閑話.レオ先輩 前編
高校生になって私は虐められている。
入学当初はただのボッチだった。それがいじめに発展したのはほんの些細なきっかけで。
毎日家を出るのが怖い。通学路の地面を踏みしめる度に自ら地獄に向かっているようで身体が震える。
今日はその這い寄る恐怖に耐えきれず、通学路を逸れた。人生初の無断欠席だった。
公園に寄って自動販売機でココアを買い、ベンチに座ってぼおっと空眺めるだけ。
淀んだ気分とは裏腹に青空が広がっていて雲一つない。
壮大だとは思う。これと比べたら自分の悩みなんてと言う人がいるけれど、そうは思えなくて。
あまり長居はできない。制服を着ているからいつかは警察に補導されてしまう。もしかしたらもう学校に連絡が行っているかもしれない。
そう頭では分かっているのに、身体は鉛のように重かった。
暫くの後、のそりとベンチの背から身体を起こしてその勢いで重い腰を上げた。
たった一歩が重くて短い。もう帰ってしまいたい。
何度も“帰宅”の文字が頭をチラつく。脳内が“帰ってしまえ”と甘美な囁きを紡ぐ。
学校の校舎が住居の陰に見え隠れして咄嗟に足を止めてしまった。
逡巡した後、私は踵を返して公園まで戻ってきた。あき缶を捨てて新しく水を買う。
さっきまで座っていたベンチにまた座ろうした。
けれど、先客がいた。
二個上の先輩で、不良だなんだと有名な人だった。
無造作に伸ばされ、ブリーチで傷んだボサボサの金髪。日本人の平均を優に超す身長とがっしりとした体躯。当然の如く学ランは着崩していた。
普段の私なら絶対に関わらない人種。ましてや近づこうともしない。
「…お隣、失礼します」
他のベンチを探すという選択肢がなかった。思い浮かびすらしなかった。
ちょこんと端に座ってペットボトルの蓋を捻った。
が、いくら捻っても滑って上手く開けられなくて私はすぐに諦めて、また空を仰いだ。
さっき眺めていた時は見当たらなかった雲がゆっくりと空を流れていく。夏の近づいたこの季節は昼にかけてじりじりと気温が上昇する。水分補給をしなければそう遠くない未来熱中症になっていることだろう。
学校に行く選択肢はもう自分の中にないのに、身体は酷く重い。
脱水を疑って蓋開けに再挑戦した。結果は惨敗だ。
おかげで家に帰る決心が付いた。家族に怒られたとしても仕方ないと思える。
立ち上がって振り向き様に隣をチラリと盗見た。彼は額に汗をかきながら眠っている。
どうしようもない何かに突き動かされた私は自動販売機まで走ってスポーツ飲料を手にまたあのベンチに駆け寄った。
未だに眠っている彼の寝顔には大粒の汗が伝っていた。
「…あの、先輩」
「…」
起こせる気配は全くない。
暑さで私は頭もやられていたのか、手に持つまだまだ冷たいスポーツ飲料のペットボトルを寝ている彼の頬に押し当てた。
「…!…あぁ?」
眼光鋭く睨みつけられる。厳しい視線に反して柔らかいヘーゼルナッツに似た色の瞳に、なぜか私の心は落ち着いていく。
「熱中症になっちゃうかもしれないので、これ、よかったら…」
「…どうも」
ペットボトルを受け取った彼は蓋を開けて中身を半分ほど一気に飲み干した。相当喉が渇いていたようだ。
「あんたは飲まないのか?」
蓋を閉めながら問われた。彼の視線は私の持つ水に注がれていた。
「…開けられないんです…」
「貸せ。開けてやるよ」
返答を待たずして手からペットボトルを奪った彼は、いとも簡単に蓋を緩めて私に差し出してくれた。
「ありがとう、ございます…」
「ああ」
受け取ったペットボトルを持って隣にまた腰かけた。口を付けた水は少しぬるい。
二口三口と飲み進めていくと靄の掛かっていた思考がクリアになる気がした。
「ヤベッ、逃げるぞ!」
「え?きゃ…?!」
突然腕を引かれてペットボトルを地面に落とした。蓋をしていなかった水はぶちまけられて地面にシミを作る。
「君たち!待ちなさい!」
背後からは私たちを追いかける足音が聞こえる。
止まる気がさらさらない彼に腕を引かれているから止まることもできず、必死にその後を追った。
人混みの中を掻き分けて進んで、時に角を何度も曲がって同じ場所を行ったり来たりして。
久しぶりの全力疾走で息も絶え耐えだ。
どれくらい走っただろう。やっと彼の足が止まった。
膝に手を突いて大きく息を吸って、乱れた呼吸を整える。
「早く入れ」
「う、ん」
促されるままに扉を潜ると目線の先にはキッチンがあり、床には無造作にゴミ袋が置かれている。
「ここ、は…?」
「俺の家だな」
彼は鍵をかけて靴を脱ぎ、さっさと中へ入っていく。
私も慌てて靴を脱いで後を追い、廊下を抜けた。
