緋牡丹の柄
この小説は、春野天使さん主催の砂漠の薔薇第二十六段「キャラクター持ち寄り企画」の参加作品です。
参加作品には、順次リンクさせて頂きます。
どうして、こんなことになったのだろう。
せんは、思う。
道を行き交う、人、人、人。
こんなに多くの人を見たのは生まれて初めてだ。しかも、やたらと歩く速度が速い。せんなどは、先刻から人にぶつかってばかりだ。
泣きそうな気分になった。せっかくの晴れ着なのに、せっかくの……。
周囲を見回すと、猫が居た。
不思議な色の毛並みを持つ猫。ちらりとせんを見やり、からかうようにまた歩き出す。せんは猫を追う。それ以外にどうすれば良いのかが全く解らなかった。
泉は、自分の本当の名前を知らない。それを知っているのは、多分両親ぐらいだろうが……その両親の事も、全く知らない。
小さい頃に、せんは大宮家の門前に捨てられていたという。そんなせんを引き取ってくれたのは、奥様。小さな頃から時には優しく時には厳しくせんをしつけてくれて、十五歳になった時には「何処に出しても恥ずかしくない」のお墨付きまでもらった。せんにとっては、大恩人だ。
だから、奥様の言うことには逆らったことなんかなかったのに。今日だって、こんなに素晴らしい衣装を着せてもらったのに。
白地に紅の裾模様のある振り袖。正面に咲く緋色の牡丹が鮮やかなそれは、京友禅。金襴の帯は西陣織だ。どちらも、せんの少ない給金で買えるものではない。髪飾りも、草履や鞄も、みんな奥様が用意してくれた。
今日という日の……この、見合いの為に。
「私のお古だけど、せんにはよく似合うわね。どこかのお嬢さんみたいよ」
奥様がとても嬉しそうにそう言ってくれたので、せんも笑った。
だけど本当は、こんな話は断りたかった。ずっとこの家の下働きをしてきた。この家を出る時は、結婚する時か死ぬ時のどちらかという事ぐらい、知っていた。後は自分がとんでもない失態をしでかして、クビになる時か。
でも、結婚相手まで奥様に決められてしまう。それがせんにはたまらなかった。
だって、せんは十五歳になるのにまだ、恋というものをした事がない。恋も知らないのに、今日初めて会う人がこの見合いを受けてくれたら、せんには断る事は出来ないのだ。
せめて、好きな人と出会いたかったな。
せんは思う。それは、かなわない事だと解っていたけれど。
それでも初めて着た絹の晴れ着に、せんの心は少し浮かれていた。
仲人さんが忘れ物を取りに帰っている間に、せんは家の窓に映った自分の姿を見る。牡丹の模様の着物を身にまとったせんは、美しい女性に変身していた。
本当に、どこかのお嬢様みたい。
長い髪は綺麗に梳られ、結い上げられて繻子で作った髪飾りを飾ってある。せんが微笑むと、ガラスに映ったその人も微笑む。
生まれて初めて見る、別人のような自分。
でも、せんは知っている。これが最初で最後。奥様だってそれを知っていたから、こんなに素敵な着物を着せてくれたのだと。
そう。
そんな奥様の気持ちが嬉しかったから。気の進まない見合いだって、せめて喜んでいる振りをしておこうって、決めた。
奥様に恥をかかせないように、立派に振る舞おうって。
だって奥様は、せんの恩人だから。
自分に、何度も言い聞かせる。
そんな時だった。あの猫と出会ったのは。
宝石のような蒼い瞳がとても綺麗な猫だった。それなのに、ちらりとせんを見たその猫は何故か呆れているように思えた。
(最初から諦めている。馬鹿みたい)
ものを言うはずもない猫がそんなことを告げたような気がして、驚いて猫に数歩近寄る。猫は逃げもせずにじっとせんを見つめていた。
「だって」
知らず、猫に向かってせんは呟く。
「だって、奥様の言うことは絶対なんだもの」
(だったら、仕方ないね。勝手に諦めてたら良いよ)
猫は気高そうにつんと胸を反らせて、その場を去る。
慌てて、せんはその後を追いかけた。何故か。
そして、気がついたら此処に居た。
人が溢れるこの場所を、せんは知らない。
だがそれは、西暦二〇一〇年の東京だった。
ちりんと澄んだ音を立てて、扉が開いた。
顔を上げたのは、古美術取り扱い店「白風堂」店主吉田白風、「永遠の」二十歳。透けるような白い肌の持ち主だ。
