勘違い、しちゃ駄目ですよ
(あぁ、また負けた……)
中庭に張り出された成績一覧表を見つめつつ、私は小さくため息をつく。何度見ても私の名前は上から二番目。あんなに勉強したのに――と思ったそのとき、背後から肩をポンと叩かれた。
「悪いねラナ嬢、今回も僕が一番みたいだ」
楽しげな声。振り返りつつ、私はムッと唇を尖らせる。
「……わざわざ言われなくたって見ればわかるわ、アンベール様。一番、おめでとう」
「うん、ありがとう。今回も接戦だったね」
アンベール様はそう言って、掲示板を満足気に見つめた。
(相変わらず綺麗な顔立ちだなぁ……ものすごく目立っているし)
チラチラと下級生たちからの羨望の眼差しを感じながら、私もアンベール様を覗き見る。
絹のように滑らかな金の髪、神秘的な紫色の瞳、美しく整った目鼻立ちにスラリとした長身。眉目秀麗、文武両道、おまけにグラシアン侯爵家の跡取り息子とくれば令嬢たちがほうっておくはずがない。
「おめでとうございます、アンベール様!」
「さすがです!」
「アンベール様に敵う人なんていらっしゃいませんわ」
(どうせ私は万年二位の女ですよ)
アンベール様に声をかけてくる女の子たちの間をすり抜けながら、私は小さく自嘲する。
「あっ、待ってよラナ嬢」
「成績の確認は終わりましたもの。早く戻らないと」
「ああ、文官登用試験は来年だものね。今日も図書館に勉強に行くの?」
私のあとを追いかけつつ、アンベール様はニコニコとほほえみ続けている。
(いいのかな。さっきの子たち、もっとアンベール様と話したそうにしてるんだけど……)
若干の気まずさを覚えながら、私はその場に立ち止まった。
「いえ、今日は父と約束があるんです。私と話をするために王都に出てきているそうで」
「ラナ嬢のお父様が?」
アンベール様はそう言って目を丸くする。
「一体なんのために?」
「わかりません。ただ、文官登用試験まであまり時間がありませんし、将来に向けた話なのかなぁと……」
「アンベール様!」
と、愛らしい声音が私たちの会話を遮った。ついで、ふわふわのピンク色の髪をした令嬢がアンベール様に飛び込んでくる。
「ロミー」
アンベール様が言えば、彼女はふわりと花のような笑みを浮かべた。
「掲示板見ました! さすがはアンベール様ですわ! あまりにも誇らしいですし、どうしても『おめでとう』と言いたくて、急いでやってきてしまいました」
(……相変わらず仲がいいですねぇ)
ロミー様は私たちの一つ年下の伯爵令嬢だ。アンベール様とは幼馴染らしく、しょっちゅう二人で会話をしている。
「ありがとう、ロミー。ロミーにそう言ってもらえて光栄だよ」
「本当に? わたくし嬉しい! とっても嬉しいです!」
ロミー様はそう言ってアンベール様の手をギュッと握った。
しょっちゅう会話をしているというかスキンシップが多いというか……ロミー様はよくアンベール様に甘えているし、アンベール様もそれにこたえている。今だって彼女の頭を優しく撫でているし、声だって穏やかで温かい。
(いいなぁ……)
と、ついつい漏れ出た己の本音を振り払いつつ、私は二人から視線をそらす。
私はずっと、密かにアンベール様に恋をしていた。
彼が成績をキープするために裏でものすごい努力をしていると知っているし、とても優しくて穏やかな人だもの。惹かれずにはいられなかった。
(もしも成績争いなんてしてなかったら)
アンベール様はもっと私に優しくしてくれたのかな? ロミー様みたいな可愛気があったら……素直で女性らしかったら、頭を撫でてもらえたのかな? ――私を好きになってくれたのかな?
(無理だろうな)
だって私はあんなふうにはなれない。自分でも馬鹿だなぁって思うけど、できる気がしないんだもん。
それに、私たちはライバルだし。……いや、そう思っているのだって私だけかもしれないけど! 彼から女性として見てもらえたことなんてないと思う。私の気持ちだって当然知らないだろうしね。
「よかったらお祝いをさせてください! お父様からいい店を教えてもらったんです」
「そんなことしなくていいよ」
「わたくしがそうしたいんです!」
アンベール様はきっと、ロミー様と結婚するのだと思う。
二人が婚約しているという話は聞いたことがないけど、親同士の仲もいいらしいし家格的にも申し分ない。今は発表のタイミングを見計らっている……といったところだろうか?
