5-1. 暴力的な再会
宇宙の果てさえ見えそうなほどに澄み渡った空。
何もない、木も草も生えない地面が延々と続く。
上を見ても、前を見ても視界を妨げるものは──
「グォオオオ!」
どぎついピンクの熊のみだ。
「ぶわっぷ、べっぷ、ぶお!? びゃあ! びゃ、でゅ、だあ、ぼわっ!」
ベロンベロンに顔から首から髪の毛まで嘗め回され、シーラの口から出る声は言葉になる前に崩れ去る。
あと少しでルヴァリー近郊に設営された野営地に着くというところで、巨大なピンクの熊に馬車から引きずり降ろされ、地面に引き倒されてゆうに十分は経つ。
ミューやカオドキたちが果敢にピンクの熊に対抗しているが、熊はネズミたちを背中に乗せたまま気にも留めていない。
──ミュー、カオドキ、ごめん。
もっと一緒に居たかったけど、無理かもしれない。
嘗め回されグワングワンになった頭で別れを告げる。
誰か、誰か……たしゅ、けてぐっっうぇぇぇ。
「ゾール! ゾール!」
高く響く声が聞こえる。
もっとも耳の中にまで流れ込んだベチョベチョの唾液と、上に乗る熊のグルグルという唸り声のせいではっきり聞こえない。
ユーリカでなければ、おそらく……
「ゾーーール!!!」
「グワゥ!」
ひと際大きな声と共に、シーラの上から巨体がどかされる。
強く瞑っていた両目を開け、そこに広がる青空を見上げる。
青い。
ピンクではない。もしくはピンク色の熊の影でもない。
シーラは脱力して地面に大の字になったままほっと溜息をつく。
直後、よだれまみれではっきりしない視界にぬっとあらわれた影に、シーラは体を揺らしたが、すぐに聞こえた声に力を抜いた。
「どぅ」
「ぢ」
「ぢぃ」
「あー、みんな、怪我無かった?」
「どっふ」
怠い両腕を上にあげ、ふわふわとした毛並みを撫でる。
指先から癒し成分が流れ込む。素晴らしい。
よっこらせっと地面を押し上げ、浄化士の体裁も女性らしさもかなぐり捨てて、だらりと足を開いた状態で座り込む。
「シ、シーラちゃん。これ、濡れタオルもらってきたから」
「あー、キャンちゃん。ありがとー」
顔も首も髪もよだれまみれ。こんなのネストルと同類になってしまう。そんなの絶対に嫌だ。
おまけに聖女に会うために気合を入れて綺麗に整えたはずの浄化士の装いも、地面に引き倒されたせいで土まみれ。なんともみすぼらしくなってしまった。
顔や首回りを田舎のおっちゃんが汗を拭く時の様に豪快にごしごしとこする。化粧などしていないことに感謝する。もっともあれだけ舐めまわされたら化粧などとっくの昔に崩れ去っていたと思う。
「ぷふぁぁっ」
ぐちゃぐちゃになった髪の毛をほどき、タオルを裏返して髪の毛の表面もささっと拭けば少しさっぱりした。
もう一度髪の毛を一つにまとめながら顔を上げれば、うなだれるピンクの熊とその前に仁王立ちして怒り沸騰中の聖女の姿。
しょんぼりと丸い熊の背中が、いじけた時のミューとよく似ている。
「ドッゥ?」
「あー、一気に疲れた」
「ヂィ」
駐屯地に着くや否やで起こった大騒ぎ。色々な緊張感も吹っ飛び、シーラはぼすっとミューにもたれる。
だがそこで気を抜くのはまだ早い。
まだ地面に座ったままのシーラのそばに立った人物がいた。隊長であるユーリカだ。
「聖女様、ご無沙汰しております。ユーリカ隊、隊長ユーリカです。この度、緊急の代理とはなりますが、この度の任務に当たらせていただきます」
「久しぶりね、ユーリカ」
ピンクの熊から視線を外し、コホンと一つ咳ばらいをして聖女が答える。
しかしそんな彼女にユーリカはいささか厳しい視線を向けた。
「それで、なぜ聖女様の精霊様が私の隊の大切な一員であるシーラに襲い掛かったのでしょうか」
にっこりと笑っている口元が怖い。
目もしっかりと笑みを描いているのに、どこかから漂う圧。
何だろう、背筋が寒い気がする。