その白風の視線の先には、不思議そうに店内を見回す、十四、五歳ぐらいの少女。珍しいと、白風は思った。
こんな店に若い客というのもそもそも珍しいが、成人式や正月に着るような振り袖を着ているのが妙にそぐわない。しかも……。
白風の目が、すうっと細められた。
「あの、ここは?」
白風に見つめられて、少女は居心地悪そうに数歩、後じさる。
「ここは?」も何も、自分から店に入って来ておいてと、白風は苦笑する。
「お店。古美術品を扱っているお店よ。それで、あなたはどうしてここに来たの?」
「いえ、あの……」
きょろきょろと当たりを見回し、少女は椅子の上に寝そべるブルーを見た。ブルーは、迷い猫。いつの間にか、この店の入り口正面に飾ってある椅子の上を特等席にしてしまった。人間の心が読めるのではないかと思わせる、少し不思議な猫だ。
店主の人徳と言うべきか、ここはそういう変わったものが集まりやすい店なのだ。
「その猫!」
何故かほっとしたように、少女がブルーに近づいた。しかしブルーの方はうるさそうに、少女をちらっと見ただけだ。
「ブルーがどうかした?」
「私、この猫を追いかけていたら、いつの間にか……ここ、何処ですか?」
半分、泣きそうになりながら告げる、少女。
やれやれと、白風は思う。
そう、本当にこれが店主の人徳なのだろうか? やはりこの店は妙なものが集まりやすい。
「東京都文京区……って、そんなことは聞いてないのかな?」
店は相変わらず開店休業。白風もまた暇をもてあましていた。
「随分、遠いところから来たみたいね。お茶でも飲んで行く?」
少女は、「せん」と名乗った。
「泉と書いてせん?」
「どうして?」
不思議そうにせんが白風を見る。白風にしてみれば、何となくそんな漢字が頭に浮かんだだけなのだが、そういう時の直感は当たる事が多い。
「何だか水のイメージだからかな。だから――」
ちらりと、せんの着る着物を見る。
目を引くのは、服の裾に華やかに咲いた緋色の牡丹。それはどこか禍々しい。水のイメージを持つせんの本質とは、違うように見える。
「それで、せんちゃんにとってこの世界はどう写ってるのかな?」
「みんな、変な格好をしていて。それにすごく早足で歩いてる。生き急いでいるみたい」
白風はもう一度せんを見る。
若くて綺麗だが、せん自身はどこにでも居る女の子だ。
「生き急いでいるねぇ……」
「ごめんなさい、私、世間知らずだから変なこと言っちゃったかも知れません。でも、ここは私が知っている世界とは違うんです」
無意識に煙草に手を伸ばし、口にくわえる。考え事をしている時に煙草を吸うのは白風の癖だ。自分でもあまり良い癖だとは思っていないが、止めるつもりもない。
「じゃあ、せんちゃん。あんたは、どこから来たの?」
「昭和八年の東京です」
そう来たかと、白風は軽く額に手を当てた。
「これはまた、遠くから」
「遠い?」
「少なくとも、私が想像も出来ないぐらい、遠くね」
白風が笑う。せんは、わざわざ「昭和八年」と言った。つまり、この子は今いる場所が「時代が違う東京」ということは何となく理解しているようだ。だったらある意味、話は早い。
「もっとも、あんたの頭がおかしくないのならの話だけど」
「私は、真剣です!」
むっとしてせんが告げる。
「だったら、あんたはなんでここに来たの?」
「だから、あなたの猫に導かれて」
「ブルーは別にあたしの猫じゃないし、何かを導いたりもしない。あんた、ひょっとして現実から逃げたかったんじゃないの?」
少女の黒い目が、驚いたように見開かれる。当てずっぽうで言ってみたのだが、どうやら当たらずとも遠からずだったようだ。
「でも、それ以上に」
白風の細い指が着物を指す。
「そいつが、さ。あんたには、向いてないのよね」
「私には、贅沢だから?」
「若いお嬢さんには、向かないって行ってるのよ。確かに良いものだけど、それはあんたのものじゃないでしょ?」
鏡に映った自分の姿をあらためて見て、せんは小さく首をかしげた。
「奥様が、昔着ていたものを貸してくださって。でも、みんな似合うって」
白風が首を振った。
「一度も袖を通された事がないものと見たね」
「どうしてそう思うの?」
「悪いことは言わないから、それは脱いだ方が良いと思うけど?」