「あっ、ラナ嬢!」
アンベール様が私の名前を呼ぶ。彼の声が聞こえないふりをして、私はその場をあとにした。
***
「えっ、結婚? 私がですか?」
「そうだ。ファビアン公爵のことはお前も知っているだろう? 二十四歳の美丈夫で、これ以上ない良縁だ」
王都にあるタウンハウスで私を待っていたのは、あまりにも思いがけない話だった。
「待ってください、お父様。だけど私は、文官になりたいと思ってこれまでずっと頑張ってきたんです。お父様だってそのことはご存知ですよね?」
「当然だ。だが『女性の幸せは結婚にある。結婚し、家を守ってほしい』というのがファビアン公爵の考え方だ。そもそも、貴族の令嬢である以上、政略結婚をするのは当たり前のことだろう?」
「それは……そうかもしれませんが、お父様だってこれまで私の考えを尊重してくれていたのに……」
だからこそ、私は文官になるという夢に向かって努力をしてきた。こんなふうに途中で駄目になるってわかっていたら、最初から頑張ったりなんてしていない。頭の中が真っ白になった。
「とにかく、もう決まったことだ。わかったら、卒業までの一年間は花嫁修業に励みなさい」
お父様の言葉が私の胸を冷たく刺す。返事なんてとてもできなかった。
(どうしよう……)
学園に戻り、寮に向かう道のりをトボトボと歩く。普段は図書館で勉強に励んでいる時間だけど、今日は無理だ。勉強したところで無駄になるかもしれないと思うとあまりにも辛い。
「ラナ嬢?」
と、誰かに声をかけられる。振り返ると、アンベール様がそこにいた。
「アンベール様」
「お父様との話は終わったの?」
「……ええ」
返事をしながら涙がじわりと滲んでくる。
(そうだわ)
ファビアン公爵と婚約するってことは、アンベール様への想いも諦めなきゃいけないってことなんだ。そりゃあ、元々見込みのない恋だったけど、完全に道がなくなると思うと悲しくなる。
「一体どんな話だったの?」
「えっと……」
本当はこんなこと、誰にも言わないほうがいいのかもしれない。だけど、一人で抱え込むにはあまりにも大きくて辛いんだもの。私はそっとアンベール様を見上げた。
「実は、結婚が決まったから文官登用試験は受けなくていい。花嫁修業に励みなさいって言われてしまって」
「え?」
アンベール様が目を見開く。私は無理矢理笑顔を作った。
「貴族である以上政略結婚は当たり前だし、女性は家に入って大人しくしているべきなんですって。これまで必死に頑張ってきたのに馬鹿みたいだって思いません? ホント、嫌になっちゃう。……だから、これからは勉強の必要なんてなくって。アンベール様と張り合うのももう終わりですね」
駄目だ。全然上手に笑えない。再びうつむいてしまった私を、アンベール様はじっと見つめた。
「お相手は?」
「ファビアン公爵だそうです。正式な婚約は学園の長期休暇のときになると言われています」
「なるほど。それじゃあ、まだ正式に婚約を結んだわけじゃないんだね」
アンベール様はそう言って私の手をギュッと握る。思わぬことに、私はおそるおそる顔を上げた。
「だったら、僕がラナ嬢の恋人のふりをしよう」
「……え?」
一瞬なにを言われたのかよくわからなくて、私は大きく首を傾げる。アンベール様はそんな私を見つめつつ、ゆっくりと大きく深呼吸をした。
「恋人のふり、ですか?」
「そう。恋人がいるからファビアン公爵とは結婚できないとお父様に説明するんだ。彼と正式に婚約を結んでいない今なら話を覆せるかもしれない。僕は身分的にもファビアン公爵に引けをとらないし、政略結婚のメリットは十分にある。お父様も考え直してくれるかもしれない、だろう?」
「それは……そうかもしれないけど」
これでは、アンベール様に多大なる負担をかけてしまう。恋人のふりをすればグラシアン侯爵家にも確認が入ってしまうだろうし、変な噂が立ってしまったら大変だ。私から『是非そうしてほしい』なんて言えるはずがない。
