースです。」
落ち着いた声で原稿を読み上げながら、彼女は内心で時計を気にしていた。予定通りなら、明澤詩織の体内で仕込んだ毒が効き始めているはずだった。
放送が終わると、プロデューサーの小島が近づいてきた。
「お疲れ様。今日も完璧だったよ。」
「ありがとうございます。」
宮抱は微笑みながら軽く頭を下げる。その瞬間、スマートフォンが振動した。メッセージの通知が表示されている。
『明澤詩織、急病で病院搬送』
指先が一瞬止まる。しかし、すぐに平静を装い、スマホをスリープモードに戻した。
「失礼します。」
控室へ向かいながら、彼女の心の中には、かすかな不安が芽生えていた。確実な計画だったはず。しかし、何か予期しないことが起こったのではないか。
ソファに座り、冷静に次の手を考えようとするが、心のどこかでざわめきが消えなかった。
【刑事一ノ瀬ちづる登場】
病院の廊下を静かに歩く女性の姿があった。刑事・一ノ瀬ちづる。ショートカットの黒髪、痩身の姿。黒のスーツに身を包み、冷静な眼差しで周囲を見渡していた。彼女の佇まいには無駄がなく、ただそこに立っているだけで場の空気が引き締まるようだった。
一ノ瀬は病室に入り、医師から死体検案報告を受ける。
「死亡推定時刻は昨夜23時から翌1時の間。致死量の毒物が体内から検出されました。しかし、外部から摂取した形跡はなく、胃の内容物にも明確な毒物の混入は見られません。極めて特殊な方法が使われた可能性があります。」
一ノ瀬は顎に手を当て、考え込んだ。
「なるほど……。死因は急性毒物中毒。しかし、摂取経路が不明、と。」
「ええ、まだ詳しい分析が必要ですが、一つ気になる点があります。体内の毒素は通常の経口摂取とは異なり、時間差で徐々に作用した痕跡があります。」
医師の言葉に、一ノ瀬は目を細める。
「つまり、ゆっくりと溶ける仕掛けが施されている可能性がある……ということですね。」
一ノ瀬は病室を見渡し、慎重に状況を整理し始めた。
刑事・一ノ瀬ちづるは、明澤詩織の部屋に足を踏み入れた。室内は整然としており、荒らされた形跡はなかったが、妙な違和感を覚えた。
テーブルは綺麗に片付けられ、ワイングラスも洗われていた。ゴミ箱にはクラッカーの包装やチーズの食べかすが捨てられており、食事の痕跡はほとんど残っていなかった。
「食事中に何かあった……?」
ちづるは静かに呟き、慎重に室内を調べた後、関係者の話を聞くためにテレビ局へ向かった。
局内ではスタッフが忙しなく働いていたが、彼らの表情にはどこか緊張感が漂っていた。ちづるは関係者に次々と話を聞いていく。
「明澤さんの冠番組、これから始まる矢先だったのに……残念です。」
「彼女が亡くなった後、その枠は誰が担当することになったんですか?」
「宮抱紀子さんです。もともと彼女も有力候補でしたが、結果的に交代することになりました。」
その答えを聞き、ちづるの目が鋭く光った。
「亡くなったことで番組の担当が変わる……これは偶然か、それとも必然か?」
ちづるは、明澤の死で最も得をするのは誰かと考えた。自然と、ある名前が頭に浮かぶ。
「明澤さんがお亡くなりになったとき、どこにいましたか?」
「テレビで番組に出演中でした。」
「昨日は?」
「昨日はオフでしたよ。」
「昨日は何か関係あるんですか?」
「一応関係者には色々聞くんです。」
「彼女の家に行ったことはありますか?」
「いいえ、一度もないです。」
宮抱の声にはわずかな苛立ちが混じっていた。ちづるは微細な表情の変化を見逃さず、冷静な口調で続ける。
「単なる確認です。あなたが彼女の部屋に行ったという証言もありますしね。」
宮抱は冷たい笑みを浮かべ、腕を組んで視線を逸らした。
「刑事さん、私はただ自分の仕事をしているだけです。そんな風に疑われるのは、正直心外ですね。」
ちづるは微かに笑いながら、さらに深く探るべく質問を続ける準備をした。
ちづるが去ると、関係者の一人が宮抱に近寄った。
「あの刑事、なんだって?」
宮抱は肩をすくめ、わずかに笑みを浮かべる。
「ああ、いろいろ面白いネタがあるから扱ってくれってさ。」
そう言いながら、彼女は軽く髪をかき上げ、足早にその場を後にした。
【殺人の連鎖】
宮抱紀子は、突然の呼び出しを受け、警戒しながら夜の街を歩いていた。指定された場所に現れたのは田茂倉信士だった。宮抱紀子は、帽子を深く被り、夜にもかかわらずサングラスをかけ、手袋をはめた姿で待っていた。
「先日、刑事さんが来たときに、あなた嘘をついていましたね。」