余計なお節介であることは、白風だって知っていた。だが、口を挟まずにはいられないのが、白風の悪い癖だ。
「どうして、この着物にこだわるんですか?」
そっと胸元をおさえるせんの声音には、明らかに白風を疑っているような響きがある。そりゃあそうだろう、いきなり自分が知らない世界に放り込まれて、しかも最初に会った人間が白風だとすれば――自分で言うのも何だが、猜疑心を持たない方がおかしい。
「あたしが、あんたを騙してるって思ってるのかしら? 価値がありそうなものを置いて行かせようって」
「そこまでは。でも……」
「いい? これを見て」
鍵のついた引き出しから取りだした小箱の中には、大粒の真珠のネックレスが入っていた。
かなり古いものなので輝きを失いかけているが、極上のピンクーパールだ。
「総天然真珠のネックレス。どれぐらいの価値があるか、解る? うちではこんなものも取り扱っているの。それに比べると、あなたの着物はどれぐらいの価値かしら?」
「いえ、奥様も真珠は持っていたけど、こんなに大きなものを見るのは初めて」
小箱の中の真珠と、店のあちこちにディスプレイされている様々なものを見ながらせんが大きな溜息をつく。
「ここにあるものが、奥様の持ち物よりもずっと価値がある事は解りました」
やっぱり、この子は馬鹿ではないらしい。しかも、ちゃんと良いものを見て育って来たようだ。
そう察したので、白風は本題を向けてみた。
「ところで、せんちゃんはどうするつもり?」
「今日はお見合いなんです。早く帰らなきゃ」
「どうやって?」
せんはブルーを見て。白風を見た。
どちらからも答えは出ないことを知り、がっくりと項垂れる。
「せんちゃんが良ければだけど、仕事が欲しいなら紹介してあげる。働かないと、食べて行けないからね。でも、その仕事場にその着物は必要ないでしょ?」
「でも、これは奥様からの借り物で」
「だから、帰れるようになるまで私が大切に預かっておくから。取りあえず、今日はうちに泊まって行くと良いよ」
取りあえずせんを着替えさせ、お風呂を使わせた。
せんはよほど疲れていたのかすぐに眠ってしまったので、知人に電話をかけて十五歳ぐらいの女の子を預かって欲しい旨を告げる。
さんざんな嫌味を言われ、その後でやっと快い返事をもらったので、取りあえずひとつは片づいた。
さて。大問題はもうひとつ。
綺麗に畳まれた着物を見やり、白風は小さく嘆息した。
「どうしたものかしらねぇ」
何かが集まりやすい場所というのは、確かにある。
この店はまさに、そんな場所だ。例の真珠は「呪いの真珠」というストレートな名で有名だ。元々はどこぞの国の国宝だったらしい。それがその国の王家の滅亡にあたって、消失。好事家の手を転々とする間に、いくつもの不幸を招き寄せて来た。この店に置かれてから数年になるが、白風には別段変化はない。つまり、この店に在ることに真珠が満足しているという証だ。
「お前も、不思議な存在だけどね。ブルー」
少女を連れて来たと思われる猫に、そっと話しかける。
ブルーは聞いているのか、聞いていないのか……多分、聞いてはいるが答える気はないというヤツだろう。
「どういう風の吹き回しなのかな? ま、人間に興味を持つのはいつものことだけど」
ふわぁと、猫は大きな欠伸をした。
「はいはい、退屈だったから、遊びに行っただけってわけだ。で、厄介ごとだけ私に押しつける」
「にゃん」と猫が鳴く。「当然だ」と言うように。
「本当に、世界の王様なんだね、あんたは。でも、あんまり勝手なことをしてると、いつか去勢してやるからね」
ナチュラルに恐ろしげな事を言う白風に、猫は控えめに「にゃーん」と鳴いた。
その目が少し離れた場所に置いてある桐の箪笥を映す。さらには先ほどの真珠、そして着物を順繰りに見て尻尾を逆立てる。
「ああ、お前にも解るのか。確かにこれらは『呪』印のものたち。もっとえげつない『呪いの品』だってあるのよ。見たい?」
ブルーはぶるぶるっと身を震わせる。ごめんこうむると言うように。
「でも、真珠や箪笥はここで休む事を選んでくれたけど、この着物は……ちょっと困ったわね」
そう言って、白風が見たのは鏡だった。