「文官になりたいんだろう? そう思って何年も必死に勉強してきたんだろう?」
アンベール様が言う。私は思わず目頭が熱くなった。
「だったら、迷うことなんてない。僕を利用しなよ。それに、この話は僕にとってもメリットが十分にあるんだ」
「え?」
本当だろうか? 首を傾げた私に、アンベール様は優しく微笑んだ。
「ラナ嬢と張り合えなくなったら僕の成績が落ちてしまう。君がいるから僕は頑張れるんだ。だから、迷惑だなんて思わないで」
アンベール様が私の涙をそっと拭う。思わぬことにドキッとした。
「……それじゃあ、お言葉に甘えて」
「うん。よろしく、ラナ嬢」
私たちはそう言って握手を交わした。
***
アンベール様の行動は早かった。その日のうちにお父様に手紙を送り、翌日には二人でタウンハウスに面会に行くことになった。
「恋人? グラシアン侯爵令息がラナの?」
「ええ。これまで言い出せずに申し訳ございません」
アンベール様はそう言って深々とお父様に頭を下げる。
交際をはじめた時期なんかは事前に打ち合わせをしたものの、正直言って不安だ。私は二人のことをおそるおそる見守る。
「……いや、娘から貴方と成績争いをしていることは聞いていましたが」
「二人で勉強する機会も多く、切磋琢磨しているうちに自然に惹かれ合いまして。ラナ嬢からファビアン公爵との結婚の話を聞いて居ても立ってもいられなくなり、こうしてお屋敷まで押しかけてしまいました」
アンベール様はそう言って私の手をギュッと握る。仲がよく見えるためのお芝居だってわかっているのに、心臓がドキッと大きく鳴り響いた。
「そうでしたか……いや、しかし……」
「たしかに、ファビアン公爵家との結婚はウィンブル伯爵家にとってまたとない縁でしょう。しかし、我がグラシアン侯爵家とて負けてはいません。僕はなんとしてもラナ嬢と結婚をさせていただきたいんです」
(え?)
鼓動の音が一気に加速する。
アンベール様、そんなことまで言って大丈夫なんだろうか? もしも作戦が上手くいってファビアン公爵との結婚話が流れたら、本当に私と結婚する羽目になってしまうのでは? ……いや、私はそうなったら嬉しいけど。さすがにそんなことまでお願いできないし。
「どうか、正式に婚約を結んでしまう前に、僕との結婚についてご一考いただきたいんです」
「……たしかに一考する価値はありそうですね」
と、お父様が返事をする。私は思わず顔を上げた。
「先方には事情を話した上で、少しだけ様子を見ましょう。現時点ではなんの約束もできませんが」
「それで構いません。本当に、ありがとうございます」
お父様に頭を下げるアンベール様を見つめながら、私は唇をほころばせた。
「ありがとうございます、アンベール様! 本当に、なんとお礼を言ったらいいか」
学園に戻ると、私はアンベール様に頭を下げる。彼はそっと目を細めつつ小さく首を横に振った。
「僕はなにも。結婚についてはあくまで一旦保留になっただけだし」
「昨日は『これで決定だ』と取り付く島もなかったんだもの。本当に、ありがとう。アンベール様のおかげだわ」
これからどうなるかはわからないけど、上手くいったら夢を諦めずに済むかもしれない。それに、恋人のふりをしている間だけはアンベール様の一番近くにいられるし。
「学園でも、恋人のふりは続けよう」
「え?」
アンベール様はそう言って私の手を握る。体温が一気に高くなった。
「お父様は『様子を見る』と言っていただろう? 万が一嘘だとバレたら話が上手くいかなくなるかもしれない。学園内の噂なんかもお調べになるかもしれないし」
「あっ……そう、ね。それはそうだけど、アンベール様はそれでいいの? 他の人に勘違いされたら」
「別に、構わないよ」
柔らかな笑み。見ているだけで、なんだか涙がこぼれそうになってしまう。
「頑張ってお父様を説得しよう」
「……うん」
返事をしながら、私はアンベール様への想いが加速するのを感じていた。