宮抱は一瞬表情を強張らせる。
「何のこと?」
田茂倉はゆっくりと口元を歪めた。
「明澤詩織の家に行ったことはないと言っていましたね。でも、あの晩、私も彼女に会いに行ったんですよ。車の中から、あなたがマンションから出てくるのをしっかり見ました。」
宮抱の喉がごくりと鳴る。冷たい夜風が二人の間を吹き抜けた。
「……で、何が望みなの?」
平静を装いながらも、宮抱の声にはわずかな動揺が滲んでいた。
「私の身体が目的?それとも……」
田茂倉はニヤリと笑いながら答えた。
「もちろん、抱きちゃんの身体はいただく。それと、二千万円ほど欲しいね。そのくらいはあるだろう?冠番組を持つご身分なら。」
宮抱はしばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。
「わかったわ。それで、今夜するの?」
田茂倉は満足げに背を向けた。だが次の瞬間、宮抱の表情が冷酷なものに変わる。
突然、田茂倉は背後から短い棒で滅多打ちにされ、抵抗する間もなく階段から転げ落ちた。
【証拠採集】
翌日、風の強い日だった。ちづるはテレビ局の前で待っていた。
タクシーが停まり、宮抱紀子が降りてきた。帽子を深く被り、サングラスに手袋という完全防備の姿だった。
「宮抱さん。」
彼女の名を呼ぶと、宮抱は小声で「まだ何か?」と返した。
「この帽子、ルイ・ヴィトンのバスケットハットですね。高価なものなんでしょう?」
「ええ。」
「私も欲しいんですが、刑事の給料では手が届かなくてね。ちょっと見せてもらえますか?」
ちづるは帽子を手に取り、丹念に観察した。
宮抱は苛立ちを隠せず、「刑事さん、今日は何のご用でしょうか?」と不機嫌そうに尋ねた。
「実は、悲しいお知らせがあります。あなたの同僚、田茂倉さんが亡くなったんです。」
「……いつですか?」
「昨夜のことです。ところで、昨夜はどこにいましたか?」
「私を疑っているのね?」
「いいえ、そういうわけではありません。ただの確認です。」
「昨夜は家にいました。でも、証明するものはいません。」
宮抱は腕を組み、時計をちらりと見た。
「刑事さん、これから打ち合わせがあるの。帽子を返して。」
「失礼しました。」
帽子を手渡すと、宮抱はわずかに不満げな表情を見せながら、局内へと入っていった。
【宮抱紀子 破滅】
ニュース番組の放送が終わると、宮抱紀子はスタジオを出ようとした。しかし、その前に立ちはだかったのは、一ノ瀬ちづるだった。
「宮抱さん。」
ちづるの声は大きく、周囲の視線が集まる。宮抱は苛立ちを隠せず、鋭く言い返した。
「まだ何ですか?」
「もう一度伺います。あなたは本当に明澤さんの家に行ったことがないのですね?」
宮抱はきっぱりと答える。
「ありません!何度も言っているじゃない!」
「それは嘘ですね。」
「……何よ。」
「あなたは指紋が残らないように薄い手袋をしていましたね。しかし、ワインを開ける際に手を切り、その血がテーブルに微量付着していました。あなたのDNAは、先日帽子を見せてもらった際に付着していた髪の毛から採取しました。」
宮抱の顔色が変わる。
「そんなの証拠にならないわ。」
「決定的な証拠はまだあります。明澤さんの死因は毒物でした。その毒は特殊なフィルムで包まれており、一定時間後に溶け出す仕組みになっていました。そして、そのフィルムの残留物が体内に微量残っていたんです。あなたの家は化学製品の素材を扱う会社でしたね?」
ちづるは一歩踏み込む。
「あなたは、ワインに即効性のある睡眠薬を混ぜ、彼女を眠らせた。そして、特殊なフィルムで包んだ劇薬を無理やり飲ませた。」
沈黙が落ちる。
「まだありますよ。」
ちづるは淡々と続ける。
「明澤さんは、あなたが帰った後、ワイングラスを片付けました。そして、あなたがかじったチーズを紙に包んでゴミ箱に捨てました。あなたはキャスターにしては珍しく、歯並びが悪いですよね。そのチーズの噛み跡と、あなたの歯型が一致すれば……どうなるでしょうね?」
宮抱は震える唇で呟いた。
「……頭で考えた通りには、いかないのね。結局、あたしは……」
その瞬間、彼女の破滅が決定的になった。
事件の結末は、犯人の計算外の部分から導かれることが多い。本作もまた、一ノ瀬ちづるの冷静な推理と綿密な証拠分析によって真相が暴かれた。犯罪とは、一つの綻びから崩れ去るものである。あなたは、この結末をどのように感じただろうか?ちづるの次なる事件に、またご期待いただきたい。