「若く美しい女に対する、強い呪い。そんなものが店にあったら、私だってどうなるか解ったものではないわ」
白風の言葉が終わらぬうちに、ブルーが白風の肩にとびのるや、その顎に強烈な猫パンチを与えた。
白風の頼みでせんを引き受けてくれたのは、郊外にある老舗旅館「長楽」だった。
明治に立てられた建物は、洋風と和風を上手にミックスしたモダンな建物だった。
最初は旅館の人々は若すぎるせんを全く信用していなかった。それでも、着物での動きに慣れており、掃除も完璧。畳のへりを踏むなどという事も一切行わないせんを、女将さんはいたく気に入ってくれた。
料理の内容もすぐに覚えたし、若いので体力もある。
逆に掃除機や洗濯機の使い方などは全く解らずに顰蹙を買ったが、女将さんの「若いから仕方ないよ」の一言で何故か皆が納得した。
もともと気さくな性格のせんはすぐに旅館の面々ともご近所様とも、業者の人々ともうち解けた。
「お疲れ、せんちゃん」
やっと仕事を終えたせんにカップを差し出してくれたのは、柏木睦。「長楽」一階の喫茶スペース「鹿鳴」で働くアルバイトだ。
「アルバイトってどんな仕事をする人ですか?」と聞いた時には長い沈黙の後にひきつった笑いで「せんちゃんって、面白いね」と言われた。
だが、睦はせんにはいつも優しくて、仕事が終わるとホットミルクをご馳走してくれる、優しい男性だった。
「今日、外国の方が見えただろ? デーニッツ様。せんちゃん、見た?」
カウンターの、せんの隣に腰をかけて、睦が話しかけて来る。
「いいえ。今日は横山様を担当していたから。どんなお方ですか?」
「今日、そっちの窓際の席に座っていたんだけどさ。お爺さんと若いお嬢さんで。これがまた、絵になるんだよ。写真を撮りたい気分だった」
睦が示した先は、庭が一望できる場所だった。モダンなテーブル席から見えるのは、綺麗に手入れされた和風庭園。
せんが、大好きな場所だ。
「写真なんか撮ったら、女将さんに怒られますよ」
「だから、我慢したって。でも、せんちゃんにも見せてあげたかったなぁ」
睦は、いつもせんが面白そうだと思う話をしてくれる。
せんだけではなく、他の仲居さんとも話が合うらしく、人気者だ。「清潔そうなところが良い」とか「でも、卒業したらバイト辞めてしまうんだよ」とか、みんなが噂をしている。
「噂をすれば、ほら、あそこ」
小声で、睦が囁いた。
そちらを見ると、お風呂帰りだろうか、浴衣を着た金髪の少女が珍しそうに売店を覗いていた。
歳はせんと同じぐらいだろうか。まるで、セルロイドのお人形のような青い瞳。
そういえば、奥様が青い瞳のお人形をとても大切にしていたっけ。
そんなことを考えながら少女を見ていると、目が合った。
お客様をまじまじと見たりしてはいけない。慌てて、せんが目を逸らす。次の瞬間には、少女がせんの傍らに立っていた。
「あなた」
言われて、顔を上げる。
「お人形、お人形だ!」
せんがついさっき思った「お人形」という言葉を青い目の少女は繰り返した。
「驚きました。お人形が居たです」
「あの、デーニッツ様?」
せんをかばうように、睦がせんの前に立つ。
「私は、エルマ・リーゼ。あなたは、お人形ですか?」
自分を指さし、更にせんを指さして蒼い眼の少女が告げた。
「せんちゃんは、この旅館の仲居ですよ。って、日本語解ってるのかな」
睦の言葉に、エルマ・リーゼと名乗った少女が頷く。
「日本語、得意です。おじいさまに教えてもらいました。でも、あなた本当にお人形と違うのですか?」
「私は人形ではありません、人間です」
きっぱりと言うせんの手に、エルマがそっと触れた。
「温かい。でも、あなたはやっぱりお人形にそっくり。待っていて下さい。おじいさま、呼んできます」
エルマが駆け足で走り去ったと見るや、ひとりの白髪の紳士を連れて戻って来る。
「おじいさま、ほら、お人形」
「うわ、デーニッツ様も浴衣だ」
と、睦が小声で呟いた。
そして、当のデーニッツ氏がせんを見た後で驚愕した顔をして、そして本当に小さな声で。
「セン?」
と告げた。
「え?」
思わず、せんが聞き返す。
白髪の異国の紳士の口から、自分の名前が出てくるとは、想像出来るわけがない。
「どうして、私の名前を?」
老紳士は軽く頭を抑えた。