***
私たちが『恋人だ』という話は、瞬く間に学園内を駆け巡った。
「嘘でしょう?」
「信じられない」
「アンベール様はロミー様と結婚するのだとばかり思っていたのに」
どこへ行ってもそんなヒソヒソ話が聞こえてくるもので、私は内心苦笑してしまう。
こうなることは事前に予測していた。……というか、ずっと前から妄想していた。もしもアンベール様と想いが通じ合ったら、こんなふうになるんじゃないかって。
アンベール様はみんなの憧れだし、彼がロミー様と仲がいいのは周知の事実だ。それなのに、もしも私が選ばれたら――そんな想像をしたのは一度や二度ではない。
アンベール様と手を繋いで、互いに名前を呼び合って。少しでも一緒にいたいからと二人で会う約束をする。まるで夢みたいなお話だ。だけど今、それが現実になっている。唯一妄想と違うのは、想いが通じ合ったわけじゃないっていう点だけ。
「――ラナ様、少しふたりきりで話をさせていただけませんか?」
だけど、夢はあくまで夢でしかない。
ひどく思い詰めた表情のロミー様から呼び出され、私は校舎の裏へと向かった。
「アンベール様からお聞きしました。二人がお付き合いをしているって。本当なんですか?」
内容は予想していたとおり、アンベール様との関係についてだ。
「正直、わたくしは今でも信じられなくて……だって、アンベール様はいつもわたくしを特別扱いしてくださるし、とっても優しいでしょう? ラナ様に対してはあんまりっていうか、全然そんな感じじゃありませんでしたし」
「……うん、そうだね」
周りからもそんなふうに見えていたんだ。ちょっぴり凹みながら、私は小さくため息をつく。
「それなのに、アンベール様は『もう僕にくっついたら駄目だよ』なんておっしゃるし、わたくしあまりにも悲しくて……苦しくて。お願いです。なにか事情があるなら教えていただけませんか? そうじゃないと、わたくし……」
「――絶対、内緒にしてくれる?」
彼女の気持ちは痛いほどにわかる。私は恋人のふりをすることになった経緯をロミー様に打ち明けることにした。
「まあ、それで……」
「アンベール様は夢への道を閉ざされた私を気の毒に思ってくれたんだ」
「それでは、お二人の関係は公爵様との結婚について決着がつくまで、ということなのですね?」
「……うん。そうなると思う」
別に、終わり方を約束したわけではないけれど、事の経緯を考えたらそれ以外ありえないだろう。
「よかったぁ! 安心してしまいました!」
私の気も知らないで、ロミー様は無邪気に笑っている。「そうだね」ってこたえながら、私はそっと胸を押さえた。
「それじゃあラナ様、お二人はあくまで恋人のふりをしているだけってことで。……絶対に勘違い、しちゃ駄目ですよ」
ロミー様が満面の笑みで釘を刺す。
「わかってるわ」
元より勘違いなんてしようがない。手のひらに爪が強く食い込んだ。
***
ロミー様は私との約束をちゃんと守ってくれた。私とアンベール様が恋人のふりをしているという噂は今のところ流れていない。最初は半信半疑だった学園の人々たちも、今ではすっかり私たちを本物の恋人同士だと信じてくれたようだった。
「まあ、元々しょっちゅう一緒にいたしね」
「そうかな……? たしかに、図書館で一緒になることは多かったけど」
そう言って首を傾げる私にアンベール様はクスクス笑う。
ロミーさんが言うように私たちの間には甘い雰囲気があったわけでもなければ、示し合わせて一緒にいたわけでもない。そりゃあ、私はアンベール様と少しでも一緒にいたくて、こっそり彼の行動パターンに合わせて動いたりしていたけど。
「もうすぐ長期休暇だね」
「……ええ」
長期休暇――お父様がファビアン公爵と正式に婚約を、と考えていた時期だ。あれから私にはなんの連絡も来ていないけど、お父様はどのように考えているのだろう? 知りたい……けれど怖い。もしも水面下で公爵との婚約が進んでいたとしたらどうしよう?