「お、お邪魔します…」
「ああ」
狭くも広くもないリビングにはベッドとテーブルとソファがあるくらいで家具がほとんど置かれていないが、床には雑誌や服が積まれている。お世辞にもキレイとは言い難い。
無性に身体がムズムズとする。
「適当に座ってろ」
「…はい」
物を踏まないようにテーブルの近くに正座した。
隣にはスマホの充電器やイヤホンが無造作に置きっぱなしだ。
「ほら水」
「あ、ありがとうございます」
ペットボトルの水を手渡された。蓋は既に緩められていてすぐに飲むことができた。
彼もソファに掛けて水を飲んでいた。どうやら公園に置いて来てしまったらしい。
「で、あんた誰だ?」
ペットボトルをテーブル上のポリ袋を抑えるように置く彼に問いかけられた。
テーブルにはコンビニ弁当の空容器や飲み終わったペットボトルが散乱していて置き場がない。
私は冷たいペットボトルを持ったまま答える。
「あ、えっと…桜花高校一年の、鈴木三日月、です」
「そうか。俺はレオ。三年だ」
レオ、先輩。
無意識に心の中で名前を反芻した。
「あんたはあんなところで何してたんだ?」
「…学校に、行きたくなくて」
家族にも言えなかった事なのに、レオ先輩相手だとなぜか心を許してしまう。
それは人の事情に首を突っ込んでくるタイプじゃないと感じたからか、それとも…。
「レオ先輩は、どうして公園に?」
「俺も似たようなもんだ」
「そう、ですか」
それだけしか言えなくて口を噤んだ。
虐められている私と不良らしい先輩では勝手が違う。自分がとても惨めに思える。
「…私、帰ります。ありがとうございました」
「やめとけ。まだ警察がうろついてんぞ」
そう言われて上げかけていた腰をまた下ろした。
補導されて嗤いのネタにされる未来が見えてしまったのだ。
「もう少しだけ、お邪魔します…」
「ああ」
レオ先輩はスマホを手に取って生返事をした。
何か会話をと思うけれど、適当な話題が見つからず沈黙が流れる。
視界を占めるのは散らかった洋服とゴミと雑誌ばかりで、ここで過ごせば過ごすほどにそれが気になりだして仕方なくなる。
「あの、レオ先輩」
「なんだ?」
「…掃除してもいいですか」
「あ?」
睨むような先輩の視線が痛いけれど、ちょっと我慢ならない。
「汚いです」
「…好きにしろ」
「ありがとうございます…!」
興味なさげにスマホに目線を戻す。
許可を得た私は早速家中の明確なゴミを掻き集めていく。
ペットボトルや空容器を洗って分別して地域指定のゴミ袋へどんどん詰め込む。それが終われば水垢の付いたシンクに、あちらこちらに無造作に積まれた雑誌に手を付けて。そこが終わればまた眼についた場所へ…。
キー…ン コー…ン カー…ン コー…ン
正午を告げる鐘が遠くで響いた。
掃除に夢中で気にならなかったが、すっかりお腹が空いていた。
冷蔵庫は許可を得て中を確認したけど、水や栄養ドリンクしか入っておらず食料になるものは何一つとしてなかった。
「レオ先輩。お昼ご飯の買い物、行ってきてもいいですか?」
未だにスマホに夢中な先輩に問いかけると、チラリとこちらへ視線を向けた。
「そのまま出て行く気か?」
「…そうでした」
私の今の服装を見下ろした。制服であることは一目瞭然で、人に寄ってはすぐに桜花高校だと分かるだろう。
「お昼、どうしますか?冷蔵庫、何もなかったですよ?」
“先輩とお昼ご飯を食べる”以外の選択肢が私にはなかった。
「…買いに行くか」
億劫そうにソファから腰を上げたレオ先輩が洋服の山に手を突っ込んだ。
「これ羽織っとけ」
そう言って投げられたのは前側にチャックの付いた黒のパーカーだった。
落とさないように慌てて受け取り、とりあえず着てみる。
が、案の定ダボダボで手は出てないし、セーラー服の襟も全然隠れてない。先輩はいつの間にやら私服に着替えていて、ジーンズに白のTシャツだけですごくオシャレに見える。
「これで合ってます?」
不安に問いかけると小さな溜息が聞こえてきた。
「そう思うんなら脱いでから着ろよ。中着てんだろ」
「あ、そうですね。すみません…」
パーカーと上のセーラーを脱いでパーカーをまた羽織り直す。
セーラー服を畳んでチャックを閉め、財布とスマホもポケットに入れて振り向いた。
「お待たせしました!行きましょう!」
先輩は明確に顔を背けて大きな溜息を零していた。
レオ先輩は汚部屋の住人。
雑誌を大量に持ってそうとは三日月の勝手な想像。ここの解像度はちょっと低め。本当の彼は参考書や専門書だろう。
制服の中に肌着としてシャツを着込んでいるから普通に着替えられる、学生あるあるなんですかね?