「あなたの名も、センなのか。なんという偶然だ」
紳士は、懐に持っていた手帳から一枚の写真を撮りだした。
それを見て、せんはどきりとする。
それは、レースのカーテンの前に置かれた日本人形。顔が、せんにそっくりだった。
でもそれ以上にびっくりしたのは、その人形が纏った着物。白地に、牡丹の花の模様。
それは、せんが来ていたあの着物と同じ模様だったから。
「これ、私だわ」
髪型も、髪飾りも、まるであの日のせんを再現しているような写真。
「お客様、これは」
「父の、持ち物です。私は、これをずっと探していた」
老紳士が、せんの隣の椅子に腰をかける。まじまじとせんを見て、そして胸を押さえた。
「お嬢さん、少しだけ、私の話を聞いてくれますか?」
そしてエルマを見て
「先に部屋に帰っていなさい」
と、告げる。
「でも、おじいさま」
「エルマさま、館内をご案内しましょうか?」
睦がエルマに話しかけると、エルマは嬉しそうに頷いた。
「せんちゃん、片付けよろしく」
そう言って、睦が片目をつぶる。
ウインクが、何かの合図であるぐらいの知識は、せんにもあった。
「あ、はい。行ってらっしゃい」
睦が女性に親切なのは、いつものこと。
でも、せんに気をつかいつつ、エルマさんに気をつかいつつ、老紳士にも気をつかっていたような、睦の行動力を、素直にすごいと思った。
おかげで、少しだけ緊張が取れた。
「デーニッツ様は、日本語が、お上手なのですね」
「エルマと私は、ドイツでもずっと日本語で話をしているのです。父が、日本人でしたので」
「そうなんですか」
そんな相づちを打つのは、仕事柄。
本当は、聞きたいことは別の事。
「先ほどの写真は」
デーニッツ氏は、せんをまじまじと見て、「やはり似ている」と答えた。
「これは、父が大切にしていたものなのです。父は日本人で、戦争の時、同盟国であるドイツに亡命した人でした」
「戦争」と、せんが呟く。
せんが生まれた後で、大きな戦争があったという知識すら、せんにはない。だから、それ以上の事は何も言えなかった。
「実は、父と母の間には子供が出来なくて、私は養子なんです。この人形は父が愛していた相手に似せて作ったものらしくて、父がずっと大切にしていました。でも、その父が死んでしまい、私はこの人形を探そうと思ったのです」
「人形は、なくなってしまったのですか?」
せんが聞くと、デーニッツ氏は頷いた。
「私の妻が、捨ててしまいました。気持ち悪いと言って」
「え? どうして?」
「見られる? 睨まれる? ですか? 気持ち悪いと、いつも言っていました。だから、ネットオークションで売ったと。父が死んだので、死ぬ前にもう一度あの人形を見たいと言っていたので、私はエルマと一緒に日本に来ました。日本には、不思議なお店があるとインターネットで調べました」
さすがに、せんには理解不可能だった。
解ったのは、せんによく似た人形が作られた事。それが、捨てられた事。
そして、捨てられた人形を探しに、この老紳士とエルマが日本まで来た事。
「その人形、私にそっくりで」
「名前、セン。父の初恋の相手で、オミアイの日に死んでしまったのです」
「どうして?」
聞くのが怖い。でも聞かずにはいられない。
「自動車事故」
自分は事故にもあってないし、死んでない、だから、それは自分ではない。
ようやっと、せんは息をつくことができた。
「見合いの日、父はずっとその人を待っていたそうです。でも、彼女は来なかった。そして、彼女の死を知った父は、彼女そっくりの人形を持ってドイツに渡りました。馬鹿でしょう?」
馬鹿とは、せんは思わない。
そこまで思われた女性を羨ましいと思う。
「明日、その不思議なお店に行くのです。知っていますか?」
老紳士が取りだした紙には、「古美術取り扱い白風堂」の名が記されていた。その店も、その店の店主も、せんは知っている。
「知っています。よろしければ、ご案内致します」
吉田白風。そう名乗った店主に、もう一度、あらためて聞いておかなければならないことが、ありそうだった。
「おかえり」
デーニック氏とエルマ、そして何故か「世間知らずのせんちゃんに、東京案内なんか無理だろ」と立候補した睦を伴ってせんたちは、扉をくぐる。