「そんなに深刻な顔をしないで。きっと全部上手くいくよ」
「そうかしら?」
「もちろん。こう見えても学年一位の秀才だからね。策を練るのには自信があるよ」
アンベール様があまりにも『どうだ!』という顔をして笑うものだから、私もつられて笑ってしまった。そんな顔をされたら不安もどこかに吹き飛んでしまう。アンベール様はそんな私を見つめながら、満足気に微笑んだ。
「とはいえ、できれば勝率はあげたいところだよね」
そう言ってアンベール様は一枚の封筒を私に差し出す。促されて封を開けると、なかには夜会の招待状が入っていた。
「一緒に行かない? お父様やファビアン公爵へのいいアピールになると思うんだ。もちろん、ドレスは僕が用意するよ」
「え? だけど……いいの?」
夜会にはたくさんの貴族たちが出席する。学園に在籍しているのは同年代の貴族令息たちだけで、とても少数だ。もしも一緒に夜会に行ったら社交界でも私たちが『恋人』だと認識されてしまうんじゃ……。
「誘っているのは僕のほうだよ? ラナと一緒に行きたいんだけど、駄目かな?」
ねだるような声音。聞いているだけで胸が甘ったるくなる。……まるで本当の恋人に送るような言葉だ。
『勘違い、しちゃ駄目ですよ?』
と、ロミー様の声が頭のなかに響き渡る。
(そうだね……)
勘違い、しちゃ駄目だ。グッと気を引き締めながら、私は「ありがとう」と返事をした。
***
長期休暇に入ってすぐに夜会は開催された。アンベール様が用意してくれたドレスに身を包み、私は彼と一緒に会場に入る。
「綺麗だね」
アンベール様が言う。彼が今見つめているのは私だ。……多分それであっている。だけど、私はドギマギしながら「会場が?」と返事をした。
「ラナが。わかっているくせに」
そんなふうに笑いながら、アンベール様は私のことを優しくエスコートしてくれる。
恋人のふりをはじめて以降も、私はちっとも素直になれなかった。だって、恥ずかしいし、どこまで甘えていいかなんてわからない。本当の恋人同士ならもう少し違うのかもしれないけど……。
(やっぱりアンベール様は目立つなぁ)
さっきから出席者たち(とりわけ令嬢やご婦人方)の視線を一身に集めている。だけど、ちっとも物怖じしていない。
カッコいい。すごく素敵だって、私も言えたらいいのに。でも、どうにもこうにも口が動かないんだもの。私は内心でため息をついた。
「ラナ、僕と踊ってくれる?」
「……ええ」
今夜はそのために来たんだもの。……それでも、誘われたことがとても嬉しい。
ダンスをしている最中はアンベール様の視線をいつもより強く感じた。だけど私は気恥ずかしくて、ちっとも彼の顔が見れない。もう二度とこんな機会はないかもしれないのに……。
(このまま時が止まってしまえばいい)
そうしたらずっと、恋人のふりをしていられる。文官としての未来を夢見ながら、幸せに過ごせるかもしれない。
「ごきげんようアンベール様、それからラナ様」
けれど、ダンスを終えた私に容赦なく現実が突きつけられる。ロミー様だ。
「こんばんは、ロミー。君も来ていたんだね」
「もちろんですわ。ねえアンベール様、あちらにわたくしのお父様も来ておりますの。アンベール様にとっても会いたがっていたから、少し挨拶をしていただけませんか?」
そう言ってロミー様はちらりと私のことを見る。『本当ならアンベール様と夜会に出席していたのはわたくしなのに』と訴えるような視線だ。なんだか無性に申し訳なくて後ずさってしまった。
「ロミーのお父様が? だけど今夜は……」
「私はそのへんにいるから気にせず行ってください」
アンベール様の返事を待たず、私は人混みのなかに身を隠す。
『勘違い、しちゃ駄目ですよ』
わかっている。……わかっている。
それなのに、ついつい期待したくなる。自分の恋心が成就するんじゃないか、このままアンベール様と生きる未来があるんじゃないかって。
(馬鹿だな、私)
こうなることは簡単に予想ができたはずだ。恋人のふりなんてしてもらったら、もっと彼を好きになる。引き返せなくなるだけだって。
だけどそれでも、私はアンベール様に優しくされてみたかった。ロミーさんのことが羨ましくて、彼女に成り代わりたいと思っていた。恋人のふりをしてもらったら、きっとものすごく幸せだろうって。
「失礼……ラナ・ウィンブル伯爵令嬢かな?」