シーラはミューのもこもこした毛に顔を突っ込み、精神的及び身体的癒しを堪能する。スハースハーと呼吸を繰り返せば、少しずつ動悸が収まってきた。
呼吸に合わせてミューの長い毛が鼻の入り口に入っては、また出ていく。鼻の下をぐにゃぐにゃと動かしてくしゃみを追い払う。変顔になっているのは百も承知だけど見られてなどいないことを期待する。
そのシーラの頭上で会話は続く。
「襲ったっていうのは間違いで、多分遊んで欲しかったのよ」
「遊ぶにしてはいささか勢いが良すぎでは?」
「ゾールは体格が大きいから仕方がないわ。そちらの新人浄化士さんも、ごめんなさいね?」
聖女クウィーヴァに声を掛けられ、シーラはピクリと体を震わせたあと、おずおずと顔を上げた。
無造作に高い位置で結ばれた少し癖のある髪。生成りのシャツと細身のパンツ。
浄化士たちのトップに立つ存在なはずなのに、誰よりも飾り気のない服装。
記憶の中と変わらぬその姿に、シーラの目が熱くなる。
グッと喉奥を締め付ける塊を飲み込みパタパタと立ち上がろうとしたシーラの目の前に、細いしなやかな手が伸ばされた。
「あ、ありがとう、ございます」
「いいえ。うちの子のせいだもの」
おずおずと伸ばしたシーラの手を、聖女クウィーヴァが掴む。
想像より強い力で勢いよく引っ張られ、シーラはひゃぁっと叫びながら数歩たたらを踏んだ。
そんなシーラの背中をポンポンと優しい手つきでクウィーヴァは撫で、すぐに彼女の精霊の名を呼んだ。
「ゾールも来なさい」
「クゥゥオオオ」
情けない声を出しピンク色の派手な熊がのそりとやってきて、シーラの目の前にどすんとお尻を下ろして座る。
何のおねだりなのか、右前足がしきりに宙をかく。
シーラは少しだけためらい、両手を伸ばしてゾールの手を握った。
分厚くて固くてざらざらした肉球。
モミモミむぎゅむぎゅとシーラが両手でこねると、ゾールが「クフゥン」と鳴いた。
「ふふふ、びっくりした」
「私も護衛騎士も止めようと思ったんだけど、間に合わなくて。びっくりしたでしょう」
「ちょっとだけ」
「ああ、護衛も貴方に謝りたいみたいだわ。ファーガル、こっちへ」
「え?」
クウィーヴァの言葉に、シーラはピンクの熊から手を離して視線を上げる。
一人、男性が近づいてくる。
鎧も何も纏っていない。細身の体を守る防具は何もない。
ただ一つ、手にしているのは一本の杖。
「キュイイイイイ!」
青い空を七色の尾羽を持った鳥が舞う。
「へあ?」
シーラの口から意味をなさない音が漏れた。
長く伸びた髪を後ろで縛り、男性は穏やかな笑みを浮かべる。
なぜか周囲の空気がザワリと揺れた。
シーラの背にそっとそえられた聖女の手から伝わる温もり。
じわりと、シーラの中の熱が上がる。
「嘘」
ぽつりとこぼれる声。
近づいてきた騎士はやたらと綺麗な所作で頭を下げた。
そしてその口が開く。
「精霊様を止めることができず、申し訳ありませんでした」
「へあい!?」
シーラの口から再度驚きと返事の入り混じった声が出る。
ふふっと柔らかな笑いが隣から聞こえた。
それをかき消しそうなほどにざわつく周囲の騒音も。
──喋った?
──まさか。
──聖女様とクリストフ以外には喋らないかと。
──謝ったぞ。
シーラの耳がぴくぴくと揺れる。
一体何が起こっているのか。
横でいたずら猫の様に目を細める聖女。
愛情たっぷりの眼差しとどこか楽し気に口元を緩める騎士。
ピンクの熊とその背に乗って翼をばたつかせる大きな鳥。
「へあ? おっふ」
シーラはむぎゅっと両手を口に当てて、喉から飛び出しそうな心臓と叫びを飲み込む。
気の弱い貴族女性だったらここでふらりと意識を失っていただろう。
そんな奥義を習得していないシーラは、ただ零れ落ちてしまいそうなほどに両目を見開いた。
ああ、澄み渡った空が美しい。
宇宙の果てさえ見えそうなほどに広がる空の向こうに心を放り出し、シーラは声にならない叫びをあげた。