以前と同じように、白風が笑顔でせんを迎えた。
「それと、いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
これは、エルマとデーニッツに向けられた言葉。
「待っていた?」
エルマの言葉に
「この子がね」
と、白風は一体の人形を指し示す。
黒髪の、日本人形。着ているのは、うす桃色の振り袖。
「おじいさま、これ」
「おお、やはりあったのか」
「良かった、日本に来た甲斐があったね」
喜ぶ二人を後目に、せんは小さく首を振る。
「着物が違う」
人形が着ているのは、薄い黄緑の地に色鮮やかな四季折々の花をちりばめた着物。
「いいのよ、それで」
と、白風は笑った。
「そこのバイト君、二人を東京見物に連れて行ってあげて」
「俺ですか?」
いきなり声をかけられた睦がすっとんきょうな声を上げる
「アルバイトは、ひとりしか居ない。はい、さっさと動く」
あくまで上から目線の白風に言われたしがないアルバイト店員は、喜ぶ二人を連れて店を出る。
「聞きたい事、ありそうだね」
白風の言葉に、せんが頷く。
「私、死んでいません。違いますか?」
「うん、死んでない」
白風は嬉しそうに笑った。
「だったら、帰らなきゃね」
「どうやって?」
白風は畳紙を広げる。そこにはかつて預かった着物がくるまれていた。
せんが、小さく眉をひそめた。
「これ、私が着ていたものですよね?」
そのまがまがしさに、せんはやっと気づいたらしい。
だったら、大丈夫だ。
「もう、ひとりで帰れるでしょ?」
せんが、頷く。
「二度と、迷うんじゃないよ」
最後に、せんは白風に向かって深く頭を下げた。その体が、そっと透けて行く。
白風はあらためて、自分の手の中にある着物を見る。
この着物を誂えてもらった女は、それに一度も袖を通すことなく死んでしまったのだろう。その悔しさが、恨みが籠もっている。
これは、若い女性が着るものではない。
その呪いを受けなかった自分は、では何なのかという疑問はとりあえず置いておく。
そんな結論に達した時、白風の手の中にあった着物が炎を上げた。それはたちまちに着物を覆い、着物だけを燃やして消える。
後に残ったのは、白い灰のみ。これでやっと、終わってくれたのだろう。
この振り袖に未練を残した女と、それを着たばかりに、死んでなお未練を残し続けた少女の怨念が。
「世話が焼ける」
白風が呟き、猫のブルーがにゃあと鳴いた。
「って、元々はあんたのお節介からはじまったんだろうが!」
白風の蹴りを、ブルーは軽々と交わし、もう一度からかうように「にゃあ」と鳴いた。
「おせん」
目を覚ますと、奥様がせんを抱きしめてくれた。
「良かった。よく目を覚ましてくれた」
「私、どうしたの?」
「ごめんね、おせん。私があんな着物をあなたに着せたからだわ」
奥様が話してくれた。あの着物は、奥様の亡くなったお嬢様の為に誂えられた着物だったのだ。そんな大切なものを貸してくれた奥様の心が嬉しく思える反面、なんだか嫌な気分になる。
何故だろう、あの着物を着続けていたら、嫌な人間になっていたような気がする。
「お前が眠り続けている間に、着物はちゃんとお供養してもらいましたからね。それと、これ」
奥様が壁を指さした。
そこには一枚の着物。色鮮やかな季節の花が美しい裾模様を描いている。
「小森様は、ひと目お前を見た時から見初められて、見合いの日を心待ちにしていらしたんだよ。それなのに、あんな事になって、大層心を痛めていらっしゃった」
「本当に、元気になって良かった」
奥様がもう一度、力強くせんを抱きしめる。
「素敵な着物」
「小森様が、せんの為にこしらえてくださったんですよ」
それは、豪奢な牡丹の着物よりずっと、せんに似合うような気がした。
「奥様、私、これを来てお嫁に行きます」
せんが、告げる。
何故か、たくさんの人たちに、お礼を言いたかった。
「そして、幸せになります」
幸せになれば、また巡り会えるのだろうか。
せんのことを応援してくれた、その人たちに。
思った以上に、きつい企画でした。
でも、楽しんで頂ければ幸いです。
ジャンルについては悩みました。
あえて「SF」タイムトラベルだから。
単純な理由で申し訳ありません。