そのとき、背後から誰かに声をかけられた。知らない声。振り返ると、銀色の長髪が美しい中性的な顔立ちの男性が立っていた。
「そうですが、あなたは?」
「申し遅れました。俺はマリユス・ファビアン。君と婚約する男だよ」
彼はそう言って私の手をギュッと握る。私は思わず息を呑んだ。
「ファビアン公爵、ですか?」
「そうだよ。よかった……ようやく会えた。ずっと機会をうかがっていたんだ。君はまだ学生だし、ウィンブル伯爵は『事情が変わったから待ってほしい』の一点張りだろう? だけど今夜、君がこの夜会に出席すると小耳に挟んだものだからね。来てみてよかったよ」
ファビアン公爵はニコリと微笑みつつ、私のことをそっと抱き寄せる。ふわりと香る甘い香水の香り。明らかに女性慣れしたその態度に、思わず顔をしかめてしまう。
「恋人がいるって話だったね。大丈夫、俺は過去のことは気にしない主義だ。綺麗に水に流してあげるよ」
「それは……そのこともありますけど、私は文官になりたくて。ずっとずっと、そのために頑張ってきたんです。だから……」
「文官? ……ふふっ、君、まさか本気でそんなことを言っていたの? 伯爵の冗談だと思っていたんだけどな」
馬鹿にしたような表情。私は思わず泣きそうになってしまう。
「女性は黙って家を守っていればいい。外で働く必要なんてないんだよ。お金はたんまりあるんだしさ」
「だ、だけど! 私は女性の意見を国政に反映させたくて……」
「だから女は黙って家に引っ込んでろって言ってるんだよ。女性の意見を反映? そんな必要まったくないね。女性っていうのは頭脳でも身体能力でも、すべてにおいて男に劣る存在なんだからさ」
「なっ……」
ひどい。あまりの言いようにあいた口が塞がらない。私の反応に気をよくしたのか、ファビアン公爵はニヤリと口角を上げた。
「大体、口が達者な女性ほどうっとうしいものはないんだ。出しゃばらず、屋敷でお茶でも楽しんでいなよ。そのほうがずっと楽しめるんじゃない? そこで君の意見、才能とやらをいかんなく披露すればいいんじゃないかな」
ハハハと高笑いをはじめたファビアン公爵を前に私は拳を震わせる。もう我慢ならないと思ったそのときだった。
「わかったようなことを言わないでください」
アンベール様がファビアン公爵と私の間に割って入る。その瞬間、涙がポロリとこぼれ落ちた。
「君は?」
「彼女の恋人、アンベール・グラシアンと申します」
「ああ、君が噂の。だけど、俺は今、婚約者との会話の最中なんだ。勝手に割り入らないでほしいね」
嘲るように笑いながら、ファビアン公爵はアンベール様にくってかかる。アンベール様は小さく首を横に振った。
「いいえ、あなたとラナの婚約については、伯爵が『撤回する』と約束してくれましたよ」
「なに?」
ファビアン公爵が目を見開く。私だってなにも事情を聞いていない。どういうこと? って尋ねたら、アンベール様は一枚の封筒を懐から取り出した。
「詳細な身辺調査の結果、あなたには愛人が何人もいること、爵位を継いで以降領地経営が上手くいっておらず借金を抱えていることが判明したそうで……婚約を白紙に戻すと手紙が届いたんです。おそらくは貴方のもとにも、これと同じ内容の手紙が届いているはずですよ」
アンベール様が見せてくれた手紙はたしかにお父様の筆跡だ。封印からもそれは明らかで。ファビアン公爵はワナワナと唇を震わせた。
「そんな……しかし」
「ラナは貴方にはもったいない素晴らしい女性です。毎日図書館に足を運んで資料を読み漁ったり、消灯時間ギリギリまで勉強をしてきた姿を僕はこの目で見ています。何度も何度も城や王都に足を運んで理想を思い描き、未来に思いを馳せてきたことを僕は知っています。それを否定するような人間にラナのことは渡せません」
アンベール様の言葉に涙が止まらなくなってしまう。
「アンベール様……」
ありがとうと伝えたら、彼は私の頭を撫でてくれた。
ファビアン公爵が逃げるようにして私たちの前からいなくなる。私が改めてお礼を言おうとしたときだった。
「よかったですね、ラナ様! これで全部決着がつきましたね!」
満面の笑みを浮かべたロミー様が私たちのところにやって来る。
「ロミー。悪いけど今は……」
「嫌です。だってわたくし、この瞬間をずっとずっと待っていたんだもの。本当によかったぁ。安心しました」
そう言ってロミー様は私の腕をグイッと引く。アンベール様から半ば強引に引き離され、私は静かに息を呑んだ。
「これでファビアン公爵との婚約話が完全になくなったんですもの。もうお二人が恋人のふりをする必要はなくなりましたよね? ね?」
「え? どうしてロミーがその話を……」
アンベール様が私を見る。
「そうか、ロミーは僕たちのことを知っていたのか……」
「はい! ラナ様から教えていただきました。だって、お二人が恋人だなんてあまりにも不自然だったんですもの。だけど、それも今夜でおしまい。これでアンベール様はラナ様から解放されますね!」
ロミー様はそう言ってアンベール様の腕に抱きつく。気まずさと羨ましさから、私はすぐに視線をそらした。
「あーーラナ様ったら! そんな顔しちゃって。だから、わたくし事前に申し上げたでしょう? 『勘違い、しちゃ駄目ですよ』って。アンベール様は優しいから。他の誰が相手でも同じことをしたのに、自分は特別なんて思ってしまったんですよね? 気持ちはとってもよくわかります。だけどそれ、勘違いですから」
「……わかっているわ」
夢のような時間はもうおしまい。私たちの関係は元通りに――ただのライバルに戻る。
だけど、アンベール様のおかげで私は夢を取り戻すことができた。……幸せなひとときを過ごすことができた。これ以上を望んだりしたら罰が当たる。――ちゃんとわかっているのに……。
「ロミー、勘違いしているのは君のほうだよ」
「え?」
アンベール様の発言にロミー様が首を傾げる。彼はロミー様を引き剥がすと、私の隣に並び立った。
「僕はラナのために彼女の恋人のふりをしたわけじゃない。僕は僕のために……彼女を他の男に渡したくなくて、恋人のふりをすることを提案したんだから」
「「え?」」
私とロミー様の声がピタリと重なる。アンベール様は私の手を握ると、そっとこちらを見つめた。
「ラナの夢を守りたかったのは本当だ。真っすぐで、キラキラした理想を追い求める君のことが僕は大好きだったから。だけどそれ以上に、僕はラナが僕以外の誰かと結婚するのが嫌だった。だから、なんとしても婚約を回避したくて……」
アンベール様の頬がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「嘘でしょう!? そんな!」
とロミー様が声を上げた。
「だってだって、アンベール様はいつもわたくしに優しかったもの! わたくしを特別扱いしてくださったもの! てっきりわたくしのことが好きだと思っていたのに……」
「勘違いさせたならごめん。だけど僕はロミーのことは妹のようにしか思っていない」
きっぱりとそう口にすれば、ロミー様は唇を引き結んで踵を返す。かける言葉が見つからないまま、私は呆然と彼女の後ろ姿を見送った。
***
「驚かせてすまなかった」
会場の外を歩きながらアンベール様がそう口にする。
「いえ。だけどその……本当なんですか? さっきの話」
正直言ってにわかには信じがたい話だ。アンベール様が私を好きでいてくれたなんて……ロミー様から私を守るための作り話だって言われたほうがよほどしっくりくる。
「本当だよ。……そうじゃなかったら、こんなに必死になったりしない」
アンベール様は言いながら、私のことをまっすぐに見つめた。熱い眼差しに胸がドキドキと高鳴っていく。
「ねえ、ラナはファビアン公爵との婚約話が流れたあとのこと、考えたことはなかった?」
「それは……当然あったわ。だけど、アンベール様からはなにも言われなかったし、きっと頃合いを見計らって別れたことにするんだと思っていたんだけど」
「僕にはそんなつもりはさらさらなかったよ。この機会を利用して、ラナに僕のことを好きになってもらおうって決めていた。絶対に逃さないって……」
ギュッと強く抱きしめられて、息がまともにできなくなる。聞こえてくるのは二人分の心臓の音。アンベール様にもすでに私の気持ちはお見通しだろう。
「これでもまだ嘘だと思う?」
「……ううん。だって、これじゃ勘違いしようがないんだもの」
私たちは顔を見合わせつつ、満面の笑みを浮かべるのだった。
本作を読んでいただきありがとうございます。
もしもこの作品を気に入っていただけた方は、ブクマやいいね!、広告下の評価【★★★★★】や感想をいただけると、今後の創作活動の励みになります。
改めまして、最後までお付き合いいただきありがとうございました。